2018年2月15日 第187回「今月の言葉」
奇跡とは何か? ⑤ー③

●(1)ホームページ・ビルダーが壊れて、新しいホームページ・ビルダーを購入し、以前のホームページを移動させるなどの色々な作業に一カ月を費やしました。

 遅れに遅れましたが、なんとか再出発できるようになりました。

 

 さて、「奇跡とは何か?」ですが、今回は、貴重なお話を紹介したいと思います。

 下記の漢詩は、私が尊敬する石原光則先生の「漢詩集 木蓮亭雑詠」の中の「十四」の転載です。直接、ご紹介したい内容の前段も含めて、石原先生のエッセイの素晴らしさ・・・エッセイ力をお楽しみください。

●(2)<十四 稲葉さん>

 顔を見知っているというだけでどういう人かは判らない。それでいてなにか気心の合う人が稀にはいるものである。稲葉さんは私にとってそういうタイプの人であった。西武新宿線をずっと降った久米川駅の正面の喫茶室パールでコーヒーを啜りながら昔風の万年筆を頼りに動かしておられたのを時々お見掛けしていただけである。
 いわゆる聖人君子というのでもなく、バーの従業員とおぼしき厚化粧の女性に抱えられて狭い裏通りを千鳥足で歩くお姿もたびたび目撃した。そんな時でも私たちはすれ違いざまに軽く会釈するだけで言葉をかわすことはなかった。
もっとも夜更けの裏通りを徘徊していた私も聖人君子どころではなく、かなり脱線していたに違いない。

 そのうちにお話しする機会もあるだろう、との期待はほどなく実現した。その日パールに立ち寄ると稲葉さんが奥の壁を背に座っているのが見えた。同年輩の夫人と同伴である。お二人の前を過ぎようとしてそれとなく稲葉さんの顔を窺うと隣の席に座るよう暗にその目が促している。それではと隣の席に坐ると間髪を入れずに
 「煙草は飲まれますか」
 と軽い第一声が飛んできた。
 「いえ、中学でやめましたから」
 という私の答えかたが同伴の婦人のはじけたような笑いを誘って場の緊張を緩めてくれた。煙草は吸うではなく飲むという言葉使いを話の接穂(つぎほ)に持ち出して一段落すると
 「主人がお世話になっています」
 と順番を待っていたかのように婦人が頭を下げられた。お二人が夫婦であったのはよいとして、この時にはまだお互いに名前も知らなかった稲葉さんと私の間に「お世話をする」ほどの交友関係がすでに奥様の頭の中に出来あがっていたらしい。頃合いを見計らって奥様は出てゆかれ、残った私たちは始めは遠慮がちに、そして次第に踏み込んだ話題の海へと漕ぎ出して行った。
 なにか大きな船で遠洋にでも出たような気分で、波のうねりは大きいものの、その揺れのために悪酔いはしない心地よい揺れであった。

 フルネームは稲葉明雄さん。私より十年と少しの年長であった。プロの翻訳家で、主にスパイものを多く手掛けられた。冷戦時代の諜報員が政治の舞台裏で暗躍する小説の翻訳がお仕事である。

 ある時、私がその下訳中の用紙に見えた文字「KGB」を普通にケー、ジー、ビーと声にだしたところ、
 「そこのところはカー、ゲー、ベーの方がよろしいようで・・・・・」
 と明るい声で修正されたりした。学生時代からの翻訳生活でこの分野の草分けのお一人であったが、一方ではミステリー小説の翻訳でも定評があって、パールで私がお姿をお見掛けしていたのはコーネル・ウールリッチの小説の翻訳に当たっておられた頃と思う。稲葉訳では「黒衣の花嫁」となったこの小説は日本で根強い人気があり、山本周五郎の「五辨の椿」はこの小説に想を得たものだとは稲葉さんの言葉である。
 ウールリッチのこの作品は再三再四、異なる訳者による訳本が出たが、稲葉さんに新訳の任が廻って来たきたとのことで、たしかに集英社版、稲葉訳の新本を一冊頂戴した。また稲葉さんは翻訳家を目指す人たちの指導もされていて、私と雑談している間にも全国からよせられた添削の山を素早く片づけてゆかれた。

 「まったく、何年やっていてもこれですからね・・・」
 などと呟きながら出来の悪い答案に朱を入れてゆかれるのを横で眺めたものである。翻訳には日本語の力量が何よりも大事なのにむやみに外国語ばかりに集中する人が多く、こういう人はモノにならない、というのが稲葉さんの口癖であった。

 付き合いも深くなってくるとその生活のほども判ってくる。いつも落ち合う駅前のパールが稲葉さんの書斎でもあった。昼食をとるのも人と打ち合わせるのもこの喫茶店でされていた。まだ携帯電話が普及する前のことで、雑居ビルの二階部分を占有していたこの店はかなりの広さがあり、客への電話取り次ぎを店内放送で行っていた。

