2017年8月15日 第181回「今月の言葉」
「危機とは何か?(障害)」
⑦ー⑤(中村久子先生)

●(1)今回はヘレン・ケラーの予定でしたが、ヘレン・ケラーは、多分、誰でもご存知だと思いますので、最近入手した中村先生をご紹介したいと思います。

 中村久子先生先生は、肉が焼けて骨がくさる突発性脱疽で、3歳のときに両手両足を失った方です。72歳でなくなるまでの壮絶な体験を、ある方からの情報で知りました。ヘレン・ケラーが来日した時に、面会していらっしゃいます。

  英文学者の岩橋武夫先生(ヘレン・ケラー全集5巻を翻訳)の尽力で、「ヘレン・ケラー先生と中村久子先生を対面させる会」が結成され、昭和12年4月17日、中村先生41歳のとき、日比谷公会堂で2人の初めての会見が実現。

  この日、日本の身体障害者に励ましの言葉を贈ったヘレン・ケラー先生は、やがて中村久子先生のそばに歩み寄られました。このとき、岩橋武夫先生は中村先生について、英語で詳しく説明しました。
それがトムソン夫人の手話でケラー先生に伝わると、先生は中村先生の体を両手でしっかりと抱きしめたあと、そうっと肩から下になでおろし、袖の中にある、短い腕にさわったとたん、さっと顔色が変わり、下半身をまさぐって膝から下が義足とわかった時、いきなり中村先生を抱きかかえて、

 「私より不幸な人、そして偉大な人」

 と泣きじゃくりながら、抱きしめた手を離そうとしませんでした。
中村先生も、涙で頬をぬらしながら、ケラー先生の肩に思わずもたれかかってしまいました。
日比谷公会堂を埋めつくした、二千人あまりの聴衆は、この姿を眼のあたりにして、だれ一人顔を上げるものはなく、すすり泣きの声は会場に満ちあふれた、と報道された。

 「四肢切断 中村久子先生の一生」(黒瀬曻次郎氏著、致知出版社)より、引き続き、ご紹介申し上げます。

●(2)<達磨のように>

 明治30年、岐阜県高山市に、畳職人と父・釜鳴(かまなり)栄太郎さんと、母・あやさんの間に長女として誕生。ご両親がなめるように可愛がっていた子どもが3歳になった明治32年。
「あんよが痛いよう、痛いよう」
と、ただならぬ声で泣き叫ぶ。左足の先の方が、3センチほどむらさき色に変わっている。薬を塗ったが、痛みで苦しむ泣き声はとまらない。

 何日も、あまりにも痛がるので、ご両親が群立病院に連れて行くと、詳しい検査が行われたあと、肉が焼けて骨がくさる突発性脱疽だということが分かる。

 病院からは、「一日も早く、両足を切断しなければならない。だが、子どものことだから、命のほどは保証できない」と宣告された。
「なんとかして、切らずに治して下さい」と、泣かんばかりに取りすがる一方で、お父さんはわらをも掴む思いで新興宗教に走った。

 お父さんは、夜も昼も、一心不乱に神様への祈りを続けました。
しかし、中村先生の病気はどんどん進行し、ある日、左の手首が5本の指をつけたまま、ポロっともげ落ちてしまった。母親は驚いて、気を失って倒れてしまう。
そして、その月のうちに、両腕は肘の関節から、両足は膝の関節から、切り落とされ、何度も何度も、もう助からないと死の宣告をされる。

 達磨のような姿に変わってしまったわが子の運命に、泣きながらご両親は久子先生の死を覚悟していたが、生命力は強く、一命を取り止めたが、切り口のはげしい痛みはそれから14年も続く。

 毎年、秋から冬にかけて痛みが襲いかかり、夜昼の区別なく泣き叫び、近所からは、喧しい、汚いと罵られ、冬が過ぎると、一家は借りた家を追い出されてしまう。そして、家移りは毎年のように続く。

 近所に気兼ねをする両親とお祖母さんは、大雨の日も、大雪の日も、寒い風の吹きすさぶ真夜中でも、泣き叫ぶ久子先生をおぶって町中をさまよい歩く。こうして、この小さな命の灯は守り続けられた。

