2017年3月15日 第176回「今月の言葉」
「危機とは何か?(障害)」
⑦ー③(斎木満恵先生)

●(1)<2006年3月15日、「今月の言葉」第44回「危機とは何か?」ご参照>の下記の部分を再録します。

<<< 「危機」の「危」は「危険の危」で、まさに「ピンチ」です。
ところが驚くことに「危機」の「機」は「機会」を意味します。つまり「チャンス」です。
これは何を意味するかといいますと、「危機」とは、「ピンチ・チャンス(危機一如)」であって、「ピンチの後にチャンス」があるのではありません。つまり「ピンチとチャンス」は同時に並存しています。>>>

<<<つまり、常に「危険を冒す」ことと「成長する」ということは、「コインの表と裏」の関係にあります。これが「危機」の本来の意味です。
「虎穴に入らずんば虎児を得ず」は、まさに「危機」を表わしているのではないでしょうか。また同様の表現方法に「剣禅一如」「茶禅一味」「心身一如」「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」などがあります。>>>

 今回ご紹介する斎木満恵先生は、昔、兄がお世話になった施設の施設長をされた方です。斎木先生とは不思議なご縁ができ、兄が退所(転所)してから先生の生い立ちを知ることができました。

 私(藤森)の兄が30年以上前に病で倒れ、府中にある国立病院に入院。その後、小平の病院に転院。さらにその後、東京都のリハビリ施設でお世話になり,一通りのリハビリが終了して、「授産施設」に入所することになりました。

 病気を発症してからは、独身だった兄を私がお世話してきましたが、東京都の職員の方から、座間市にある「アガペ作業所センター」に入所することを告げられました。今までこういう分野は全く分からない上に、兄が、ある小規模の作業所に短期間お世話になった体験などから、作業所の雰囲気や様子等々についてとても不安がありました。
そこで担当者にいろいろ質問したところ、担当の方が「アガペ作業所センターはキリスト教関係の施設で、日本有数の施設です」と説明してくださいました。

 右も左も分からず、しかも弟の私が、今後、どうやって兄のお世話をしていったら良いのだろうかと途方に暮れていましたので、担当者のこの言葉は本当に救われました。
名前の「アガペ」の意味は、辞書を調べて初めて分かりました。
<アガペ・・・神の愛。神が罪人たる人間に対して一方的に恩寵を与える自己犠牲的な行為で、キリストの愛として新約聖書にあらわれた思想>(広辞苑)
<agape・・・非打算的な愛。キリスト教徒の
最高の兄弟愛>(リーダーズ英和辞典)

●(2)アガペ作業所センターには、昭和63年1月から平成14年6月までの約15年間、お世話になりました。当時は、兄はまだ杖を使いながらゆっくり歩くことが出来、若干の視力もありましたので、不自由ながらも軽い作業をしていました。1ヵ月の給料が6000円の明細書を見た時は、仕事があるだけで大変有り難いことだと分かってはいましたが、ショックを感じた記憶があります。

 兄が入所した時、私の長男は幼稚園児で、幼稚園が退けた後、園服の息子と2人で毎月、座間市の施設に通いました。妻は、私の両親をお世話してくれて、そして見送ってくれました。その後、妻の両親と同居してお世話をしている最中でしたので、兄のお世話については、一切、関わらなくても良いようにしていました。

 毎月、幼稚園児の長男を連れて見舞いに行く様子が目立ったのかもしれません。アガペ作業所センターのセンター長をされていらっしゃった斎木満恵先生が暖かく見守ってくださっていたことを、不思議なご縁があり、最近、そのことを知りました。斎木先生に暖かい目で見守っていただいたことを知り、とても救われた気持ちになりました。

 その当時、それなりに歩けた兄とは、近くの食堂に3人で行ったり、2㎞くらいの距離がある最寄りの小田急線、南林間駅までのんびり散歩して、喫茶店を利用したりすることができました。
しかし、幼稚園~小学生の息子がいてくれたお陰で、子はかすがいの如く、兄弟の仲が十分でない兄のお世話を、私は何とかこなすことができました。しかし、今思うと反省することが多く、己の未熟さを痛感せざるを得ません。何もかもが息子のお陰、息子に助けてもらうことで兄のお世話ができているという情けない状態でした。

