2015年9月15日 第158回「今月の言葉」
「交流分析」の「ストローク」とは何か?
 
<癌とは何か?対策編⑤>

●(1)「ストローク」は、「交流分析」の中で最も重要な用語です。と同時にすべての心理学、すべての医学、すべての宗教などにとっても最も重要な概念であるはずであると、私(藤森)は思っています。
というよりも、人間が存在する以上、そこには必ず「人間関係」があります。この「人間関係」で最も重要な概念が、この「ストローク」です。
逆に言いますと、「交流分析」でいうところの「ストローク」の概念を抜きにした諸学は、学問のための学問、「仏作って魂入れず」になりかねません。現代西洋医学は、「交流分析」でいうところの「ストローク」・・・一般的に言うならば、人間の「心理」を抜きにした「疫学」になってしまっているために、「遺伝子」だとか、単純な因果関係・・・つまり、統計的な理論・・・○○を食べるとどうなるとか、◎◎をやるとどうであるとか、タバコは肺がんになるとかどうとか、ビタミン△△を摂取すればどうであるとか、の単純な統計的理論を用いて説明することに傾斜しすぎてしまっています。
 私(藤森)が若い頃は、数人の友人と喫茶店で会えば、2~3時間のうちに灰皿を2~3回取り替えるほどの喫煙量は普通でした。私は、タバコが体質に合わなかったので吸いませんでしたが、吸っている友人たちが大人っぽく見えて羨ましかったものです。会合があったりすれば、タバコの煙で窓を開けて換気する光景は普通に見られたものですが、肺がんをうるさく言われることは、少なくとも私は聞きませんでした。

 昨今は、私から見ると極端なまでの喫煙規制が行われているにもかかわらず、肺がんが増えていて、喫煙規制をさらに厳しくしようという運動が盛んです。しかし、そこには人間の「心理」の問題がゼロ状態で議論が行われています。

 <疫学・・・疾病、事故、健康状態について、地域、職域などの多数集団を対象とし、その原因や発生条件を統計的に明らかにする学問。疫病の流行様態を研究する学問として発足。
疫病・・・流行病。伝染病。はやりやまい。
 伝染病・・・病原体の伝染で起こる病気。感染症と同じ。伝染病予防法では11種の法定伝染病と3種の指定伝染病等を規定していたが、現在では感染症と区別せずに用いる>(広辞苑)

●(2)西洋医学は、強毒性鳥インフルエンザや、サーズやマーズ、デング熱などの伝染性(ウィルスなど)の病気や、怪我などによる手術、栄養失調などについては抜群の効果を上げ、人類の平和への貢献は非常に大きいものがありますが、伝染病や栄養失調などは、発展途上国(日本で言えば、昭和30年くらいまで)に圧倒的に多いものです。  いわゆる先進工業国における病気の多くは「生活習慣病」と言われるように、「慢性病」が圧倒的に多くなっています。

 つまり、現代日本に生きる私たちが罹る多くの「病気」は「慢性病」で、「慢性病」とは、「心理」が最大のポイントです。そして「心理」とか「生活習慣病」と言われるものは、そのほとんどすべては「交流分析」の「脚本」に由来します「今月の言葉」第1回「脚本」「今月の映画」第2回「海辺の家」をご参照ください)

 一般に言われる「心理学」のほとんど全ては「理論」です。それも、それぞれの心理学の立脚点であるところの「視点」から見た部分的、一面的な理論を述べているに過ぎません。そういうすべての心理学(医学や宗教など)の根底に「ストローク」の理解がなければ、いろいろな理論や思想も「だから?それで?」程度のものになってしまいます。

 どんなに素晴らしい宗教であっても、「交流分析」の「ストローク」・・・或いは、それに相当する概念が、その理論や宗教の根底になければ、一生懸命に仏を作っていても、「魂の無い仏」を作っていることになりかねません。
 何のための「理論」であり、何のための「宗教」か?ということになります。

