2016年6月15日 第167回「今月の言葉」
「得失一如」とは何か?
③ー①
<癌とは何か?対策編⑫>

●(1)「得失一如」は「禅語(?)」です。東洋の言葉は、西洋の言葉と違って、こういう表現をよくします。

 「得失一如」とは、簡単に言えば、「得る」ことと「失う」ことは、同時に存在し、得ていると思っているその瞬間に、別のものを失っているという意味に使われます。例えば、右に行けば、同時に左に行けません。上に行けば、その瞬間に下には行けません。

 このように言えば、そんなことは当たり前だと、多分、誰でも思うでしょう。それならば「危機」とはどういう意味だと思われますか?「危機」とは、まさに「危機一如」なんです。それと同じように、「得失一如」という言葉があります。

  とは言いましても、私(藤森)の説明ではかえって分かりにくくなってしまいますので、第44回の「今月の言葉」の一部を下記に再録し、その後、<●(2)平成28年6月3日、週刊ポスト「昼寝するお化け」(曽野綾子)>を紹介した後から本題に入ります。今回は、かなり本気かつ本格的な「今月の言葉」にしたいと思っています。

 <2006年3月15日 第44回「今月の言葉」「危機とは何か?」>の下記の部分を、少々長いですが再録します。

<<<●東洋と西洋の違いに、「一」と「二」があります。
キリスト教的な世界は、絶対的な存在として「神」があり、それに対して「自分」があります。そのために矛盾する二つの存在を別個のものと考えますが、東洋では矛盾と考えずに、同時に包含して考える傾向にあります。

◆例えば、「表・裏」がそうです。表と裏という相矛盾する二つのものがあると西洋では考えますが、東洋では「表裏一如(一緒の如く)」と考えて、別個のもの、二つのものとは考えません。
 「表裏」は、表と裏という二つのものであるという西洋的な考えは、多分、皆さん理解されていることと思います。
 では「裏」のない「表」というものが存在するでしょうか?同様に、「表」のない「裏」が存在するでしょうか?「裏」とは、常に「表」が同時に存在するもので、「不即不離の関係」にあります。両者は同じではもちろんありませんが、しかし、本来の二つのもののように別個に存在するものでもありません。
 〔広辞苑によりますと、不即不離とは、①二つのものが、つきもせず離れもしない関係を保つこと。②<仏>例えば生死(しょうじ)と涅槃(ねはん)のように二つの概念が矛盾しつつ背反しないこと。現象は異なるが本体は同一であること、とあります。〕

◆これから本題に入りますが、私は不勉強で、哲学というものを知りません。多少、哲学的なことがわかるとしたら、それは「禅」の精神を少し学んだ(体験した)ことの応用程度です。
さて、表題についてのすばらしい解説を発見しましたので、まず「危機」についての西洋哲学的な解説を紹介します。

 「月刊・織本 1月号」(医療法人財団・織本病院・清瀬市旭が丘1-261発行)の中の、「医療費削減許すまじ」理事長・名誉院長の織本正慶先生(胸部外科手術の世界的な権威)が書かれたものをご紹介します。
 ・・・略・・・
 ピンチとチャンス・・・ところでピンチ(危機)というものはチャンスを生み出す契機にもなる。それは私が五十年の病院経営の中でじかに体験したもので、何らかのピンチがきた時に、それをチャンスに転ずることがある。ピンチというのは何も経営上のものだけではなく、自分の心の中にもピンチあるいは悩みが生じた時に、それを契機として自己改革というチャンスが訪れる。

 織本病院五十年史の中に書いたが、ある若い結核の女性が何処かの病院で手術を断られて私のところに来たことがある。(四十年前の話)その女性の左肺には結核病巣があり、右の肺には更に大きな空洞があった。
 ともかく右肺の空洞に対して手術をしなければならないが、肺機能(肺の能力)を計ってみると胸郭形成術(肋骨を七本とって空洞を圧迫する手術)をするには呼吸能力が少なすぎる。要するに手術をしなければならないが、手術をするには肺の機能が悪すぎるのである。

 だが手術によって空洞を処理しなければ、この女性は三年以内に必ず死亡するだろう。そうなると従来のように肺機能に大きな影響を与える手術ではなくて、あまり肺機能に影響を与えないで結核空洞を潰すという新しい手術術式を考えねばならない。
 そこで考えたものが「一次的閉鎖の空洞切開術」という新しい手術術式であった。そうしてこの手術によってその人は後年結核から解放されることになる。この一次的閉鎖の空洞切開術という術式は日本胸部外科学会は無論のこと、メキシコで行なわれた国際胸部疾患学会で報告し、更にコペンハーゲンで行なわれた第十二回国際胸部疾患学会では十六ミリの手術映画を上映した。

 結局この「一次的閉鎖の空洞切開術」は私のライフワークになった。
 そんなこともあって私は自分の人生においてもピンチを契機としてチャンスが訪れるという考え方になった。ピンチは外面的にもあるが、内面的な自分の心の中にもあることは既に述べた。その心の悩みをピンチと意識することがチャンスを迎える契機になる。
 最近、透析センターで夕方お茶を飲みながら皆で話をするが、その中で私は自分の心に響く誤りを知ることもあり、それがヒントになって新しく考えることが多い。それは自分にとっては一つのチャンスと考えている。

 又、人との交わりの中でも自分の心の中のピンチを知り、チャンスに転ずることもある。これはピンチを矛盾としてとらえ、その矛盾を契機として一歩高い段階で解決するという意味であり、これはドイツの哲学者ヘーゲルの用語で「止揚」(アウフヘーベン)という言葉に当てはまる。<以上「医療費削減許すまじ」>

「危機」について、ヘーゲルの哲学用語を使っての大変わかりやすい説明で、多分、多くの人たちが、程度の差はあれ、概ねこのような理解・・・「ピンチの後にチャンスあり」と理解していることと思われますが、これは実は西洋的な発想なんです。西洋的な発想の上ではこれは正解ですが、日本語で「危機」と表現した場合、この解釈は違ってきます。
西洋的な発想に対して、東洋では驚くべき展開をみせます。そもそも「危機」という言葉には驚くべき意味が含まれているのです。「表裏一如」と同じ発想で、「危機一如」と言ってもよいかもしれません。
では「危機」とはなんでしょうか。

◆「危機」の「危」は「危険の危」で、まさに「ピンチ」です。
 ところが驚くことに「危機」の「機」は「機会」を意味します。つまり「チャンス」です。
 これは何を意味するかといいますと、「危機」とは、「ピンチ・チャンス(危機一如)であって、「ピンチの後にチャンス」があるのではありません。つまり「ピンチとチャンス」は同時に並存しています。
たびたび述べていることですが、私(藤森)は浅学非才の身ですので、的確にピシャッと納得できるうまい表現ができない欲求不満が毎回あります。今回も、表現に四苦八苦していましたが、二十数年前に読んだ池見先生の著書の中から下記の文章を探し出すことができて、やっと溜飲が下がりました。

「心身セルフ・コントロール法」池見酉次郎(心身医学の創始者で元九大医学部名誉教授・故人)著、主婦の友社刊

 <心身一如の真意>

この学会(藤森注:昭和五十二年の京都の第四回、国際心身医学会、池見先生は大会会長)の冒頭に、当時の理事長であったライサー教授が、「東西の医学の出会いの場としての心身医学」というテーマで講演をし、その結びとして、次のようなことを述べました。

 「心身医学では、心身一体ということが強調されるが、実は、米国の医師たちは、この考えには、抵抗を覚えるというのが本音である。デカルト流の心身二分論は、スピリット(魂)は、体から離れたものであるとする宗教的な伝統と関係しており、これは『不死でありたい』という、われわれのひそかな願望を支持するものである。従って、心身一体の考えに徹することは、不死への望みを断ち切ることになる。東洋の医師たちには、心身一如の考えが、このような意味での脅威にならないとすれば、われわれは東洋の友から多くを学ばねばならない」。

 その直後に、私が、次期理事長として、これに呼応する形での講演をしましたので、その要点を、次に紹介しておきましょう。
 デカルトの「我思う、故に我あり」として、人間の知性のみを重んじ、その情性や肉体をさげすんだ、物心二分・心身二分の哲学をもとに、物質偏重の現代文明が発展したところに、現代の世界的な危機の根っ子があるといえましょう。また、この考えが医学に持ち込まれたところに、今日の人間機械論的な医学の源流があることは、これまでにも述べてきた通りです。

 ライサーは、西欧流の宗教(キリスト教)の立場から、霊魂不滅(体は死んでも魂は生き残る)の考えにしがみつこうとしています。これも、実はキリスト教の教義の真実をはき違えた考えであり、もともとキリスト教でも、人間の心と体を分けて、体は死んでも心は生き残るというようには教えられてはいないはずです。そのような心身二分の考えをキリスト教に持ち込んだのは、デカルト流のギリシャ哲学であり、かつてキリスト教の教義をギリシャ哲学によって解釈した段階で、このような勘違いが起こったといわれています。

