2016年2月15日 第163回「今月の言葉」
「交流分析」の「ゲーム」とは何か?
④ー④
<癌とは何か?対策編⑦>

●(1)「交流分析」という学問は本当に不思議・・・「極めて」不思議な学問です。これほど、現実生活にピタッと当て嵌まる学問は、多分、他に無い・・・少なくとも、私(藤森)は、他に知りません。

<第158回の「交流分析」の「ストローク」とは何か?>の次の部分を転載します。

<<<・・・・・これは、本来は仮説のはずだから語尾が「・・・・・生きているばずだ」となる可きだが、「・・・・・生きている」となっているのは、推定を断定にしているのだから、他の分野、一例として「運命心理学」(たとえばソンディー心理学)のような立場から見たり、あるいは又、原因=結果的思考即ち行動科学的思考を極端に排除するユング心理学の立場からは一種の偏見に見えるかも知れない。

 ところが、交流分析は、臨床場面での観察可能な、つまり臨床体験を説明するための、臨床理論である。実に、実利的な、東洋医学の臨床理論にも似た共通性が認められる。その点は始めたのがエリック・バーンというユダヤの血統の人であったからであろう。ユダヤのタルムードなどの内容は、流石に5000年の歴史を持っているだけに、どこか、東洋の思想と基調を同じくするものがある。

 (この小冊子でも紙数があれば、別項で述べるつもりだが、最も難解とされる東洋医学で言う「気」は、実は交流分析でいうストロークと同質のものであり、この点で、東洋思想とユダヤ思想との接点を観る思いがする。)
 筆者は、日々の臨床体験場面に交流分析の概念をあてはめてみると、毎日、数多くの実例に出合うから、最早や仮説ではないことが体験的に理解出来る。>>>

 私(藤森)も同様に、カウンセリングの現場で・・・・・と言うと格好がいいのですが、カウンセリングの現場以前に、私自身の人生が「ゲーム」のオンパレードでした。「交流分析」のその他の理論も全てがドンピシャリと合致するので笑い出してしまったことがあります。

 私自身の未熟な例はこのホームページでもしばしば述べていますが、皆さん方も、ご自分の人生を振り返ってみて、あまりにも「交流分析」の理論がドンピシャリと当て嵌まることを実感して、是非、笑い出してください。笑ってしまえば、こういうバカバカしいことは止めようと真剣に思えるはずです。

 もうすでに、あなたの人生のバカバカしさを「交流分析」という学問に読まれてしまっていると思えたならば、バカバカしくてくだらない生き方を止めたくなることと思います。
 「交流分析」のテキストに書いてあるようなバカバカしい生き方を、まるで悲劇の主人公のように真剣に生きている・・・真剣に演じている・・・真剣に悩んでいるご自分自身の姿を目の当たりにしたならば、私の若い時のように笑い出してしまいますよ。

 第160回からの「ゲーム理論」を、悔しいでしょうが、あなたの人生に照らし合わせながらじっくりと味わってみませんか。思い当たることがたくさん発見できるものと思われます。でも、自分のことだと真剣に思うことが・・・残念ながら・・・心理学者や精神科医や心身医学者、カウンセラー、そして「交流分析」を学ぶ多くの人たちが自分自身のこととして真剣に取り組むことは極めて稀です。

 何故なんだろうかと真剣に考えてしまいます。
 多分、私(藤森)ほど酷い人生ではないが故に、理論をしっかり学び、豊かな「教養」を身につけられたことを喜んで、それを「自己満足」で終わらせてしまうのでしょう。実にもったいない話です。やはり、困り切るということは大事ですね。困っていなければ、それは素晴らしいことですが、困っていても、困り切らないとバカバカしい人生を続ける「慣性の法則」が強く働いてしまうのでしょう。
ということは、困り切った私の酷い人生は恵まれていたことになりますね、反作用の力が強く働いた訳ですから。

