2017年10月15日 第183回「今月の言葉」
⑦ー⑥(塙保己一先生)
●(1)盲目の塙保己一先生がこれほど凄い方だとは思いませんでした。
目が見えない方が、これほどの記憶力があることの不思議さ。あのヘレン・ケラー先生が尊敬したというのですから、その凄さが理解できるというものです。人間の潜在能力というものはとてつもないものなのですね。天才・アインシュタインでも脳の12%(20%?)しか使っていないと聞いたことがあります。ということは、私たち一般の人間は、1~2%なのかもしれませんね。 いかに本気になるか。これが全てかもしれません。 私たちは気軽に「本気」という言葉を使いますが、もしかしたら、本当の「本気度」の10%程度を「本気」と思っているのかもしれません。さらには本当の「本気度」の1%程度でさえも「本気」と思っているかもしれません。ちょっと本気の気持ち、本当の「本気度」の1~2%程度「本気」の気持ちになっただけで、本気になっているのに成果が上がらないと不満を持っていることが多いのかもしれませんね。 それでいて成果が上がらないと、「本気でやってもダメだ!」などと落胆していて、人生を・・・・・かもしれません。少なくとも、私の若い時はそうでした。 多分、本気度を数%アップするだけで、一般の生活では、とてつもない「成果」を上げる可能性があるように思えます。私たちは、あまりにも、「本気」とは何かを知らない可能性があります。私たちは多くの場合、「本気だと思う」ことが「本気」だと錯覚している可能性があります。 人生、一度くらい、何かに本気になってみるのも良いのかもしれません。少なくとも、「本気」になるとはどういうことかを「本気」で考えてみるのも悪くないかもしれません。 禅宗では、修行僧をいかに「本気」にさせるかが師匠の「力量」になるように、私(藤森)には思えます。そして、カウンセリングも同様です。 多くの人は、「本気だと思う」ことが「本気」だと「錯覚」しているので、それをいかに「本当の本気」の気持ちになっていただくか、これが困難を極めます。逆に言えば、「本当の本気」になれば、日常生活においては、困難を極めることってほとんどありません。 |
●(2)<ヘレン・ケラーが支えにした盲目の天才国学者、塙保己一の大偉業> <塙保己一 ~盲目少年の志> 昭和12(1937)年4月26日、見えず聞こえず話せずの「三重苦の聖女」と呼ばれたアメリカのヘレン・ケラーが、東京渋谷にある温故学会のビルを訪れた。彼女はここに保管されている盲目の国学者・塙保己一(はなわ・ほきいち)の鋳像や愛用の机に手を触れながら、幼いころ母親に日本の塙保己一の偉業と不屈の精神を教わり、自分も発奮したとして、次のように語った。 塙先生こそ私の生涯に光明を与えてくださった大偉人です。本日、先生の御像に触れることができましたのは、日本における最も有意義なことと思います。手垢のしみたお机と、頭を傾けておられる敬虔なお姿とには心から尊敬の念を覚えました。先生のお名前は、流れる水のように永遠に伝わることでしょう。 塙保己一は延享3(1746)年に武蔵国保木野村(埼玉県児玉町)に生まれ、幼くして病により 失明したが、江戸に出て学問に打ち込み、41歳から30年以上をかけて日本の古書古本を1,273点収録した『群書類従』を編纂した。ここには法律、政治、経済、文学から、医学、風俗、遊芸、飲食まで、あらゆるジャンルの文献が収められており、群書類従なくしては日本文化の歴史を解明することは不可能だ、とまで言われている。 書物好きの当時は江戸幕府の保護のもとで、盲人だけの鍼(はり)、三味線、金貸しなどの職業組合があり、厳格な徒弟制度が敷かれていた。保己一(こう名乗ったのは後のことであるが)は15歳にして江戸に出て、検校(けんぎょう)という位についている雨宮須賀一(すがいち)のもとに弟子入りした。しかしや鍼の修行には身が入らずになかなか上達もしない。このまま雨宮に迷惑をかけるだけでは死んだ方がましだと、ある日、九段坂の近くの牛ヶ渕に身を投げようとした所をあやうく家の下男に救われた。 連れ戻された保己一を雨宮は激しく叱責した後に、こう聞いた。 「お師匠さま。私は学問がしたいのです。そのことばかり考えてほかのことに身を入れることが出来ませんでした。どうか、お許しくださいませ」 「そうか、そうか。よく分かった。お前の頭のよいことはよく分かっておった。実技のほどはからきし駄目だというのに、医学書は一度聞いたら一字一句覚えてしまうお前には、実のところ驚かされたよ。盲人でも学問をして歌人や学者になったものが今までにいなかったわけではない。だが、学問となったら、わたしには教えてやることが出来ないよ。はてさて、どうしたらよいかのう」