 日本人による日本人の哲学として有名な西田哲学では、心身一如という場合、人の心と体の関係は、仏教で説かれるようににして不二、不二にしてとされています。は、有機的に相通う相互媒介的な面を持つと同時に、心と体はそれぞれの働きについても、それぞれに対する研究法についても、はっきりと区別しなければならない相互否定的な側面をも持っているという事実を忘れてはなりません。

 これは、人間の体を構成する諸器官(心臓と肺など)同士についてもいえることです。全人的な医療といっても、方法論としては、相互否定的な方法をも必要とすることをしかと心得たうえで、心と体の相互媒介的な面も考えて診療すべきものです。<以上「心身セルフ・コントロール法」

「危機」はこのような、「二にして不二、不二にして二」の関係です。
私(藤森)自身が長い間、勘違いをしていて、「危機」という言葉が「危険」だけを意味していると思っていましたが、「危険(ピンチ)」と「機会(チャンス)」の両者を包含している言葉だと知ってビックリしたことがあります。

 私たちは「危険」を「いけないもの」、「危ないだけのもの」、「避けるべきもの」だと思いがちです。しかし、私たちの成長していくプロセスは、「危険」だらけです。1~2才で歩くことを覚えれば、「転ぶ危険」が常に付きまといます。道端で転ぶと、ケガをしたり、車に轢かれる危険があります。
 母乳から離乳食を覚えれば、腐ったもの・毒物やビーダマなどを飲み込む危険があります。幼稚園の送り迎えから、一人で小学校に通うようになると、交通事故に遭ったり、池や川に落ちたり、不審人物に遭遇する危険が増大します。

 より良い学校を受験しようと思えば、不合格になる危険が増します。ナイフや包丁を使えるようになれば、ケガをするかもしれないし、喧嘩に使えば、恐ろしいことになりかねません。車の運転免許は交通事故の危険が増大します。
 子供が成長していく過程は危険だらけで、ハラハラ・ドキドキの連続です。もしこれを過干渉・過保護の親が、ナイフを使わせず、木登りをさせず、川や池の近くに行かせないような育て方をしたならば、どのような人間になるかはすでに実験(?)されています。いかに腑抜けの男になるかです。

 私の長男が幼稚園のとき、「親子で製作」の時間がありました。段ボール箱とガムテープを使って、思い思いのものを作ったのですが、そのとき、他のすべての幼児が、ガムテープを手で切れないのには驚きました。ナイフも使えません。少子化で、いかに親が、子供の領域に侵入しているかがよくわかりました。
 確かに、いろいろな「危険」を避けることができるでしょうが、非常に重要である「成長する機会(チャンス)」を妨げてしまいます。その時、その時に必要なことを訓練しておかないと、単に問題の先送りというだけのことではなく、もっとも本質的な「人間性」をダメにしてしまいます(今、社会のいろいろな悪い現象の多く・・・例えばニートや犯罪の低年齢化などは、このことからきていると私は見ています)。

 つまり、常に「危険を冒すことと「成長」するということは、コインの「表裏」の関係にあります。これが「危機」の本来の意味です。
 「虎穴に入らずんば虎児を得ずは、まさに「危機」を表わしているのではないでしょうか。また同様の表現方法に「剣禅一如」「茶禅一味」「心身一如」「煩悩即菩提(ぼんのう・そく・ぼだい)」などがあります。>>>

●(2)平成28年6月3日、週刊ポスト「昼寝するお化け」(曽野綾子)

 <鯉の甘酢かけ>
 少し前に、森健氏の書かれた『小倉昌男 祈りと経営』(小学館)という本を贈られた。
一般人の間で、有名な『クロネコヤマトの宅急便』として定着した宅配便の流通システムは有名だが、それを創った方が小倉氏だということを知っている人はあまり多くはないかもしれない。しかしこの流通のシステムは、まさに現代の日本人の、画期的な生活上の進歩を現実に見せつけたものだった。日本以外で、こんなに便利で信頼のおける物流の方法をもっている国民は、そうそうないだろう。小倉氏のような
 偉大な経営者と、小説家などには、本来この世で接点がないはずだが、私は意外なことに遠くから小倉夫妻に触れていたのである。私が1995年に日本財団の会長に赴任した頃、財団が小倉氏に評議員になって頂こうとしていたことに対して、当時の運輸省が横やりを入れて反対を唱え、それを不服として日本財団が運輸省を相手取って訴訟を起こしていたのを、着任直後だった古賀運輸大臣と直接お会いして、その場で了解を取り、訴訟を取り下げた経緯はすでに他誌に書いたが、私の財団での仕事が、小倉氏に関する全く無駄な訴訟を納めることから始まっていたことも不思議な縁であった。

 財団の評議員になったからといって小倉氏には何のメリットもない。

 無給の奉仕的な仕事である。しかしそれはキリスト教の信仰に裏打ちされた小倉氏と夫人の玲子さんにとっては、それも神から与えられた一つの任務と思って下されたのだろう。実は小倉氏の夫人の望月(旧姓)玲子さんは、私の大学(聖心女子大学)の同級生であった。ただしあまり親しくはなかったが、当時女子大学はスタートしたばかりで、一学年の学生数が百人を切っていた時代だから、玲子さんのことは静かないいお嬢さんだという印象で覚えている。

 様々なことで、コントロールの悪い性格というものは若い娘たちの多くにあるもので、私なども勉強はせず、小説ばかり書いていたアンバランス組の一人であった。私はどちらかと言うと人付き合いの悪いタイプで、玲子さんが結婚されたお相手のことも長いこと知らなかった。初めて有名な小倉昌夫氏の夫人だということを知ったのは、どこであったか(その詳細も忘れてしまった)音楽会が始まる前に通された部屋で、そこにはアサヒビールの社長として「スーパードライ」を大ヒットさせた功労者である樋口廣太郎社長夫妻もおられた。樋口夫人の公子さんも、幼稚園に入って以来17年間の同級生だった。

 この時ほんの一瞬、「いいなあ」という羨ましさが私の胸に走ったことを忘れられない。この二組のご夫婦は、揃って社会的陽の当たる広い道を歩いておられ、しかもお二人共クラシック音楽の深い理解者であり、パトロン的な援助もできる立場だった。それなのに、わが夫は「(乳児の時の中耳炎の後遺症で)僕は片耳が聞こえないから音楽はダメだ」と私と一緒に音楽会に来ることは終生なかった。

 玲子さんは均整の取れたスタイルで、外見はいかにも健康そうに見えたが、森氏の著書によると、五十代で狭心症を患い、ニトロを持ち歩いていらしたという。夫が財界の伝説的名経営者ともなれば、どんなに一見穏やかそうな家庭に見えても、それなりの大きな配慮で心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。

 そしてやがて心配されていた玲子さんの病状は、深刻な事態になった。五十九歳で急逝されたのである。その理由のいくつかを森氏は温かい心と、冷静な作家の眼でつづっているが、私は昔から深く「他者の心のうちはわからない」と思い続けているので、その点について触れるのは避ける。

 ただし玲子さんは、身近な人に六十歳を過ぎたらボランティアをやりたいと言っていらしたというし、夫妻は深い信仰生活をしておられたようである。その恩恵を私は夫妻の死後受けたのだが、その一つは小倉氏が以前から手がけておられた「障害者も働くベーカリー『スワン』」を、日本財団が2001年に新しく移転した赤坂の新社屋ビルの1階に設置したことである。この話は、社屋を買い、中を改装する時から決まっていて、私もほんとうに大賛成だった。障害があっても、健康な人には真似できないほどまじめに働ける美点を残している人は、実は多いのである。

 オープニングの日には、すぐ近くのアメリカ大使館夫人が来てくださることになっていたが、ご主人のベーカー大使も気さくに奥様について来られ、それを聞いた当時の小泉純一郎総理もほとんど予告なしに来られ、温かい出発ができた。今でも、総理官邸の方から坂を降りて来ると、八階建ての国旗のはためくビルにまず「スワン」のサインボードが目立ち、日本財団がスワンビルの借家人のようにさえ見える。障害者にまともな仕事を与えたいと願った小倉氏のアイディアの置き土産である。夫人が亡くなられて、二、三年後のこと、私は日本財団の理事会・評議員会の忘年会の席で、小倉氏をお迎えした。もともと静かで感情をあらわにしない方だったが、私は玲子さんが亡くなられてから初めてゆっくりとお話をする機会を得た。

 「今、お食事を作ってくださる方が毎日いらっしゃいますか?」
 と私は尋ねた。
 「ええ、います。でも日曜日は一人です」
 宴は中華料理屋さんで、その日私は数年ぶりで、鯉の丸揚げに甘酢を掛けた昔風の料理を口にした。丸揚げはもちろんかなり残った。
 店の人が切り分けてくれたので、残りはそんなに食べ散らしたという感じではなかったが、私は小倉氏に尋ねた。

 「ほんとうに失礼かもしれませんが、明後日は日曜日で、家政婦さんがいらっしゃらない日でしたら、これを電子レンジでチンなされば召し上がれますけど、お持ちになりますか?」
天下の小倉氏に、中華料理の伝統だとはいえ、「残りをお持ちになりますか」などと言ったのは、おそらく私一人だろう。しかし小倉氏は「はい、頂いていきます」と謙虚に言われ、小さなお土産の紙袋を下げてお帰りになった。

