2016年11月15日 第172回「今月の言葉」
③ー③
<般若心経編①>
●(1)「般若心経入門」(松原泰道先生著、祥伝社)
<供養とは>ときには自分に辛く、意地悪く当たるという逆のかたちで表われる冷たい恩恵もある。それを温かにして人々に返すところに、恨みが昇華されて、すばらしい慈愛に変わる。かくて自分も他人もともに救われることを仏教で「供養」という。 <慈悲とは>愛とは異なる。慈悲は同じ床(フロア)にあって、いとおしみあうので、高いところから施すものではない。また、裏切られれば裏切られるほど、憎しみよりもあわれみを増すのが「慈悲」。 <観音とは>「音を観る」。「香道」は「香を聞く」という。「観」は「明らかに見ること」だが、むしろ「音声や言葉の底に何があるか、言葉や音声になる前の心は何であるか、と音を超えて、心と直結してつかむこと」。 言語、文字で思想を理解するのではなく、思想をさきにつかんで、逆に、言語、文字を解釈するのが音を観る<観音>のはたらきで、禅者は、それを<不立文字(ふりゅう・もんじ)>という。 <目に見えるものは、目に見えないもののあらわれ> <照顧脚下(しょうこ・きゃっか)>「足もとを照らして顧みよ」、はきものをそろえて脱ぐようにとの呼びかけ。しかし、本来は、「自分自身を返照せよ、ほとけの知恵の光りに照らされて凝視せよ」ということ。 <同行二人>とは、欲望と感情のままにゆれ動く日常的自我と、それに呼びかける本質的自己の二人。巡礼や遍路さんの笠は、観音さまや弘法大師さまとの同行二人。 <さとり>とは、煩悩や迷いがなくなった状態ではなく、それらが静められ、制せられてバランスの取れた状態のこと。 <ほとけ>とは、“大自由・大自在”で、水にたとえられる。冬季に水道を凍らさぬために、少しずつ出しておくように、<いずくにも滞らず、止まらぬなり>(至道無難禅師) |
●(2)平成28年11月15日、東京新聞「メディア観望」
<税務処理に問題> きっかけは、曹洞宗関係者からの情報提供だった。 税務上、僧侶は寺から給料をもらう給与所得者で、布施は寺の会計に入れなければならない。大本山の顧問弁護士は不適切な会計を認めつつも「仏教的に布施は本来、僧侶個人の収入」とも主張した。 結局、高僧らは4千万円以上の布施を個人的に使うなどしており、大本山は国税当局から源泉所得税千数百万円の徴収漏れを指摘された。 <後略> |
く文責:藤森弘司>
最近のコメント