 何のための「理論」であり、何のための「宗教」であり、何のための「医学」であり、何のための「哲学」であり・・・・・なのかという問いを、私(藤森)は発したくなります。
 何故ならば、私たち人間は、言うまでもなく「機械」ではありません。「犬」や「猫」や「牛や豚」でもありません。それらとは何が決定的に違うのかという問題・・・いや、それは言い尽くされるほど言われているにもかかわらず、現実的な対応・・・「知行一如」(「癌とは何か?」の37ページご参照)としての現実的な対応としてはほとんど無視されているという現実を直視することが重要です。

 それでは、無視をされている最大のものは何か?・・・・・それこそが「交流分析」の「ストローク」です。

●(3)深層心理を専門にしている私(藤森)にとって、上記のことは声を大にして発言したいことですが、では「ストローク」とは何かと問われると、経験的、部分的には説明できても、適切かつ十分な説明ができないために、声を大にして言うことが適いませんでした。

 しかし、私が尊敬している飛鳥井雅之先生が30年以上前にお書きになった名著「ストロークということ」をご紹介することで、「ストローク」の重要性を十二分にお伝えできますので、全文を紹介させていただきます。

 広さと深さ・・・十ニ分な解説は、ただひと言、驚嘆すべきことです。深い学識と、十ニ分な実践によって裏付けられた飛鳥井先生・渾身の「ストロークということ」をご堪能ください。
なまじの心理学本・百冊に匹敵するものと思っています。じっくりとご堪能ください。

●(4)『ストロークということ』(飛鳥井雅之先生著、東洋身心医学総合研究所・主幹)

 <交流分析は臨床理論>

 交流分析を学ぶ場合、誰もが構造分析から入り、つまり「P」「A」「C」を学び、次に交流パターンの分析に進み、そしてゲーム分析、人生脚本の分析へと学んでいく傾向が多い。しかし、交流分析を学ぶ場合、筆者は、ストロークから学習されることを切に勧める。と言うのは、このストロークという概念を理解把握していなければ、結局のところ「学問のための学問」になってしまう。
 と言うのは、日常の実際的場面で交流分析の概念を使って、自らの行動を変えようとする時に、このストローク概念をよく理解しているのと、あるいはそうでないのとでは、雲泥の差が生じて来る。

 つまり、何年も何年も人が驚く程に熱心に交流分析を学習したとしても、あるいは、又、何十時間の講座(たとえばマラソン等)を幾度も受講したとしても、知識は増えるであろうが、その人の行動は全然変わらないということがある。つまり、ストローク概念を理解体得していないと結局のところ「ほとけ造って魂入れず」という結果になる。
 それ程に交流分析を日々実践に用いる時、ストロークという概念は重要である。交流分析には、他にいくつかの概念がある。たとえば・・・・・「時間の構造化」というのがあり、これは「人は時間を構造化して生きている」と言う考え方だが、具体的には次のような形のどれかにして生きていると言う。

①ひきこもり(自閉)
②儀式(化)
③雑談
④仕事
⑤ゲーム(こじれた人間関係)
⑥親交(気持ちのよい人間関係)

 このどれかの型をとって時間を構造化している。
 そこで、「ストローク」と「時間の構造化」の概念を用いて人間を把握してみると、こうなる。

<問>人は何を求め、何によって生きているのか?
<答>人は常にストロークを求め、又、ストロークによって生かされている。
<問>それは、どの様に行われているのか?
<答>時間を構造化して行われてる。

 と、この様になる。
 交流分析には、この他にも多くの概念がある。もう一例だけ挙げてみよう。
 「その人は、その人の幼時体験に基づいて決断されたテーマによって書かれた脚本にそって生きている」

 これは、本来は仮説のはずだから語尾が「・・・・・生きているばずだ」となる可きだが、「・・・・・生きている」となっているのは、推定を断定にしているのだから、他の分野、一例として「運命心理学」(たとえばソンディー心理学)のような立場から見たり、あるいは又、原因=結果的思考即ち行動科学的思考を極端に排除するユング心理学の立場からは一種の偏見に見えるかも知れない。

 ところが、交流分析は、臨床場面での観察可能な、つまり臨床体験を説明するための、臨床理論である。実に、実利的な、東洋医学の臨床理論にも似た共通性が認められる。その点は始めたのがエリック・バーンというユダヤの血統の人であったからであろう。ユダヤのタルムードなどの内容は、流石に5000年の歴史を持っているだけに、どこか、東洋の思想と基調を同じくするものがある。