 私がそんなことができたのは、その場に玲子さんがいらっしゃるように感じ、ほんの一瞬その代わりをした気になったからだった。
 小倉氏は寛容、謙虚、自然、そして物事の関係を端正に正す方だった。どれも、現世で芳香を放つ強力な力を持つなのである。

●(3)<<<私は昔から深く「他者の心のうちはわからない」と思い続けている>>>とあります。

 他者のわからない心については、私たちは「謙虚」であるべきです。「軽薄」「無責任」で他者の心をいい加減に詮索すべきではなく、「他者の心」については慎重の上にも慎重であるべきです。

 その上で・・・・・ところがです。

 ところが、多種多様な理論や技法を活用すると驚くほど「分かる」・・・・・一般の方が驚くほど「分かる」ということがあるのも、これまた事実です。
「権威」
がある「立派」な専門家は、ご自分の主義主張から外れたり、ご自分の主義主張に傷がつきそうに思われると、それがどんなに正しそうに思えても「否定」したり、「無視」したりする強い傾向があります。これについては、歴史の天才・井沢元彦氏の「逆説の日本史」(週刊ポストに長期連載中)を読めば、権威がある立派な専門家がいかにナンセンスであるかがよく分かります<私・藤森の資料「癌とは何か?」のp55 「井沢元彦(作家)VS梅原猛(哲学者) ・ 日本人の心に生き続ける〝怨霊史観”を読み解け!」(週刊ポスト、平成26年9月19・26日号)ご参照>。

 しかし、多くの人は、一般に言われる「権威」がある「立派」な方の意見や学説を(当然ながら)信頼する上に、「権威」がある専門家は政府の各種の委員になったりするので、さらに「権威化」され、「一般化」されます。特に、心理・精神世界は見えない分野だけに、その傾向はさらに強くなります。
(NHKテレビで発達障害の対応法を放映していました。「発達障害」の原因も分からず、アメリカで研修を受けてきたという若手の女性が指導していましたが、ほとんどに芸を教える程度のレベルには驚きます。実は、発達障害は、最も根っこが深い問題にもかかわらず、驚くほど表面的なハウツーレベルで対応する恐ろしさ、無神経さには驚きます。人間は、犬や猿の芸を仕込むのとは違いますよと言いたいです。NHKはこういう安直な番組が多く、時々、視聴者からクレームのファクスが入り、紹介することもあるほどです)。

 さて、「よく分からない他者の心」については謙虚に対応すべきであるという大前提の上で、ありとあらゆる理論や技法(東洋医学の諸理論・諸技法、心身医学の諸理論、心理学の諸理論・諸技法)、宗教(特に、禅宗)などを謙虚な姿勢で利用・活用してみると、驚くほど分かることもあるという「謙虚」さも、これまた必要です。

 一つ一つの「症状」や「現状・状況」について、どの理論を活用するかという心理・精神世界の「職人」(大工さんが、いろいろな道具を使いこなすのと同様)は、私(藤森)の知る限り、ほとんどゼロに近い状況であるということを、まず認識していただきたいものです。

 卓越した権威ある専門家ほど、ご自分の狭い領域を守ることに必死・・・・・ご自分の領域を深く掘り下げることに生涯をかけているために、ご自分の領域を外れると多くの場合「無案内(?)」であるために、他者や他領域の素晴らしい理論・技法を「融合」させて、ご自分の「学説」を少しでも良くしようとするのではなく、「無視」したり、「排除」したりするように見受けられます。

 そのために、いろいろ有用な考え・理論を「融合」させて、ご自分の「学説」を少しでもグレードアップさせようとしない不思議さ・・・・・何もかも、自分の領域の理論だけで説明しようとしたり、自分の領域で説明できないときは、「難病」扱いにしたりするような滑稽なことが多く、例えば、「東洋医学」ならば簡単に理解できるのになあなどといつも不思議な感覚を味わっています。

 そういう点で、私(藤森)は「知性・教養」が低いために、守るべきものが無い、失うものが無いという「幸運」に恵まれました。そのために、「自己成長」に必要なもの、役に立つと思われるものを活用することにプライドという障壁が無いために、活用できる「理論・技法」は可能な限り活用して、私自身の「人間性」や「技量」が少しでも上がるように努めています。

 プライドが無く、活用できるものはなんでも利用しようとする珍しい人間(自称・心理学の職人)である私が、今回の「昼寝するお化け」の故・小倉玲子氏の病名を見てみますと、「心身医学」の理論を活用することが一番妥当だと思いました。少なくともベテランの心身医学者・心療内科医が小倉玲子氏の病名を知れば、「タイプA(Aタイプ)」だと診断するはずです。

 では、「タイプA(Aタイプ)」とは、一体全体、何を意味するのでしょうか・・・・・実は、驚愕の結果が出てくるのです。そして、その結果こそが、今回のテーマ「得失一如」に取り上げたかったことです。このタイプAについての衝撃の診断については、下記の(9)でご紹介します。
いきなり結果だけを読んでも、一般の方には理解が難しいものと思われますので、「Aタイプ」の驚きの結論が少しでも理解し易くなるように、いろいろ参考になることをこれから紹介していきたいと思います。

 ただし、私は、申し上げるまでもなく、小倉氏ご夫妻や曽野綾子先生に対する悪意は一切ありません。むしろ、曽野先生は尊敬(私淑)していますし、小倉氏ご夫妻の業績は、私のように業績の無い人間と比べて千倍万倍素晴らしいもので、心から称賛させていただきたいと思っています。

 しかし、事実は事実です。まさに事実は小説よりも奇なりです。

 最近、バーチャルリアリティーという言葉がよく使われますが、まさに私たちは(私流に言えば)バーチャルリアリティー(仮想現実)な世界に生きていると言っても過言ではありません。
 説明下手な私の独断と偏見で言わせていただければ、私たちが「現実」だと思っているいろいろな「諸相」は、多くの場合、「錯覚」であったり、わずかな「一断面」である可能性が高く、これらの「諸相」から、より「リアリティー」ある「実相」を感覚したり、認識できる人間性・・・・・「禅」的に言えば、可能な限り「無」に近い「心境」で物事に向き合える人間性を養うことが、人生を生きる上できわめて重要なことだと私は思っています(私の力量を超えている難しい説明になっていますので、半分程度ご理解いただければ幸いです)。

 簡単に言えば、私たちが見ている物事(ここでは主として対人関係)・・・・・表面に現われ、見たり感覚できるものは主として「バーチャル」なもので、バーチャル的とは「投影」という言葉に置き換えられるかもしれません。表面に現われているものは「投影(バーチャル)」である可能性が高く、投影されたものをもとに、「深層心理」に隠されている「本音」を探索することが「リアリティー」だと言えるのではないでしょうか(「バーチャルリアリティー」という言葉を使っての仮説とお考えください)。

 先ほどの「発達障害」に例えますと、表面に現れている「障害」は「バーチャル」な問題で、本質的な問題を「投影(バーチャル)」していますので、投影された「発達障害」というものを直(治)そうとすることは、本来は間違っています。投影された発達障害をもとに、いかにして深層心理に潜んでいる本質的な問題(リアリティー)を探るかが重要です。<「今月の言葉」第62回「瞑眩(めんげん)、治癒反応、自己成長反応」 ・ 第63回「病気と自己成長反応」をご参照ください」>

 下手な説明は、ご覧になっていらっしゃる方々の想像力で補足していただければ幸いです。ここで言いたいことは、それなりの情報(バーチャル)があれば、かなりのことが「分かる」(リアリティー)ということです。

 私たちはそれ相当の訓練をしないと、自分の中に潜む「抑圧した人間性(本音)」はなかなか分かりません。その最たるものが「病気」です。その病気(慢性病)は、私たちの「深層心理」が「発症」させているのにもかかわらず、「抑圧した人間性(本音)」が分からないが故に、多くの場合、医者に診てもらっています。

 ですから、心理の専門家は、クライエントの方が分かっていないその方の「深層心理」を読み解いて、それをクライエントの方にフィードバックしながら、それをいかにして、より良く、より深く理解していただくか、これがすべてと言っても差し支えありません。もちろん、そのプロセスは膨大であり、いろいろ複雑な経過をたどりますが、一言で言えば、そういうことになります。

 そのためには、深く「他者の心のうち」がわからなければなりません。分からなければ、何をご指導申し上げるのか、です。ご本人が全く想像もしていなかった驚くべき事実・・・・・その方の無意識に潜んでいる驚くべき「深層心理」をしっかり認識していただき、「意識」されているご自分と「深層心理」を如何にして「融合」し、「統合」していくか、これが心理を専門にする人間の最大の「課題」です。

 今更、分かり切った道徳的なことや、病気を避けるための方法論を説いても意味がありません。そんなことは、多分、ほとんどの人が分かりすぎるほど分かっていることであるはずだからです・・・・・麻薬はいけない、ギャンブルをやりすぎるといけない、アルコールを飲み過ぎるといけない、食べ過ぎはいけない、栄養のバランスが大事だ、運動不足はいけない、家族には優しく接するべきだ、安全運転を心がけること、勉強しなさい、イジメはいけない、睡眠は大事だ、働き過ぎはいけない、ウソはいけないetc.・・・・・こういうことを知らない人は、多分、一人もいないでしょう。