 下記の(2)は前回の転載で、今回は下記の(3)からです。

●(2)下記の【1】【2】【3】は、<『交流分析上級者講座』講師:杉田峰康先生、主催&発行:自己回復総研>より引用。青い文字は、私(藤森)が今回、書き加えた解説です。

【1】人生ゲームについて(人間関係の悪循環)・・・・・「人間関係の悪循環」という言葉は、ゲームを表す言葉としてはピッタリです。私(藤森)自身、「ゲーム」をシッカリ理解するまでは、悪循環を繰り返していました。ゲーム理論を十分に理解し、ゲームの悪循環から脱する取り組みをシッカリやらないと、「人生」を一生懸命に生きているつもりで、実は、単に「ゲーム」を一生懸命にやっていただけということになりかねません。

 典型的な例として、「長崎県佐世保の女子校生殺害事件」がそうです。ご両親は、弁護士事務所を経営したり(父親)、東大を卒業して教育委員(母親)をやったりしたのは、より良い家庭を持ち、より良い娘を育てたいという素晴らしい意識を持っていたはずです。しかし、結果は真逆になりました。何故でしょうか?

 それは、「人生ゲーム」の理論を知らなかったからです。つまり、「人生ゲーム理論」にピッタリの生き方をしてしまったからです。とにもかくにも、このことを知らないと大損をします。人間は誰でも皆、自分の人生を良くしたいと真剣に思っているはずです。それにもかかわらず、悪化してしまうのは、戦争や天変地異などの特殊な事情を別にすれば、実は、「人生ゲーム」をやっている可能性が高いのです。

 私(藤森)自身、長い間、そういう人生を生きてきましたし、ゲーム的な人生を生きながら苦しんでいる多くの人たちを見てきていますので、一人でも多くの方が「ゲーム」から解放されて、より良い人生を生きていただきたいと切望しています。

(A)日常よく行われるゲーム
a)夫婦喧嘩・・・・・夫婦喧嘩は犬も食わぬ、夫婦喧嘩は寝てなおる。・・・・・「夫婦喧嘩は犬も食わぬ」とはよく言ったものです。「三つ子の魂」などもそうですが、日本語は本当に優れていて、「交流分析」の「ゲーム」を十分に理解していたのですね。「ゲーム」というのは、同じパターンを繰り返します。「夫婦喧嘩」も同様です。周囲は「あ~あ、またやっている」と思うようなパターンを繰り返しているものです。

 「またか」というのが「ゲーム」の最大の特徴です。だから、そこにパターンがあり、結末に味わう「嫌な感情」も同じです。しかし、「ゲーム理論」を知らないと、当事者は、「ワンパターン」を繰り返していることが分からないものです。分からないために、そのパターンと、結末の嫌な感情を、多くの場合、一生味わい続けます。

 こんなバカバカしいことはありませんでしょう!!!しかし、残念ながら、私たちの人生は・・・・・極限すれば、夫婦とは、そして人生とは、ゲームを繰り返し続けて生きるものと言っても過言ではありません。それを極大化したものが「外交」と言えるかもしれません。

b)安請け合い・・・不成功に終わって、きまって他人に迷惑をかけたり、信頼を失ったりする。・・・・・本当に不思議なことですが、「安請け合い」は、ついついと言いながら、長い人生で繰り返し味わっているとしたら、それは「安請け合い」のゲームをしているということになります。

 「安請け合い」がゲームでない場合は、安請け合いをしたことを反省して、それ以降、安請け合いを止めます。しかし、ゲームの場合は、安請け合いを繰り返し、後悔をし続けます。このゲームの場合は、「後悔」という嫌な感情を味わうことが目的になっています。

