2017年2月15日 第175回「今月の言葉」
⑦ー②(大石順教先生)
●(1)<2006年3月15日、「今月の言葉」第44回「危機とは何か?」ご参照>の下記の部分を再録します。
<<< 「危機」の「危」は「危険の危」で、まさに「ピンチ」です。 <<<つまり、常に「危険を冒す」ことと「成長する」ということは、「コインの表と裏」の関係にあります。これが「危機」の本来の意味です。 今回は、前回⑥ー①の南正文先生を指導された大石順教先生をご紹介します。大石先生は子どもの時、養父に酔った勢いで、刀で両腕を切り取られるという過酷・困難な中から口で絵を描くと共に、高い精神性を獲得された先生です。 私(藤森)が数年前に、ユニセフ協会の絵葉書の中から大石順教先生の歌を発見し、メモっていたものがありましたので、二首、ご紹介します。 口に筆とりて 書けよと教えたる 学ばざる身になれど 文字を書くという |
●(2)「続・回顧妻吉後日物語」(佐々木勇雄著・新世紀書房、昭和56年発行より)
<まえがき> 両親の驚き嘆きもさることながら、当の米子の心情は如何ばかりであっただろうか。一瞬の間に奈落の底に蹴落とされ、視界は真っ暗やみとなってしまった。ただ、幸せであったことは、辛うじて彼女の頭上に、それはほんの僅かばかりではあったが、生命(いのち)を死から護るだけの絆が垂れさがっていたことだけであった。ことは終わった、いまさら過ぎしことを振り返り、思い出してみてもどうにもならない。病院のベッドの上ですっかり変わり果てた自分の姿を鏡に映し出し、じいっと見つめていた彼女米子は、一人寂しく涙を流し、諦めるより外には術はなかった。 日にち薬はようやくにして彼女の体を快方にむけて来た。それにつれて米子は彼女自身本来の不屈の精神がまたまたひさびさに頭をもたげはじめ、それがやがて、全身にみなぎりはじめてくるのであった。今ここでくじけてはいけない、いくらくよくよと考えてみたところで一旦失った腕が再び戻るはずはない。みじめならばみじめなりにどうにかなるだろう、と割り切って考え、自分で、自分の心にそういい聞かせはしたものの、若い彼女のこと、一まつの寂しさは禁じ得なかった。 そうこうしているうちに何か月かは夢の如く過ぎ去り、病院での生活も終わりに近づき、やがて退院の日を迎えることになった。しかし、まだ自宅での療養は続けなければならない。 禅僧の高僧・間宮英宗禅師はその著に、 とにかくに 手汲(たくみ)し桶の 底抜けて と詠んでいる。如何なる苦しみも天がわれに与えた試練である。口先だけではこの世の荒波は乗り越えることは出来ない。あらゆることを経験し、また、あらゆることを直接膚に触れて体験し、それを育てあげ積み重ねてこそ、いつしかさわやかに輝く真如の月を仰ぎ見ることができるわけである。と、そう自分なりに悟った彼女は、わが身の苦しさをも忘れていままで以上にただしゃにむに働き、そしてまた学びもするのであった。時には夜を徹することも幾夜あったか、そのため未だ若いみそらでありながら、なりふりにもかまわず、、いわんや他人の陰口などを気にするだけの余裕もなかった。 このようにして途中多少の難所はあったものの、大きな過ちもなく、一意専心光りに向かって歩み続けることが出来たためか、ようやく車を正しく軌道に安定させることができたのだった。ここに至るまでの彼女の苦しみ、また悩み、それは体が不自由であっただけにひと一倍のものがあったことであろう。この間の苦しかった生活の状態は、資料がないため、残念ではあるが今ここで筆者の手によってはお伝えすることはできない。 憂きことの なおこの上に つもれかし |
●(3)<第Ⅰ部 順教尼のプロフィール(横顔)>