 親子の間にはこんな会話が交わされている。
「あたしのお手々とあんよは、寝んねして起きると、皆のように指が生えてくるのネ」
「ああ、おまえのお手々とあんよは、おとなしくしていると、今に生えてくるよ。泣くと生えないから、辛抱して泣くんじゃないよ」
「一生懸命、辛抱する」
胸のいたくなるような親子の対話です。

●(3)<死の断崖に立つ>

 父親の栄太郎さんは久子先生をかわいそうに思い、なめるように可愛がっていたが、先生が7歳になったとき、
「たとえ乞食になっても、死んでもお前をはなさない」と言い続けていたお父様が、急性脳膜炎で倒れ、わずか3日間寝ただけであっけなく死んでしまった。
両手両足のない7歳の娘と、満2歳をすぎたばかりの長男栄三さんをかかえた母親のあやさんは、あまりに突然のことに呆然としてしまう。

 その日暮らしの畳職人の一家には、中村久子先生の病気の治療費がかさみ、山のような借金があった。
この問題を解決するために親せきが全部寄り集まって会議がもたれ、弟の栄三さんはお父様の実家の叔父さんの家に引き取られ、お母様は久子先生をつれて自分の実家のお祖母さんの家に帰ります。

 しかし、体の弱いお母様は生活力がなかったので、1年後に藤田家という、子供2人いる所に、久子先生が8歳のときに再婚をする。しかし、その時、また不幸が襲ってくる。
弟栄三さんを預かっていた叔父さんの奥さんが、突然死んでしまい、叔父さんは、4人の子供たちを男手ひとつでは育てられなくなってしまいました。

 また、親せき全部の会議が開かれ、弟の栄三さんは遠い所にある養護施設の育児院に送られることになった4、5日後に、8歳の中村久子先生の目が急に痛み出し、たった一晩で、両眼とも目が全くみえなくなってしまった。
(あの子は手も足もない上に、目までもみえなくなってしまった。私たちは一体どうして生きていったらいいのだろう)

 お母様がなげき悲しんでいるうちに、弟栄三さんの出発の日が迫ってきた。久子先生のお母様は8歳の手足のない久子先生をおんぶして、弟栄三さんのいる叔父さんの家の軒下にたたずんで、栄三さんの声を聞きに行っています。

 逢えばつらくて別れることが出来ないので、叔父さんの家の軒下に立って、お母様は別れを惜しまれた。家の中から、あしたの朝の別れを知らない4歳の弟栄三さんの声が聞こえてくる。
お母様はどんなに辛かったことでしょうか。やがて、声を押し殺して泣きながら叔父さんの家の前を離れたが、しかし、わが家のほうには足が向かない。

「母(かか)様、どこに行くの」
「母様と、よい所に行こうなァ」

 しばらくして、お母様が立ち止まったのは、2、3日前の大雨で水かさが増した、飛騨高山の宮川の上流の小高い崖の上だった。
「ひさ、堪忍してなァ」
振りむいたお母様の顔から涙がしたたって、久子先生の額に落ちた。

 そこにじいーっと身じろぎもせずに立っているお母様を背中で感じて、先生はおそろしさに体がふるえてしまう。
「母様ァ、怖いよう、早く、おうちに帰ろうよ」
どのくらいたったのか、微かに溜息をついた母親は、うつむいて力なく家路のほうに歩き出した。あまりのつらさに堪えかねて、お母様は死んであの世に行こうと考えたのですが、先生の声に、われに返って、ついに家に戻った。

 その翌日の朝早く、弟の栄三さんは見知らぬ人に手をひかれて、後ろを振りむき振りむきしながら育児院につれて行かれた、と聞いて、中村先生は障子を叩いて大声で泣いた。
両方の目が見えなくなったことについては、精神力のしっかりしたお祖母さん、ゆきさんの、(切り落とした手足は元にもどらないが、なんとかして目だけは見えるようにしてやりたい)という一心の愛情と、近所の親切な目医者さんのおかげで、一年目には完全にもとにもどった。

●(4)<厳しい教育>

 このころから、お母様のあやさんは久子先生の将来を考えて、何か独立して食べて行けるような技術を身につけてやらなければならないと思い、猛烈な教育を始めます。
手足のない子供に着物を与えて、解(ほど)いて見なさいと言う。どうして解くのですかと聞くと、自分で考えておやりなさい、と冷たく答えて取り合わない。ハサミの使い方を考えなさい、