 人生をうまく生きるための「あれやこれや」が分かりすぎるほど分かっているにもかかわらず、何故、私たちは、人生をうまく生きられないのでしょうか?
 その理由は、私たちは、皆、無意識界に潜む深層心理に操られているからです。そうでなければ、どうして「知性」も「教養」も抜群に高い人たち(東大の法学部を首席で卒業したらしい舛添知事等々)が、驚くほどバカバカしいことをやるのでしょうか?!(辞意を表明したようですが)。

 抑圧した無意識界には、表面に現れている人間性とほぼ真逆の人間性が潜んでいて、それを私たちは、必死で防衛(国境を軍隊が防衛するように)しているために、やがて防衛に疲弊して発症するのが「病気」です。それが「病気(慢性病)」という形に現われるのか、イジメや乱暴な運転、非行などの「行動面」に現われるのか、ウツや情緒不安などの「精神面」に現われるのか・・・・・の違いがあるだけで、全ては、無意識界を防衛するためのエネルギーが枯渇し、「疲弊」することで「症状化」します(私・藤森の資料「癌とは何か?」のp15 「ストレスが溢れて惹起する3症状」ご参照)

 そういうバカバカしいことを避けるにはどうしたら良いのでしょうか?それはあらゆる方法を駆使(他人の指導を含む)して、自分自身を「よく識る(深く分かる)ことです(「識る」ことについては、後日、私の尊敬する先生の卓越したものをご紹介します)。

 いわゆる「頭が良い」と言われる人とは、一体、どういう人のことでしょうか?それは、物事をたくさん知っている人のことで、下記の①です。「よく識る(深く分かる)こととは全然違います。たくさん暗記をした、クイズに強いなどのレベル、それは単なる「情報」であって、情報ならばコンピューターのほうがはるかに優れています。舛添知事のように頭が抜群に良いひとは、多分、①の段階が多いのでしょう。

①の段階の情報を「よく識る(深く分かる)」ことが②です。よく識る(深く分かる)」ことができた方が、舛添知事のようなことをするでしょうか.
まず恥ずかしくなるはずです。
そして、よく識る(深く分かる)」ことができれば、それを行動に移したくなるはずです。そして、十分に行動するならば、そのような「人格」になっていくのではないでしょうか(未経験な私が、見てきたような講釈・・・・・を言うのはおかしな話ですが)(最近の映画「殿、利息でござる!」を、是非、ご覧ください。百聞は一見に如かずです)。

①Learning  →  ②Understanding  →  ③Doing  →  ④Being

 私(藤森)の実体験を述べます。
私は若いとき、かなりひどい愚かな人生を生きていました。今でもかなり愚かですが、特に若いときは、振り返るのも辛くなるほど愚かな人生を生きていました。
しかし、今は、それがいかに愚かであったかがよく分かりました。つまり、に達しました。②に達すれば、少しでも、そんな愚かな生き方を止めたくなります。つまり、③「Doing」、少しでもまともな人生を生きたいと必死で行動したくなります。

 しかし、しかし、です。長年の悪いクセというものは、残念ながら、簡単には修正されません。特に私のように重症な愚か者は、さらに長い期間が必要です。
しかし、②の愚か者であることは十分過ぎるほど理解できましたので、少しでも、愚かな世界から脱したいと思い、③愚かである「己と日々」取り組んでいます。日々、取り組むことで、百に一つくらいは、それらしくなっている部分④もあるのかなと、時には自分を褒めてあげたくなります。

●(4)さて、天は二物、いや三物、四物を与えるのだろうか?

<<<玲子さんは均整の取れたスタイルで、外見はいかにも健康そうに見えたが、森氏の著書によると、五十代で狭心症を患い、ニトロを持ち歩いていらしたという。夫が財界の伝説的名経営者ともなれば、どんなに一見穏やかそうな家庭に見えても、それなりの大きな配慮で心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。そしてやがて心配されていた玲子さんの病状は、深刻な事態になった。五十九歳で急逝されたのである。>>>

 この中の<<<夫が財界の伝説的名経営者ともなれば、どんなに一見穏やかそうな家庭に見えても、それなりの大きな配慮で心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。>>>の部分。

 恐らく、ほとんどの人が(多分)こういう考え方に納得されることと思われます。しかし、本当にそうだろうか?というのが本題で、これを徹底解剖することは極めて貴重なケースになると思われます。「他人の心は分からないのか?」、それとも適切な情報さえあれば「十分に分かるのか?」・・・・・今回は、本気で、徹底的に解剖させていただきます。

 私たちは、現状に影響されて行動しているように思われていますが、実は、深層心理に操られているのです。何故、伝説的名経営者という素晴らしい方が、ニトロを持ち歩くほど大変な状況にいらっしゃる奥様が、死ぬまで追い詰められるような状況を放置するのでしょうか?
また、何故、知性も教養もある「敬虔なクリスチャン」で、お金も溢れるほどお持ちであろう「名経営者」やその奥様が、このようなバカバカしいことで、死に突進するかのような生き方をするのでしょうか?

 私たちは、このような状況だからこうなったと思いがちですが、実は違うのです。
東北大震災のような過酷な状況に遭遇しても逞しく前向きに生きる人もいれば、私(藤森)のようにへこたれてしまい、生きる気力を無くしてしまう弱い人間もいます。
これを「交流分析」で説明すると・・・・・例えば、交通事故があったとします。

(1)「ウワー!怖い!すごい事故だな!大変だ!」と感情が溢れる方・・・これを「C」(child)的と言います。
(2)「一体、何キロくらい出していたんだろうか?酒酔い運転だったのかもしれないな」などと、冷静に分析する方・・・これを「A」(adult)的と言います。
(3)「今の若い者は運転が乱暴でいかんな。ドライバー教育をしっかりやるべきだ」などと批判的な方・・・これを「P」(parent)的と言います。

 同じ事故を見たにもかかわらず、何故、反応が違うのか。それは無意識にあるその人の人間性が違うからです。
 私たちは、目の前の現象から、当然の反応をしていると思っていますが、実は、ある一つの現象から刺激を受けて、無意識に潜む深層心理が反応しているのです。

 ということは、 <<<夫が財界の伝説的名経営者ともなれば、どんなに一見穏やかそうな家庭に見えても、それなりの大きな配慮で心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。>>>と、このように対応する人もいるでしょうが、そうでない対応をする人もいるのです。

 もし玲子氏と同じような対応をしたとしても、ニトロを服用するほど体調が悪くなったならば、奥様ご自身が、あるいはご主人が十分に静養させる・・・・・経済的に豊かな方ですので、長い間のご苦労を十分に労い、2、3人の家政婦さんを雇い、家を任せて、保養所で長期間、ゆっくり静養させることもできるはずです。
それにもかかわらず、何故、若死にするほど、<<<心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう>>>などというバカバカしい状況を放置した、あるいは、放置させていたのでしょうか。名経営者もあろうお方が???

 我が家のように、経済的に許せないし、私が愚かでしたので、妻に無理をさせるということはありますが、経済力は十分にあり、伝説的名経営者で包容力は十分にあるの高い方で、ボランティア活動にも十分な理解がある小倉氏ご夫妻が、何故、このようなバカバカしいことを起こしてしまうのでしょうか。
それは、目の前の現象は、単なる一つの刺激(上記の自動車事故)であって、その刺激にどのように反応するかは、その人の「深層心理」がどのようであるかを「如実」に物語ってます。

 ですから、訓練された専門家であれば、「症状」「深層心理」を、まるでを見るがごとくに分かるのです。それなりの専門家であれば、分からなければいけないのです。そして、それは、本人も全く気付いていない驚愕の事実・・・・・受け入れ難い事実ではありますが、ご本人に理解し、納得していただく必要があるのです。受け入れ難い事実を受け入れていただくことは困難を極めることではありますが、それを受け入れていただくようにご指導申し上げることこそが心理を専門にする人間の最大の仕事です(もちろん、そのプロセスは膨大であり、いろいろ複雑な経過をたどりますが、一言で言えば、そういうことになります)。

 そして今回のテーマ「得失一如」の典型的な例が小倉氏ご夫妻なのです。

<<<夫が財界の伝説的名経営者ともなれば、どんなに一見穏やかそうな家庭に見えても、それなりの大きな配慮で心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。>>>

 とは限らない典型的なケースをこれからご紹介します。

●(5)平成28年5月13日、日刊ゲンダイ元秘書が語る 素顔の田中角栄」(朝賀昭・あさかあきら・・・1943年、東京都港区生まれ。中央大学法学部卒業し、田中角栄の秘書となる。現在は政務調査会の代表を務める)

 <前半のこの部分は、後で紹介します>

 <女房は表に出すもんじゃない

 自宅の奥さまは政治家が訪問しても挨拶に出てこないし、正月にも少し顔を出す程度。お酌なんてとてもとても・・・・・。オヤジさんは「女房は表に出すもんじゃない。だから家内と言うんだ」と冗談を言ってましたが、女房は家を守っているんだという気持ちが強かったようです。

