2016年12月15日 第173回「今月の言葉」
●(1)「今月の言葉」第160回「交流分析のゲームとは何か?」の最初の部分をを再録します。
「交流分析」という心理学は本当に不思議な心理学です。 <<<ところが、交流分析は、臨床場面での観察可能な、つまり臨床体験を説明するための、臨床理論である。実に、実利的な、東洋医学の臨床理論にも似た共通性が認められる。その点は始めたのがエリック・バーンというユダヤの血統の人であったからであろう。ユダヤのタルムードなどの内容は、流石に5000年の歴史を持っているだけに、どこか、東洋の思想と基調を同じくするものがある。>>>(第158回「交流分析のストロークとは?」ご参照) とありますように、「理論」というよりも、「実践」にピッタリです。今回の「ゲーム理論」も全く同様です。 「ゲーム」について、簡単に説明します。 「ゲーム」とは、主として「夫婦」や「親子」、あるいは、「職場の人間関係」など、人間関係が濃厚な場で繰り返し行われる「こじれた関係」を言います。人間関係が濃厚でない相手、例えば、通りがかりの人に、いきなり「アホ」と言われても、あまり腹が立たないものです。むしろ、「お前のほうがアホだ」とか、「変なヤツ」などと笑って済ませたりできるものです。 仮にある日、夫(妻)が妻(夫)に「アホか!」と言ったとします。この時、妻(夫)が「ごめんなさい」と言ったら、ゲーム(こじれた場)にはなりませんが、「あなたはいつも私を馬鹿にするけれど、あなたはどうなのよ!!!」と食ってかかったとします。 だいたいこういう流れになると、(多分、多くの方が推測できることと思いますが)口喧嘩がおきます。その場は険悪になり、修羅場になるかもしれません。 職場でも、家庭でも・・・・濃厚な人間関係がある「場」での「こじれた問題」には、多くの場合、お芝居の「台本」があるかのように、ある特定の「パターン」があります。これに気付き、同じことをくり返しているバカバカしさに気付くことが最も重要なことです。 気付かなければ如何ともし難いことは当然で、「交流分析」では「気付き」を重視します。 多分、これをお読みになっていらっしゃる方は誰でも、思い当たることがおありのことと思います。 次回、詳しく解説し、そこから脱却して、心地よい人間関係を構築する術をご紹介します。 |
●(2)私たちの日常における人間関係・・・特に親しい間柄の人間関係は、その多くが「ゲーム」で成り立っていると言っても過言ではありません。その「ゲーム」・・・こじれた人間関係を乗り越えるために必須のものは「気付き」です。
まさに「気付き」こそが全てです。もちろん、「偶然」ということはあります。宝くじを買えば、一等に当たる偶然があります。あるいは、交通事故、例えば、飛行機の事故を体験して、九死に一生を得ることで、大きな気付きを得るということもあるでしょう。 意識的に人格を変容させるために必要なものこそが「気付き」です。その気付きを成すものが下記の②です。 私(藤森)の見るところでは、日本は「過干渉大国」です。日本の育児は猛烈な過干渉によってなされています。「過干渉」が標準的になっていますので、過干渉が普通に見えてしまいます。 特に、最近の日本は「少子化社会」ですので、1人か2人の子どもに対応しているために、過干渉度合いはさらに猛烈になっています。 つまり、「浅い知性」は頭でっかちになってしまい、それを活用する人間性が育ちにくい傾向が強いです。よく言われる日本の産業は真似事がうまいというのは、多分、こういう文化から来るのではないかと思われます。 これを「心理精神世界」に限定して考えて見ますと、「なるほど!!!」という「深い気付き」こそが「行動変容」「人格変容」に不可欠です。 ●(3)「般若心経」の読誦をすすめるが、その「ご利益」を問われると、般若心経の「是無等等呪(ぜむ・とうどうしゅ)」の注として、白隠禅師が、禅門の故事を引いた話。 <徳雲という文字どおりの徳の高い修行のできた坊さまが、癡聖人(ちせいじん・馬鹿聖人)を連れてきて、ともども降り積もっている雪を担って、運んできて井戸を埋めようとしている> <この「癡聖人」に「般若の知恵」がいっぱいもられていることを見つめることである><雪で井戸が埋まるはずがない。永遠に埋まらない。それは何を意味するか> よもすがら ほとけの道を たづぬれば (「般若心経入門」松原泰道先生著、祥伝社) 私・藤森は、以前、これをバカバカしいことと思っていました。しかし、最近、やっと、この<深い意味!!>が分かりました。 具体的に言いますと、いろいろなトラブルや事件をメディアを通して知った私たちは、いろいろ批評します。 しかし、仮に、私がその立場になった時には、さらに汚いお金の使い方(ゲーム)をするはずです。 |
く文責:藤森弘司>
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