 口で針に糸を通してごらんなさい、そして、縫ってみなさい、と厳しく言いつけます。
できません、難しいと、泣いても喚いても母親は、振り向きません。みんな11歳の久子先生に工夫をさせて、ヒントの一つも与えようとはしません。
言いつけたことができないと、ご飯を食べさせてくれない。

 「人間は働くために生まれてきたのです。できないとは何事ですか」恐ろしい顔で叱る。おそらくは母親は心を鬼にしてこの難しい仕事をやらせたに違いない。

 久子先生は母親のこの厳しい躾を恨み、当時の気持ちを、(自分は本当の子供ではないのではないか。あるいは貰い子ではあるまいか)と、深刻に疑ったことがあると、その自伝で述べている。

 この厳しい躾への恨みや年の若さからくる、

 再婚したお母様の立場のつらさをわかることができなかった恨みは、長い期間続き、母親の深い愛情を知るのはずっとあとのことです。しかし、この鬼の教育が実を結び、12歳の終わりごろからチエが湧き、工夫が生まれて、だれの力も借りないで、小刀で鉛筆をけずり、口で字を書き、歯と唇を上手に動かして両腕先にはさんだ針に糸を通し、その糸を口の中でくるくるっと上手にまわして、玉結びができるようになりました。

 そして、反物も上手に切り揃えて、着物もどうやら縫うことができるようになりました。努力と工夫は魔術のような技術を生み出したのです。そのころの中村先生にこんな話があります。縫物がどうやらできるようになったころのこと。

 人形の着物をどうしても縫ってやりたいと思い、先生は苦心惨憺していました。同じ年ごろの少年たちは口々に、「手なし足なしに何ができるもんか」
と、罵る。そのころは人権も何もない時代。そんなに罵られると、口惜しくて涙がボロボロこぼれてくる。しかし、人形の着物づくりは、決してあきらめなかった。

 人形を抱きながら、「きっと縫ってあげるで、待っておいでよ」と、そう呼びかけていました。
何日もかかってやっと縫いあげた着物は、つばでベトベトにぬれておりました。その人形を手にしたお祖母さんは、「おお、縫えた、縫えた」と、目にいっぱい涙をたたえて、つばでぬれた人形の着物を、いろりの炬燵で、一生懸命かわかしてくれました。(私にもお人形の着物が縫える)と思うと、喜びは大きくふくらみました。

 人形の着物づくりに自信を持ち、有頂天になった久子先生は、あるとき、近所の幼友達に頼まれて、人形の着物を縫ってやったことがあります。
できあがった着物は、

 つばでベトベトぬれておりました。幼友達は、「ひさちゃんが口で縫った人形の着物や」
と、喜んで飛んで帰りましたが、そこの家の母親は、「こんなつばで汚れた汚いものをもらってはいけません」と取りあげるや否や、小川のなかに投げ捨てたのです。
このことをあとで知った久子先生は、はじめて自分に手がないことをはっきりと知ったそうです。そしてこのときは、あまりの口惜しさに、人形を抱きしめて泣きながら、

 「いつか、きっと、つばのつかない着物を縫ってあげるで、待っておいでよ」と、呼びかけています。

 このときから、(よし、つばでぬれない着物を縫ってみせる)と、ふるい立ったのです。15歳になったとき、血の滲むような思いで、1ヶ月かかってはじめて単衣1枚を縫いあげ、お祖母さんに渡しますと、お祖母さんはその単衣と先生を抱きしめて、「これはお前が縫うたんじゃない。仏様と亡くなった(とと)様が、お前に力をつけて下さったんじゃ」と、声をあげて泣かれたといいます。18歳ごろになると、女物のあわせなら1日半か2日で仕上げ、編物は1日に毛糸8オンスを楽々編めるようになっておりました。そして着物につばは全然つかなくなっていました。

●(5)こうして中村久子先生は、私(藤森)の想像を遥かに超えて、両手両足がない体で、いろいろな技術を身に付けると共に、驚異的な人間性をお育てになられました。

 中村先生は20歳になったとき、いつまでも義理の父親や体の弱い母親に迷惑をかけないために、一人で生きていくことを決心されます。

 それだけではありません。大正5年、そのころでも身体障害者には、最低の生活を保障する国家の「扶助料」という「福祉のお金」があったが、どうしても受け取る気持ちにならず、自分から進んでわが身を見世物小屋に売り、いままで自分の病気治療のために母親が背負いこんでいた借金を、全部払ってしまいます。