 だから選挙運動に家族を駆り出したことは一度もない。当時としては珍しいですよ。特に選挙に弱い代議士なら奥さんにも戸別訪問させるのが当たり前で、選挙区を奥さんと分ければ2倍回れるというのが常識の時代でしたから。オヤジさんは娘の真紀子さんも外遊には連れて行ったけど、選挙は手伝わせなかった。僕の記憶する限り、事務所に連れてきたことも一度もなかったと思う。

 オヤジさんの演説にはこんなものもあった。
「戦後、都会には裸足で登校する子供はいないが、農村漁村には裸足の子供は少なくないのであります。都会で子供を働かせれば児童福祉法違反となるが、農村漁村の子供は学校から帰ると今も仕事に追われています」

 だから列島改造が必要なんだと続くのだが、演説の主人公はまさに角栄少年そのものでした。オヤジさんは上から目線ではなく、常に政治家として下から目線でした。

●(6)平成28年1月27日、日刊ゲンダイ「連載②父 角栄をおもえば」(田中京・51年、東京生まれ。父は田中角栄、母は辻和子。日大在学中から音楽評論を始め、卒業後、CBSソニーに入社。現在、音楽評論家、料理研究家として活躍中。著書に「絆 父・田中角栄の熱い手」扶桑社がある)

 このところ、中国でのPM2・5による大気汚染の日本への影響が何度も報道されています。しかし、日本がそうだったように中国もいずれ克服するに違いありません。
 60年代の高度成長時代の我が国の環境破壊は、すさまじいものでした。東京を流れる河川は工場が垂れ流す汚染水にまみれて赤、青、黒の毒々しい色に染まり、別名「レインボーリバー」と呼ばれていました。

 自動車の排ガスや工場の煤煙で、光化学スモッグが発生、校庭で運動していた生徒たちがバタバタと倒れるという健康被害も頻繁に起きました。東京湾に造られた人工のゴミ捨て場「夢の島」には大量のハエが発生。近隣住民を襲い、生徒たちはハエ叩きを持って登校するありさまとなり、消防と自衛隊が出動して、火炎放射器で夢の島のハエを退治するという騒動まで起きました。

 こうした経緯を踏まえて、中国の深刻な環境汚染に日本が役に立てることはいくらでもあるのに、日中の政府間対立には隔靴掻痒の感を否めません。
 本来ならば父とともに訪中し、父が築いた中国との人脈を継承している姉、田中真紀子がその役割を担えるはずなのに、ご覧のとおりの状態になっています。

 姉と私は、同じ「田中」の姓を名乗ってはいますが、現在は交流がありません。父が亡くなった翌日の1993年12月17日の午後、私は冬の冷たい雨が降る中を、前日から泣き崩れて床に伏せてたままの母を家に残し、妻と17歳と14歳の2人の娘を連れ、目白の家の門前に立ちました。
しかし、出て来た若い男性秘書に「会わせるわけにはいきません」と拒まれました。

 <死去の際は門前払い 騒いだら父の顔に泥を塗る

 いくら頼んでも、姉から厳しく申し付けられていたのでしょうか、「絶対に駄目です」と、かたくなでした。子供たちは、花屋が葬儀用の花を持って門の中に入って行くのを見て、「あの花屋に変装してでも、最後におじいちゃんに会いたい」と泣きじゃくりました。

 私は田中角栄の実子として正式に籍を与えられている立場です。亡き父の遺体を見届ける権利があります。姉はそんな私たちを門前払いして、父と孫娘が会する最後の機会を永遠に葬ったのです。周囲には300人を超える大勢の報道陣が詰めかけていました。「ここで騒いだら父の顔に泥を塗ることになる」とその場を去り、心の中で父と姉に永遠に別れを告げたのです。

 昨年の春、BS朝日から、「父・田中角栄を振り返る」という番組企画への出演依頼がありました。ロッキード事件、金脈、派閥といった腐敗の面からしか伝えられてこなかった「政治家・田中角栄」に、新しい視点からスポットライトを当てたいとの担当プロデューサーの熱意にほだされ、出演を承諾しました。

 ところが、収録予定の前日に担当プロデューサーからなぜか断りの連絡が入りました。父「角栄像」の世間の誤解を息子の私がただす機会が失われたことを心底、腹立たしく感じました。

 私はこれまで「別腹の子」として沈黙を守り続けてきました。人といさかいを起こし、泉下の父を悲しませたくないとの気持ちがありました。しかし、かくなる上はこれ以上、周囲のことは忖度する必要はないと腹をくくったのです。そして、ここに声を上げる覚悟をしたのです。<藤森注・連載は⑮回まで続きます>

●(7)元秘書が語る 素顔の田中角栄」(朝賀昭)

 <先ほど省略したこの部分を下記に紹介します>

 「遠慮なく大臣室に来てください。できることはやる。できないことはやらない。しかし、すべての責任はこの田中角栄が背負う!」
この大蔵大臣就任演説を、当時、学生ながら秘書のようなことをしていた僕は実際に目撃しています。鳥肌が立ったものです。

 オヤジさんは演説の達人でした。秘書たちが「この会はこれこれこういう趣旨で・・・」と伝えると、「よし、わかった」と言ってぶっつけ本番で演説を始める。しかも、実体験に基づく演説ですからいつも面白かったし、心に響くんです。

 今でも思い出すのが、ある結婚式のこんなスピーチでした。
 「上野駅から夜汽車が出る。初老の男女が座っていて、カタコト揺られながら列車に身を任せているうち、軽い寝息を立てていた。エヘンと男性がせきばらいをした。すると女性は目も開けずに袂からちり紙を出し、男性にそっと渡した。男性は痰を取って再び女性に戻そうとすると、女性はまた目を開けずに何もなかったように受け取って自分の袂に入れた。これが夫婦というものだ。いつかあなたたちもそういう夫婦になりなさい」

 そして≪幾億の 星の中なる 夫婦星≫と朗々とうたいだしたものです。
 オヤジさんがどういう場面をイメージしたかはわかりません。奥様は表にはあまり出なかったのですが、確かなのはオヤジさんは「うちの細君は偉いよ」といつも言っていたこと。そんなに偉く思っているのなら外に女をつくらなきゃいいのにと思ったものですが、むしろ女性の方をとりこにしちゃうんだから恋多き男なんでしょう。辻和子さんとか数々あったし、料理屋の女性などにも非常にモテた。オヤジさんはどんなに酔っても他人の陰口と下ネタは一切言わなかった人ですから、女性の方から寄ってくるんです。

●(8)人生とは実に不思議です。

 ありとあらゆる理論や技法を活用して、人間の深層心理を掘り下げることを職業としている私(藤森)としては、お一人お一人、どの方の場合も全てのケースが不思議としか言いようがありません。たくさんの方々をお世話させていただいていても、毎回、不思議としか言いようがない気持ちになっていますので、初めて深層心理に触れる個人、個人の方々は、さらに理解し難い気持ちになるのは、当然過ぎるほど当然のことです。

<<<小倉氏は寛容、謙虚、自然、そして物事の関係を端正に正す方だった。どれも、現世で芳香を放つ強力な力を持つなのである。>>>

<<<財団の評議員になったからといって小倉氏には何のメリットもない。無給の奉仕的な仕事である。しかしそれはキリスト教の信仰に裏打ちされた小倉氏と夫人の玲子さんにとっては、それも神から与えられた一つの任務と思って下されたのだろう。>>>

<<<・・・ただし玲子さんは、身近な人に六十歳を過ぎたらボランティアをやりたいと言っていらしたというし、夫妻は深い信仰生活をしておられたようである。
その恩恵を私は夫妻の死後受けたのだが、その一つは小倉氏が以前から手がけておられた「障害者も働くベーカリー『スワン』」を、日本財団が2001年に新しく移転した赤坂の新社屋ビルの1階に設置したことである。>>>

 こういう人徳がある方の奥様が・・・・・
<<<五十代で狭心症を患い、ニトロを持ち歩いていらしたという・・・・・心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。そしてやがて心配されていた玲子さんの病状は、深刻な事態になった。五十九歳で急逝されたのである>>>

 <藤森注・・・ニトログリセリン(nitroglycerine)・・・分子式C3H5(NO3)3 三硝酸グリセリンの慣用名。グリセリンと硝酸および硫酸の混合物との反応により生じる三硝酸エステル。無色油状の液体で強力な爆発物。ダイナマイトの原料。血管拡張作用があるので狭心症の特効薬に用いる(電子辞書・広辞苑)>

そして、<<<<女房は表に出すもんじゃない
自宅の奥さまは政治家が訪問しても挨拶に出てこないし、正月にも少し顔を出す程度。お酌なんてとてもとても・・・・・。オヤジさんは「女房は表に出すもんじゃない。だから家内と言うんだ」と冗談を言ってましたが、女房は家を守っているんだという気持ちが強かったようです。