 その後、授産施設であるアガペでの生活が難しい身体状況になり、小平の施設でお世話になることになりましたが、ある日、ベッドから車イスに移動する時に転倒して骨折。近くの病院に10ヵ月入院。しかし、体力や視力等の身体能力がさらに低下したために、施設に戻れなくなり、紆余曲折の結果、今の施設(特別養護老人ホーム)にお世話になることになりました。

●(3)ここ(特別養護老人ホーム)に入所できるまでの経緯も不思議なことがありました。
病院の治療が終了しても戻る施設が無い宙ぶらりんの状態になり、この病院が運営する施設に臨時に入所させていただくことになりました。それから大至急で「特別養護老人ホーム」を探すことになりました。

 私が最初に訪れたホームの若い女性の方がとてもハートフルに対応して下さったので、施設の素晴らしい雰囲気を直感して、「ここに決めましたのでよろしくお願いします」と答えました。
私の姉たちは、特養はなかなか入れないので他もいろいろ探すようにとくり返し言ってきましたが、私はストンと落ちて、すっかり気に入ってしまいましたので、他を探す気持ちには全くなりませんでした。

 幸運にもそれから8ヵ月くらいでこの特別養護老人ホームに入所することができました。入所して分かったことですが、このホームは完成して数年の施設で、しかも、天皇陛下、皇后陛下が慰問にお出でになっていらっしゃっていました。
また、対応してくださった女性の相談員の方は、その後しばらくして出産のために退職されました。その後、出産されたことを知り、施設経由でお祝いをさせていただき、ご返信をいただいたところ、この女性の方も、入所のお世話は私が初めてとのことでした。「菩薩様」「化身」のような不思議なご縁を感じました。

 今では兄は完全に失明し、意思の伝達のための口もほとんどきけなくなりました。右側も完全麻痺状態になり、施設の皆様には多大の・・・とても暖かくて行き届いたお世話をいただいております。

 <特別養護老人ホーム「至誠キートスホーム」、立川市幸町4―14-1、「キートス」とはフィンランド語で「ありがとう」の意味だそうです。いろいろな施設を統括している「至誠ホーム」では毎年、フィンランドの福祉施設と交換研修を行っていて、昨年(H28年)は、兄を担当してくださっている副主任の若い女性の方が、他の施設の方と3週間、研修に行って来られました。ある日、兄のお世話をしてくださっている時に、フィンランドの施設について、副主任の方と立ち話をさせていただきました。

 「日本とは制度や文化、価値観は違いますが共感することもあれば、違いに驚くことも多い。出来ることは自分でしたいという根底がフィンランドにはあり、職員もその人の能力を見極めて介護していました。
ある日、ベッド上での生活を主にしている人が身体の位置を上に上げようとしているとき、私は身体を上に引き上げようと手を貸そうとしたところ、職員に止められました。『この人は自分の力で体の位置を替えられるの』と。その人は足の力を使ってゆっくり時間をかけて枕の位置まで身体を伸ばしていました。
当たり前のことかもしれませんが、能力を活用しようとする姿勢にはっとしました。出来ることに対して親切心(?)や時間や効率で介護をしてしまうのは能力を奪うことです。」
という大変貴重なお話を伺いました。若い方が異文化・・・価値観の違う文化を体験することはとても重要なことだと、改めて実感しました。>

 また、立川市シルバー人材センターにヘルパーさんの依頼に行ったところ、ここで対応してくださった担当の荒川エミ子様が親身に相談に乗ってくださり、その後も暖かくフォローもしてくださっています。
派遣していただいたヘルパーの石井靖子様にも大変恵まれ、週に2回お世話になっていますが、長年、兄の好きな料理を作ってくださったり、車イスに乗せて外食したり、気難しい兄に寄り添って十二分な対応をしてくださっています。石井様には長生きしていただいて、兄が生きている限りはお世話してくださるようにお願いしてあり、石井様には快くご了解いただいています。
いろいろな所で、いろいろな方々に、暖かくて、有り難いご援助をいただきながら、私は何とか後方支援をしている状態です。

 兄が発症してからの経緯を簡単に振り返ってみましたが、途方にくれていた頃の最初の施設の施設長・斎木満恵先生が大変な障害を背負いながらも、素晴らしい活躍をされていらっしゃったことを知り、是非、ご紹介申し上げたいと思いました。

 下記の資料は、2014年8月17日に、中目黒教会の「奨励」という冊子(?)に掲載されたものです。私はキリスト教のことは全く分かりませんので、許可を得て、そのままを転載させていただきます。