 そんなバカな話があるかと誰でも思うでしょう。しかし、残念ながら、そのバカバカしいことを、特別なことが無い限り、一生続けるものです。このバカバカしいことを、どれだけ深いレベルで気づけるか、深いレベルでの反省ができるか否かが改善のポイントです。以下、同じことです。

c)おせっかい・・・飼い犬に手を噛まれる、ひさしを貸して母屋をとられる。・・・・・私(藤森)は、若い時まで、父は「飼い犬に手を噛まれてきた」と本気で思っていました。しかし、「交流分析」を学び、残酷ではありますが自分の父親を俎上に上げて、ゲーム理論を当て嵌めて考えてみますと、父は、この「ゲーム」をしてきたと言わざるを得ません。辛いところですが、こういうシビアな見方ができるだけの「自我の成熟性」が必要です。こういうシビアな見方ができることこそが、自分自身の「ゲーム」から解放され、より良い人生を歩めるようになります。

d)これが最後・・親馬鹿、言い逃れ上手。・・・・・これが最後は、残念ながら、「まだいいわよ」というメッセージを含んでいるものです。我が子を、「これが最後」と切ることは、やはり「自我の成熟性」が求められます。総合的に「どうすべきか?」と考えることに私たちは慣れていないものです。

 どんなに学力が優れていても、人生をどのように生きたら良いのか?ということは東大を卒業しても、多くは学んでいません。むしろ、高学歴で、高学力であるほど、現実生活の能力は低い傾向にあります。そういう何かを切り捨てるからこそ、高い何かの能力が得られるものです。

 現実生活の最大の課題は「育児」です。「育児」がどうであったかは、いかにノーベル賞を受賞しようが、ほとんど全く影響されません。
 むしろ、ノーベル賞を受賞しながら、いい年の受賞者が、妻の写真をいつも掲げながら「愛妻家」を装わなければならないほど、強い「罪悪感」に襲われているという可能性があります。自分自身や自分の家庭・家族をどうするかということを総合的に考えて、合理的な判断を下すということは、私たちが皆、苦手とすることだと思います。

e)泣きおとし戦術・・・“こんな女に誰がした?”
f)病院めぐり、など。

(B)ゲームとは?
 明瞭で、予測可能な結果に向かって進行しつつある一連の裏面的交流・・・・・この「裏面的交流」が、一般に理解が難しいのです。表面的には立派な理屈がついていて、美しいものです。例えば「安請け合い」を考えてみましょう。困っている人を助けるために引き受けるという大義名分のもとに引き受けたと思っているうちに、気が付いたら、思ったよりも苦労して、引き受けたことを後悔する。
「夫婦喧嘩」も、例えは、子供の将来について話し合っているうちに、夫婦の意見が違って、いつものパターンの喧嘩が始まる・・・などです。

 表面的にはしっかりした大義名分がありますが、しかし、その底辺に流れているメロディ(裏面的交流)は、ワンパターンの「明瞭で、予測可能な結果」に向かって進行しつつあるものを「ゲーム」と呼びます。そして、ゲームは、必ず、決まった結末を迎えます。その結末には、これも、必ず、決まった嫌な感情を味わいます。それを、交流分析では「ラケット感情」と言います<「今月の言葉」第147回「交流分析のラケット感情とは?⑥ー①」第152回「⑥ー⑥」ご参照>。

(3)今回はここからです。

【2】ゲームの本質と要因

(A)ゲームの公式・・・・・この公式が実ににくいです。面白いことにというか、残念ながらというか、この公式は完璧です。必ず、この公式通りに事態は進みます。車を運転するときに、信号や標識に従って進むのと同様に、下記の公式通りにゲームは進行します。これは完璧です。完璧すぎて笑ってしまうほど「ゲーム」は、この公式通りに進行します。あなたの家庭でも、この公式通りに毎日、あるいは毎週、(悩み苦しみながらも)この公式通りにゲームをやり続けているはずです。

