2015年5月15日 第154回「今月の言葉」
●(1)私(藤森)は、数年前、有名な3~4個の「江戸しぐさ」に触れて、あまりの素晴らしさに驚嘆しました。それからは散歩の時などに、「傘かしげ」や「肩引き」などを参考にしながら、未熟な人間性の訓練に活用してきました。そういう意味では、私にとってはとても良い教材でした。
しかし、下記の(2)~(4)をお読みいただければご理解いただけると思いますが、あまりにも杜撰であり、また、歴史の捏造やオカルトチックな内容にはショックでした。 「江戸しぐさ」がいかに酷い歴史の捏造でオカルトチックか・・・それを具体的にご紹介します。 |
●(2)<第1章「江戸しぐさ」を概観する(17p)>より一部をご紹介します。
◆文部科学省の教材にまで登場(22p)・・・・・しかし、もっとも危惧すべきは教育の現場における浸透である。 その小学校5・6年生用では、「礼儀正しく真心をもって 江戸しぐさに学ぼう」という小見出しで「江戸しぐさ」を正式に教材として用いている。ちなみに道徳は現状の学校制度では正式な教科ではないため、検定済教科書は存在しないが、そのために文部科学省が統一の教材を作り、教科書出版社がその副読本を教育現場に向けて販売するという形式をとっている。 道徳教材としての「江戸しぐさ」導入はここ最近で始まったものではなく、小学校の道徳副読本では東京書籍『明日をめざして』、学校図書『かがやけ みらい』が早くから「江戸しぐさ」を導入していた。 さらに公民教科書では、育鵬社の『中学社会新しいみんなの公民』が平成24年度版からコラムとして「江戸しぐさ」を好意的にとりあげている。 これらの教科書・教材・授業例では、いずれも「江戸しぐさ」が江戸時代から現代まで伝わったのは自明のこととして扱われており、実際には江戸時代のものとみなす根拠がないことには触れられていない。 ◆恐怖の「江戸っ子狩り」と隠れ江戸っ子の苦難(24p)・・・・・さて、「江戸しぐさ」は江戸の商人の間では広く共有された行動哲学だったという。しかし、最近までその内容があまり知られていなかったことも事実である。では、なぜ「江戸しぐさ」はつい最近まで忘れられていたのだろうか。 <<「江戸っ子を一部の官軍は目の色を変えて追い回した。“江戸っ子狩り”は嵐のように吹き荒れた。摘発の目安は“江戸しぐさ”。ことに女、子どもが狙われた。私たちの目にはふれないが、ベトナムのソンミ村、アメリカネイティブのウーンデッドニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという話もあながち嘘ではないかもしれない。それらは、史実の記録はおろか、小説にも書かれていないが」(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』157~158頁)>> この「江戸っ子狩り」の魔手を逃れるため、多くの江戸っ子が地方に逃れて隠れ江戸っ子になったという。その江戸っ子脱出を手引きしたのは幕臣の勝海舟で、領国から船を出して武蔵や上総に何万という人を送った。彼らは多くは神奈川、埼玉、遠くは北海道の函館まで逃れて「江戸しぐさ」を伝える江戸講の組織を維持し続けていた。 また、「江戸しぐさ」はもともと口伝で書き物を残すことを禁じられていた上に、江戸っ子たちが江戸に関する記録を薩長勢力にわたすことをこばんだすべてを焼き捨ててしまった。そのため、「江戸しぐさ」に関するわずかな覚書まで失われたのだという。 ともあれ、「江戸しぐさ」は勝の尽力で命脈を保つことができたのだという。 越川氏の言うウーンデッド・ニーは1890年、第7騎兵隊が行ったスー族虐殺の舞台となったサウスダコタ州の地名である。最近では、映画『アイアンマン3』(2013)における悪役マンダリンの反米演説の中でも触れられていた。その犠牲者数は、多く見積もって約300人とされる。 ソンミ村は1968年、ベトコン追討の名目で米軍が非武装の民間人504人を殺害した場所である。この2つの地名は、アメリカ合衆国の負の側面を示す例として、70~80年代のアメリカ公民権運動の中でよく並べて言及された。 また、「江戸っ子狩り」を記した文献は、古文書や記録どころか小説にさえないことを「江戸しぐさ」の伝承者という人物さえ認めている。証拠が残っていないのは虐殺のため、その虐殺を記した証拠も残っていない、これではまるで話にならないではないか。 