 斎木先生は大変な障害を背負うことになりましたが、ホンのちょっとの不思議な出来事から、兄がお世話になる施設で働くことになりました。斎木先生は障害を負いながらも、やがてそこの施設長になられました。そこに兄がお世話になることになり、私たちのことを暖かく見守ってくださっていましたが、そういうことを私は全く知らずに、やがて小平の施設に移りました。

 しかし、さらに不思議なご縁が出来、斎木先生とはお手紙で繋がり、斎木先生の不思議な運命を知ると同時に、私たち兄弟のことを暖かく見守ってくださっていたことを知り、いろいろな所で「観音菩薩様」の「化身」のような皆様に助けていただいている幸運を感じ、感謝でいっぱいの気持ちになっています。

 現在、アガペは、<社会福祉法人日本キリスト教奉仕団 障害者総合福祉施設 アガペセンター>となっていて、2014年には創立50年を迎えました。
<施設の概要>
①アガペ第1作業所 定員30名 鉄筋コンクリート造り地上2階建
②アガペ第2作業所 定員33名      〃     〃
③アガペ壱番館(障害者支援施設) 定員164名 鉄筋コンクリート造り地上4階建
④アガペサポートセンター(障害福祉サービス事業所) 定員20名 鉄筋コンクリート造り地上3階建
⑤指定特定相談支援事業所(障害福祉サービス事業所) 定員5名     〃     〃

 同じ座間市内の上記とは別の場所で、
⑥座間市立もくせい園(障害福祉サービス事業所) 定員30名
⑦座間市サニーキッズ(障害児通所支援事業) 定員20名
⑧ケアホームスマイル(障害福祉サービス事業所) 定員6名

●(4)<『私の宝物』>斎木満恵

第1ステージ 夏の夜の出来事!
当時、17歳、健康的で夢や希望に満ち溢れる少女が、一夜にして、身体の自由が利かなくなるとともに夢や希望を断ち切られる理不尽な出来事に襲われました。
当時とは、既に半世紀以上を経過した1960(昭和35)年のことです。第2次世界大戦終結後、日本は「奇跡」と言われる経済成長を実現しつつあり、家庭には次々に新しい家電が増えて行き、新幹線や空港・道路等も新たにつくられるなど、誰もが皆「今日より明日が良くなる」と信じた時期でした。

 私も、当然ながら、毎日、青春を謳歌していました。ところが、ある夏の夜、私は、突然激しい腹痛に襲われ、自宅から近い救急病院に連れて行ってもらいました。
診察の結果、『急性盲腸炎』との診断を受け、その場で緊急手術となりました。手術が終わった真夜中、自宅で耐えられなかった激しい腹痛からは解放され、術後の痛みも治まったものの、予期せぬ信じられない事態に直面しました。

 突然襲われた痛みからの解放と引き換えに、身体の自由が奪われてしまったのです。
私は、わけがわからず、茫然とするほかありませんでした。何と、両下肢を叩いても、つねっても何の反応もないのです。両下肢「完全麻痺」という事態に襲われたのです。
そして、両下肢「完全麻痺」だけにとどまりませんでした。数日後、今度は両手に軽度の麻痺が現れ、さらに言語障害をも発症、術後1カ月を経過した頃には、目がチカチカして物が見えなくなってきました。やむを得ず、サングラスをかけて視力を疲労から守りました。

 次々と襲う原因不明の病魔=悪夢と闘う日々のなかで、徐々に視力と言語は回復に向かい、また両手についても、幸いなことに半年後には痺れている程度にまで回復しました。が、両下肢の麻痺だけは、3カ月過ぎても半年を経過しても回復することはありませんでした。
医療ミスではないのかと思わざるを得ない、半世紀以上も前の出来事ですが、病院からは、「手術に耐えられるだけの体力がなかった・・・・・」という到底納得することのできない、理不尽な説明しか聞くことができませんでした。

 幼い頃の私は、体格が良く健康優良児で、中学生の頃は、歯の衛生週間の際に表彰を受けるなど、元気印で闊達な“少女”でした。そんな私が、一晩にして“動かぬ身体”になった原因に納得出来ず、家族ともども嘆き悲しみました。