 (この小冊子でも紙数があれば、別項で述べるつもりだが、最も難解とされる東洋医学で言う「気」は、実は交流分析でいうストロークと同質のものであり、この点で、東洋思想とユダヤ思想との接点を観る思いがする。)
 筆者は、日々の臨床体験場面に交流分析の概念をあてはめてみると、毎日、数多くの実例に出合うから、最早や仮説ではないことが体験的に理解出来る。

 <アルコール中毒症は「考えない人」>

 交流分析は、その中に大きく分けて4つの方法を含んでいる。つまり・・・・・
①構造分析(自我の内部構造認知)
②交流パターン分析(人とのやりとりの認知)
③ゲーム分析(こじれた対人関係の認知)
④人生脚本分析(幼時体験に基づく、その人の生きざまの認知)

 となるが、これは、いづれもが問題意識の質と量と状況によって使い分けられる。丁度、大工さんが、材木を削る時にはカンナ、切る時はノコギリ、穴をあけるにはノミとゲンノウという具合に道具を適切に使い分けるのとよく似ている。

 たとえば、アルコール中毒症の人の場合、一般の内科的治療で治ったという話は、ついぞ聞いたことが無い程に難治である。この場合、心療内科的アプローチとして交流分析が力を発揮することになる。

 まず、エゴグラムで構造分析をしてみると、ほとんど一定のパターンを示すことが判るが、(ノ型又はV字型を原型としてW型等も)これは治療には直接すぐには役立たない。そして交流パターンの分析では、相手に適切に反応することなく、幼児的(自己中心的)に勝手に反応する型がわかるが、これも、あまり治療に関しては直接的関係がない。更にゲーム分析に入ると、明らかに第三者を巻き込み、結果的に悪い人間関係を自ら求めている事が解る。そして、それは何回も何回もくりかえされていることが判然とする。

 最後に人生脚本分析に入るが、アルコール中毒症の人の場合、この分析のレベルを用いないと正しい把握はできないし、又、治療も難しい。人生脚本分析で見てみると、その人は、こじれた不快な感情を伴う人間関係をくりかえしながら、結局のところ、自己破壊的な結末に向かって生きていることが判る。

 しかし、その人のその生き方の源泉は何か、ということになると「幼時体験に基づいて決断した」ところの「考えない」ことにあると言うことが判明する訳で、そこで構造分析で既にわかっている「考える私」=「A」を建てなおすことが根本治療の中心となる。
 勿論、過度の飲酒によって、膵臓や肝臓等は当然やられているから一般内科的薬物療法が先ず優先し、第一になるのだが、その根本治療となると、本人の「考える私」の修理が中心となる。そしてその為の細かい技法として、ゲシュタルト・セラピーや内観療法などが併用されることになる。

 だが、しかし、いづれの手法が行われようとも、アルコール中毒症の人は、アルコールで代償される安心と安楽、つまり本当は、心のやすらぎを求めているのであるから、その下敷として、常にストローク概念を把握していなければ、ガソリンの入っていないエンジンの様なもので、実際の役には、とうてい立てない。それ程に、このストロークの概念と言うのは、極めて重要だ。

 <人はパンのみによって生きるにあらず>

 ストロークとは、英語で一般的には「一ふり」という様な意味である。たとえば、テニスのラケットの振りのことを「フォアーハンドストローク」「バックハンドストローク」といったりするのが元々の意味である。
 が交流分析では、まったく別の意味に用いるので注意を要する。

 ストロークとは・・・・・
 「ある人に刺激をもって働きかける」
 ということであり、刺激であるから、その人に挨拶したり、話しかけたりすることは、ストロークしたことになる。
 即ち、交流分析では、その人の存在を認めることをストロークと言う。

 医学的にも、人間には集団本能というものがあり、「長時間の孤独には耐えられない」としているが、交流分析でも、「人は誰でも、存在を認めてほしいという基本的欲求を持っている」と主張する。そして、これが交流分析概念の基本的大前提となっている。
 したがって人間関係の基本的動因は、ストロークということになり、ここから出発して、そのストロークを得る方法論としての「時間の構造化理論」や「ゲーム分析理論」が発展し得ることとなる。