 ・・・・・お呼び出し申し上げます。稲葉先生、お電話です。カウンターまでお越し下さい。
 という声が店内に響くのを何度も聞いた。
 ある日のことである。カウンターから席へ戻った稲葉さんが
 「これから警察へ行きますが、一緒にどうですか」
 と言い出された。警察に補導された息子さんを引き取りに行くのである。説明によると、息子さんは高校在学時に髪の長さをめぐって校長と意見が合わず自分から退学した。

 その後、街の不良どもと男伊達(おとこだて)を競って警察に補導されることが多くなったという。補導されるたびに稲葉さんに連絡がくる。その日も引き取りに行くと稲葉さんは署ではすっかり顔馴染になっていて、係官は稲葉さんの顔を見ると黙って手続きの書類を渡していた。他家の子が補導された時でもまず稲葉さんに連絡がくるほどの「常連」であったそうな。

 数年前、稲葉さんは突然他界された。行年六十七。世に出遅れた息子さんが一人立ちした直後のことである。御父君が静岡に遺された家と、現在の自宅との間を往き来しながら訳業に専念されていた。静岡の家へ遊びにくるよう何度も私を誘われ、その都度私も訪問を約束していたが一度も果たせぬうちに帰らぬ人となってしまわれた。当時、私が始めたばかりの拙い詩を励ますつもりで、稲葉さんはよく誉めてくれていたから、せめて詩の中でなりとその約束を果たそう。

 「故人の荘を過ぎる」(漢詩は文字が出ないために、読み下し文だけにさせていただきます)

 叢林 径(みち)尽きれば是れ君が家
半畝の灌園 棚底の瓜
風竹 〇(えん)に連(つらな)り水舎(しゃ)を環(めぐ)る
窓前の一樹 石楠花(せきなんか)

 「詩意」
 奥深い林を縫う一本道が尽きたところが卿(あなた)の家。傍らの畑には色づいた瓜が棚から実を垂らしています。家をとりまく清流が涼しげな水音を響かせていて竹の葉影は風に揺らいで〇(のき)を撫でるという風情あるたたずまい。正面には満開の石楠花(しゃくなげ)がひともと、薄紅いろに窓を照らしています。

 すこし用語の説明をしておきたい。題にいう「過」は訪問のことで通り過ぎることではない。「故人」は気心の知れた友人でここでは稲葉さんを指す。度量衡は時代によって異なるが半畝とは五十坪程度とみて差し支えない。要するにちょっとした畑の広さを表わす。瓜が植えてあるのは世を避けて暮らす意味で人のシンボル。秦の東陵公は国が亡びたあと庶民となって隠棲し、庭に瓜を植えて暮らしたがその瓜はとても美味であったと『史記』にある。

 当時、私は現代哲学の一端である論理学研究者として過剰なほどに自認していた。海外の専門誌の論文公募に応じたこともあった。その論文は私にとっては「会心の作」であったが、その思い込みとは裏腹にその掲載は断られてしまった。時代の要求するテーマではない、というのがその理由であった。結果に失望した私は腐り出し不平漢となって研究を怠るようになった。冒頭で述べた「夜更けの裏通りを徘徊した」のはこの時分のことである。ある日、それとなくこの話をうちあけると稲葉さんは決然とした口調で次のように語られた。

 稲葉さんの父君はもと岡山の国立癩(らい)療養所の所長を勤められていた医学者であった。当時はまだ不治の病として恐れられた癩を克服すべく日夜研究に没頭されたという。癩菌の感染力は極めて弱く、それだけにその培養は至難とされていたが、父君は不眠不休の努力の結果、その目処(めど)を立て、いよいよこれからという矢先になって癩の特効薬プロミンが米国で開発されたのである。

 父君の研究がこの段階で頓挫したのは言うまでもない。時代も分野も大きく異なるし、社会の貢献度という点で父君の研究と私のそれとでは雲泥の差があるが、いずれも時代の要求に合わないマイナートピックになっていた、という両者は相通じていることを稲葉さんは伝えようとされたのだ。それ以来、私は精神のバランスを取り戻したように思う。

 蛇足ながら件の論文は後日べつの専門誌に載った。

 父君は定年後、静岡の山間に退隠され、再三の出仕の要請を断って静かに一生を終えられた。政府から叙勲の話がきても上の空でとりあわず、郵便で送ってくれ、などと言って周囲を困らせたそうな。
 畑に瓜を植え池に水を引いて魚を養うなど悠々自適の生活を営まれたが、とりわけ庭に移した石楠花を喜ばれたという。詩中の石楠花はその遺愛の一株を念頭においたものである。