 理不尽な説明しかしてくれない救急病院から離れ、検査と治療のために神奈川県相模原市にある「国立病院」へ移りました。国立病院での1カ月以上に及んだ精密検査の結果は、急性盲腸炎の手術後に脊髄炎を併発したことが原因とのことでした。そして、「脊髄炎」による両下肢弛緩麻痺が正式な診断名となりました。

 現在72歳(藤森注・2014年11月時点)になる“私”が、夏の夜の出来事から半世紀以上を経過して、試練のなかで得た不思議な出会いについて、振り返ってみたいと思います。

 私の父は、戦後間もなく、風邪から肺炎を併発して46歳で天に召されました。母は、40歳の若さで寡婦となり、遺された子ども5人を一所懸命育て、生活が落ち着きはじめたときに、末娘が突然、身体障がい者になるという出来事に襲われたのでした。
気丈な母は、娘の前では愚痴ひとつ言わず涙もこぼさず、娘の闘病に寄り添うため、車椅子に自力で移乗できるようになるまで、寒い日も暑い日も片道1時間の道程を病院に通い続けてくれました。

◇はじめの出会い⇒急性盲腸炎の時に入院した病院に、夜間急患で私の隣のベッドに若い女性が入院してきました。彼女は日曜日の夕拝後、帰宅が遅くなり街灯もない川崎市生田の山道を“ひとりで駅まで出るのが大変!!”と牧師先生が自転車で送ってゆく途中、デコボコの山道で振り落とされ、頭を強打し意識不明の状態でした。急患で実家は地方のため入院生活の必需品がないため、母が娘同様にお世話をさせていただきました。彼女は日毎に回復して短期間の入院生活で退院することが出来ました。

 そして毎日曜日の礼拝後、必ず私の病床を訪問し話し相手になってくれました。彼女は信仰的な話は一切しませんでしたが母は折に触れ枕もとで優しく『お母さんが亡くなっても兄・姉の愛が年齢と共に衰えても、キリストの愛は永遠です。』と語り、ときには手紙で『貴女が障害を負って人生を歩む時、人を頼りに生きることは儚く悲しい結果になることもあるのよ。<誰が共に歩んでいるのか?>・・・貴女自身で気づき、出会ってほしいの・・・』と自らの生き方で“道しるべ”を示しました。

◇次なる出会い⇒国立病院内のプログラムとして毎年12月の聖夜には、看護師さん、看護学生さんたちが“白衣の聖歌隊”となって、手には蝋燭の炎を灯した燭台を持ち、美しい声で賛美歌を歌いながら、各病棟を訪問する行事がありました。闇に輝く光と賛美の歌声は、暗闇の中を生きている入院患者たちの、心の奥深くに響きました。闇を照らす炎と賛美の歌声は「光」となり、病気と対峙する患者さんの不安や悲しみに満ちた心の中に、内在している希望を照らしました。

 私の「クリスマス」の原点は、病室で迎えたクリスマスです。暗闇のなかにある私の心の中にキリストが光として誕生しました。そうした降誕の光に照らされた体験から、私の心には日々、絶えない「内なる光」が輝きました。そうです・・・<誰が共に歩んでくださっているか>・・・私は貴重な出会いをしました。(ヨハネによる福音書16:22~24)

 そして、外泊訓練で家に帰った時に、母は近くのバプテスト教会にお願いをして「青年会」のメンバーを自宅に招き楽しい交わりと祈りの時を過ごすようになりました。青年会メンバーは退院するまで病院にも度々来てくださり祈り支えて頂きました。感謝!!

第2ステージ 悪夢からの解放~夢のような出会い~
急性盲腸炎の手術後の変化もドラマでしたが、今度は偶然のタイミングで車の傍らを横切ったときに新たなドラマが始まったのでした。

 1965(昭和40)年、入院5年目の新年早々のある日、昼食後の日課になっていた歩行訓練に励んでいるとき、病棟入口に駐車中の公用車の傍を横切ると「施設見学の車に一人分の空きがあるの。今すぐ出発するけど、行ってみる・・・」と病院のケースワーカーから初めて声を掛けられたのでした。

 繰り返される変化のない日々のなか、施設見学の車の座席が一つ余っていると呼び掛けられたことが嬉しく、病院の外に行ける。ドライブに行けるという日常の変化に心が踊りました。そして、ピンクのパジャマの上にちゃんちゃんこを着て、身体障がい者「授産施設」見学の車に同乗したのでした。今では、パジャマで突然施設を訪問するなどということは考えられません。そのとき、お誘いを受けて迷わず同乗した偶然の出来事が、図らずも私の社会復帰の出発点につながったのでした。