<隠れた動機> ⇒ <仕掛け、ワナ> ⇒ <反応> ⇒ <ひきがね> ⇒ <混乱> ⇒ <結末>

(B)4つの要素
a)表面上のメッセージ・・・・・この表面上のメッセージが曲者です。「表面上のメッセージ」というよりも、「大義名分」と言ったほうが分かりやすいでしょう。典型的な例が「勉強」です。「勉強しなさい!」「勉強しなさい!」は、多分、ほとんどの家庭で繰り返されていることでしょう。我が子の将来を考えて勉強をうるさく言うのは、かなり「理」に適っているように、一見、思えます。<一見、思える>これが曲者です。

b)隠れたメッセージ・・・・・<一見、思え>てしまう裏に、実は「隠れたメッセージ」が潜んでいます。この「隠れたメッセージ」が親の本音であり、目的です。親子関係における「勉強」を例に取れば、親の側は、「無意識(本音)」の反対である「表面意識(建て前)」の部分で「学問」をやり過ぎてしまっているので、人格そのものが「建て前肥大人間」になってしまっています。そのために、「建て前」で考えたことが「本音・本心」であると錯覚しています。

 しかし、多くの子どもは、まだ、「本音」や「本質的な人間性」を強く持っているために、「建て前」で「勉強々々」と口うるさく言う親の言葉(これが①に相当します)の裏に潜んでいる「隠れたメッセージ」を本能的、直観的に嗅ぎ取って、多くの場合、親の「隠れたメッセージ」に反応してしまいます。

c)隠れたメッセージに対する反応・・・・・子どもが、親の「建て前」である「勉強しなさい!」に適切に反応すれば、その場は何もありませんが、多くの場合、子どもは親の「隠れたメッセージ」に反応します。隠れたメッセージとは、「勉強しなさい」という言い方の中に、例えば、「お前はいくら言っても、直ぐにやらない子だ!」とか、「どうせ言っても、ゲームをやり続けるだろう!」とか、「お前は素直じゃあないんだから!」などというような「マイナスの感情」が籠った言い方をしているものです(これを「交流分析」では「裏面交流」と言い、人間関係が悪くなる時に、必ず使われる表現です)。

 「裏面交流」された子供は、多くの場合、「裏面」のメッセージに反応して、愚図々々したり、反発したり、テレビを見続けたり、ゲームをやり続けたり・・・・・(これが②に相当します)。

d)不愉快な気分、不快感
 自・他に対して、何らかの形で「OKでない」という・・・・・「隠れたメッセージ」に反応した子供が、例えば、愚図々々したり、反発したりすると、母親はここで、必ず、「不愉快な気分」になります。その気分が「ひきがね」()になって、例えば、「お前はいつも愚図々々してばかりで、お母さんの言うことをきかない。お前のお父さんにソックリだ!もういい加減にしてよ!」などと喚く可能性があります。

 傍にいたお父さんが、「俺を引き合いに出すことはないだろう。大体、お前が口うるさすぎるから息子が反発するんだ。もっと優しく言え!!!」と喚くということは、結構、多くの家庭であるのではないでしょうか?まさに「混乱の場」になります。

 この場合、「もっと優しく言え!!!」とお父さんが喚くということは、「もっと優しく言え!!!」と言いながら、優しく言っていない訳ですから、お父さんも「裏面交流」をしていることになります。この場が混乱するであろうことは、多くの方が体験的に理解できることと思います。

 結末として、全員がネガティブな感情に襲われます。お父さんは「妻が口うるさいのにはいい加減嫌になってしまう」と。お母さんは、「誰も私の苦労を分かってくれない。頑張る気がしない。もう疲れ切ってしまった」と。息子は、「僕はダメな人間だな。勉強は出来ないし、家庭は暗いし・・・」と非行や不登校やウツに?

 この三者三様に感じるネガティブな感情を「交流分析」では「ラケット感情」第147回「交流分析」の「ラケット感情」とは?①~第152回の⑥をご参照ください>と言います。これは「ゲーム」の結末に必ず味わう感情で、これを「結末=報酬」と言います。

 実に、実に、そしてさらに実に不思議なことでありますが、私たちは、この嫌な感情である「ラケット感情」を味わうために「ゲーム」を行っています。そのバカバカしさを嫌と言うほど体験したら、止める決心をして、止めるための「取り組み」をすることです。そうでないと私たちは、一生懸命に生きているつもりでいて、実は、嫌な感情を味わうための「ゲームをやるため」に頑張っている・・・・・と断言せざるを得ないのです。