また、新政府は1868年5月の江戸開城後、同年7月に上野戦争で彰義隊ら旧幕府勢力を打ち破るまではむしろ旧幕府勢力による略奪や兵士の暴行や殺害に悩まされており、上野戦争後は長岡・会津・箱館政府との戦いに相次いで兵を繰り出さなければならなかったため、「江戸っ子狩り」など行える余裕はなかった。 ◆1980年代、『読売新聞』に突如現われた「江戸しぐさ」(30p)・・・・・「江戸しぐさ」という言葉が文献上、最初に現われたのは1981年8月28日付『読売新聞』の「編集手帳」においてである。 その後、1983年2月23日付同紙「編集手帳」でも、「江戸の良さを見なおす会」の芝三光という人物が、「江戸町民のしぐさ」を「文献に当たったり、古老から聞き出したりして掘り起こす」作業をしていること、その「江戸しぐさ」を子供たちに演技してもらうことで、子供たちの間に新しいマナーが生まれるのではないかと期待していることなどが記されている。 また、1983年5月31日付、同紙都民版朝刊には「『江戸しぐさ』に学ぼう」という記事が掲載されている。その中では、芝を代表とする「江戸の良さを見なおす会」が「文献にあたったり古老に尋ねたりして」収集した「江戸しぐさ」を高校生に実演させたビデオを作成していることが報じられている。ただし、記事によるとその内容はあいさつの仕方などで、現在の「江戸しぐさ」と同じものではなさそうである。 1985年10月16日、同紙「論点」に「江戸の良さを見なおす会主宰」の肩書で芝三光の「今こそ必要な『江戸しぐさ』人間関係円滑化の知恵」という投稿が掲載されている。 <<見ず知らずの人に出会ったとき、敵対行為をせず、天子・将軍よりも偉い人と思って接する江戸しぐさの気構えが身に付いていれば、無差別犯罪や悪徳商法などの非社会的な犯罪行為の横行する余地はないでしょう。 以上、芝が「江戸しぐさ」を説き始めた当初、普及の主な舞台は『読売新聞』だったことがうかがえる。 |
●(3)<第2章検証「江戸しぐさ」パラレルワールドの中の「江戸」(39p)>より一部をご紹介します。
◆個々の「江戸しぐさ」を解剖する(40p)・・・・・本章では、「江戸しぐさ」の中でも代表的とされるものについて、個別の検討を行っていきたい。 ◆「傘かしげ」はありえたか(40p)・・・・・「江戸しぐさ」を代表する三大しぐさは「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」だと言われている。 <<雨や雪の日、道路ですれ違うとき、相手も自分も傘を外側に傾けて、一瞬、共有の空間をつくり、さっとすれ違う。お互いの体に雨や雪のしずくがかからないようにするとともに、ぶつかって傘を破らないようにする実利的な意味も含んでいた(『商人道』、93頁)>> しかし、これは誤解に基づく創作である。 江戸時代も末期の天保年間(1830~1844)頃には江戸でも和傘の普及が進むが、それでも贅沢品という性格が強かった。江戸っ子たちは雨具として、主に頭にかぶる笠や蓑を用いていたのである。 江戸でも大店の商家では、急な雨の際に客に傘を貸し出すサービスをすることもあったが、これはその傘に入った屋号を目立たせることによる宣伝という意味が大きかった。 したがって、江戸で傘を差したもの同士がすれ違うという状況が、特殊なしぐさを必要とするほど頻繁だったかどうかには疑問がある。 そして、和傘はスプリングが入った洋傘に比べ、すぼめたまま手で固定するのが楽な構造になっているのだ。 つまり、雨の日に狭い路地で傘を差す人同士が出会っても、一方もしくは双方が傘をすぼめればいいだけで傾ける必要はない。 つまり、路地で「傘かしげ」をやると、すれ違う相手の代わりに人の家の中に水をぶちまけるおそれがあったのである。 ◆海軍式の「蟹歩き」(45p)・・・・・また、「蟹歩き」は次のようなものである。 <<辺しか歩けないような道ですれ違うときには、互いにカニのように横歩きすること。一見、ユーモラスなしぐさだが、とてもつつしみ深い、“往来しぐさ”だ。聞くところ、まだ、江戸教育のよさを知っていた先生が残っていた戦前の小学校では、雨の日、体育館で児童たちに“蟹歩き”の練習をさせていたそうだ。(『商人道』97~98頁)>> まず、教師が「蟹歩き」を小学校の体育館でおおっぴらに練習させていたというのは、「江戸しぐさ」は秘伝だったという話と矛盾している。 