 見学先の「アガペ授産施設」は1964(昭和39)年6月に開所した施設でした。国立病院から自動車で20分ほどのところに位置し、大手自動車工場の近くでした。
身体障がい者が、職業リハビリテーションを通して自立して、社会復帰することを目的に、入所定員30名で開所した施設です。その年は、東名高速道路・東海道新幹線の開通、東京オリンピック(10月)の開催など、人々が心に明るさを取り戻した年でした。

 私が「アガペ授産所」見学後、しばらくしてから初代所長が私の病室をわざわざ訪れてくれました。一般企業や行政では、能力はあっても障がい者雇用は厳しく難しい時代に、所長は「アガペは組織の各課に障がいのある人を職員に配属したい。会計事務職に空席があるのでうちで働かないか。でも努力は必要だよ。」と、アガペの使命と障がい者の社会復帰を願う篤き情熱と、ご自身の夢も語られました。

 退院後の進路の悩みや不安をお話すると所長はケースワーカーとしてのアドヴァイスも忘れませんでした。「学校へ復学することも、自動車の免許を取得することも、今ではなく、後からでもできる。大切なのは、就職先があるときに職業に就くことだよ。勉強を優先して、大学を卒業しても就職できない障がい者の方もいるのが現状なんだ。今ある選択肢のなかで、最優先すべき選択をよく考え、自分で選ぶことが肝心だよ。」と言われました。そのとき、自己決定する大切さを学びました。

 障害があるだけで就職面接さえ受けられない時代であり、まして何の経験もない私には夢のようなお話であり、所長との出会いが社会復帰の出発点となりました。

 私はどん底の環境から、突然スポットライトを浴びる“シンデレラ物語”の主人公を実感しました。
1965(昭和40)年2月、発病から5年後、社会復帰を目指し、身体障害者手帳の申請手続きを行い、5月に川崎市登戸の「バプテスト教会」(田嶋牧師)へ生まれて初めて行きました。10月に「アガペ授産施設」に事務職員として採用されました。(詩編111:1~10)

 シンデレラは馬車に乗って社交界へデビュー、私は車椅子で社会復帰ができました。
ひとりでは乗り越えられない障壁、親や兄弟たち家族の理解や協力だけでは障がい者の社会復帰は難しい時代に、神の御心により多くの人たちとの出会いが、私の尊い宝物になりました。

第3ステージ 「共に生き共に歩む」
2008年3月、定年退職(65歳)するはずでしたが、「いま引かれては困る。」との周囲の声と理事会の決定により施設長兼務は外れ、センター長職は持続して週3日非常勤として勤務しながら、念願の大学進学を2008(平成20)年4月、65歳で果たしました。卒業証書を手にしたのは古希を迎える2013(平成25)年3月でした。

 私は、17歳で両下肢の自由を失うというアクシデントに見舞われましたが、今振り返ると、いばらの道に迷い込んだようなものでした。その道の先には、隠れた神の働きにより、いつも美しい花が咲いていました。

 聖書『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』・『隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコによる福音書12:30~31)

弱い人・貧しい人・困っている人・障がい者に尊く美しい心(霊的)の花束を贈り続けた人が日本キリスト教奉仕団の(元)常務理事の武間先生でした。

 法人の理念とアガペの実践「共に生き共に歩む」大切な源泉を話され、時には厳しく「わしの言うとることは、難しいことを言うとてない。お金をかけろとは言うてない。人には心をこめ、思いを尽くして接し(仕え)、仕事には手間をかけなさい。」というもので、隣人に仕える大切な基本を自らが示されました。

 それだからこそ、職員は真摯な姿勢・連携・協力する一体感が培われ、利用者さんやご家族の笑顔・安心・喜び・信頼・平安の恵みは、武間先生が後世に遺された「アガペの宝物」です。

 これまでに出会った人たちが「私の宝物」であり、感謝するとともにこれからも宝物との出会いを楽しみに私は青春を謳歌いたします。

 <◆申命記6:4~5>  <◆レビ記19:18>

 <今後の予定>

①4月15日「オバマ前大統領」について。
2010年2月15日、第91回「脚本分析・・・オバマ大統領は大丈夫か?①」から、補足を含めて6回書きましたが、その時の予言が、不思議な形で当たりました!!オバマ前大統領については詳しい成育歴が分かっています。