 「意味の無いこと」に頑張っているというよりも、「悲しい(虚しい、寂しい、情けない、イライラする)」などの「ラケット感情(ニセの感情)」を味わうために「人生」を頑張っていることになってしまうのです。こんなことは誰も信じられないでしょうが、しかし、結果は完全にそうなっている・・・ということに気づけるくらいの知性や教養を身に着けたいものです。
気づかない部分を仏教では三毒である「貪・瞋・痴」のうちの
「痴」と言い、これに気づくことを三善根の「施・慈・慧」のうちの「慧」と言い、これが本来の「知性・教養」であるべきです。

 これは偉そうに理論を振り撒いているのではなく、私(藤森)自身がバカバカしい人生を嫌というほど体験して実証済みのことです。本気で取り組まないと、嫌な感情を味わうために頑張っているというアホみたいな、誠に奇妙奇天烈な人生を生きていることになります。少しでも早く目を覚ますことを心よりご祈念申し上げます。

e)Aが働いていない(気づいていない)・・・・・「交流分析」でいう「A」とは、一般にいう知性・教養を意味します。単純に言えば、「A」が気づいていないということで良いのですが、残念ながら、「交流分析」でいうところの「A」には問題解決能力がありません。むしろ、問題解決を妨げる傾向があります。

 もし、エゴグラム(交流分析の心理テスト)で「A」が高い人が問題解決能力が高いのであれば、世の中で高い評価を受ける人たち<ノーベル賞受賞者、学者、医師(特に精神科医や心療内科医)、弁護士、大学教授、会社経営者、心理の専門家(カウンセラーや臨床心理士等々)>はゲームをしていないことになりますが、全く違います。全くの間違いです。

 昨年、大騒ぎになった長崎県佐世保の「女子学生殺人事件」。お父さんは長崎県下一の弁護士事務所を経営、お母さんは東大を卒業して、教育委員をしていました。どう考えても、こういう事件とは「真逆」の家庭であるべきではないでしょうか?
つまり、いかに「交流分析」の「A」が無力かということで、これが「交流分析」の
最大の欠点です。

 そこで私(藤森)が考案したのが「FA」です。「Free Adult=自由なA」です。これは禅宗、特に臨済宗が「禅語」や「禅問答」などで鍛えようとしているものと全く同じと考えていただいて結構です。
 簡単に言えば、「A」を使いこなせるもの、これを「FA」と名付けました。日本の心身医学の創始者の故・池見酉次郎先生は、「(セルフ)」という言葉を加えましたが、池見先生がおっしゃる「S」と、全く同じ意味であろうと理解しています。 

(C)ゲームの図式・・・・・下記のゲームの図式は、上記の説明でご理解いただけることと思いますが、どうして、こういう馬鹿なメッセージが背後にあるのでしょうか?これを説明することは簡単なのですが、無意識の意味ですので、理解していただくことはかなり難しいのではないかと思います。それを「D」で説明します。

<例:①>母が子に対して:(表面上)あなたは頭がいいのに、どうして勉強ができないの?
(背後のメッセージ)いい成績をとってはダメよ。
 自分の能力を発揮しないでちょうだい。

 子供の反応:よし、よい成績なんかとってやらないぞ。
 自分の能力を発揮するつもりはありません。

 不快感:悲しみ、怒り、ゆううつ、イライラ(ラケット)

(D)ゲームの本質(人はなぜゲームを演じるのか)
a)ストロークを得る手段・・・・・私たちは、もちろん、心地よいストローク<第158回の「交流分析」の「ストローク」とは何か?ご参照>をもらいたいと思っています。しかし、誠に残念ながら、私たちは「欲しいストローク」「心地よいストローク」を両親から貰うことはとても少ないのです。

 私たちが心地よいストロークを貰える時の多くは、両親が心地よく感じるときのことであって、子どもの側に立って、必要に応じて、心地よいストロークを両親が出すということは、誠に残念ですが、本当に少ないものです。多くの場合、ストロークを出す親の側の好みに合致しているか否かが価値基準になってしまっています。それがために、人間は「自分らしく」生きることが困難なのです。

