2016年8月15日 第169回「今月の言葉」
「得失一如」とは何か?
(補足)③ー③

●(1)前回(補足③ー②)の「免疫とエネルギー」に関してご助言を賜りました。極めて重要なことですので、加筆・修正し、厳密に解説します。その前に、前回の(8)を再録します。

<<<(8)図形が使えない(使い方が分からない)ために、分かり易い形で表せない残念さがあります。少々、分かりずらいのですが、簡単に説明します。

<交流分析・東洋医学・安保理論・飛鳥井理論>を統合した「藤森理論」・・・「免疫」と「エネルギー」

①ストローク ⇒ ②脚本 ⇒ ③呼吸 ⇒ ④横隔膜 ⇒ ⑤自律神経(自律神経は2つ、「A」「B」に分かれる)

(A)⑥交感神経  ⇒    ⑧解糖系    ⇒  ⑩瀉法 ⇒ ⑫「肝系」「脾系」「心系」

(B)⑦副交感神経 ⇒ ⑨ミトコンドリア系 ⇒  ⑪補法 ⇒ ⑬「腎系」「肺系」>>>

●(2)下記は今月の加筆・修正版です。

 私(藤森)は、一つ一つの技法を総合して活用することは、多少は技量があるかもしれませんが、一つ一つの「言葉」や「技法」を厳密に説明する能力は、かなりレベルが低く、教養の無さを痛感しています。気が付いたり、ご助言をいただいたりした時点で、さらに修正していきたいと思っています。

<交流分析・東洋医学・安保理論・飛鳥井理論>を統合した「藤森理論」・・・「免疫」と「エネルギー」の加筆・修正版

①ストローク ⇒ ②脚本 ⇒ ③呼吸 ⇒ ④横隔膜 ⇒ ⑤自律神経(多細胞化とその同調のために「自律神経」が誕生・自律神経は2つ、「A」「B」に分かれる)

(A)⑥交感神経(エネルギーの消費a)  ⇒  ⑧「解糖系」優位タイプ    ⇒  ⑩瀉法 ⇒ ⑫「肝系」「脾系」「心系」

(B)⑦副交感神経(エネルギーの蓄積b) ⇒ ⑨「ミトコンドリア系」優位タイプ ⇒ ⑪補法 ⇒ ⑬「腎系」「肺系」

<a>エネルギーの生成と消費は2種類(瞬発力と持続力・・・どちらも消費)。
<b>エネルギーの蓄積は食べることと休息・・・消化器系は副交感神経がコントロールしています。

<⑧>「解糖系」は、細胞分裂、瞬発力 <⑨>「ミトコンドリア系」は、分裂の抑制、持続力です。

 <⑪>の「補法」は、「保法」の文字のほうが適切かもしれません。エネルギーを「補給」するのではなく、エネルギーを浪費する心身の癖(過剰防衛)を「セーブする技法」と表現するほうが適切かと思われます。
「自己免疫疾患」は、「ミトコンドリア系優位タイプ」、つまり、エネルギーを蓄積する必要が大きいタイプであるにもかかわらず、エネルギーを「浪費」する「癖」・・・つまり、心理的(脚本的)に「過剰防衛」し過ぎて(「過剰防衛」せざるを得ない生い立ちがあるために)陥る疾患であると考えています(これは、私・藤森の独断偏見ですが、密かに、かなり自信を持っています・・・詳細を知りたい方はメールをください・・・とにもかくにも、「脚本」の歪みで、主として「腎系」と、「肺系」です)。

 <⑩>の「瀉法」は、心身の中に封じ込められているエネルギーを放出する「技法」です。封じ込められているエネルギーは、内臓(肝系・脾系・心系)を傷めたり、人間関係を悪くしたり、イジメや犯罪に悪用(投影)されたりします。

「病気にならない生き方」(安保徹先生著、三和書房)≫

 <ミトコンドリア系と解糖系>p20
私たちは1つの生き物のように見えますが、今の私たちの体は、実は20億年ほど前に「原核細胞生命体」に「ミトコンドリア生命体」が寄生してできた「真核細胞生命体」をもとにしています。
私たちの体は、エネルギーのつくり方に無酸素系有酸素系の2通りがあります。無酸素系のエネルギーは解糖系と呼ばれ、原核細胞生命体が行います。一方、有酸素系はミトコンドリア生命体がエネルギーをつくります。

