2017年3月15日 第176回「今月の言葉」
⑦ー③(斎木満恵先生)
●(1)<2006年3月15日、「今月の言葉」第44回「危機とは何か?」ご参照>の下記の部分を再録します。
<<< 「危機」の「危」は「危険の危」で、まさに「ピンチ」です。 <<<つまり、常に「危険を冒す」ことと「成長する」ということは、「コインの表と裏」の関係にあります。これが「危機」の本来の意味です。 今回ご紹介する斎木満恵先生は、昔、兄がお世話になった施設の施設長をされた方です。斎木先生とは不思議なご縁ができ、兄が退所(転所)してから先生の生い立ちを知ることができました。 私(藤森)の兄が30年以上前に病で倒れ、府中にある国立病院に入院。その後、小平の病院に転院。さらにその後、東京都のリハビリ施設でお世話になり,一通りのリハビリが終了して、「授産施設」に入所することになりました。 病気を発症してからは、独身だった兄を私がお世話してきましたが、東京都の職員の方から、座間市にある「アガペ作業所センター」に入所することを告げられました。今までこういう分野は全く分からない上に、兄が、ある小規模の作業所に短期間お世話になった体験などから、作業所の雰囲気や様子等々についてとても不安がありました。 右も左も分からず、しかも弟の私が、今後、どうやって兄のお世話をしていったら良いのだろうかと途方に暮れていましたので、担当者のこの言葉は本当に救われました。 ●(2)アガペ作業所センターには、昭和63年1月から平成14年6月までの約15年間、お世話になりました。当時は、兄はまだ杖を使いながらゆっくり歩くことが出来、若干の視力もありましたので、不自由ながらも軽い作業をしていました。1ヵ月の給料が6000円の明細書を見た時は、仕事があるだけで大変有り難いことだと分かってはいましたが、ショックを感じた記憶があります。 兄が入所した時、私の長男は幼稚園児で、幼稚園が退けた後、園服の息子と2人で毎月、座間市の施設に通いました。妻は、私の両親をお世話してくれて、そして見送ってくれました。その後、妻の両親と同居してお世話をしている最中でしたので、兄のお世話については、一切、関わらなくても良いようにしていました。 毎月、幼稚園児の長男を連れて見舞いに行く様子が目立ったのかもしれません。アガペ作業所センターのセンター長をされていらっしゃった斎木満恵先生が暖かく見守ってくださっていたことを、不思議なご縁があり、最近、そのことを知りました。斎木先生に暖かい目で見守っていただいたことを知り、とても救われた気持ちになりました。 その当時、それなりに歩けた兄とは、近くの食堂に3人で行ったり、2㎞くらいの距離がある最寄りの小田急線、南林間駅までのんびり散歩して、喫茶店を利用したりすることができました。 その後、授産施設であるアガペでの生活が難しい身体状況になり、小平の施設でお世話になることになりましたが、ある日、ベッドから車イスに移動する時に転倒して骨折。近くの病院に10ヵ月入院。しかし、体力や視力等の身体能力がさらに低下したために、施設に戻れなくなり、紆余曲折の結果、今の施設(特別養護老人ホーム)にお世話になることになりました。 ●(3)ここ(特別養護老人ホーム)に入所できるまでの経緯も不思議なことがありました。 私が最初に訪れたホームの若い女性の方がとてもハートフルに対応して下さったので、施設の素晴らしい雰囲気を直感して、「ここに決めましたのでよろしくお願いします」と答えました。 幸運にもそれから8ヵ月くらいでこの特別養護老人ホームに入所することができました。入所して分かったことですが、このホームは完成して数年の施設で、しかも、天皇陛下、皇后陛下が慰問にお出でになっていらっしゃっていました。 今では兄は完全に失明し、意思の伝達のための口もほとんどきけなくなりました。