 だから選挙運動に家族を駆り出したことは一度もない。当時としては珍しいですよ。・・・オヤジさんは娘の真紀子さんも外遊には連れて行ったけど、選挙は手伝わせなかった。僕の記憶する限り、事務所に連れてきたことも一度もなかったと思う。>>>

 このように家族を大切にされた方が・・・・・
<<<姉と私は、同じ「田中」の姓を名乗ってはいますが、現在は交流がありません。父が亡くなった翌日の1993年12月17日の午後、私は冬の冷たい雨が降る中を、前日から泣き崩れて床に伏せてたままの母を家に残し、妻と17歳と14歳の2人の娘を連れ、目白の家の門前に立ちました。
しかし、出て来た若い男性秘書に「会わせるわけにはいきません」と拒まれました。

 私は田中角栄の実子として正式に籍を与えられている立場です。亡き父の遺体を見届ける権利があります。姉はそんな私たちを門前払いして、父と孫娘が会する最後の機会を永遠に葬ったのです。周囲には300人を超える大勢の報道陣が詰めかけていました。「ここで騒いだら父の顔に泥を塗ることになる」とその場を去り、心の中で父と姉に永遠に別れを告げたのです。

 私はこれまで「別腹の子」として沈黙を守り続けてきました。人といさかいを起こし、泉下の父を悲しませたくないとの気持ちがありました。しかし、かくなる上はこれ以上、周囲のことは忖度する必要はないと腹をくくったのです。>>>

 こういう典型的な2つのケースをどのように説明したら良いのでしょうか?

 田中角栄元首相と小倉昌夫氏・・・・・両者共に巨大な業績をあげていらっしゃるけれども、上記の内容を読む限りは、かなり対照的な人格、奥様に対する対応は真逆と言えるのではないでしょうか?・・・・・しかし、巨大な業績を除けば、ありふれたごく普通の「こじれた夫婦」の姿です。私(藤森)から見れば、巨大な業績に美化されているだけで、世間によくある普通の夫婦関係のようにしか思えません。もちろん、巨大な業績は、高く評価されるものであることは当然のことです。

<<<小倉氏は寛容、謙虚、自然、そして物事の関係を端正に正す方だった。どれも、現世で芳香を放つ強力な力を持つなのである。>>>という方の奥様がニトロを服用し、若死にしていらっしゃる。

 一方、<<<自宅の奥さまは政治家が訪問しても挨拶に出てこないし、正月にも少しを出す程度。お酌なんてとてもとても・・・・・。オヤジさんは「女房は表に出すもんじゃない。だから家内と言うんだ」と冗談を言ってましたが、女房は家を守っているんだという気持ちが強かったようです。だから選挙運動に家族を駆り出したことは一度もない。当時としては珍しいですよ。>>>という方が「別腹の子」を設けて大きな問題を起こす。

 いかに「黄金の業績というものと、「本質的な人間性が「かい離」している、あるいは、「真逆」であるかということがこれほど分かりやすい例は他にはなかなか無いでしょう。こういう事例が「標本」にできれば、心理関係の専門家はいい加減な解説や誤魔化しはできないはずです。

 多くの場合、大きな業績があると、その業績に目が行ってしまって、その人の裸の「人間像」が、しばしば、見落とされてしまいます。オリンピックでメダルを獲得したり、ノーベル賞を受賞したり、芥川賞などを受賞したり、文豪(夏目漱石、芥川龍之介、太宰治、有島武郎、宮沢賢治、島崎藤村、谷崎潤一郎、川端康成・・・後日、解説します)などと言われるような大作家がいかにハチャメチャな人間性であったか。
さらには、文化勲章や科学などのいろいろな賞を受賞したり、ミスター○○などと称賛されると、そういう際立った面だけがクローズアップされて、その方の背後に存在する人間的な「本質」が忘れがちになったり、おかしな部分が「美化」されたりします。

 しかし、いかなる高級な賞を受賞しようが、いかなる巨大な業績を上げようとも、その人の本来の人間性は全く変わりません・・・・・というよりも、そういう巨大な業績を上げる人ほど、残念ながら、本質的な人間性を歪めている可能性が高いものです(大相撲の横綱は、還暦の60歳を迎えると、赤いフンドシを締めて土俵入りすることになっていますが、還暦まで生存する横綱のほうが少ないそうです)。

 本質的な人間性を高めるためには、本質的な人間性に取り組む(つまり、己の愚かさと真剣に取り組む)という極めて珍しいというか、貴重なごく少数の類稀な方以外にはあり得ません。そういう意味で、曽野綾子先生は、私が尊敬(私淑)したくなる貴重な方で、もの凄いトンネルをくぐり抜けてご自分を鍛えて来られた方であろうと思っています。

 さて、最後に・・・・・
<<<小倉氏は寛容、謙虚、自然、そして物事の関係を端正に正す方だった。どれも、現世で芳香を放つ強力な力を持つなのである。>>>

 こういう徳のある方だった小倉氏の奥様の「狭心症」とは一体全体、何だったのか、大変残酷な気持になりますが、しかし、事実は事実として、日本の心身医学会が総力をあげてまとめた「定義」をご紹介します・・・・・くれぐれも、悪意も敵意も恨みも何もありません。単に、人間の本質を追及したくなる私の職業病から、記述しています。

●(9)「心身医学用語事典」(編集・社団法人 日本心身医学会 用語委員会、医学書院)

 <虚血性心疾患>p52
冠動脈病変(動脈硬化、閉塞、血栓形成、攣縮など)による心筋虚血に基づく心疾患を虚血性心疾患と総称し、狭心症・心筋梗塞・心筋虚血由来の急死・心不全・不整脈などがこれに含まれる。
このうち狭心症は一過性に起こる心筋虚血に基づいて起こる胸痛(胸部不快感)発作で、診断上は胸痛時に虚血性ST変化の起こることを確認することが肝要である。しかし一般には運動負荷(トレッドミルなど)試験やホルター心電図などで虚血性変化発生の再現や冠動脈造影による病変の確認、RI検査による虚血巣の検出などにより診断される。なお近年注目されている自覚症のない無痛性虚血性心疾患も治療の対象とされるようになってきた。

 <タイプA型行動パターン>p149
A型行動パターンともよばれる。1959年、フリードマンらにより、虚血性心疾患親和性行動パターンとして提唱された。時間切迫感、焦燥感を伴う敏速な行動、熱中的精力的傾向、他者に対する敵意攻撃性などを特性とする複合的な概念であるが、のちに欧米では敵意、攻撃性のみが虚血性心疾患と関連するとして強調されるようになった。
日本では敵意、攻撃性などの表出に乏しく仕事中毒的傾向の著しいいわゆる日本的タイプA行動パターンの存在が注目されており、また広くストレス関連疾患の心理社会的要因をみる1つの視点としてタイプA行動パターンを評価しようという見解も出されている。

<<<小倉氏は寛容、謙虚、自然、そして物事の関係を端正に正す方だった。どれも、現世で芳香を放つ強力な力を持つなのである。>>>
<<<夫が財界の伝説的名経営者ともなれば、どんなに一見穏やかそうな家庭に見えても、それなりの大きな配慮で心の休まる時もなかったのだろう。家族のこと、食事の配慮、親戚づきあいなど、気を配らねばならないこともさぞかし多かったろう、と思う。>>>

 <<<<女房は表に出すもんじゃない
自宅の奥さまは政治家が訪問しても挨拶に出てこないし、正月にも少し顔を出す程度。お酌なんてとてもとても・・・・・。オヤジさんは「女房は表に出すもんじゃない。だから家内と言うんだ」と冗談を言ってましたが、女房は家を守っているんだという気持ちが強かったようです。>>>

●(10)<「今月の映画」第165回「スポットライト・世紀のスクープ②ー①」>の最後の下記の部分を転載します。

 <<<(7)さて、結論です。

 神父は「パーソナリティー(人格)」に相当し、神父の児童への性的虐待の行為が「サブパーソナリティー(副人格)」に相当すると考えます。そして、司教とか大司教、もちろん、教皇などが「ハイヤー・セルフ」に相当すると考えます。

 敢えて汚い言葉を使えば、ろくでもない存在を「ハイヤー・セルフ」に持ってくると、幾つもの教会が破産するほどの大問題になってしまいます。
 最近の三菱自動車やフォルクスワーゲン、東芝、パイオニア、エアーバックのタカタ等々の不祥事で、トップ、つまり、ハイヤー・セルフに相当する存在(社長や会長など)の良し悪しが決定的な問題になりかねません。

 さて、私たち個人に当て嵌めて考えてみますと、私たち個人が避けたい問題・・・人生の大きな課題や性格上の大きな課題、家庭内の気になる問題などに対して、目をつぶったり避けたりせず、いかに本気で立ち向かうか、これに尽きます。

 大きな問題が背後に潜んでいるらしいことをうすうす分かっていながら(「パーソナリティー(人格)」)、私たちは、ついつい放置してしまう弱さ(「サブパーソナリティー(副人格)」)がありますが、放置して、気が付いたら「手遅れ」・・・となることが世の中に溢れています。