<ひろがる噂> それからの保己一は本を貸してくれるという人の噂を聞いては尋ねていき、読んでくれるという人を捜し求めた。 やがてこんな噂が広まっていった。保己一の書物好きを知って、下手なながらひいきにしてくれる人も出てきた。そういう人には保己一は心をこめて身体を揉み、それが終わると書物を読んでもらった。お礼として施術代はいただかないことにしていた。 全神経を集中して聞いている様に読む人は感動し、一度聞いた書物は全部覚えてしまい、次に訪ねたときは意味が分からなかった箇所をたずねたりするので、読み聞かせた方が驚いてしまう有様だった。 雨宮検校の隣屋敷に松平織部正乗尹((おりべのかみ・のりただ)という旗本が住んでいた。書物をたくさん持っており、大変な勉強家であった。保己一の噂を聞いて、ひどく感心し、自分から本を読んでやろうと申し出た。乗尹は公務が忙しいので、一日おきに寅の刻(朝4時)から卯の刻(8時)までなら読んでやろうと言うのである。「どうかな、ちと早くて辛かろうが」という乗尹に、感激した保己一は「必ず伺います」と頭を下げた。 「どのような書物が好きなのかな」と聞かれると、「一番好きなのは歴史ものです。国の故事に暗くてはならないと思います」と答えた。 寅の刻といえば、外はまだ薄暗く、人々はまだ眠っている時間である。乗尹の力のある声が響き、保己一は微動だにせずに聞き入った。やがて日が昇り始めると、あたりに物音がし始める。時間がくると、保己一はお礼の気持ちに心をこめて乗尹の肩を揉んだ。保己一にとっては待ち遠しい時刻となった。
<学者への道> しばらくして乗尹は、保己一に言った。 講義の日には座敷の隅に座って、じっと聞き入る保己一の姿に宋固も心を動かされていった。そこで講義の後に、保己一を呼んで今まで講義したことを尋ねてみた。保己一は的確に答えただけでなく、難解だった点をいくつか上げて宋固の意見を求めた。宋固は問いに答えつつ、内心舌をまいた。 乗尹は保己一をぜひとも宋固の門人に加えてやりたいと思い、雨宮検校の所に行って、保己一の比類のない才能について話し、きちんと系統的な学問をさせる必要を説いた。雨宮にも異存はなかった。こうして保己一は宋固の門人として学者への道を歩み出すことになる。 <自分に与えられた天命> 保己一はいつも穏やかに人に接することを自分に誓っていた。学問をするには短気を起こしてはならない、感情に左右されるようなことではいけない、と思っていたからである。貧富で人をわけへだてることはなく、犬や馬にさえ大声で叱ることもなかった。日々の暮しは学問第一、粗末な食事に、冬でも足袋なしで過ごし、少しでもお金ができると書物を買った。 保己一の噂を聞いて、大名家からも藩で秘蔵している本を持ち込んで、正統な典籍かどうか調べて欲しいという申し込みが舞い込むようになった。あちこちに埋もれていた貴重な書物が次々に保己一のもとに集まってくる。 すべて学問をするには古からの日本の国体を知らねばならない。国体を知るには古書の研究が必要であるが、そうしたことを好む人びとが少ないために古書が失われて、百年もたったら全く跡形もなくなってしまうだろう。これは太平の世の恥である。誰かこれを研究して後の世に残したなら、それこそ国の宝となるであろう。 あちこちに散らばっている古書古本は、放っておけば活用されることもなく朽ち果てていくであろう。これらを叢書としてまとめた形で、新たに版を起こして出版すれば、後世の研究者にとって大きな助けとなる。これこそ自分に与えられた天命だと思われた。安永7(1778)年の暮れも押しつまった深夜、保己一33歳の時であった。 <「群書類従」> 保己一は叢書の名を『群書類従』とした。価値ある古書の群れを類に分け、系統的に位置づける。類としては「神祇」「帝王」「補任」「系譜」など25。たとえば物語部には「伊勢物語」「竹とりの翁の物語」、日記部には「和泉式部日記」「紫式部日記」、紀行部には「土佐日記」「さらしな日記」、そして雑部には「枕草子」「方丈記」から聖徳太子の「十七箇条憲法」まで、今日の我々が古典古文として習う多くの書物が収められている。 しかし単に古書古本をまとめて再出版するというだけの作業ではない。まず各地に散在している資料の収集だけでも一苦労だ。