 ミトコンドリア系は解糖系より、はるかに多くのエネルギーをつくることができます。多量のエネルギーを得ることによって、私たちは生き物として大型化し、進化もしたのです。
細胞でエネルギーが十分つくられることによって、細胞はもちろん、細胞によって形成されている組織や器官が機能することができます。
そして、解糖系とミトコンドリア系の2つのエネルギーのつくり方があることが、私たちの人生を形づくる根幹となっているのです。

 <解糖系とミトコンドリア系のエネルギー生成の仕組み>p28
私たちが食事をすると、そこに含まれる栄養素が腸で吸収され、血液やリンパ液をつたって全身の細胞へと運ばれていきます。細胞内でエネルギーの材料となる栄養素は主に糖質(ブドウ糖)です。
ごはんやパン、イモ類、砂糖などに含まれる糖質が細胞内で分解される過程で活動エネルギーが生み出されます。

 これが、糖からエネルギーを生み出す解糖系の仕組みです。ただし、ここで生み出されたエネルギーは真核生物として進化した人間の生命活動を支えられるだけの量ではありません。解糖系のこのエネルギーは、瞬時に生み出されます。ミトコンドリア系の100倍の速さでエネルギーをつくります。しかも、瞬時に消費されます。

 つくられる量は、原核生物にとっては十分な量であっても、人間の活動においては、瞬発力をまかなうだけで精一杯のエネルギーです。
さまざまな活動をするには足りないわけですが、それを補うエネルギーをつくり出すのがミトコンドリア系のエネルギー工場なのです。

 解糖系で分解された栄養素は、ミトコンドリアの内部でさらに分解され、水素がつくり出されます。この水素が、別経路で運ばれてきた酸素と結びつく過程で大量のエネルギーが生み出されるのです。

 このエネルギー量は解糖系がつくり出す量の比ではありません。1つのブドウ糖分子をもとに解糖系で生み出されるエネルギーが2分子であるのに対し、ミトコンドリア系では36分子ものエネルギーが生み出されるのです。実に解糖系の18倍です。

 解糖系は糖質からしかエネルギーがつくれませんが、ミトコンドリア系は脂肪やたんぱく質をも糖質に変換し、エネルギーをつくることができます。

 <酸素がミトコンドリア生命体を生んだ>p24
ミトコンドリアは、内部に遺伝子を持っていることからも独立した生命体ですが、それでは、独立した生命体がなぜ、動植物の細胞内小器官となるに至ったのでしょうか。

 地球における生命の始まりの段階にさかのぼって、そのあらましを説明しましょう。
地球にはじめて生命が誕生したのは、今からおよそ40億年ほど前と考えられています。

 その当時、大気中に酸素はなく、窒素や炭酸ガスが中心でした。酸素がないのですから、当然、無酸素で成り立つ解糖系のエネルギーシステムを使って生きるしかありません。初期の原始生物は、無酸素の世界で分裂しながら繁殖していったわけです。これが、単細胞の嫌気性細菌で、原核生物に属します。原核生物は真核生物に対比されるもので、今の細菌類も原核生物です。

 その地球に、今から35億年ほど前のこととされますが、光合成細菌が誕生しました。それは海のなかでした。太陽が届く浅瀬で、藍藻と呼ばれるシアノバクテリアでした。酸素をつくる生命体が誕生したのです。藍藻は今も岩礁などで繁殖しています。

 それからおよそ10億年たった、今から22~20億年前に、ミトコンドリア生命体が生まれました。この時点で、大気中の酸素濃度は2%まで上昇しました。ちなみに、現在は大気中には酸素が21%含まれています。

 ミトコンドリア生命体が誕生する以前は酸素が0%でした。それが2%に増えただけで初期の原始生物は危機に陥りました。

 原始生物は、酸素がある世界では生きられません。原始生物には酸素濃度が2%になっただけで、生存の危機に立たされましたが、そこに酸素を使って効率よくエネルギーをつくる細菌(好気性細菌)が出現しました。この好気性細菌がミトコンドリアという小器官の祖先といわれています。ちなみに、ミトコンドリアは単独の生命体として存在したこともあったようですが、今は単独の生命体としては存在していません。

