2017年12月15日 第185回「今月の言葉」
⑤ー①
●(1)私たちは、当然のことですが、右側を見ると、左側を見ることができません。上を見ると、下を見ることができません。前を見ると、後ろを見ることができません。同様に、遠くを見ると、近くを見ることができません。こんなことは当たり前だと、多分、多くの方は思われることと思います。 しかし、ここを十分に理解・納得しながら人生を生きる・・・ということが意外に難しいもので、多くの人は、ここに大きな「錯覚」があります。 さて、「奇跡とは何か?」ですが、私たちは、遠くにある見慣れないものや、社会的に高い評価を受ける物事・・・つまり、自分にとって「高嶺の花」のような物事が「奇跡」だと思って、憧れる傾向が強くあります。ということは、近くにある「奇跡」は見落とすことになります。 何故でしょうか?それは、上を見れば、下を見ることができない、右側を見ると、左側を見ることができなくなるので、縁遠いものに憧れると、近くにある「奇跡」が見えなくなってしまうのです。 つまり、遠くの「奇跡」に感動すると、近くの「奇跡」を見ることができなくなるのです。近くの「奇跡」を見ることができないと、「奇跡」というものは、遠くの、いかにも見慣れていない「特殊」で「類まれ」な「縁遠い」ものにしか「奇跡」は無いと思い、遠くにあるものに憧れて、追い求めがちになります。ということは、足元は、当然、疎かになります。 しかし、「奇跡」とは何か?です。 心理学では<HERE AND NOW>を大事にします。「今、ここ」です。禅宗も同様です。結論から先に言います。「奇跡」というものはありません。逆に言いますと、「奇跡」があると言えば、存在する全てのものが「奇跡」です。何をもって「奇跡」というかですが、「奇跡」の説明をすれば、多分、それはすべての「存在」に当てはまるはずです。 「奇跡とは、常識では考えられない神秘的な出来事。既知の自然法則を超越した不思議な現象で、宗教的真理の徴と見なされるもの」(広辞苑)とありますが、自分の周囲を見回すと、「常識」で考えられるもの、「神秘的」でないもの、「宗教的真理の徴」と見なされないものが、少なくとも、私(藤森)には見当たりません。少し、周囲を見渡してみましょう。 |
●(2)まず、「夫婦」がそうです。
私たちは夫婦として当たり前のように生活を共にしていますが、よくよく考えてみますと、何十年か前にそれぞれが生まれた時は、「時間」も「場所」も全く違い、「縁もゆかり」も何もかも全く何もありませんでした。 それにもかかわらず、この広い地球上の・・・少なくとも、この広い日本の(現在であれば)1億2千万人の中から、何かの「縁」で出会い、何を感じたのかよく分からない中、一緒に生活をするようになって数十年、自分の人生の絶対部分を共にするというのは「奇跡」という以外に言葉がありません。 私たち「夫婦」は、腹が立って喧嘩をしたり、離婚したくなったりしますが、その前に、この不可思議以外に表現のしようがない、「奇跡」としか言いようのない出会いに、一切、思いを馳せない強い傾向があります。いや、結婚当初は「奇跡的な出会い」の不可思議さ、嬉しさ、有り難さを感じながらも、いつしかそれは忘れ去られてしまい、遠くのよく知らない、そして自分にはほとんど何の恩恵も無い「遠い奇跡」を追い求めたり、「感動」したりしてしまいます。 他人ならば、どんなに「親友」であったり、長い付き合いであったりしても、一瞬のうちに「絶縁」関係になってしまうであろうゴタゴタがありながらも、結局は、一生を添い遂げる「夫婦」とはなんと「奇跡的な関係」であろうかと「感動」したくなります。どんなに凄い「奇跡」よりも「奇跡」だと思いませんか。 外国の、エベレストの、海の底の、どこか遠い、見たこともないような遥か彼方のよく知らない分野や、ノーベル賞や、文学賞や、オリンピックのメダルや、成績の優秀さや、大学のランクや、著名人や、財産の大きさや、社会的な活躍や・・・・・その人それぞれが「立派」だと「憧れる」縁遠い「価値観」、時間的・空間的・心理的な距離感がある遠い彼方の事柄を「奇跡的」だと憧れますが、今、目の前の「夫」や「妻」や「子ども」たちの「奇跡的」に有り難い「存在」に私たちは、目もくれない強い傾向があります。 しかし、この「奇跡的」な「出会い」や「存在」こそが、最も目を見張ってしっかり見つめ、「大切」にする必要があるのではないでしょうか。つまり、望遠鏡で見るような遠い「存在」ではなく、「here and now」(今・ここ)の近い存在にこそしっかり目線を据えることこそが極めて重要なものであると、私(藤森)は思っています。 ウミガメだったでしょうか、満月に砂浜から孵化した幼い亀が、海を目指してよちよち歩く姿。しかし、その間に、外敵に食べられてしまう中、何の情報があるのか、進む方向を間違わず、海に向かって歩く姿は感動します。そして、やがて、海に達して泳ぎ始め、何年か後に、また戻って来て、この運命を繰り返します。 「奇跡」の連続ではありませんか。日曜日の午後7時30分からのNHK「ダーウィンがきた」をご覧ください。動物たちの奇跡のオンパレードです。 