2017年1月15日 第174回「今月の言葉」
⑦ー①(南正文先生)
●(1)<2006年3月15日、「今月の言葉」第44回「危機とは何か?」ご参照>の下記の部分を再録します。
●東洋と西洋の違いに、「一」と「二」があります。 ●例えば、「表・裏」がそうです。表と裏という相矛盾する二つのものがあると西洋では考えますが、東洋では「表裏一如(一緒の如く)」と考えて、別個のもの、二つのものとは考えません。 ●これから本題に入りますが、私は不勉強で、哲学というものを知りません。多少、哲学的なことがわかるとしたら、それは「禅」の精神を少し学んだ(体験した)ことの応用程度です。 「月刊・織本 1月号」(医療法人財団・織本病院・清瀬市旭が丘1-261発行)の中の、「医療費削減許すまじ」理事長・名誉院長の故・織本正慶先生(胸部外科手術の世界的な権威)が書かれたものをご紹介します。 ともかく右肺の空洞に対して手術をしなければならないが、肺機能(肺の能力)を計ってみると胸郭形成術(肋骨を七本とって空洞を圧迫する手術)をするには呼吸能力が少なすぎる。要するに手術をしなければならないが、手術をするには肺の機能が悪すぎるのである。 結局この「一次的閉鎖の空洞切開術」は私のライフワークになった。 ●「危機」について、ヘーゲルの哲学用語を使っての大変わかりやすい説明で、多分、多くの人たちが、程度の差はあれ、概ねこのような理解・・・「ピンチの後にチャンスあり」と理解していることと思われますが、これは実は西洋的な発想なんです。西洋的な発想の上ではこれは正解ですが、日本語で「危機」と表現した場合、この解釈は違ってきます。 ●「危機」の「危」は「危険の危」で、まさに「ピンチ」です。 ●「心身セルフ・コントロール法」池見酉次郎(心身医学の創始者で元九大医学部名誉教授・故人)著、主婦の友社刊 <心身一如の真意> この学会(筆者注:昭和五十二年の京都の第四回、国際心身医学会、池見先生は大会会長)の冒頭に、当時の理事長であったライサー教授が、「東西の医学の出会いの場としての心身医学」というテーマで講演をし、その結びとして、次のようなことを述べました。 その直後に、私が、次期理事長として、これに呼応する形での講演をしましたので、その要点を、次に紹介しておきましょう。 ライサーは、西欧流の宗教(キリスト教)の立場から、霊魂不滅(体は死んでも魂は生き残る)の考えにしがみつこうとしています。これも、実はキリスト教の教義の真実をはき違えた考えであり、もともとキリスト教でも、人間の心と体を分けて、体は死んでも心は生き残るというようには教えられてはいないはずです。そのような心身二分の考えをキリスト教に持ち込んだのは、デカルト流のギリシャ哲学であり、かつてキリスト教の教義をギリシャ哲学によって解釈した段階で、このような勘違いが起こったといわれています。 日本人による日本人の哲学として有名な西田哲学では、心身一如という場合、人の心と体の関係は、仏教で説かれるように二にして不二、不二にして二とされています。心と体は、有機的に相通う相互媒介的な面を持つと同時に、心と体はそれぞれの働きについても、それぞれに対する研究法についても、はっきりと区別しなければならない相互否定的な側面をも持っているという事実を忘れてはなりません。 ●「危と機」はこのような、「二にして不二、不二にして二」の関係です。 私たちは「危険」を「いけないもの」、「危ないだけのもの」、「避けるべきもの」だと思いがちです。しかし、私たちが成長していくプロセスは、「危険」だらけです。1~2才で歩くことを覚えれば、「転ぶ危険」が常に付きまといます。道端で転ぶと、ケガをしたり、車に轢かれる危険があります。 より良い学校を受験しようと思えば、不合格になる危険が増します。ナイフや包丁を使えるようになれば、ケガをするかもしれないし、喧嘩に使えば、恐ろしいことになりかねません。車の運転免許は交通事故の危険が増大します。 私の長男が幼稚園のとき、「親子で製作」の時間がありました。段ボール箱とガムテープを使って、思い思いのものを作ったのですが、そのとき、他のすべての幼児が、ガムテープを手で切れないのには驚きました。ナイフも使えません。少子化で、いかに親が、子供の領域に侵入しているかがよくわかりました。 つまり、常に「危険を冒す」ことと「成長する」ということは、「コインの表と裏」の関係にあります。これが「危機」の本来の意味です。 |
●(2)「生きる喜び~たとえ両腕がなくとも~」(日本画家・南正文先生、奈良内観研修所)