 ここに一つの実験がある。その名称を「孤独実験」という。
 第1図の様にして人を絶対的孤独状況におくと、いろいろと心身両面に亘っての異常変調がおきて来る。

 <藤森注・・・図を掲載できませんので、説明させていただきます。プールに潜水服を着て、フワーッと無刺激状態で浮いているような感じです>

 先ず、時間を経るに比例して、自律神経系統の失調が発生してくる。たとえば、異常な空腹感。のぼせた感じやめまい、吐き気、口渇、動悸、多汗など、丁度、一般に言う更年期障害や自律神経失調症状と呼ばれるのと同様の状態が発生してくる。
 心理面では、理由(いわれ)のない不安、恐怖が生じ、とても耐え難い心理状態となる。そして、時間の経過が永くなるにつれて、幻覚、幻聴が生じて来て、脈拍の不整は、勿論のこと、脳波にまで異常が生じると言う。

 この実験から判ることは、人の脳や、生体を維持するための自律神経系統は、外界からの刺激によって、正常に作動するようになっているということだ。この無刺激の孤独実験を更に続けると、たとえ食物は十二分に与えられていても、結局のところ、人は死んでしまうということになる。

 さて、そこで聖書の中に・・・・・
 「人はパンのみによって生きるにあらず」
 と記されていることの意味が自ずから明白となって来よう。つまり、物としての食物のみ充分に与えられていても、人は決して生存しては行けない。

 <ストロークが不足すると背骨がちぢむ>

 ここに、その事を如実に物語る有名な研究がある。1945年にR・スピッツが発表したものに次の様なものがある。
 二つの捨児養育院の収容児の主として健康状態を比較研究したものである。
 一つの養育院は、非のうちどころの無い程に衛生設備が整い、消毒された乳児用ベッドに一人一人別々にねかされており、マスクをした看護婦は、できるだけ赤ん坊にさわらないように注意をしながら世話をしていた。

 もう一方の捨児養育院は、不衛生な大きな囲いの中に大勢の乳児を入れ、赤ん坊たちは、お互いにふれあって、ボランティアの保母たちにもまつわりついていた。身体的接触のチャンスは、この不衛生な捨児養育院の方がはるかに多かった。

 さて、そこで、清潔な捨児養育院での乳児死亡率は、一般の平均をはるかに上まわる高い死亡率が示されたにも拘らず、後の実に不衛生な捨児養育院での乳児死亡率は一般の平均よりも低かった。
 これは、ウィルヒョウ以来、細菌にそのまとをしぼり、ある意味では病原菌医学でもある近代西洋医学的な考え方では説明しきれぬものがある。強いて言えば、心療内科的領域からの説明として、ふれあいと免疫力との関連に於いて可能かも知れない。
 しかし、この研究結果が事実である以上、その事実を認めた上で、説明し得るだけの仮説を立てる必要が生じて来る。

 又、前の極めて衛生的な捨児養育院では、多くの捨児たちが、マラスムスと呼ばれる脊髄萎縮の状態で死んでいった。この結果、R・スピッツは「大量の肉体的接触は乳幼児の生存にとって絶対不可欠である」との結果を導き出している。
 なぜ大量の肉体的接触が無いと死亡してしまうかについては、前述の「無刺激孤独実験」からも簡単に解る。
 又、他のある捨児養育院での観察記録に次の様なものがある。

 両親に親しく「ふれあう」ことのない捨児達は、多くの場合ホスピタリズム(施設病)と呼ばれる原因不明の症状を呈することが多いが、たとえ症状はなくとも、発育そのものも一般的平均を下まわることが多い。
 しかし、その中で群を抜いて発育の良好な孤児が居た。医師達はビデオカメラで終日観察を続けたところ、その孤児は男児で他に際立って目鼻立ちがよく美男子であったために、そばを通る看護婦が、頻繁に抱き上げていることが判明し、その行為がその児の発育を促進させているという結果となった。