たとえば平安初期にまとめられた「日本後紀」50巻が行方知れずになっていた。それが京都の公家の所にあるらしいと伝え聞いた保己一は、門人を京都に派遣して探させた。門人は京都を探し回って、ようやく伏見宮家にとびとびの10巻があることを突き止めた。しかし伏見宮家は外部の人間に見せてくれない。 そこで門人は策を練って、まず伏見宮家の家司と酒友達となり、そのうちに家に泊めてもらえるようになった。そしてそういう晩には書物を夜の間借りて読むことを許されたので、ひそかに10巻全部を写しとったのである。日本後紀は、日本書紀に始まる我が国の六つの代表的な国史「六国史」の一つである。保己一の志とこの門人の熱意がなかったら、日本後紀は現在に伝わらなかったかもしれない。 <刊行開始> また集まった古書をそのまま印刷するわけではない。それが原書であり、後世に残す価値のあるものでなければならない。保己一は集めた書物をつねに3人の門人に読ませて、正しいと思われるものをとっていった。 印刷は板木で行う。専門の板木師が1枚の板に20字10行を一頁として、左右2頁を逆向きに彫っていく。これが今日の400字詰め 原稿用紙の基となった。彫った後の文字の修正は、その部分をえぐり取り、別の木片に彫りなおしたものを埋め木する。板木は両面を彫り、1枚で原稿用紙2枚分となる。群書類従全体では、この板木が1万7,000枚以上となった。印刷は板木に墨をしみこませ、2回目の墨をぬった上に和紙をのせ、竹の皮で滑りをよくしたバレンという用具でこする。字の大きさや文字数により、力の加減を微妙に調整しなければならない。 天明6(1786)年2月、保己一はまず平安時代から鎌倉時代にかけての説話集である『今物語』を刊行し、上々の評判を得た。この『今物語』を見本として、群書類従の広告文を作り、予約の募集を始めた。今物語と同じ仕立てで、千二百余種の文献を25の類に分けて、600冊余りの叢書とすること、毎月1、2冊づつ刊行し、刊行部数は200部、値段は紙10枚で6分2厘、仕立て4分5厘、等々。保己一41歳。志を立ててから、はや7年以上の年月が流れていた。
<火にも負けず> 寛政4(1792)年7月、麻布あたりから出火した火の手はなお遠かったが、保己一は風の様子からこれは危ないと感じて門人たちに避難を命じた。群書類従の出版のさなか、家の中は今まで苦労して集めた書物や、他家より借り受けた書籍で一杯である。やがて火の手はとめどもなく広がり、保己一の家も全焼した。かなりの書物は運び出したものの、板木は多くを焼失した。 焼け跡に立つ門人たちは絶望して、「群書類従の出版はもう諦めるしかありません」と言い出す。「なにをいうか。みんな元気な身体があるではないか。しばらくは中断するとしても、また始めるべく手はずを整えていこうではないか」 時の老中・松平定信は文武両道に秀で、寛政の改革に当たって学問を奨励していた。保己一は翌年、和学講談所および文庫を建設する用地の拝借願いを幕府に出し、300坪の無償借用が許された。また建物の建設資金350両も貸しつけ、さらに毎年50両の資金援助もなされることとなった。今までは売上があがってからそれを次の出版資金とするという形であったので8年間で43冊しか出せなかったが、この後、毎月4冊刊行の見通しがたった。 当時は旗本やご家人などの暮らし向きも苦しかったので、優れた人材が和学講談所に集まって、写本や筆耕などの仕事に加わるようになった。講談所ではいつも書を読み合う声、板木を彫る音、さらさらと紙を繰る音が溢れていた。 <受け継がれた志> 『群書類従』670冊が完成したのは文政2(1819)年、保己一は74歳となっていた。思い立ってから41年目のことであった。同時に『続群書類従』の調査、書写が進んでおり、出版が始められたが、保己一はこの2年後に他界した。享年76。 和学講談所は維新後に明治新政府によって再建され、後に東京大学史料編纂所となった。また続群書類従は明治35年に活版で刊行が開始され、関係者の努力によって昭和47(1972)年に完結した。盲目の少年の学問への志は、周囲の人びとによって大きく育てられ、さらに後の人びとの心に受け継がれて大事業を成し遂げたのである。 <文責:伊勢雅臣・29年1月5日>『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』著者/伊勢雅臣 |
く文責:藤森弘司>
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