②5月15日・6月15日の2回「トランプ大統領について」・・・就任後、わずか3週間で更迭されたフリン大統領補佐官は、今年、会談した自民党のある議員に「政権は1年もたないだろう」と語ったそうです。本人は1ヵ月もちませんでした。
また、脳科学者の中野信子氏は「トランプ大統領はサイコパスの可能性が極めて高い」と述べています。私(藤森)も同感です。彼の言うことの端から嘘のオンパレードです。
1月8日のゴールデングローブ授賞式のスピーチで、トランプ大統領を批判したメリル・ストリープを「ハリウッドで最も課題評価された女優の一人」と、トランプ大統領は酷評したが、15年8月の雑誌インタビューでトランプ氏はストリープを「素晴らしい女優だ。人としても立派だ」と絶賛していた。しかし、わずか1年半前のことも忘れるらしい、4年はもたないだろうと大前研一氏は述べています。
過日のアカデミー賞授賞式では、司会者が「ハリウッドで最も課題評価された女優、メリルストリープ」と紹介して大絶賛されていました。

③7月15日、「危機とは何か?⑦ー④」・・・日本で初めての施設、熊本県・慈恵病院「こうのとりのゆりかご」(自ら生んだ赤ちゃんを預ける施設)について。
④8月15日、「危機とは何か?⑦ー⑤」・・・ヘレン・ケラー
⑤9月15日、「危機とは何か?⑦ー⑥」・・・盲目の天才国学者、塙保己一の大事業
⑥10月15日、「危機とは何か?⑦ー⑦」・・・私が尊敬する首から下が動かなくなった星野富弘先生・・・・・を予定しています。

 <追伸>
安保徹先生が亡くなったことを、先日、友人から聞きました。しかも、「暗殺???」の噂が流れているとのことで、文字通り、ビックリ仰天しました。
私は、安保先生と有り難いご縁があり、自筆のお手紙をいただいています。
13年前、安保先生の「免疫革命」に感動し、ノートにまとめたことがあります。そのため、2年前に、私(藤森)の手作りの冊子「癌とは何か?」(資料を含めて100ページ)を、新潟市のご自宅に送らせていただいたところ、なんと!!世界的権威者・安保徹先生からお褒めのお手紙をいただく幸運に恵まれました。

 さらに、昨年の正月には、安保先生の新著「病気にならない生き方」(三和書籍)を署名入りで贈ってくださいました。
また、昨年(H28年)の夏、(交流分析、東洋医学、安保理論、飛鳥井理論を統合した藤森理論)と銘打った私の「免疫とエネルギー」の図を送らせていただいたところ、アドバイスのお手紙をいただきました。

 ご助言を参考に、再作成した図を送らせていただいてから間もなくの12月6日に急死されたとのことです。しかも、「暗殺」の噂があるとのことで、ただ、ただ、唖然茫然としました。
友人から話を聞いて驚いて帰宅し、慣れないインターネットで調べたところ、ネット上ではかなり騒がれていることに、改めて驚きました。「暗殺」を仄めかす根拠の一つが、安保先生ほど著名で権威がある方の死亡記事がマスコミに全く報道されていないことです。本来であれば大々的に報道されるべき権威ある先生です。

 安保先生は「免疫学」の世界的権威者です。安保先生が免疫力を強調すればするほど、「薬」の存在は反比例します。しかし、アメリカでは製薬会社の政治力は巨大で、オバマ前大統領の時代にTPPの取りまとめに最後まで難航したのは、薬の特許期間の問題でした。
今回ネットを通じて、初めて、安保先生の私生活の一端を知ることができましたが、以前から、かなりいろいろ言われていて、かなり個性的な方だったようです。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。

 <安保徹先生>
昭和22年10月生まれ。東北大学医学部卒。新潟大学名誉教授、1980年アラバマ州立大学留学中に「ヒトNK細胞抗原CD57に対するモノクローナル抗体」を製作。1989年胸腺外分化T細胞を発見。1996年白血球が自律神経の支配下にあるというメカニズムを世界で初めて解明。200本以上の英文論文を発表し、国際的に名高い免疫学者として活躍を続けている。主な著書に「免疫革命」(講談社インターナショナル)、「食事を変えれば病気は治る」(マキノ出版)、「安保徹の免疫学講義」(三和書籍)など多数のベストセラー本がある。

く文責:藤森弘司>

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