波瀾に満ちた順教尼の一生には、数多くの秘められたエピソードがあったに違いない。だが、これらの一つ一つを今此処で披露しようと思ってみても、尼と筆者との触れ合いがあまりにも短かったためか、尼の口からは直接(じか)に話を聞く機会に恵まれなかった。従って資料の持ち合わせはあまりない。そのため今回は第壱集に載せられなかったあまり知られていないエピソードを中心にして、側面から尼の人柄に触れてみることにしよう。 <目の前に雛ちゃんの生首が!> しばらくすると、万次郎は眠たそうな目をしながらも懸命に自分の話し相手をしていた妻吉のあどけない姿を見て「妻吉や、もう遅いから先にお寝み」と言うのだった。妻吉はやっと万次郎の相手から解放されたので、「ではおとうさん、お先に寝ませていただきます」と挨拶をして二階にある自分の寝間に静かに入った。部屋には淡い電灯の光の下で、雛ちゃんが幽(かす)かな寝息をたてながら、何の屈託もないような顔をして機嫌よく静かに眠っている。自分の寝床はもう敷いてあった。雛ちゃんが敷いてくれたのだろう。妻吉はそんなことを誰に言うともなくつぶやきながら、寝巻に着替え、いつもの通り着物はきちんとたたんで枕元に置き、寝床に入るのであった。 夜はしんしんとふけてゆく。妻吉は床に入ったもののなかなか寝つかれない。何度寝返りしたか、無理に寝つこうと思ってみても、次から次へといろいろのことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。そのうちいつとはなしに深い眠りに陥ってしまった。どのくらい寝たのだろうか、夢の中で障子の開く音がかすかに聞こえた。しばらく(それはほんの二、三秒程であったか否二、三分ぐらいであったか?)すると、何か異様な物音が聞こえたような気がした。 と同時に、今まで自分がしていた枕がはずれた。妻吉は無意識のうちにそのはずれた枕を取ろうと両手をのばしたその瞬間、何かが腕に触ったと思ったとたん夢が破られ、自分の腕が雛ちゃんの枕元へ飛んでいるのがおぼろげながら見え、その傍(そば)には生首らしいものが鈍い電灯の光の下に見えたような気がするのであった。その間ほとんど一瞬の出来ごと、腕からはどす黒い血が吹き出し、両方の腕先は見る見るうちにほおずきのようにふくらみはじめ、意識は朦朧(もうろう)として何もわからなくなってしまった。・・・・・腕先がほおずきのようにふくらみ、出血をある程度防いだので、彼女の生命は取り留められたのかもわからない。・・・・・ 順教尼は感慨深げに当時を回顧し、自分の生命力がこれまで強かったのか、と今更ながら驚き、大きな溜息をつくのであった。また順教尼はこんなこともつけ加えて言っていた。 <待ったなし> そのくらいであったから、周囲の者には尼の体に変化が生じたことなどわかるはずはない。従ってまさか先生(順教尼のこと)が病気などとは、塾生の誰しもが思ってもみなかった。ただ近頃の先生は少し様子がおかしい、と思っているぐらいで、別に気にもとめていなかったようである。 ところがある日のこと、かねてより親しくしていた知人の芝原ウラ女史がたまたま高安の庵を訪ねて来た。女史は医学の経験があり(看護婦さんであったとか)常々からサンガー夫人が提唱していた産児制限に共鳴していたところから、それとなくその筋よりマークされていた女丈夫であり、当時阿倍野区の旭町にささやかな居を構え、席の暖まるいとまもないほど社会のために活躍し、多くの人びとから尊敬されていた人であった。そのような人であったから、順教尼と褄(つま)が合わぬはずはない。 女史は座敷に上がり、しばらくの間順教尼と言葉を交わしていたのであったが、今日の順教尼はいつもとどこか違う。言葉に張りがなく、第一朗らかさが見られない。だが、そこはもともと医学に心得のある人、職業上から来る勘は鋭かった。尼の体にただならぬ変化が生じていることを感じ取り、それとなく医師の診断をすすめてみるのであった。順教尼は、健康体であっただけに医者は嫌いな方である。 しかし、今度ばかりはそうもいっていられなかった。善は急げ、という言葉もある。女史のたってのすすめに応じ、診察をしてもらうだけという軽い考えで何の準備もしないまま、女史に伴われて上六(うえろく)の日赤病院へ向かった。当時日赤病院は大軌鉄道(今の近鉄)上本町駅の裏手にあったと記憶している。 さていよいよ医師の診察となった。見立ては芳しいものではなかった。結果は子宮筋腫とのこと、それも手遅れ一歩手前のため、早急に筋腫の部分を摘出しなければならない。しかし、尼にしてみたならば、ほんの軽い気持ちで診察を受けに来たのだから、今すぐ手術だからといっても何の準備も出来ていない。