2018年1月15日 第186回「今月の言葉」
⑤ー②
●(1)畏友・大橋健夫様からご恵贈いただいた「孟夏の太陽」(宮城谷昌光著、文藝春秋)の中で、特に私(藤森)が素晴らしいと思う部分を紹介します(漢字が出ないので、難しい名前の漢字が〇で表示されています。ご了承ください)。
仏教や儒教がおこる紀元前500年くらいの時代、今から2500年も前に、中国に、趙氏という素晴らしい人物が現れたことに驚きます。 前回の流れと少し違いますが、正月休みに集中して「孟夏の太陽」を読んだところ、こんな昔に、こんな素晴らしい武将が存在していたことに驚き、また、ちょうど同じタイミングで、東京電力福島第二原子力発電所で、所員たちも同じように被害を受けながら、必死に原子力発電所の暴走を守った人たちの素晴らしさにも感動しました。 ●(2)「孟夏の太陽」(あとがき) 趙氏の代々の主君はみな臣下におもいやりがあった。そのなかでも趙〇(ちょうおう)の人心収攬術がいかに巧みであるかを、如実に示す話があり、これは本文に採(と)らなかったので、ここで紹介しておく。 周舎という男が趙〇(ちょうおう)に仕えていた。かれは三日三晩趙〇(ちょうおう)の家の門前に立った。たまりかねた趙〇(ちょうおう)は門をひらき、 と、いった。趙〇(ちょうおう)はおもしろがり、それを許した。が、まもなく周舎は死んでしまった。趙〇(ちょうおう)は手厚く葬った。三年後に大夫たちと酒を呑んでいるとき、急に趙〇(ちょうおう)が泣き出した。大夫たちはおどろき、席を立って、 「以前、周舎という者が、こういう諺をいったことがあります。『千羊(せんよう)の皮は一狐(いっこ)の〇(えき・月偏に夜)に如かず』と。あなたがたはわたしを恐れて、ただはいはいとわたしの命令をきいていますが、はっきり申して、周舎の○○(がくがく)のことばにおよびません。周舎が死んでから、わたしはまだ一度も自分の過ちを人からきかされたことがない、だから泣いたのです」 一狐の○(えき)とは、狐のわき毛のことである。きわめて高価なものであった。 <<<藤森注・・・私たちは、「自分の過ちを人からきかされ」ると、多くの場合、「腹」をたててしまうのではないでしょうか。私自身の反省を込めて言いますと、私たちは、自己成長の機会(チャンス)をかなり逃しているように思われます。 ●(3)「孟夏の太陽」p185 閣内で政治にあたらねばならぬ者がおこなうべき正しい動作を教えてほしい、と趙〇(ちょうおう)はいったのである。子大叔(したいしゅく)はこのまっすぐな質問に、まっすぐ答えた。 「いまおっしゃったことは、礼ではなく、儀ですな」 趙〇(ちょうおう)はおどろき眉間にひそめつつ、 経とは、もともと織物のたて糸のことである。このたて糸があって、はじめて布ができるのであるから、人生を織る場合、経とは生き方の規範になるものをいう。その規範を天に求めよということを、みじかく「天の経」といった。義もやはり規範をいい、「地の義」とは道徳とか倫理にあたる。民は天にまなび、地にならったことを、実行してゆく。それが「民の行」である。一国の指導的立場にいる者は、天と地の規範を、民に認識させなければ、民は実行のしようがなく、あるいは、実行しても不調和が生じた場合、それを正さねばならない。その両者のためにあるのが礼なのである、と子大叔はいった。 この考えをすすめると、宇宙を制御するのが礼だ、となる。 つづいてそう子大叔にいわれた趙〇(ちょうおう)は、ようやくわれにかえって、 人生における最大の喜びは、人を知ることであり、最大の悲しみは、人を喪(うしな)うことであることは、今昔を問わぬといってよいであろう。 <<<藤森注・・・私たちは、果たして「成人」になっているのでしょうか?年齢だけ「成人」になっていて、50歳になっても、60歳になっても、私のように古希を過ぎても、多分、「未成年」(未成人)ではないかと思われます。>>> ●(4)「孟夏の太陽」p152 趙家の廟にある宗主は趙成子(ちょう・せいし)といい、生前の名は衰(し)である。