<司会の言葉> <1.生い立ち> 私は堺市の田舎で育ちました。家は経済的に非常に貧しい生活でした。 <2.事故> 始めのうちは危険な機械はなるべく避けるようにして手伝っていたのですが、そのうちに馴れてまいりますと、危ないものが危なく感じなくなってまいります。頭のなかは遊ぶことに一杯になっておりますし、それに嫌々手伝っておりますものですから、そばにある機械をいじったりしておりました。当時はスーパーマンとかいう番組が流行っておりまして、主人公はものすごい力で、走ってる車なんかを手で止めたりするのです。私は人間にはない力があるのではないかと錯覚しまして、自分にもそういった力があるのではないかと錯覚したんです。 当時は医療体制もできておりませんでしたから、その時、救急車を呼んでいたら、たぶん私の命は出血多量で無かったのではないかと思います。ちょうど家の前にトラックが止まっておりまして、その運転手に頼んで病院まで運んでもらいました。病院に着いた時にはそのトラックの荷台は一面血の海だったと思います。両腕が無くなったのですから、それこそものすごい量の血が出るのです。 病院に着いても医者から、出血多量で九分九厘駄目だろうと言われたんです。それでも何とか、という両親の思いで手術をしてもらいました。約9時間の手術だったといいます。9時間と言いますと、手術を受けている私は意識がありませんので、分かりませんが、それをじっと待ってる両親の気持ちはどんなものだったかと思います。それはものすごく長いものに違いなかったでしょう。手術が終わりましても、私は丸2週間も意識不明でした。その間、点滴やら、輸血やら、目が離せない状態だったらしいです。 <3.両腕が無くなったと知った時> ある時、治療最中に目隠しの隙間から、それはわざと隙間を作ったんですが、その隙間から自分の手をのぞいたんです。すると両腕が肩から無くなっていて、その傷口が血とウミでグチャグチャになっていたんですね。それを見ました時は、なんと言ってよいやら言葉になりませんでした。もう世界が真っ暗になるような感じでした。言葉も出ませんでした。 それでも子供のことなので、看護婦さんやら先生、それに患者さんたちが親切にしてくださいますので、回復につれて病院の中を駆けずり回るようになりました。ちょうど1年間入院しておりました。だいたい、切断というのは回復が遅いのです。子供といえどもそのくらいかかったんです。 <4.両腕の無いつらさ> <5.ノートを取ること、トイレのこと> 学校に行けるようになって、それはそれで良かったのですが、問題が出てきました。まだ下級生の間は1日の授業数が少ないので大した問題にはなりませんでしたが、上級生になりますと授業時間数が多くなってまいります。私は一人ではトイレに行けないんです。これは人には言えませんでして、非常に困りました。それでも夏は無理に汗をかいて、それで発散できますので、私は無理矢理汗をかくように強いて努めるんですが、それでも汗を拭くのに困るのですが、トイレの問題よりはましでした。問題は冬でした。一日中我慢するのですから、授業が終わってから、私の家までは走って15分くらいかかりましたが、私は毎日走って帰ったのです。 しかし、恥ずかしい話なのですが、小学生の時に帰る途中で我慢しきれなくて失敗したことがありました。その時は恥ずかしい気持ちで一杯になってしまいまして、惨めと言いましょうか、その現実を見て、情けなくなってしまいました。人がいないところを帰るものですから時間も長くかかって、その分、惨めさも長く味わわねばならないことになりました。帰りましても母親にひどく叱られるのではないかと思ったりもしましたが、母親は何も言わずに後始末をしてくださいました。 その時からこんな失敗は二度とするまい、と子供ながらに思いました。それでどうしたかと言いますと、あまり食べたり飲んだりしなければ失敗はしないだろうと考えまして、私はあまり飲んだり食べたりしないようにしました。もちろん、育ち盛りでしたので食欲はありましたが、それよりも失敗した時の惨めな気持ちのほうが強くて、だんだんと食べないし飲まないでも耐えられるようになりました。それから失敗はなくなりました。 <6.大石順教先生との出会い> 私はそんな状態でしたが、両親のほうも今まで順調にやっていた製材所もうまく行かなくなりまして、止めることになりました。それで引っ越しをしまして、現在のところに移りました。今から考えますとその引っ越しが良かったのです。その引っ越し先に今は亡き大石順教尼という先生と親しくしてされている人がおられまして、その人が私に先生に会うように勧めてくださったのです。 すると先生は、二つだけ条件があるとおっしゃいました。一つは当時、私が住んでいました堺から京都まで、一人で来ることというのでした。そしてもう一つは今までは足で描いていたかも知れないが、今度からは口で描くようにということでした。 最初の堺から京都まで一人で行くというのは、順調に列車の連絡が良くて、そうですね2時間半くらいかかります。5回ほど乗り換えます。私は身の周りのことは何もできないというのは先生は充分知っておられるはずなのですが、それでも、あえて一人で来るようにというのです。初めて、一人で京都に行く時には、本当に緊張いたしました。