 心理学では「倒れた後に止む」、つまり、手遅れを意味する言葉があります。
ローマ教皇さえもが手遅れにしてしまった(つまり、「サブパーソナリティー(副人格)」を優先させてしまった)のですから、キリスト教(「ハイヤー・セルフ」)も大したことがありませんね。キリスト教だけでなく、仏教などの宗教も哲学も、心理学も医学も文学も何もかも、学問という「知的理解」を深めているだけ・・・・・ということが多すぎます。

 「自己成長」に関してはDoing(「サブパーソナリティー(副人格)」)に取り組まない限り、達成できません。

 この段階で何度も何度も血の滲むような練習を繰り返し、そしてBeing(「ハイヤー・セルフ」)、自分が目指す人間性に少しでも近づけるように、自己の未熟性(「サブパーソナリティー(副人格)」)を自覚・反省ができる真摯な態度を維持・継続することがいかに重要であるか。
と同時に、それがいかに難しいことか、人間の意志がいかに弱いか・・・・・天下のローマ教皇でさえ隠蔽に加担していたという驚愕の、しかし、案外、普遍的な問題点が炙り出されました・・・・・。

 ぶっちゃけた言い方をすると、天下第一級のローマ教皇でさえ、少々の訓練はしたかもしれませんが、しかし、「知的理解」を深めた人間性が中心だったことが証明されてしまいました。これだけの犠牲者がいるにもかかわらず、教皇自身の立場・・・地位や名誉、そしてカトリック教会という組織を守ることを優先させていたのですから、ローマ教皇という地位も大したことがないのですね。
三菱自動車や東芝や「欲望が溢れ、サブパーソナリティー(副人格)が中心の(藤森)」と、実際は、大したことがないことが白日の下に曝け出されてしまいました。

 こういう大問題に的確に対処できる、あるいは、大問題に真っ正面から立ち向かえる人間こそが「ローマ教皇」の名に相応しいはずです。

 世の中の多くの物事・事件などが、「倒れて後に止む」ことの危険性を教えてくれています。
 「癌」も同様です。日々の生活の中で、私たちは反省することが多いはずです。気が付いた時に、少しでもその問題に取り組んでいれば、「癌」にしても、「事件」や「不祥事」にしても、その他のいろいろなことを未然に防げた可能性があるのではないでしょうか。

 つまり、一番辛い、苦しいことに取り組む勇気を持たないと、神とも思われているカトリック教会の神父や大司教、教皇でさえもがとんでもないことにしてしまう。ましてや、我々個人においては、命さえも失いかねないし、家族が悲惨な目に遭う可能性もあるという素晴らしい教訓に、この映画はなるのではないでしょうか。

 今、あなたが抱えている人生の大きな課題に取り組む勇気を持ちませんか・・・悲惨な結末になるかもしれない事柄を「未然に防ぐ」ために!!!「わかっちゃいるけど」ではなく、「止められない」ことに真剣に取り組む勇気を持ちませんか。

 その最大の問題は、自分の「劣等感コンプレックス」を認める勇気です。
実は、劣等感コンプレックスというものは、認めてしまえばどうってことがないものなんです。しかし、劣等感コンプレックスを他のもの・・・主として、学問(知性)や経済力や名誉や地位などに代替させたり、意地・頑固やプライドなどで、深層心理に抱えている劣等感コンプレックスを無いことにしたがる「心の弱さ」が問題を大きくしたり、手遅れにしています。

 ローマ教皇や大司教、三菱自動車、東芝、シャープ等々の経営者たちが、気が付いたときに率直に認める勇気・・・の問題だったのです。その真摯さ、謙虚さが自律神経の働きを正常にし、「癌」を防いでくれます。つまり、免疫力を高めてくれるのです。>>>

●(11)情報が少しあれば驚くほどよく分かる・・・・・本気で情報を集めれば、さらにいろいろな物事が驚くほど分かるものです。

 情報が「少し」あれば(〝感”を働かせて探せば)、かなりのことが分かるという例を2つ、少々テーマから外れますが、簡単にご紹介します。 <乙武洋匡氏>
乙武氏の不倫問題もさることながら、ビックリ仰天するのは・・・・・・平成28年4月22日、週刊ポスト「乙武氏に筆談ホステスが激怒 〝私の大切な人”を奪われた!
<略>

 とりあえずは円満解決と思いきや、乙武氏への怒りが収まらない人物がいた。
聴覚障害を抱えながらも銀座の高級クラブでナンバーワンに上り詰めた「筆談ホステス」として知られる斉藤里恵氏(32)だ。
現在、彼女は東京都北区の区議会議員を務めている。その理由を彼女の知人が説明する。「参院選出馬に向けて、乙武氏が秘書として雇ったのが、3月まで斉藤氏をサポートしていた男性秘書A氏だ。

 彼は乙武氏の不倫旅行にもダミーとして同行している人物です。
 乙武氏はかなり強引にA氏を引き抜いた上に、結局は出馬自体も見送りになるなど、斉藤氏にとっては何とも理解しがたい状況になっていて、〝乙武氏は絶対に許せない”と怒りを露わにしているというのです」斉藤氏を直撃すると筆談でこんな答えが返ってきた。
 「Aさんは私のとなって会議で話の内容をタイピングしたり、私の発言を復唱してくれるなど、大変頑張ってくださいました。

 詳しくは知りませんが、昨夏ごろから乙武氏から彼にアプローチがあったと聞いております。その際、私には乙武氏からは一度の連絡もございません」
大人の対応を見せる斉藤氏。そして最後にこう締めくくった。
「乙武氏のご活躍を期待していましたが、このような事態になり非常に残念です」
〝障害は不便だが不幸ではない”とは乙武氏が『五体不満足』で引用したヘレン・ケラーの名言だが、他人に不便を強いるのはいかがなものか。<週刊ポスト>

 乙武氏の奥様は育児をしながら、手足の無い乙武氏のお世話をしていました。それは、私の想像を絶するご苦労があったことと思います。その奥様の献身的なサポートにもかかわらず、能天気なほどの不倫問題を起こしています。

 また、学生時代、かなり女性にもてたそうですが、その時の彼はかなり「俺様」的だったそうです。
また、出産直後、乙武氏のお母さんは直ぐに会わせてもらえなかったそうです。約一週間後に会った時、お母さんは「わあー!可愛い!」とおっしゃったそうです。
これらを総合すると、乙武氏がどんな育てられ方をされたのかが、ほぼ、推測できます。 

<少女監禁事件の「寺内樺風(かぶ)」の名前について>
珍しい名前ですので、「樺」の字を調べてみると、面白いことが分かりました。
①(広辞苑より)白樺・・・・・樹皮は蝋質の粉を帯び、紙状に剥げる雌雄同株。
②(広辞苑より)白樺派・・・・・<略>雑誌「白樺」により、人道主義、理想主義を標榜。自然主義文学退潮後、大正文壇の基軸となる。
③(ブリタニカ)白樺・・・・・北半球冷温帯に広い分布をもつ母種の日本における変種とされる。・・・・・樹皮は白くて美しいので有名であるが、これは外皮に白いろう質(ワックス)を分泌するため。④(近隣住民)「(寺内は)会えば元気よく挨拶する好青年だった」
⑤(寺内を知る大学の同級生)「真面目で成績も優秀。誘拐犯のそぶりはまったくなかった。友達は少なく、在学中に米国のカリフォルニアで自家用機の操縦免許を取ったことを、よく自慢していた」
⑥(さらに驚くことは)父親は大阪の自宅で防犯グッズなどをネット通販業。家族経営で年商は6000万円(藤森注・・・アパートの入り口の鍵は、外から締めて、中からは開けられない特殊な鍵を使っていました)。
⑦(近隣住民は)「・・・・・父母と妹の4人暮らしで、教育熱心ないい家庭。兄妹もお行儀が良くてお坊ちゃん、お嬢ちゃんって感じだった」

 藤森注・・・・・見事に、彼の犯罪を連想させてくれます。「樺」も、「周囲の評価」も見事に美しいです。その上、お父さんが防犯グッズをネット通販していたのには驚きです。ワイドショーで、外から掛けて、中から開けられないカギを実演していたので、余計に驚きました。
私が妻に、
「白樺」から何を連想するかと聞くと、即座に「寂しい」(一緒に旅行をした北海道・美瑛の白樺を思い浮かべたからでしょう)と言うので、ピン!ときて、白樺を調べてみた結果、見事に名前がヒントになりました。彼の本質は両親の心理的「束縛(過干渉)」「寂しさ」ではないかと推測しています>

●(12)「今月の言葉」第163回「交流分析のゲームとは何か?④ー④」

 一部を下記に再録します。

<<<実に、実に、そしてさらに実に不思議なことでありますが、私たちは、この嫌な感情である「ラケット感情」を味わうために「ゲーム」を行っています。そのバカバカしさを嫌と言うほど体験したら、止める決心をして、止めるための「取り組み」をすることです。そうでないと私たちは、一生懸命に生きているつもりでいて、実は、嫌な感情を味わうための「ゲームをやるため」に頑張っている・・・・と断言せざるを得ないのです。