 そしてやがて、解糖系の単細胞生命体(嫌気性細菌)に好気性細菌のミトコンドリア生命体がくっつきます。<以上、「病気にならない生き方」

①の「ストローク」は<「今月の言葉」第158回「交流分析のストロークとは何か?」ご参照>
②の「脚本」の詳細は<「今月の言葉」第1回「脚本」ご参照>。ここでは、「ストローク」の「出し方」、「受け止め方」や、ストロークを「出さない」、「受け取らない」等々、ストロークの扱い方の
設計図

③の「呼吸」は、「脚本」により影響を受け、呼吸の「深さ」「浅さ」や、呼吸を止めたりするなど、呼吸の仕方の「設計図」で、呼吸の仕方で「横隔膜」に影響を与える
④の「横隔膜」は、呼吸の仕方によってコントロールされる。その横隔膜の
「在り方(設計図)」は、自律神経をコントロールしている
⑤の「自律神経」は、「⑥交感神経」と「⑦副交感神経」に分かれる
⑥の「交感神経」は
「解糖系」をコントロールしている
⑦の「副交感神経」は、
「ミトコンドリア系」をコントロールしている
⑧の「解糖系」は、矢印以下に影響を与えている
⑨の「ミトコンドリア系」は、矢印以下に影響を与えている
⑩の「
瀉法(しゃほう)」は、エネルギー放出のための技法で、⑫の臓器に影響を与える
⑪の「
補法(ほほう)」は、エネルギーの浪費をセーブするための技法で、⑬の臓器に影響を与える

「安保理論」とは、新潟大学名誉教授で国際的に名高い免疫学者・安保徹先生の理論(「解糖系」「ミトコンドリア系」)をお許しを得て活用させていただいています。
名著『病気にならない生き方』(三和書房)を活用。

 「飛鳥井理論」とは、東洋身心医学総合研究所・主幹・飛鳥井雅之先生の理論(「呼吸」と「横隔膜」の関係、というよりも、全体的に飛鳥井先生のお考えが下敷きになっています)をお許しを得て活用させていただいています<「今月の言葉」第158回「交流分析のストロークとは何か?」ご参照>。
両先生の「理論」に「交流分析」「東洋医学」を総合し、私の考えを統合したものを「藤森理論」と仮称しています。

「補法」「瀉法」・・・補法的タイプか、瀉法的タイプかの見極めが重要。しかし、固定されたものは無いために、補法的タイプが、次の瞬間、瀉法が必要になったり、その反対もあり、瞬時の変化を読み取る必要性があります。

次に、活用する「補法」「瀉法」に属する諸技法の多様性が重要。
「生体エネルギー法」「絶叫療法」「ヨーガ」「坐禅」「吉本式内観法」「カウンセリング(拝聴力)」「フォーカシング(焦点付け)」「芸術療法」「サイコドラマ」「ユング心理学」「サイコシンセシス(精神統合)」「交流分析」「精神分析」「東洋医学」等々、可能な限りの技法や理論を、可能な限り、適時・適切に応用する技量が要求されます。

多くの場合、「補法」が必要な方に「瀉法」を適用したり、「瀉法」が必要な方に「補法」を適用したりするケースが目立ちます。また、「吉本式内観法」を活用して、その方の「罪悪感」を刺激して「自罰的」になっていることがよくあります。本来の「吉本式内観法」は、「罪悪感」を刺激して「自罰的」になることではありません。「吉本式内観法」と「自罰的」になることとは根本的に違います。

 プロセスとしては、最初、確かに「罪悪感」を刺激しますが、それを「吉本式の内観」に高める・・・宗教的な高さ(大袈裟に言えば「悟り」の境地)の方向性が求められます。この「吉本式内観の境地」と、「自罰的心境」とは表面的にかなり似ているために、訓練された経験(深さ)が無いと、「自罰的境地」を「吉本式内観の境地」と錯覚され、称賛されてしまいます。

「ヨーガ」も同様です。ヨーガの多くの部分は「補法」ですが、一部に瀉法的ポーズがあります。これを使い分けないと、かなりの影響を受ける場合があります。「ホットヨーガ」というのが流行っているようですが、体験者に様子を聞いたところによると、「ホットヨーガ」は全体が「瀉法」のように見受けられます。ヨーガ(全ての技法)も利用の仕方によっては要注意です(「包丁」は、料理には欠かせない大事な道具ですが、一方、「凶器」にもなります)。