段々とその日が近づいてまいりますと、トイレの問題とか、また切符をどうして買おうかとか、色々なことが頭を占領するのです。トイレの問題は食べたり飲んだりする量を減らすことには馴れておりましたが、しかし、時間的に長いものですから、前の晩から何も食べない、飲まないでおれば大丈夫だろうと思いまして、実行しました。まあ、それは巧く行きました。 しかし、切符をどうして買うのかというのは問題でした。普通では考えられないところに問題があるのです。これはどうしようもないので、自分ほど不幸な人間はいないと、そんなことを考えておりましたから、見も知らぬ人に、ポケットにお金がありますから切符を買ってくださいとは言えません。それに中学生ですので、一番恥ずかしい時期ですから、尚更です。 「切符を買ってくれた人が良い人で、切符を買ってくれなかった人が悪い人だと考えるのは、これは普通なんだよ・・・・。しかし、そうじゃないよ。切符を買ってくれた人もそうでない人も、全てあなたにとっては全部、先生なんだよ」とおっしゃいました。「神様は、あなたを生かそう、生かそうとされて、あの人にも出会わせ、この人にも出会わせ、色々な人に出会わせてくださっているんだよ・・・・・」 その時はどういう意味か理解はできませんで、そういうものかなと思ってはいたのですが、今ではその意味がわかるようになりました。 <7.何もしないで子供を見守る> <8.見えない所に心をつかう> 足で描いたというのと、口で描いたというのとでは違うんですね。足というのは、下という感じが付いてまわります。口でも足でもどこで描いてもよいのですが、そういった目に見えない所に心をつかうかどうかによって、絵の表われかたも違ってきますし、生き方も違ってきます。人の前では良いことを言っても、誰もいないところでは逆のことをしているのに似ています。見えない所に心を使うことが大切なんですね。 そう言うものかなと思いまして口で描いておりますと、口で描くというのは、なかなか難しいのです。奥歯と前歯で筆を咬んで描くのですが、長時間描いていますと歯が痛くなってきます。物も満足に食べられないくらい歯が痛くなる時もありました。それに日本画は紙を下に置いてうつむいて描きますので、ずっと下を向く格好になります。これも長時間続けますと疲れてきまして、肩こりもします。中学生の時に肩こりの辛さを知ったのです。1回、肩こりで寝込みますと、そうですね3日は寝込んでしまいました。頭痛はしますし、フラフラになりますので、先生のところに行って、「もう駄目ですから足で描かせてください」とお願いするのです。しかし、先生はただ「続けなさい」の一言でした。 それでやって行きますと少々無理をしても描けるようになってきました。するとまた無理をしてしまうのです。今度は1週間くらい入院してしまいました。退院して先生のところに行って、「これ以上できませんので、足で描かせてください」とお願いするのです。しかし、先生はただ「続けなさい」の一言しかおっしゃいませんでした。それでも頑張ってやって行きますと、肩こりもしなくなりまして、一晩くらいの徹夜は平気になりました。ふと鏡を見ましたら、私の首がですね、相当太くなってるんですね。普通の人の首よりも見ただけで分かるくらい太くなってるんです。下を向いて長時間絵を描くものですから、頭は一番重いために、普通の首の力では支えきれずに肩こりをしていたのです。 それに最近では自転車にも一人で乗れるようになりました。ハンドルの高い自転車で何度も練習して乗れるようになったのです。今では自転車に乗ってスケッチにひとりで出かけられます。電車なんかと違って、景色を見ながら行くのは、本当に楽しいです。 <9.できないことと、しないこととは違う> 一番難しかったのは、これはボタンをかけることでして、なかなかできませんでした。なんと言うこともない普通のボタンがかけられない。小さな子供でもできることなのに自分はできませんでした。いくら工夫をしてもできないんですね。毎日毎日稽古して、また色々な器具をつくったりしたんですが、できなかったんです。そして諦めようと思ったとき、フッと考えたんです。今まで何から何までできないと思っていた時は確かに何もできなかった。 <10.結婚生活> 結婚を考えるようになる前には、大体自分の身のまわりのことは一人でやれるようになっておりました。すると不思議なんですが、手のないことを忘れてしまうことがあります。相手の人も私に手がないことを忘れてしまって、例えば荷物なんかを手渡すんです。ハイとかなんとか言って荷物を渡すんです。私もそれを手で受けようとするんですが、その時自分には手がなかったんだと思いだすんですね。今まで手がないことで悔やんでおり、以前に切符を買うことさえできずに、人に頼み、そして逃げられたりしたことを思うと、手がないことを忘れてしまうようになったというのは、ありがたいなあと思います。 いろいろな人から祝福されまして、1年後に子供が生まれました。