費用もいるだろうし、着替えの着物一枚もいるだろう。当惑した尼は一旦帰宅することを申し入れたが、医師はその願いを聞き入れず、ただちに病室の手配をし、帰宅を禁じたのであった。まさに「待ったなし」の宣告である。 手術はそれから2日後に行なわれ、無事筋腫は取り除かれた。取り上げられたものは直径約10㎝、高さは約4㎝程もあっただろうか、ピンク色をした表面の美しいまんじゅう型をした固まりであった。今でも日赤の標本室にアルコールづけとなってのこされているのではないだろうか。 筋腫を摘出した後、順教尼はしばらく高安の庵にて静養をしていたが、その後も変わりない目まぐるしい日々をおくっていたとか。 順教尼の一生をかけての事業は、決して派手なものではなかった。むしろ地味なものであったといったほうが適しているかも知れない。しかし、尼が歩み続けて来た茨の道、そしてまた多くの身体的並びに精神的障害者に与えて来た愛の灯火、それはいつまでも消えることなく永遠に点(とも)し続けられて行くことであろう。 澄めば澄む 澄めねば澄まぬ わがこころ <恩讐を越えて> 正気に返った彼は「自分は今まで何をしていたのだろうか」と思い出そうとしてはみたが、頭がモヤモヤとしていてなかなか思い出すことが出来なかった。妻吉をさきに寝ませたところまではおぼろげながらでもどうにか憶えている。だが、それから後のことはどうしても思い出すことが出来ない。しかし、事実家の中にいるのは自分ただ一人で、あとは物いわぬ家族とあちこちに飛び散っているどす黒い血溜りだけである。その現場の様子に気がついた万次郎は、あまりにも無残な光景に、自分がしたこととは知りつつも、ただ茫然として声も出ず、のどがむしょうに乾くのをおぼえるのみであった。 万次郎はこの有様をまのあたりに見、思わず目を閉じた。「ゆるしておくれ、妻吉」他の者はともかくとして、あれ程までもいつくしみ、可愛がって育ててきた妻吉までも己が刃の犠牲になったとは、自分ながら到底信じられないくらいであった。 妻吉にすすめられ、芝居に行って見た出し物「伊勢音頭恋の寝刃」がこの惨事を引き起こした直接の引き金になったのだろうか、当の万次郎自身にもはっきりとしたことはわからなかった。「こうしてはいられない!なまじ恥をかくよりも、いさぎよくお上の裁きを」と、返り血を浴び真っ赤に染まった着物を脱ぎ捨て、新しい着物に着替えると、重い足を引きずりながら、夜明けの街を西警察署へと急ぐのであった。自首をした万次郎はやがてその身柄は堀川刑務所に移され、翌年、すなわち明治39年死刑が確定されることになった。 妻吉は、万次郎の死刑が確定されたある日のこと、一日堀川刑務所を訪れ、万次郎に面会を求めるのだった。万次郎は、この妻吉の優しい思いやりに心から喜び、妻吉に向かって、 「罪を憎んで人を憎まず」という諺がある。罪は法がこれを裁く、私には人まで憎むことは出来ない。ましてや、たとえ一時とはいえ義父(おとうさん)と仰ぎ、また特に自分を可愛がり育ててくれた大恩ある万次郎である。今さら怨んだところで一度失った両腕が再び元へもどるわけでもない。こうなかば悟ったような、また諦めたような妻吉は、複雑な思いで内心は辛かったが「おとうさん、心配しないで。どうか安らかに法の裁き受け、罪に服して頂戴。おとうさんが亡くなっても、妻吉は必ず欠かさず冥福を祈るから」と慰め、刑務所を去ったということである。 高安の一室である日こう語った順教尼は、この惨(むご)い思い出話が終わると窓ぎわに立ち、空に向かって一度大きく深呼吸をするのであった。晩秋の空には一人月が笠をかぶって鈍く下界を照らしている。眼下に広がる河内平野は濃い墨を流したように真っ暗やみ。その遥か向こうにはひと筋大阪の街のともしびが見える。今宵もまた、あの街のどこかで悲しい事件が起こっているのではないだろうか。 順教尼の朝の日課は、5人の犠牲者の菩提と恩讐を越えた万次郎の供養であった。高安の庵にあっても、また山科の慈鏡苑にあっても、これだけは欠かしたことはなかった。 <「かげきよ」さん> 「何ごともなせばなるてふことのはを 胸にきざみて生きて来しわれ」と、こう詠んだ短歌は尼の心の内をいかんなく表現し得たものであることが知られよう。