 稲葉さん亡きあと暫くしてこの家は人手に渡ったというから、この窓前の一樹がどうなったかわからない。

●(3)平成30年1月16日、東京新聞「袴田さん、元裁判官と面会」

 <一審死刑判決以来50年ぶり>

 1966年に静岡県で一家4人が殺害された強盗殺人事件で死刑確定後、静岡地裁の再審決定で釈放された袴田巌さん(81)と、一審で死刑判決を書いた元裁判官熊本典道さん(80)が面会したと15日、袴田さんの支援団体が明らかにした。

 支援団体によると、袴田さんの姉秀子さん(84)が同行して9日に福岡市で面会。2人が在ったのは68年の一審判決以来、約50年ぶりとなる。
 一審静岡地裁で陪席裁判官だった熊本さんは2007年、袴田さんが無罪との心証を持ちながら、他の裁判官との合議で死刑判決を書くことになったと告白。袴田さんとの面会を希望していたが、脳梗塞の後遺症で入院して、実現していなかった。

 2人は熊本さんが入院している病院の一室で役10分間対面。支援者が公表した映像では、ベッドに横になっていた熊本さんが袴田さんをじっと見つめ、秀子さんの「熊本さん、巌だよ」という問いかけに、「巌・・・」と声を振り絞るように応えていた。

 熊本さんは後遺症で言語障害があり、袴田さんは拘禁症状の影響が残る。2人が言葉を交わすことはなかったが、お互いに会えたことは分かっている様子だったという。
 袴田さんが8日朝、自宅がある浜松市からの遠出を希望したため、秀子さんが急きょ福岡に行くことを決めた。熊本さんと07年以降、何度か会っている秀子さんは「熊本さんも、巌と会いたがっていたから良かっただろう。早く元気になってほしい」と語った。

 <2014年3月31日「トピックス」第105回「袴田事件と深層心理③ー①」><第106回「袴田事件と深層心理③ー②」><第107回「袴田事件と深層心理③ー③」

●(4)平成29年12月22日、夕刊フジ「警戒せよ!…生死を分ける地震の基礎知識」(島村英紀)

 <世界を核戦争から救った男> 北朝鮮と米国の核ミサイルをめぐる情勢が風雲急を告げている。片方が核爆弾を使えば、間違いなく相手側も使う。こうして全面的な核戦争になる可能性が高い。
 かつての冷戦時代には西側と東側がにらみ合っていて、おたがいに、相手が核ミサイルの先制攻撃をするのではないかと、ピリピリしていた。 相手の核ミサイルの先制攻撃を受ければ、被害が出てから反撃の判断をしても間に合わない。
 このため、人工衛星とコンピューターを使った自動処理の判断が使われる。当時、西側も東側も極秘ながら、この早期警戒システムを動作させていた。 早期警戒システムは光、電磁波などあらゆるセンサーを動員したものだ。現在も、米国や北朝鮮で動いているに違いない。一歩間違えれば、間違いなく全面核戦争が始まってしまう仕組みである。 冷戦時代の1983年9月26日、旧ソ連の首都モスクワ近郊にある航空監視センターのコンピューターが、旧ソ連に向かっている5つのミサイル発射を表示した。人工衛星からのデータだった。もし、本当なら、核爆弾を積んだミサイルを米国に向けて発射しなければならない。 だが、あとから分かったことだったが、この「信号」はじつは誤報だった。
 人工衛星が、雲の中の太陽放射からの反射をロケットエンジンの炎と誤認して、ロケット発射のエネルギー放電として感じたと報告したのだ。

 宇宙空間からはふだんからいろいろな電磁波や光が地球に大量に飛び込んできている。そのうちで「意味のある」信号を拾い出すのはなかなかの難事なのである。多くの地震学者が信じない「電波を使った地震予知」も、地球内部からの電磁波と、地球の外から来るさまざまな電磁波を見分けることの難しさが避けられない。

 このコンピューターの「信号」を誤報だと判断したのは、そのときに担当していた一人の中佐だった。当時44歳のスタニスラフ・ペトロフ中佐。この警報の真偽を判断するのに許された時間はほんの数分だった。

 マニュアルどおりならば、ペトロフ中佐はこの時点で米国からの核攻撃を上部に報告しなければならなかった。
 だが、彼の判断は「米国が本気で攻撃してくるのなら5発だけのミサイルではありえず、100発以上の規模のはずだ」という直感によるものだった。

 間一髪だった。旧ソ連のロケットは発射されなかった。彼が核戦争とそれに続く新たな世界大戦を防いだことになる。
いまは、システムが「進化」した。ペトロフ中佐のような人間が介在する判断ではなくて「より早い」AIシステムに替えられている。しかし、マニュアルどおりの手続きしかできないAIシステムならば、ペトロフ中佐のようにはいくまい。

 人類を第三次世界大戦から救ったペトロフ中佐は5月にモスクワ郊外の小さな家で人知れず亡くなっていた。極秘の任務のことを明らかにするわけにはいかない。彼の死去は、この秋になってようやく発表された。享年77歳だった。

く文責:藤森弘司>

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