子供が生まれましてから、再び自分には手がなかったんだなというのが思いしらされました。家内は子供のおしめを換えたりその他の世話をします。自分も時間はかかりますが、何とかその手伝いはできます。しかし、子供が泣いたりした時なんか、抱けないんです。1時間くらいも泣かしたりしたこともあります。 <11.親の気持ちが分かる> それは、子供を育てると言いますが、実は親は子供に育ててもらっているのではないかと私は思います。これは世間の考え方とは逆なんですが、私はそう思うのです。 <12.させていただく> 先日は難民の件でカンボジアの方に行かせてもらいました。国境ぎりぎりのところまで行ったんですが、そこには親を失った孤児たちや、痛々しい人達が大勢いました。痛ましさを身にしみて感じました。彼らは持つものと言えば食器くらいなもので、命からがら逃げのびてきたんです。しかし、子供たちは皆明るいですね。それには驚きました。素朴であって人なつこくて、何十年か前の日本の良いところの子供たちのような表情でした。 少年院にしてもそれと同じでして、大体少年院を訪問したいと、東京にも何回も足を運んだんですが、なかなか難しかったです。なかなか許してもらえないのです。それで何とかお許しが出て、何カ所か回らせてもらいました。そこでも色々な家庭環境の子供たちがいるということを分からせてもらいました。一人一人を見て見ましたら良い子ばかりなんです。それが家庭の環境によって結局は少年院に入ってしまうのです。 そして私自身考えるのですが、もし私に手があれば、今のような気持にならなかったんではなかろうか。逆にそう言ったカンボジアの孤児たちや少年院の少年たちをもっと突き放した目で、それこそ、おまえたちは自業自得なんだとか言った見方で見るようになっていたんじゃないかと思います。 <13.両腕がない事実を受け入れる> 絵でも同じことでして、私は口で描きます。もちろん描ける速度も遅いです。同じ時期に入門した人達はどんどん展覧会に入選して行きました。しかし、私は描くことだけで精一杯でした。焦りというか、追いたてられるような気持もありました。しかし、自分は両腕がないのだという事実を思った時、そのままで、その状態で、絵を描いてゆくこと、そして私の思いを表してゆくこと、それを続けるしかないんだと思い、続けることができたのです。 また、私の出会った大石先生は高野山の尼さんでしたが、最初に少し言ったと思いますが、両腕をなくされたのです。以前は大阪の舞子さんだったですが、何かの事件に巻き込まれて腕を切られてしまったんです。それから色々ありまして結婚され、2人の子供を育てて、自分は口で絵を描き、詩を書いたりなさったそうです。そして高野山の祭り日が21日なので、その日に自分は死ぬと予言されたのです。自分は今まで色々な人にお世話になってきたから、死ぬ時くらいは誰の世話にもならないといって、とうとう21日の日にぽっくりと亡くなったのです。そういう素晴らしい人とも出会うことができました。 そう言った先生との出会いもありました。不幸というのは不幸に終わるのではなくて、それが幸福になることもあるんだということを、自分の体験を通して教えられました。大石順教先生は「禍福一如」ということをよくおっしゃいました。災いも幸せも条件無しなんだという意味です。手がなくなったから不幸で不幸でしょうがないというのではなくて、お金があってもそれが条件で幸せかといえばそうではありません。腕がないということも転じて幸せになるのだということです。 生きていることの素晴らしさ、それをもっともっと感じ、そして絵を描いて行きたいと思います。そして色々な出会いを大切にして行きたいと思っております。 <あとがき> <南正文先生> <発行者>三木善彦先生 奈良内観研修所 電話0742-48-2968 |
●(3)三木善彦先生は、私(藤森)もご縁があり、ご指導いただいたことがあります。浄土真宗系の「身調べ」という厳しい修行を、吉本伊信先生が師の駒谷諦信先生と共に万人向けに工夫・改革した「吉本式内観法」をご体験。内観学会を設立され、また、学者でいらっしゃる先生が、実際に内観研修所を運営されていらっしゃる「内観」の世界の重鎮の先生です。 今回の貴重な資料の転載につきましても、暖かいご理解とご声援を賜りました。お手紙によりますと、南正文先生はお亡くなりになったとのことです。<合掌> ◆現在、奈良内観研修所の所長は奥様の三木潤子先生です。 <奈良内観研修所>631-0041奈良市学園大和町3-262-1 ℡&Fax:0742-48-2968 <ウィキペディアより> <ご著書>
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く文責:藤森弘司>
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