もう一つ、食卓に焼き魚が出たとします。私たちは、当たり前に食べますが、これは当たり前のことでしょうか。 スーパーで買ったとします。そのスーパーにその魚が出ること、さらには、そのスーパーに出る前に築地市場に出て、そのスーパーに買われることが「奇跡」です。そして、築地市場に出るために、その1匹がある漁師に捕獲されることも「奇跡」です。 さらに、さらに、さらに、その前に、親の魚が何百万個の卵を産みながら、ほとんどの卵や稚魚は外敵に食べられてしまい、成魚になるのは1%以下です。そういう経過があって、今、自分の食卓に乗って、食べさせていただくことは「奇跡」以外の何だと言えるでしょうか? 禅宗での食事は、食前に、今、自分が食べるものがどういう経過を経て、今、食べられるようになったかを考えて「いただきます」とします。お米であれば、お百姓さんが、どんな苦労をしながら、草を取り、肥料を撒いて、炎天下で大変な思いをしながら刈り取り、脱穀し、米穀店を経て、今、自分の食卓に乗るのか。そういうことへの思いを馳せながら「有り難く」いただきます。 「ありがとう」がそうですね。 |
●(3)私(藤森)は、自宅から多摩川の土手や、モノレールも通っている「立日橋」という橋を渡って、立川駅周辺まで散歩します。往復、約7キロメートルくらいでしょうか。体に負荷をかけるために、中身が5~6kgの重さのリュックを背負って、周囲を楽しみながら散歩しています。
冬の寒い日々は交差点で待つ間、夏には、あれほど避けていた日光に当たろうと、陽当たりの良いところに移動します。不思議ではありませんか、太陽の動きに「奇跡」を感じます。 立川までの道のり、お母さんが小さい子を連れてよく歩いています。抱っこされている赤ちゃんの場合は、お母さんは前を向いていますが、赤ちゃんは後ろを向いています。その赤ちゃんの後ろを歩いている時、偶然、私と目が合うことがあります。 私は嬉しくなって、「ニコッ」と無言のラブコールを送ることがあります。時折、赤ちゃんも私を見て、「ニコッ」としてくれることがあります。私は嬉しくなって手を振って、さらに「大好きだよ」とラブコールを送ります。赤ちゃんも微かに手を振ってくれることがあるんです。私は幸せな気持ちを胸いっぱいに溢れさせながら、お母さんの脇を歩いて通り過ぎます。 もうこの赤ちゃんとは2度と出会うことはないでしょう。永遠に出会わないであろうこの一瞬の出会いは、私にとって「奇跡」としか言いようがありません。 先日もこんなことがありました。 お母さんに追いつくまで、私は小走りしているその子と笑顔を交換しながら一緒に歩きました。やがてその子がお母さんに追いついた時、今まで泣き叫んでいた幼子が笑顔で近づいたのを見て、お母さんは「アレッ!」という顔をしていました。私とその子だけが知っている「秘密」の時間、私は「奇跡が起きた」と思って、幸せな気持ちで胸がいっぱいになりました。 この子から、私は溢れるような幸せをいっぱいいただきました。私の身の回りには「奇跡」が溢れています。 もう一つ、素晴らしい「奇跡」をご紹介します。 その蕾が来春に開くときのことです。 春、散歩しながら、「君たちは、よくもまあしっかりと花開いたね。あの寒い冬の日々を、よくもまあ耐え抜いたもんだね。兄弟喧嘩もせずに」と話しかけます。すると、コブシの花々が全員、私のほうを向いて「ニコッ」と、さらに美しい花びらを向けてくれます。 古稀を越えて、私の周囲には「奇跡」がいっぱいに溢れていることに感動する毎日です。遠くて、なかなか出会えない「奇跡」を追うだけの能力も時間も、体力もお金も持ち合わせていませんが、「奇跡」には、毎日、出会える幸運が私(藤森)にはあります。 禅語に「脚下照顧(きゃっか・しょうこ)」があります。 ●(4)<回光返照の退歩を学ぶべし。 自然に身心脱落して、本来の面目現前せん。>(道元禅師)(えこう・へんしょう)(じねん・めんもく) 回光返照とは、自然に親しみつねに自然と自己を照らし合わせること。 大自然と会話を交わそう。自然と和合し退歩を自覚する生活をするとき、おのずから身も心も解放されて、万象を支配している理法が見えてくる。 <全宇宙の生命、一茎の花に宿れば、全宇宙は即ち一茎の花>(福岡正信・自然農法) 自然農法(田を耕すこともなく肥料も施さず農薬も使わず、科学の力を否定し人間の知恵の無用を無言で示す)。 40年以上前に一つの実証として示していたこの老人は仙人のようにも見えたし、ただの農民のようにも思えた。愛媛県伊予市の田んぼや蜜柑山を見学し、この人の話を聴いた。奥が深いのかブッキラボーなのかもよくわからない。東京で講演を聴きそのまま名古屋の会場へついて行ったこともある。でもその奥は受け取れない。 我が家の畑で実践するにはどうしたら?と問うと、棒で地面に線を引きここにタネをまけばいいと・・・・・。 農業は自然食をとる正直、自然農法を実践する正行、自然の妙好人となるための正覚を同時に修練し体得する場であると。仏教の三密相応(口、身、意の修行で成仏する)だと。 |
く文責:藤森弘司>
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