 特に自らが移動し、ストロークを自ら求めることの出来ぬ乳幼児にとっては、ただその与えられた場所で待つしか方法が無い訳で、その与えられた場所が孤独な状況で「ふれあい」の少ない場合は、どうしようもないことになる。
 又、乳幼児は言語を介しての「ふれあい」は未だ無理だから、理屈ぬきの「ハダのふれあい」が生存上不可欠となる。

 <ストロークは無形の食べ物>

 そこで、交流分析では「ハダのふれあい」を「タッチストローク」と呼ぶ。
 又、目くばせ、身振り、手振り、あるいは言語によるものを「認知ストローク」と呼んでいる。
 いずれにしても、
 「あなたが、そこにいることを認めているョ」というストロークがこなければ、人間は生存してゆくことが絶対に出来ない。

 「人間はパンのみによって生きるにあらず」
 とはかなり聞きなれた言葉だが、これを教条主義的に解釈して「物質至上主義ではダメで、やはり心や精神が大切であるということ」という風にしてみたところで、実際場面では、役に立たない。そこで、パンを有形の食べ物とすると、ストロークは、無形の食べ物と言うことが出来る。そして、人はこの両方の食べ物がなければ生存して行くことは絶対に不可能である。ところで、ストロークには、
 タッチストローク と
 認知ストロークがあることは既に述べたが、
 次に、それぞれに又、
 肯定的(+)ストローク と
 否定的(-)ストローク とがある。

 <人は良く認められないと悪くても認めてもらわないと生存してゆけない>

 肯定的(+)ストロークには、
 やさしくなでる。ほほえむ。はげます。気持ちよく挨拶する。等があり、

 否定的(-)ストロークには、
 なぐる。ける。にらみつける。叱る。批判する。干渉しすぎる。無視する。等がある。

 つまり、肯定的ストロークとは、
 受け手の方も気持ちよい感じのするもの。
 否定的ストロークとは、
 受け手の方も不快な感じのするもの。ということになる。

 そこで、前述の「孤独実験」でも、あるいはR・スピッツの「二つの捨児養育院の比較研究」でも解るように、「人間は、長時間の無刺激の状態には絶対に耐えられない」、つまり人は、生存するために何等かの刺激を必要としているから、その刺激が、気持ちの良いものであれば、自律神経系統は順調に作動し、心身共に健やかに生存し得ることとなる訳だが、しかし、その気持ちの良い刺激が得られないとなると、生きて行くためにやむを得ず、不快な刺激(たとえば、こじれた人間関係、病気、特に手術等、事故)を求めるべく活動しはじめることになる。なぜならば、「人は長時間の無刺激には絶対に耐えられないから!!」

 <人生脚本はストロークを得る為の条件づけ>

 そこで、乳幼児期に肯定的(心地よい)ストロークが得られずに育つ場合、どうしても、本人は、否定的(不快な)ストロークを受ける状況を作り出しながら、人や環境を操作して生きて行くこととなる。
 乳幼児期に、その人が、どのようなストロークをもらったかという事は、その後の、その人の生き方に、「条件づけ」として重要な影響を与えることとなる。
 このことから言える事は、子供のいたずらや、反抗、非行等は、肯定的(+)ストロークの飢えの状態なので、せめて否定的(-)ストロークを得て生きて行こうとする、やむにやまれぬ行為であることも了解出来てこよう。
 この否定的(-)ストロークを得るためのシステムが、交流分析で言う「ゲーム」であり、それを繰りかえしながら、人生の終局に向かって行く様子を先どりして観てゆくのが人生脚本の分析である(藤森注・・・「ゲーム」は、後日、「今月の言葉」で詳しくご紹介します。簡単に説明しますと、こじれた人間関係全般を「ゲーム」と言い、そこにはある種のパターンがあります)。

 <条件づけということ>

 幼児期に、自分は肯定的(+)ストロークをもらうに値しないダメな私という様なイメージが出来ると、それを証明してくれるような否定的(-)ストロークを求め、かつ受け入れながら、生きて行くようになる。そして、その人の肯定的(+)な面を証明する肯定的(+)ストロークは、自らに関係なしとして、受け入れ難い傾向を示す様にもなる。
 その事を如実に示す実験がここにある。