右側も完全麻痺状態になり、施設の皆様には多大の・・・とても暖かくて行き届いたお世話をいただいております。 <特別養護老人ホーム「至誠キートスホーム」、立川市幸町4―14-1、「キートス」とはフィンランド語で「ありがとう」の意味だそうです。いろいろな施設を統括している「至誠ホーム」では毎年、フィンランドの福祉施設と交換研修を行っていて、昨年(H28年)は、兄を担当してくださっている副主任の若い女性の方が、他の施設の方と3週間、研修に行って来られました。ある日、兄のお世話をしてくださっている時に、フィンランドの施設について、副主任の方と立ち話をさせていただきました。 「日本とは制度や文化、価値観は違いますが共感することもあれば、違いに驚くことも多い。出来ることは自分でしたいという根底がフィンランドにはあり、職員もその人の能力を見極めて介護していました。 また、立川市シルバー人材センターにヘルパーさんの依頼に行ったところ、ここで対応してくださった担当の荒川エミ子様が親身に相談に乗ってくださり、その後も暖かくフォローもしてくださっています。 兄が発症してからの経緯を簡単に振り返ってみましたが、途方にくれていた頃の最初の施設の施設長・斎木満恵先生が大変な障害を背負いながらも、素晴らしい活躍をされていらっしゃったことを知り、是非、ご紹介申し上げたいと思いました。 下記の資料は、2014年8月17日に、中目黒教会の「奨励」という冊子(?)に掲載されたものです。私はキリスト教のことは全く分かりませんので、許可を得て、そのままを転載させていただきます。 斎木先生は大変な障害を背負うことになりましたが、ホンのちょっとの不思議な出来事から、兄がお世話になる施設で働くことになりました。斎木先生は障害を負いながらも、やがてそこの施設長になられました。そこに兄がお世話になることになり、私たちのことを暖かく見守ってくださっていましたが、そういうことを私は全く知らずに、やがて小平の施設に移りました。 しかし、さらに不思議なご縁が出来、斎木先生とはお手紙で繋がり、斎木先生の不思議な運命を知ると同時に、私たち兄弟のことを暖かく見守ってくださっていたことを知り、いろいろな所で「観音菩薩様」の「化身」のような皆様に助けていただいている幸運を感じ、感謝でいっぱいの気持ちになっています。 現在、アガペは、<社会福祉法人日本キリスト教奉仕団 障害者総合福祉施設 アガペセンター>となっていて、2014年には創立50年を迎えました。 同じ座間市内の上記とは別の場所で、 |
●(4)<『私の宝物』>斎木満恵
◆第1ステージ 夏の夜の出来事! 私も、当然ながら、毎日、青春を謳歌していました。ところが、ある夏の夜、私は、突然激しい腹痛に襲われ、自宅から近い救急病院に連れて行ってもらいました。 突然襲われた痛みからの解放と引き換えに、身体の自由が奪われてしまったのです。 次々と襲う原因不明の病魔=悪夢と闘う日々のなかで、徐々に視力と言語は回復に向かい、また両手についても、幸いなことに半年後には痺れている程度にまで回復しました。が、両下肢の麻痺だけは、3カ月過ぎても半年を経過しても回復することはありませんでした。 幼い頃の私は、体格が良く健康優良児で、中学生の頃は、歯の衛生週間の際に表彰を受けるなど、元気印で闊達な“少女”でした。そんな私が、一晩にして“動かぬ身体”になった原因に納得出来ず、家族ともども嘆き悲しみました。 理不尽な説明しかしてくれない救急病院から離れ、検査と治療のために神奈川県相模原市にある「国立病院」へ移りました。国立病院での1カ月以上に及んだ精密検査の結果は、急性盲腸炎の手術後に脊髄炎を併発したことが原因とのことでした。そして、「脊髄炎」による両下肢弛緩麻痺が正式な診断名となりました。 