 つまり、プラスのストロークが得られなければ、マイナスのストロークでも得ないと人間は生きられないため(空腹では生きられないのと同様)に、無意識のうちにマイナスのストロークを求めるようになります。
そうすると、親も、その親からマイナスのストロークを沢山得ているために、マイナスのストロークを求める自分の子どもに対応することには
「熟練」しているために、私たちは、マイナスのストロークを出し合う、つまり、ゲームを延々と遣り合う悩み多い人生を、必死で生きるということになってしまっています。

 これが解消すれば、このホームページの表紙に紹介している<仏の世界には対立がない。対立が無いということは内心が無であるということ(大本山妙心寺派管長・春見文勝先生)>という心境になるのではないかと推測し、ゲームを散々やってきた私(藤森)の目標にしています。 

b)基本的な構えの実証・・・・・これは「①I am OK.You are OK」「②I am not OK.You are OK」「③I am OK.You are not OK」「④I am not OK.You are not OK」の4つで、ほとんどすべての人は、②か③を基本的に持っていて、それを確認するためにゲームをすると言われています。確かに、ゲームの結末に、②か③を味わいます。残念ながら、そして、誠に不思議ながら、私の経験的にみてもこれは正しいです。

c)時間の構造化の一方法・・・・・1日をどのようにして過ごすか、人それぞれの過ごし方で過ごします。無意識のうちに、私たちは1日、あるいは1週間を構造化して過ごしているものです。例えば、朝起きたら、まず、お茶を飲む。そして新聞を読み、NHKのニュースを見る・・・などのほぼ決まったパターンがあるものです。このパターンの方の場合は、新聞休刊日の朝は、時間の構造化が崩れて、やや違和感があるはずです。

 定年退職後に困ることのほとんどは、時間の構造化ができないからだと思われます<「今月の映画」第160回「マイ・インターン」ご参照>。特に、私たち日本人は、「自由」ほど苦痛なものは無い傾向があります。
 そのために、「ゲーム」をやっている・・・・・ウワー!!!情けない!!!くだらない!!!けれども事実であることが残念ですね。

(E)ゲームの要因(公式参照)
a)社会的レベル(交叉的)の交流と、心理的レベル(相補的)の交流との二面をもつ
・裏面的交流
b)反復的
・さまざまな周期
c)隠れた動機・目的
・ストローク、基本的な構え
(例)どうせ男にはロクな奴はいない(=男性はOKでない)
d)結末、クライマックスがある
(例)解雇、刑務所、精神病院、自殺など
e)不快感、混乱
・特に怒りの挑発

【3】ゲームの打ち切り方・・・・・言うは易く、行うは難しですが、でも取り組まないと、苦しくてつらいゲームを続けるために人生を生きていることになります。それだけではありません。そのために、あなたの大切なお子さんがその犠牲になっています。ご自分の人生のためにも、そして最愛の我が子のためにも、一念発起しませんか!!??
必要なものは、あなたの
「勇気」です。

 残念ながら、ここ(ゲーム脚本)に本気で取り組んでいる専門家を、私は寡聞にして知りません。理屈を言うばかり。ですから関係者も、そのまた関係者も、理論、理屈ばかりが蔓延しています。私が親鸞聖人が好きになれないのも、まさにここです。

 では、未だに未熟ながらも、何故、私(藤森)如きが本気で取り組めたのか???それはあまりにも酷い人生であったために、人生に行き詰まった、つまり、困り切ったために、本気の本気で取り組まざるを得なかったのです。ということは、困り切ることは大事なことですね。酷い人生も悪くありませんね!!!

(A)A(アダルト)の姿勢をとる
(B)フィードバック的交流を用いる
(C)“値引き”・・・ゲームの引き金となる過小評価、軽蔑など、値引きを止める。

く文責:藤森弘司>

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