 ガラスの水槽に、水と金魚とを入れる。
 (この時点では、金魚は水槽全体を泳ぎまわっている)
 次に、その水槽の中をガラス板で半分に仕切る。
 (この状態では、金魚は半分の広さのところを泳ぎまわっている)

 次に、金魚を十分に空腹状態にしておいてから、金魚のいない方の仕切りの中に、エサをパラパラと落とす。
 (金魚はエサを食べようと何回も何回もガラス板に頭をぶつけている。空腹であることも手伝ってか、かなり長時間にわたってエサを求めてガラス板にぶつかる事をくり返すが、やがて、エサをパラパラと落としても、もうエサを求めてガラス板につき当たることをしなくなる。そして、この時点では勿論、仕切られた片側のスペースだけで泳いでいる)
 人間から見ると、すっかりあきらめたかの様に見えるが、これは、条件づけが出来たと言える。

 そこで次に、中央のガラス板の仕切りを静かに取り除く。
 (一番最初の様に水槽全体を泳げるはずだが、しかし、金魚は中央のガラス仕切板のあったところから外へ出ようとはせずに、以前のように半分のスペースの中を動いている。)
 次に、以前エサを落としたと同じところに、エサをパラパラと落としてみる。
 (金魚は、エサにまったく反応を示さずに相変わらず以前と同じ半分のスペースのみで泳いでいる)
そして、エサは十二分にあるにも拘らず、金魚は飢死してしまう。

 この実験から解ることは、前述のように、否定的ストロークを求め受容するシステム(条件づけ)が出来ていると、人間も又、金魚と同様の行動をする訳だ。この実験でのエサは、人間にとってのストロークにも相当する訳だが、人間には、智慧(教えられずに自ら気づく能力)が備わっているため、その不条理性に気づき、再決断し、日々の中でその行動を更めることが可能となる。
 つまり、人間が他の動物と著しく異なり素晴らしい点は、次のようなところである。

 肯定的ストロークが来ても一切受けつけず、人や環境を操作して否定的な不快感を伴うストロークを発生させて、それを生きる糧にしていた人でも、その不条理性に「気づき」条件付を解除する決断をし、日々の中で時間をかけて肯定的(+)な快いストロークを受けとる訓練をすることによって、より健やかに生きてゆくことが可能となる。
 ここが、金魚と人間とが絶対的に異なるところだが、前述の様な、アルコール中毒症位の重症レベルになると、決して金魚にも負けない位、自己条件付を維持する人もいる。
 アルコール中毒症とまではいかなくとも、少なからず晩酌をしなくては一日が終わらないという人も含めて、何らかの意味でアルコール依存の人には左の五ヶ条傾向が見られる。

 本来は、アルコールに象徴される安心と心の平安、安楽を求めているはずなのに、
①肯定的ストロークをほしがらない。
②肯定的ストロークを受けとらない。
③肯定的ストロークを他に与えない。
④自分で自分に肯定的ストロークを与えない。
⑤否定的ストロークをよく受けとる。

 右の五ヶ条が完備し、程度のひどいもの程、アルコールの量も比例して増える傾向があり、多くの場合、慢性の膵臓炎を持っていることが多い。そして、これ等の人々は最後は、事故死又は癌によって死亡する傾向が極めて多い。(癌あるいはリウマチに代表される自己免疫疾患とストロークとの関連については、紙数が許せば、この小冊子の別項で触れるつもりでいる)

 <無条件のストロークと条件付きのストローク>

 それでは、何がなんでも肯定的ストロークは良くて、否定的ストロークは悪いのかというと、時と場合によって大いに変わって来る。と同時に、これから述べようとする無条件ストロークと、条件付きストロークとに関連してその善悪が変わって来る。以下出来る限り、日常の会話の中に実例を求めて話を進めてみよう。
 先ず、無条件のストロークとは、その人の「存在」に対して与えられるものであり、
条件付きストロークとは、その人の「行動」に対して与えられるものである。
 たとえば、
 多勢の人の中であたりかまわずツバを吐く子供が居たとする。その親は、その子供に向かって「人の迷惑になるから、そういうことはいけない事だョ」といえば、その子供の行動に対して(条件つきで)注意をしたことになる。つまり、その行動がダメだという条件付のマイナスストロークを送った事になる。しかし、その親が次の様に言うと、
 「またツバを吐いた。お前はいくら言ってもダメだ。本当におまえはダメなやつだ」。
 その行為がダメなはずなのに、いつの間にか、その子供そのものがダメになってしまっている訳で、これは、その子供の存在を無条件に否定した事になる。