現在72歳(藤森注・2014年11月時点)になる“私”が、夏の夜の出来事から半世紀以上を経過して、試練のなかで得た不思議な出会いについて、振り返ってみたいと思います。 私の父は、戦後間もなく、風邪から肺炎を併発して46歳で天に召されました。母は、40歳の若さで寡婦となり、遺された子ども5人を一所懸命育て、生活が落ち着きはじめたときに、末娘が突然、身体障がい者になるという出来事に襲われたのでした。 ◇はじめの出会い⇒急性盲腸炎の時に入院した病院に、夜間急患で私の隣のベッドに若い女性が入院してきました。彼女は日曜日の夕拝後、帰宅が遅くなり街灯もない川崎市生田の山道を“ひとりで駅まで出るのが大変!!”と牧師先生が自転車で送ってゆく途中、デコボコの山道で振り落とされ、頭を強打し意識不明の状態でした。急患で実家は地方のため入院生活の必需品がないため、母が娘同様にお世話をさせていただきました。彼女は日毎に回復して短期間の入院生活で退院することが出来ました。 そして毎日曜日の礼拝後、必ず私の病床を訪問し話し相手になってくれました。彼女は信仰的な話は一切しませんでしたが母は折に触れ枕もとで優しく『お母さんが亡くなっても兄・姉の愛が年齢と共に衰えても、キリストの愛は永遠です。』と語り、ときには手紙で『貴女が障害を負って人生を歩む時、人を頼りに生きることは儚く悲しい結果になることもあるのよ。<誰が共に歩んでいるのか?>・・・貴女自身で気づき、出会ってほしいの・・・』と自らの生き方で“道しるべ”を示しました。 ◇次なる出会い⇒国立病院内のプログラムとして毎年12月の聖夜には、看護師さん、看護学生さんたちが“白衣の聖歌隊”となって、手には蝋燭の炎を灯した燭台を持ち、美しい声で賛美歌を歌いながら、各病棟を訪問する行事がありました。闇に輝く光と賛美の歌声は、暗闇の中を生きている入院患者たちの、心の奥深くに響きました。闇を照らす炎と賛美の歌声は「光」となり、病気と対峙する患者さんの不安や悲しみに満ちた心の中に、内在している希望を照らしました。 私の「クリスマス」の原点は、病室で迎えたクリスマスです。暗闇のなかにある私の心の中にキリストが光として誕生しました。そうした降誕の光に照らされた体験から、私の心には日々、絶えない「内なる光」が輝きました。そうです・・・<誰が共に歩んでくださっているか>・・・私は貴重な出会いをしました。(ヨハネによる福音書16:22~24) そして、外泊訓練で家に帰った時に、母は近くのバプテスト教会にお願いをして「青年会」のメンバーを自宅に招き楽しい交わりと祈りの時を過ごすようになりました。青年会メンバーは退院するまで病院にも度々来てくださり祈り支えて頂きました。感謝!! ◆第2ステージ 悪夢からの解放~夢のような出会い~ 1965(昭和40)年、入院5年目の新年早々のある日、昼食後の日課になっていた歩行訓練に励んでいるとき、病棟入口に駐車中の公用車の傍を横切ると「施設見学の車に一人分の空きがあるの。今すぐ出発するけど、行ってみる・・・」と病院のケースワーカーから初めて声を掛けられたのでした。 繰り返される変化のない日々のなか、施設見学の車の座席が一つ余っていると呼び掛けられたことが嬉しく、病院の外に行ける。ドライブに行けるという日常の変化に心が踊りました。そして、ピンクのパジャマの上にちゃんちゃんこを着て、身体障がい者「授産施設」見学の車に同乗したのでした。今では、パジャマで突然施設を訪問するなどということは考えられません。そのとき、お誘いを受けて迷わず同乗した偶然の出来事が、図らずも私の社会復帰の出発点につながったのでした。 見学先の「アガペ授産施設」は1964(昭和39)年6月に開所した施設でした。国立病院から自動車で20分ほどのところに位置し、大手自動車工場の近くでした。 