 その場の心地良さと、本質的な良さは違います。例えば、ギャンブルや麻薬・飲酒、浮気や評判(名経営者の称号や敬虔な○○)、怒鳴ったり、喚いたり、オートバイを暴走させたり・・・等々は、その場は心地良いはずです。しかし、刹那の良さと、本質的な良さとは違うということを理解することが重要です。刹那の心地良さを求めたくなる、我々人間の弱さとどう向き合うか、これが困難を極めます。

私(藤森)の独断と偏見で言いますと、世の中の多く(ほとんど)の「敬虔な○○」と言われるような素晴らしい人格の方は、上記で述べた「自罰的境地」や「怒りの感情」の「抑圧」などであると認識しています。その証拠は、「自罰的境地」や「怒りの感情」の「抑圧」が強いと、強さの度合いにより、必ず、「免疫力」を下げて「内臓」を痛めたり、日常生活に無理を生じさせます。

 本質的な敬虔な○○」という人間性を獲得されれば、自律神経(交感神経と副交感神経)のバランスが整い、心身が健全になります。そういう意味で、早死にするということは、残念ながら、バランスが整っていなかったということになります。

 また、「一人の人間」だけで判断するか、「夫婦単位」で判断するか、「家族単位」で判断するか、この見極めが大事です。私たちが無意識界に抱えている「脚本(深層心理)」は、残念ながら、想像もできないような「心理」が隠されています(「仏教」では、この部分を「阿頼耶識(あらやしき)」と言い、ここが取り組むべき対象のようです)。

 多くの場合(多分、全て)、「育児」を通して、親の脚本を子供に「荷卸し(投影)」されます。また、「夫婦関係」の中での「荷卸し」もなされます。それ故、一見、健全な親のようでいて、荷卸しされた「子供」が自律神経のアンバランスを引き受けているということも多いのです。そういう「関係性」全体を判断できる訓練が極めて重要です。

 精神(心理)に過度な負担を掛ければ「内臓」を痛めるか、「育児」などに悪影響を与えます。あるいは、犯罪や非行などの「行動面」、さらにはウツなどの「精神面」に、必ず、表出されます。<私・藤森の資料「癌とは何か?」のp15 「ストレスが溢れて惹起する3症状(脚本に由来)」ご参照>

 前回<第167回「得失一如とは何か?」>の(11)<少女監禁事件の「寺内樺風(かぶ)」の名前について>などが典型的な例です。「内臓」を痛めるほど「敬虔な○○」「いい人」「優しい人」「親切な人」「頭がいい人」「○○な人」・・・等々の頑張っている人たちを、私たちは、知らぬが故に「称賛」してしまいます。つまり、「内臓」などを悪化させることに手を貸してしまっています。

 「無理が通れば」「道理が引っ込む」・・・何が引っ込むのか、「脚本」を調べることで分かってきます。
私たち一般庶民にとって重要なことは、
立派な業績は上げられないし、立派な人間にもなれない中で、いかに「より良く、より楽に生きるか」ということに「智慧」を出したり、工夫したりすることです。

 それには、「未熟」な自分に気づくことだと、私の経験的には思っています。「未熟」な自分に気づくと、生きるのがとても「楽」になります。私たちは無意識の中で、なにがしかの「立派な人間になりたい」、「立派な人間でありたい」と願望することが「苦」になっているように(少なくとも私には)思えてなりません。
「不可及其愚(其のには及ぶ可からず)」(禅語)

 「立派な人間像(理想像)」と「立派になれない自分像」の葛藤が人生を辛く苦しいものにしている・・・ということを、少なくとも、私の人生ではそのように「悟り」ました。つまり、私(藤森)は本当に愚か・・・思い出すのも恥ずかしい程愚かな人生を生きてきました。そして、かなり多くの部分は、今も、その愚かさを引きずっている「情けない人間」です。
ただ一つ、私が救われることは、
「妻」がまだ生きていることです。

 どんなに立派な人間になろうとも、どんなに大きな財産を作ろうとも、すべては「この世」に置いていかなければならないことにも気づきました。そうであるならば、何が一番大事なのかと私は考えました。

 「即今!」

く文責:藤森弘司>

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