 そこで、
◎否定的(マイナス)ストロークは条件付(行動に対して)で、
◎肯定的(プラス)ストロークは無条件(存在に対して)と言う公式が成り立つ。
 肯定的ストロークの条件つきと無条件の実例を引くとこうなる。

 子供が学校から帰って来て、テスト用紙を差し出す。(100点である)
親・・・すごいなあー、お前は出来る子供だよ!!
(80点である)
親・・・よくガンバッタな、もう少しガンバレば100点じゃないか、お前は100点とる力があるぞ、よし出来なかったところを一緒に見て見ようじゃないか!!
(30点である)
親・・・一生懸命やったのに残念だったナ。そんな点しかとれないお前じゃないぞ。元々、頭がいいんだから、どこがいけなかったのか一緒に見てやろう。

 以上は、無条件のプラスストロークの例であるが、一口多いと、すぐにマイナスにひっくり返る。
親・・・100点とったからって、いい気になって油断するなョ、お前は元々オッチョコチョイなんだから。
親・・・80点じゃしょうがないナアー。お前の頭じゃ、それがせいぜいかな。
親・・・30点とるなんてのは、人間じゃない。バカ、チョン、死んじまえ。

 何点をとったかではなく、人間生きて行くためには絶対的にストロークが必要なのであるから、この材料を使って、如何にストロークを与えるかが目的なのであるから、ここで、呉々も目的と手段とをとりちがえることのない様にしなければ、生きていることの意味すらも失われかねなくなってくる。

 あるいは会社等の場面では、
課長・・・君、この書類を明日の朝迄にまとめて来てくれたまえ!!明日の朝一番で会議に提出しなくてはならんのだョ!!よろしくたのんだョ!!
 (頼まれた部下は、徹夜をして仕上げて来て、その朝)
部下・・・課長、昨日の書類出来あがりました。
 (その内容は素晴らしくよく出来ている)
課長・・・(眼を通しながら)よく出来てるな。流石に君だ。君ならよくまとめてくれると思っていたよ。ありがとう!!
 これは、部下の人間としての存在にストロークしているから無条件のプラスストロークという訳で、この部下は徹夜をしているにも拘らず、活き活きとその日も仕事を終えるにちがいない。ところが、条件付のストロークの場合は、

課長・・・(眼を通しながら)よく出来てるな。実によくまとまった資料だ。大いに助かったよ、ありがとう。
 たしかに肯定的ストロークには、ちがいがないし、ほめてもいるが、行動(出来上がった結果にのみ)にストロークしている訳で、よい資料を作ればオーケーだが、そうでなければダメという感じになっている。もっと他の例では、絵画展や書道展を観に行った人が、「素晴らしい額縁ですネ」「ずい分と丁寧に画いていますネ」「いい絵の具を使ってる」「いい墨ですネ」というのと大同小異である。つまり、その人に対してストロークをしていない訳だから、「存在に対するストローク」になっていない。したがって、ほめられながら、もう一つ、もの足りない感じがする。

 そこで否定的ストロークの場合は、
課長・・・(書類に眼を通しながら)こりゃダメだ。こんなまとめ方じゃとても会議に提出できん。君、もっときちんとまとめてくれなけりゃ困るョ!!
 これは、マイナスのストロークという訳だが、その行為に対してのみであるから条件がついていて、書類さえしっかり出来上がればあなたはオーケーということになる。が、しかし、
課長・・・(書類に眼を通しながら)なんだこの書類は、これでも君は、まとめたつもりかネ!!ダメだな君というやつは、まとめるという能力が零だナ。これじゃ中学生以下だョ!!
 これは行為を通じて、存在そのものを否定していることになるから、無条件のマイナスストロークになる。かりにこの様なことが現実におこったとしたら、その部下は徹夜の疲労と重なって風邪をひき翌日は、会社を休むはずである。と言うのは、風邪にはじまりアレルギーから癌に至る迄の自己免疫疾患は、マイナスのストローク(不快感)の積立預金が満期になる時の交換品でもあるからだ。