 「意味の無いこと」に頑張っているというよりも、「悲しい(虚しい、寂しい、情けない、イライラする)」などの「ラケット感情(ニセの感情)を味わうために「人生」を頑張っていることになってしまうのです。こんなことは誰も信じられないでしょうが、しかし、結果は完全にそうなっている・・・ということに気づけるくらいの知性や教養を身に着けたいものです。

 気づかない部分を仏教では三毒である「貪・瞋・痴」のうちの「痴」と言い、これに気づくことを三善根の「施・慈・慧」のうちの「慧」と言い、これが本来の「知性・教養」であるべきです。>>>

 この部分を詳細に理解したい方は「今月の言葉」第163回「交流分析のゲームとは何か?④ー④」をご参照ください。「こじれた人間関係」のことを「交流分析」では「ゲーム」と言い、我々の人生を完璧に言い当てています。信じられない方は、第163回をご覧ください。単なる理論ではありません。私たちの人生は、まさに、ゲームで成り立っています。

「ゲーム理論」で言えば、田中角栄元首相は、最後は病気で苦労され、ご遺族も苦労されていらっしゃいますので、大変失礼ながら、
「人生ゲーム」であった(?)と言わざるを得ません。

 そして、小倉昌夫氏<<<「ほんとうに失礼かもしれませんが、明後日は日曜日で、家政婦さんがいらっしゃらない日でしたら、これを電子レンジでチンなされば召し上がれますけど、お持ちになりますか?」・・・・・小倉氏は「はい、頂いていきます」と謙虚に言われ、小さなお土産の紙袋を下げてお帰りになった。
 私がそんなことができたのは、その場に玲子さんがいらっしゃるように感じ、ほんの一瞬その代わりをした気になったからだった。>>>

 小倉氏のことは私は全く分かりませんが、もし、(藤森)がその立場であったならば、事業は大成功し、この世で手に入るほとんどのものが手に入ったにもかかわらず、豪邸に帰宅して、一人で食べるこの寂しさ、若死にさせてしまった妻に対する罪悪感、広い家屋敷に誰もいない中で食べる味気無さ・・・・・今まで頑張ってきた私の人生はなんだったのだろうか(人生ゲーム)と切ない感慨に耽るものと思われます。

先日、こんなことがありました。
妻が玄関から入って来て、「ねえ、ねえ!」と声を張り上げました。聞いてみると、キュウリが実ったとのこと。猫の額ほどの庭で、1日3回、鉢植えを移動させて、少しでも太陽に当てようと丹精を込めて作ったキュウリです。
私が出ていくと、10センチくらいの可愛いキュウリが、黄色い花とともに太陽に照らされて輝いていました。「ウワー!凄いねー!」。私は可愛い1本のキュウリに感動しました。

 2、3日すると、待望の収穫です。半分に切り、さらに4等分にされた棒状のキュウリが食卓に出されました。醤油も味噌も無しで食べたキュウリがとても甘くて美味しかった。
 妻に苦労ばかりかけ、愚かな人生を無我夢中で生きてきた私が、やっと晩年になって味わえた1本のキュウリの「幸せの味」でした。終わりよければすべて良しとなりたいものです!!!

●(12)最後に・・・かなり分かると言いたいのですが、「当たるも八卦当たらぬも八卦」として、私の大胆な推測をご紹介します。まず、下記の報道をご覧ください。

平成28年6月3日、週刊ポスト「政治家と政治記者だけが知っている『政局報道スクープ』の〝お約束”暴露します」

 <略>

 <NHK女性記者の独壇場

 ライバルの政治部記者たちから「一番おいしいところをさらっていく」と羨ましがられるのがNHKだ。
政治報道で最も重要なのは情報の裏付け取材。その点、安倍氏が小泉内閣の官房副長官時代から「安倍番」を務めてきたNHKの
岩田明子・政治部記者兼解説委員は、側近記者の中でも別格の存在で「携帯電話やメールでいつでも総理に直接話が聞ける関係」(NHK記者)と言われる。

 それだけに、首相との阿吽の呼吸で次々にスクープをものにしてきた。
 直近では、オバマ大統領の広島訪問の特大スクープがある。

 NHKは5月10日の午後8時51分、首都圏ニュース中に<オバマ大統領 今月27日に広島訪問へ 現職アメリカ大統領で初>とテロップを流し、続いて短いストレートニュースで報道。さらに直後のニュースウオッチ9で特集を組み、ワシントン特派員の解説の後、スタジオに岩田記者が登場すると、それに合わせたように安倍首相の緊急記者会見が始まった。他局を完全に出し抜いたのだ。

 「NHKの独壇場。事前に情報を得て、官邸と調整しながら準備していなければあんな芸当はできない」
と他紙の首相番記者は地団駄を踏んだ。まさに番記者にとって一番おいしいスクープをかっさらわれたというわけである。

 <後略>

●(13)私(藤森)はこの番組をちょうど見ていて、手際の良さを感じました。

 岩田明子記者は、日ごろ、NHKのニュースにわずかな時間だけ登場し、しかも、お堅い政治的な話を短時間するだけですから、なかなか、お人柄を推測しにくいのですが、上記の週刊ポスト誌が語るものからかなり面白いことが推測できます。

 同じ号の週刊ポストの別の記事に山尾志桜里が21年前に書いた『東大受験本』の価格と評判」と題した民進党の山尾志桜里議員のことが書かれています。
山尾議員は、11歳でミュージカル「アニー」の主人公を務め、東大を現役で合格し、司法試験合格、国会議員当選など、経歴は華々しいとあります。

このお二人が面白いのです。
 岩田明子記者は、安倍首相に大変気に入られています。一方、多分、年齢も美しさも、頭の良さも、経歴の素晴らしさも似ている民進党の山尾志桜里議員は、安倍首相に大変嫌われている(?)ようです。

 一方は「携帯電話やメールでいつでも総理に直接話が聞ける関係」・・・・・・一方は大嫌いな関係。

 情報が少な過ぎるので、ここからは私の独断と大胆な偏見(当たるも八卦当たらぬも八卦)であることをお許しいただきます。その独断と偏見を語る前に、独断と偏見の根拠になる資料を紹介します。

●(14)平成27年5月22日、週刊ポスト「安倍晋三『沈黙の仮面』ー〝独裁者”の生い立ちと苦悩ー」 (野上忠興・政治ジャーナリスト)

 <第1回 二つの血脈の狭間に落ちた幼少時代>)

 <略>
母の洋子は夫の選挙のために地元の下関に張り付き、東京の家には幼い安倍兄弟がポツンと残された。
「友人宅で
一家団欒の光景を見たりすると、『ああ、いいな』と思ったりした」と、〝普通の家庭”への憧れを語った安倍の言葉が改めて思い出される。

 両親に代わって、安倍兄弟が成人するまで世話をしたのが、晋三の乳母兼養育係だった久保ウメ。岸、安倍両家に40年仕えた生涯独身を通したウメは、筆者の取材のなかで、こんな「安倍家の日常」を明かした。<略>

 ウメによると。安倍は幼稚園に通っていた頃、おんぶをよくねだる子だったという。
「朝、お兄ちゃんの仕度ばかりやっていると、晋ちゃんが拗ねちゃって、拗ねるとテコでも動かない。幼稚園のカバンをかけてやって、バス停まで
おんぶしていった。あんなにおんぶが好きだったのは、やっぱり両親が不在がちだったからでしょう」
<後略>

●(15)ここで私(藤森)が偏見を述べたいことは、恐らく、ウメさんと岩田明子記者とは、安倍晋三首相の深層心理に響く、何か共通点(フィーリングなど)があるからだと思われます。
多分、両者をご存知の
野上忠興氏ならば、その気になって岩田記者を観察すると、岩田記者から漂う雰囲気が、何か、ウメさんと似ていることに感づかれるのではないかと推測します。
<<「携帯電話やメールでいつでも総理に
直接話が聞ける関係」>>>とは、ウメさん的であろう・・・と、私の推測です。

 私は、野上忠興氏の書かれたものを読むことで、ウメさんのお人柄はかなり推測することができますが、岩田記者は、お堅い政治の話をテレビでチョコっとされるだけですので、人間性までは分かりません。
 多分、幼稚園のカバンならぬ、安倍首相のコートなり背広なりをチョッとお手伝いしたり、料亭を出るときに、靴を揃えて差し上げたり、靴ベラを差し出したりする所作が、岩田記者はかなりうまい方であろうと推測します。

 また、岩尾志桜里議員は、もしかしたら、母親の洋子さんに雰囲気が似ている方かもしれません。

結論を言えば、岩田記者は「情母性性」が、岩尾議員は「理父性性」が優っていらっしゃる可能性が高いように思われます(当たるも八卦当たらぬも八卦)。

 安倍首相を攻撃し、ダメージを与えたり、余計な一言を引き出したかったら、岩尾流を活用して、徹底的に「理」を活用して、厳しく「父性性」で追及することです。
懐に取り入れられたかったら、岩田流の「情」で身の回りをかいがいしく対応して、「母性性」でハートフルにお世話をすると良いでしょう。料亭などでは、幼稚園児をお世話するように、です。

く文責:藤森弘司>

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