私が「アガペ授産所」見学後、しばらくしてから初代所長が私の病室をわざわざ訪れてくれました。一般企業や行政では、能力はあっても障がい者雇用は厳しく難しい時代に、所長は「アガペは組織の各課に障がいのある人を職員に配属したい。会計事務職に空席があるのでうちで働かないか。でも努力は必要だよ。」と、アガペの使命と障がい者の社会復帰を願う篤き情熱と、ご自身の夢も語られました。 退院後の進路の悩みや不安をお話すると所長はケースワーカーとしてのアドヴァイスも忘れませんでした。「学校へ復学することも、自動車の免許を取得することも、今ではなく、後からでもできる。大切なのは、就職先があるときに職業に就くことだよ。勉強を優先して、大学を卒業しても就職できない障がい者の方もいるのが現状なんだ。今ある選択肢のなかで、最優先すべき選択をよく考え、自分で選ぶことが肝心だよ。」と言われました。そのとき、自己決定する大切さを学びました。 障害があるだけで就職面接さえ受けられない時代であり、まして何の経験もない私には夢のようなお話であり、所長との出会いが社会復帰の出発点となりました。 私はどん底の環境から、突然スポットライトを浴びる“シンデレラ物語”の主人公を実感しました。 シンデレラは馬車に乗って社交界へデビュー、私は車椅子で社会復帰ができました。 ◆第3ステージ 「共に生き共に歩む」 私は、17歳で両下肢の自由を失うというアクシデントに見舞われましたが、今振り返ると、いばらの道に迷い込んだようなものでした。その道の先には、隠れた神の働きにより、いつも美しい花が咲いていました。 聖書『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』・『隣人を自分のように愛しなさい。』(マルコによる福音書12:30~31) 法人の理念とアガペの実践「共に生き共に歩む」大切な源泉を話され、時には厳しく「わしの言うとることは、難しいことを言うとてない。お金をかけろとは言うてない。人には心をこめ、思いを尽くして接し(仕え)、仕事には手間をかけなさい。」というもので、隣人に仕える大切な基本を自らが示されました。 それだからこそ、職員は真摯な姿勢・連携・協力する一体感が培われ、利用者さんやご家族の笑顔・安心・喜び・信頼・平安の恵みは、武間先生が後世に遺された「アガペの宝物」です。 これまでに出会った人たちが「私の宝物」であり、感謝するとともにこれからも宝物との出会いを楽しみに私は青春を謳歌いたします。 <◆申命記6:4~5> <◆レビ記19:18> |
<今後の予定>
①4月15日「オバマ前大統領」について。 ②5月15日・6月15日の2回「トランプ大統領について」・・・就任後、わずか3週間で更迭されたフリン大統領補佐官は、今年、会談した自民党のある議員に「政権は1年もたないだろう」と語ったそうです。本人は1ヵ月もちませんでした。 ③7月15日、「危機とは何か?⑦ー④」・・・日本で初めての施設、熊本県・慈恵病院「こうのとりのゆりかご」(自ら生んだ赤ちゃんを預ける施設)について。 <追伸> さらに、昨年の正月には、安保先生の新著「病気にならない生き方」(三和書籍)を署名入りで贈ってくださいました。 ご助言を参考に、再作成した図を送らせていただいてから間もなくの12月6日に急死されたとのことです。しかも、「暗殺」の噂があるとのことで、ただ、ただ、唖然茫然としました。 安保先生は「免疫学」の世界的権威者です。安保先生が免疫力を強調すればするほど、「薬」の存在は反比例します。しかし、アメリカでは製薬会社の政治力は巨大で、オバマ前大統領の時代にTPPの取りまとめに最後まで難航したのは、薬の特許期間の問題でした。 <安保徹先生> |
く文責:藤森弘司>
最近のコメント