 <ターゲットストローク>

 その他にもこのストロークに関していろいろな概念がある訳だが紙数の都合で、最後にターゲットストロークについて述べてみよう。
 ほしい時に、ほしい人からのストロークをターゲットストロークつまり的を得たストロークという。
私事になるが実例を挙げてみよう。

 筆者は、母子家庭で育った為、生来ストローク不足勝ちで育って来たが、小学校入学以来、乱暴者のレッテルを貼られ、それを受け口としてマイナスストロークを得る様努力して小学校六年生迄来た。さらに四~五年生は登校拒否で小学校に行っていない訳だが、六年生の卒業の時期になってやはり、小学校は卒業しておかねばという母親の計らいで、卒業二ヶ月前に、ある小学校に転校入学したが、その時の担任の金谷善弘先生に頂いたストロークが、筆者にとっての記憶している最初のターゲットストロークになった。

 卒業記念に各科担当の先生方にサインを求めて歩いた訳だが、そこで、金谷善弘先生は、
 「君はちっとも悪い子じゃなかった」
 と書いて下さった。事実、先生は、それ迄の一年生からの通信簿を全部書き替えてくれていた。その後、そして現在も、二十四時間勤務の最重度の心身障害児の教育にあたっておられる。この先生から頂いたターゲットストロークは、実は筆者が自分で自覚することなく永年求め続けていたもので、この時以来、「乱暴者の私」のイメージは払拭された。
 まさに無条件の肯定的ストロークは、その人に影響を与え、その人の一生を左右する程の絶大なる力となる。

 <交流分析の目指すところを支えているのはストロークである>

 交流分析の目指しているものは、
 「自律性」である。そして、それの為には、主要な道具を使う。それは、
①気づき
②自発性
③親密さ 
  であるが、

 これ等の道具に研きをかけ、その性能をたかめるのは、とりもなおさず、無条件のプラスストロークである。何事に依らず先ず「気づく」事から出発する訳であるが、プラスのストロークが少ないと「気づきにくくなる」と言う事実は見逃してはならない。つまり、人は、ほめられてこそ、その非を悟るのであり、けなされる(マイナスストローク)と益々「気づき」は失われてしまう。これは丁度イソップ物語の「北風と太陽」の比喩でも解る。
 又、更に「自発性」(やる気)もプラスストロークによって益々増大される。昨今の若者の様な「無気力」な状態は、無条件のプラスストロークの絶対的不足に由来している。それは、「気」とはストロークのことだからである。やる気とは、プラスの無条件ストロークの貯金がたまって自然に生じて来るものである。

 しかし、条件付のプラスのストロークばかりもらって生きて来ると、外見は「イイ子ちゃん」であるが、「もうたくさん!!私を無条件に認めて!!」という身体言語であるところの吐き気(神経性嘔吐)が来るから、よくよく条件付のプラスストロークには注意を要する。最近の「イイ子ちゃん」の突然変身した登校拒否児やら、思春期ヤセ症に始まり、はては脊柱側彎症に至るまで(R・スピッツの研究参照)現代は、やたらに無条件のプラスのストロークが不足している時代でもある。当然、マイナスストロークを得る行為は増え続ける訳で、凶悪犯罪は勿論のこと離婚から終局は戦争に至る迄、マイナスストロークは驚く程にはびこっている。今ここで、最も身近にいる私自身に無条件のプラスストロークを与えることから始めよう。
 「天上天下唯我独尊」!!

<<参考図書>>
①「続セルフコントロール」池見酉次郎、杉田峰康、新里里春共著、創元社
②「自己改造法」久米勝著、千曲秀版社
③「人生ドラマの自己分析」杉田峰康著、創元社
④「孤独よさようなら」国谷誠朗著、集英社
⑤「愛なくば」池見酉次郎著、(財)日本心身医学協会
⑥「自己実現への道」M・ジェイムス、D・ジョングウォード共著、本明寛、織田正美、深沢道子共訳、社会思想社

く文責:藤森弘司>

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