それに反しとりあえず五体揃った筆者、恥ずかしいことではあるが、生まれつき筆とは性が合わぬせいか、自分ながらあきれる程の悪筆、どうしてこうも違うのであろう。筆者はかつて「佐々木さんの字が読めたならば一人前である」といわれたことがある。本人もこれを諒としているから世話はない。 <納得ずくで騙される> ところで、話は少し横道へそれるようであるが、無手庵のあった高安の山畑(やまたけ)にしても、慈鏡苑のあった京都の山科にしても、街から少し離れた、どちらかといえば辺ぴなところであった。そのためか学生風の行商人が怪しげな商品を持って、時たま売りに来る。最近よりはまだましであったかも知れないが、大正時代の純粋な苦学生とはほど遠い似非(えせ)学生がこまごまとした雑貨品を並べる。勿論筋の通った物など薬にしたくも見られない。 それでも順教尼は騙されながらも自称苦学生からよく物を買っていたようであった。時には塾生から少し控えたらとのアドバイスもあったのだが、尼にしてみたならば、その学生を無下に追い返す気にはなれなかった。過ぎし苦難の時代、生活のため不自由な体に反物を背負い、あてもなく売り歩いていた時の自分の姿を思いうかべた時、行商がいかに辛いものであるか、またむなしいものであるかがじいんと響き、どうしても断ることは出来なかった。彼等にも何か理由があったに違いない。 <多技多才> 勿論これには、彼女が花街で育ったということも一つの大きな原因として数えあげられるかも知れないが、それよりも更に大きな、そして見落とすことができないのは、彼女自身の持って生まれた怜悧な頭脳と負けじ魂とが、彼女をして技術を大成に導いたのかもわからないということである。ともあれ尼の多彩な技芸は、当時筆者が数えてみただけでも充分十指を満たすものがった。今これらの一つ一つを挙げてみるならば、日舞はいうまでもなく絵画・書道・短歌・謡曲・小唄・長唄等に通じ、食通でもあり、また茶道・華道も心得、陶磁器をも愛好し、高安の里にある時などは、庵の横を流れ落ちる谷川のせせらぎのほとりに窯を設け、楽焼を楽しんでいたようでもあったといわれている。 また一方尼の人柄であるが、がさつな筆者とは対照的に、到底真似のできない長所を持ち、行儀作法にしても、話術にしても、他人の心理をす早く察するテクニックにしても、非常に巧みであったと記憶している。しかしまた、その反面ユーモアなどにも富み、ひょうきんな、そして無邪気な一面もあり、だれからでも愛されていたようであった。 にごりなく こころの中に 水すまば <思い上がった気の毒な人> 順教尼が大陸慰問の旅から帰り、たしか数か月たった頃であったか、福岡の陸軍病院を訪ねたことがあった。尼は下士官に案内されて将校室へ通された。部屋では係りの将校さんであったのだろうか、椅子に腰を掛け、両足を机の上にのせて手指の爪を切りながら、顔も上げずに順教尼の一行を迎えるのであった。その傲慢不遜な態度、ただ呆れかえるばかりであった、と。 尼は一時の間戸惑ったが、相手が悪い、礼を尽くして訪問の主旨を述べた。ところがその返事は、にべもなくお断りの声が跳ね返って来たそうである。今まであちこちの病院を慰問したが、感謝されこそすれ、このような取り扱いを受けたのは初めて。もっともこれは特殊な例であったのかも知れないが、一時の間ではあったが、国の行く末を憂えたとか聞く。 <境遇に負けるな> しかし、今ここではごく狭い意味での障害として、一つは外面的ないわゆる目に見える体の障害と、他の一つは内面的な、目には見えない心の障害について話をしてみたいと思っている。この2つの障害のうち、数的に見ていずれが多いかといったならば、心に障害を持つ者のほうが身体的障害を持つ者をはるかに越え、絶対的に多数を占めているようである。 身体障害者は、なるほど初めのうちは自己の障害のみにとらわれ、その他のことを考えるだけの余裕を持たず、身の不遇を嘆くばかりであるが、ひとたび同じ境遇の者に接し、心が開けたならば、案外悟りは早く、社会の一員としてスムーズに溶け込むことが比較的容易にできるが、それに引き換え、手に負えないのは心の障害者、それも特に心のひねくれた者である。