 名古屋の見世物にわが身を売った中村先生は、「だるま娘」と名をつけられ、裁縫や編物、短冊や色紙に字を書いて売る芸や、針に糸を通し、その糸を口で結んで見せる見せ物芸人になるのです。

 見せ物芸人というのは、娯楽の少ない時代では、身体の不自由な人々にいろいろな芸を覚えさせて、見せ物にして一般の人々が楽しむ、という人権無視の商売です。しかし、昭和20年を境にしてこういう商売はなくなりました。
 中村先生の旅芸人生活は、20歳から46歳までの26年間続くのですが、この26年間を支えたものは、(与えられた運命に不平を言わないで、一所懸命に努力していこう)という強い精神力でした。

 中村先生には、この後も、次から次へと困難な出来事が発生します。それはもう想像を絶する過酷なもので、両手両足がある私(藤森)は、その一つでも挫けそうになりますが、中村先生は、両手両足が無い方で、これだけでも想像を絶する過酷な状況ですが、さらにその上に、過酷な状況が次から次へと発生するのです。
本を読んでいるだけでも気絶するほど過酷な運命の連続の中、人間性を高めながら克服していかれる中村久子先生は、奇跡という言葉以外に表現する言葉を私は知りません。

 24歳のとき、芸人になりたてのころから、身の回り世話をしてくれていた中谷雄三さんと結婚されます。優しくて、いたわり深い方だったが、中村先生が長女を出産した1年後に、腸結核に。見せ物興行師に交渉するが、交渉は難航。最後は、3人は、もの凄い吹雪の中、夜中にたたき出されます。

 ご主人の生まれ故郷に帰り、治療につとめますが、悪化するなか、両眼の失明も治し、字も行儀作法も教えてくれたお祖母さんのゆきさんが死んだという電報が届きます。
お祖母さんが亡くなって8日目に、ご主人も亡くなってしまいます。

 両手両足がない女性が、小さな子供を抱える哀れな姿を見て、亡くなったご主人のお兄さんが、陽気で明るい子供好きの人と再婚をすすめてくれます。この人は本当に愛情が細やかで、心が優しくて、子供を可愛がり、あっという間に楽しい家庭ができます。

 しかし、次女が生まれて1年2ヵ月後、お父様と同じ急性脳膜炎に罹り、翌日、亡くなってしまいました。
中村先生は困り果てて、3度目の結婚に踏み切りますが、この人は、やがて本性を現してきて、酒と女遊びとばくちに明け暮れる。無茶苦茶な状況の中、離婚を申し出ると、手切れ金を要求。この時代、土地付き一戸建ての家が買えるほどの1500円。これをもぎ取って行ったそうです。

 やがて、義侠心のある興行師の親分が、おとなしい男性を紹介してくれて結婚されます。この方は現在のご主人、中村敏雄さん。9歳年下のこの方は、体の不自由な先生をつつみこんで、仏のように優しくいたわられたようです。
それからは、それ以前とは比較にならないほど落ち着いた生活をされたようですが、そうは言っても、不自由な体ですから、想像を絶するご苦労が続きます。

●(6)言語に絶するとはこういうことを言うのかと思うほど、想像を絶することの連続です。私たちは、ある意味、甘えすぎているのかも知れません、特に現代は。

 お釈迦様の根本の教えに「四諦(したい、四つの真理)」があります。「苦諦・集諦・滅諦・道諦」の4つで、最初の「苦諦(くたい)」は「この世はであるとの真理」。まさに、中村久子先生の人生は、「この世は苦」そのもののように感じられますが、でも、最後は「中村先生は血みどろの人生を、自分の力の限りを尽くして戦い抜いたあと、天地自然のめぐみと、多くの人々の情けやご恩を知って、人間の生き方を悟られたのです」と著者がおっしゃる境地に達していらっしゃいます。

 ご自分の人生を辛く感じる方には、この本をお勧め申し上げます。

 「四肢切断 中村久子先生の一生」(黒瀬曻次郎氏著、致知出版社、平成14年8月第9刷発行、全90頁)

 この貴重なご本をご恵贈くださった株式会社シーアイエスの伊東亮社長には心より感謝申し上げます。

く文責:藤森弘司>

言葉TOPへ