趙衰(ちょうし)からかぞえて(趙〇・ちょうおう・から見て)祖父の趙武は4代目にあたる。 ●(5)「孟夏の太陽」p228 晋の朝廷は六卿(けい)で運営されるのがならいである。当節、その六卿というのは、 知礫(ちれき・知氏の当主で、荀・じゅん・氏の分家) ●(6)「孟夏の太陽」p144 ついに趙武(ちょうぶ)は旧領を下賜され、趙氏は復活することになったのである。 「むかし、趙家に難が及びましたとき、すべての家人は従容として死につきました。わたしはあなたが旧位に復すまでとおもい、そのときは死にませんでした。が、もはや本望は果たされました。このことを、地下のご先祖と公孫杵臼(こうそん・しょきゅう)とに報告にまいりたいと存じます」 おどろいた趙武は目に涙を張り、頓首(とんしゅ)して、程嬰の死をとめようとした。 趙武は身も心も張り裂けるほど声を放って泣きつづけた。 <<<藤森注・・・人間、最後は「死」に対する覚悟の程度の問題なのかと思います。そこに人間の本質が現れるように思われます。平和な時代に生きる我々にとっては、一番難しい課題です。>>> |
●(7)平成30年1月13日、夕刊フジ<秘録 今明かす「あの時」>(石井孝明)
<福島第二原発の奇跡②> 東日本大震災(2011年3月11日)で、東京電力福島第二原子力発電所は、第一原発のような過酷事故を避けられた。第二では事故直後、約400人もの東電社員が残り、被害を食い止める適切な作業をした。人々の力を引き出した一因は、当時の増田尚宏所長(現・東京電力ホールディングス常務執行役員)の適切なリーダーシップだ。 震災直後、増田氏は第二原発にいた約400人の社員に「残ってほしい」と要請した。 その後に分かったが、第二で働く社員5人の親族8人が亡くなり、津波などで二十数人の家が損傷を受けていた。 <増田所長の「残ってほしい」に全員が応え> 増田氏は「残れ」とだけ、命じたわけではない。震災当日、地震対策をした免震重要棟に社員が集まった。そこで、「安全第一で仕事をしてもらうことを約束し、プラント維持にみんなの力が必要であること、私の持つすべての情報を話しました」という。その後、毎日朝夕2回、現状を社員に話し続けた。 増田氏本人は、緊急時対策室を離れず、震災直後100時間は寝ずに指揮した。当時のことは今でもほとんど覚えているほど覚醒していた。恐怖感を感じたことはなく、ずっと冷静だったという。 「原子炉の管理では、炉を『止める』『冷やす』、放射性物質を『閉じ込める』と基本行動は決まり、必要な対策は導き出せます。目の前の現象に集中し、動揺することはありませんでした」 増田氏は翌年夏まで原発の所長室に泊まり続けた。そして、判断と情報をすべて引き受けた。 組織の人々に現状を示し、誠意を持って語りかけることで、自分の行動の意味を知ってもらい、自発的な行動を促すマネジメントの方法だ。増田氏はその言葉を知らなかったが、自然とそのような行動を取っていた。 増田氏はこう語るが、彼の行動が状況を変えた。リーダーシップの手本として、増田氏の姿は知られるべきだと思う。 <藤森注・・・増田所長の人間性の素晴らしさ。上記の⑥で述べましたように、「人間、最後は「死」に対する覚悟の程度の問題なのかと思います。そこに人間の本質が現れるように思われます。平和な時代に生きる我々にとっては、一番難しい課題です。」・・・平和なこういう時代に、増田所長の覚悟の凄さは驚くべきものです。「根性」とか「覚悟」の凄さ、素晴らしさ。是非、参考にしたいと思います。> <いしい・たかあき・・・経済・環境ジャーナリスト。1971年、東京と生まれ。慶応大学経済学部卒。時事通信記者、経済誌記者を経て、フリーに。著書に『京都議定書は実現できるのか』(平凡社)、『気分のエコでは救えない』(日刊工業新聞)など。> |
く文責:藤森弘司>
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