こればかりはちょっとやそっとではなかなか正しい軌道に乗せることはむずかしく、骨の折れる仕事である。 そのため順教尼は、日頃から塾生(弟子)達には口癖のようにして「体に障害はあっても、心まで障害者になるな」と戒めていたそうである。つまり、いかなる境遇にあっても心を豊かにもつことの大切さを教えていた。そして、黙々と正しく自己の道を歩んでこそ、遂には光り輝く明るい世界が目の前に開かれるのではないだろうか、と。 <二人の聖女> しかし、その内容についてはどのように書かれていたか、今になっては思い出す術もない。ただ世紀の生んだ偉大なる女性として紙面を賑わしたことは言うまでもないことであった。 東京での講演を無事済ませた女史は、関西入りでの第一声を朝日新聞大阪本社の大講堂で放つことにした。勿論女史は口を「きく」ことはできない。そのため幼少の頃より習い憶えた指先による指話を通じ、自分が歩んだ茨の道をトムソン夫人に伝えた。トムソン夫人は、長年女史に仕えた経験を生かし、指話を言葉に変え、自国語(英語)で話をする。それを当時ライトハウスの創立者であった岩橋武夫氏(今塙保己一と言われる盲目の学者)が聞き、これを国語(日本語)に直して、一般聴衆に伝えるという、いたって手のこんだものであった。 朝日の大講堂の会場は、一度この聖女の話を聞こうとする者で溢れるほどの超満員となっていた。だが、会場の内部は静寂そのもので、終始女史に耳を傾け、誰一人として咳一つする者もいない。ただ話が佳境に入るにつれ、万感胸を打たれたためか、会場のここかしこからはなをすする者が微かに聞こえはじめ、中には思い余ってハンカチを取り出し、それとなく目がしらをそっとぬぐう者さえ居た。 いい知れぬ苦難の道を光に向かってひたすら歩き続けた女史のこの不屈の努力、それはわれわれに何処まで想像し得たであろうか。女史の恩師サリバン先生の血の滲むような指導もさることながら、それを忠実に受け入れた女史のたゆまざる努力が、彼女をして聖女の名にふさわしいほどの偉大なる人格者にまで育て上げたのではあるまいか。 順教尼は、この聖女の講演を是非とも聞きたいと思い、またあわせてじかに接することができたらとの願いから、一般聴衆の一人として朝日の会館を訪れ、多くの人びとにまじり、女史の話に耳を傾けたのであった。勿論話の受け止め方は、一般聴衆と順教尼とでは大きな差があったかも知れない。それは、尼以外の何人といえどもわかるはずはない。 ともあれ女史の話は終わった。順教尼は早速控室を訪れ、かねてから懇意の岩橋武夫氏を介し、女史に近づき、親しく言葉を交わすことができた。女史は岩橋氏の紹介により順教尼の身の上を知り、その来訪を心から歓迎し、見えない眼を尼に向け、両手をさし伸べて尼の顔形を「なで」、やがて手を広げ、小さな尼の体をしっかりと抱きしめたのであった。 その瞬間、この美しいシーンをまのあたりに見た同室の中から、何処からともなく拍手が贈られ、国こそ異なれここに奇しくも二人の聖女、互いの心の中には無言のうちにも何か相通じるところがあったのではあるまいか。筆者の脳裏には、今なお奥深く当時の印象が焼きつけられている。 再び巡り会うこともなかろう二人。順教尼は別れに際し、白檀の末広を女史に贈るのだった。女史はなるほど目・耳・口の障害こそ持ってはいたが、嗅覚は健全であった。それ故、順教尼は、会館への途中わざわざ市電の戎(えびす)橋で下車し、平素から買いつけの丹青堂画材店に寄り、ふくよかに匂う白檀の扇子を求め、これを贈ることにしたのであった。尼のその細かい心づかいを見ても、尼の生活の一面が如実に現れているではないか。当時筆者は、たまたま尼に同行し、ここでまた一つ、無言の教訓を学びとることができたのであった。 <後略> <佐々木勇雄・・・「出身地」東京都新宿区、「生年」1910年(明治43年)、「出身校」高野山大学ー選ー(和歌山)、「現住所」守口市大久保5丁目265、「現在」社団法人・守口市シルバー人材センター理事・・・昭和56年時点> |
く文責:藤森弘司>
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