つまり、「蟹歩き」を小学校で練習していたというのは、1930年代の横浜の小学校でのことと考えてよいだろう。 なぜ、「江戸しぐさ」では同時に進むことにこだわるのだろうか。 海軍では、艦船の狭い通路を複数の兵士が動く必要から、体を横にしてすれちがう訓練は必須だった。太平洋戦争開戦前夜の世相において、軍港横須賀に近い横浜の小学校で軍事演習まがいの授業があったとしてもおかしくはない。「蟹歩き」の起源が海軍の教練内容にある可能性は高い。 ◆電車が走る江戸の街(47p)・・・・・これも代表的な「江戸しぐさ」とされる「こぶし腰浮かせ」については、次のような解説がなされている。 <<川の渡し場で、乗合舟の客たちが舟の出るのを待っているとき、あとから乗ってきた新しい客のために、腰かけている先客の2~3人は、腰の両側にこぶしをついて、(あるいはこぶし分)軽く腰を浮かせ、少しずつ幅を詰めながら、一人分の空間をつくる。・・・現在、電車やバスでこんなしぐさを見るのはまれになった(『商人道』98頁)>> まず最初に言っておかねばならないのだが、浮世絵や名所図会などからうかがえる江戸時代の渡し船には、座席にあたる構造がない。 このような渡し船で後から来た人のために座る場所を作るなら、腰を軽く浮かせるような小さい動作ではなく、いったん腰を上げた方がいいだろう。 また、文部科学省『私たちの道徳小学校5・6年』の「江戸しぐさ」解説ページのイラストでは、茶店の縁台と思しきものに二人座っているところにもう一人がやってきたので席をつめる様が描かれている。 そのため、そのイラストでは客が湯呑を手に持って、縁台に一人でも多く座らせるために席をつめる、という行動をとっている。これは、茶店の縁台はただ座ればいいという空間ではなく、くつろぐための空間でもあることを忘れた(或いは知らない)人の発想である。 さて、江戸時代の渡し船は一般に川の両岸の渡し場を往復するものである。また、幕末の作ではあるが隅田川の船着場での人々を描いた『乗合船恵方萬歳』(慶応2年=1866初演。初演時は人形所作事、後に舞踊化)で見られるように、船に乗る人は船着場に集まり、出発直前に船頭の合図で一斉に船に乗るものだった。 ◆時間泥棒に支配された江戸(57p)・・・・・「江戸しぐさ」には、「時泥棒は十両の罪」という言い回しもあったという。 <<江戸時代の大名時計は1分刻みの精巧さだったので、仕えていた武士はもちろん、将軍家御用達の商人たちも時間には正確にならざるをえなかった。日の出、日の入りを基準に、現代でいえば夏時間を採用していた。一時は2時間6分から1時間37分と幅があったという。複雑なこの時間に合わせて、商人は厳密に行動していたから、突然、押しかけて相手の都合にかかわりなく、勝手に時間を奪う行為は“時泥棒”といって厳しく禁じられた。金銭は借りてもあとで返せるが、過ぎた時間は取り返しがつかない。時泥棒は弁済不能の10両の罪といわれた。訪ねるときは事前に書きつけを送って了承を得ておくか、アポイントをとっておくのがならわしで“訪問しぐさ”といった。(中略)現代では電話しぐさに応用できるだろう。“突然のお電話で失礼ですが、少し、お時間をいただけますが?”と断る。相手の都合をたずねないと“時泥棒”になる(『商人道』57~58頁)>> 江戸時代の刑法では、金品を盗んで死罪に問われるかどうかの目安となった被害額は10両だった。つまり、「時泥棒は10両の罪」というのは、死罪にも値する罪だという意味である。 そもそも、一般の武士や商人は大名時計と同じ精度の時計を持っていないし、大名時計を見ながら仕事をするわけではない。正確な時計が実用性を持つのは、持ち主だけでなく他の人も同じ時刻制度に従って行動するという前提であればこそである。そして、現実の江戸時代にはそのようなものはなかった。 ◆オランダ人の見た「時間にルーズな日本人」(60p)・・・・・江戸時代、都市の住人は寺の鐘、あるいは夜間なら夜回りの拍子木で時刻を知った。落語「時そば」(上方落語では「時うどん」)の夜泣き蕎麦屋も、それで知った時刻を客に告げたわけである。寺などでは長い燈芯を燃やして時間経過の目安にしたわけだが、現代の時計のように厳密なものではない。 オランダ海軍大尉として日本に西洋式操船を伝えたウィレム・カッテンディーケ(1816~1866、後に海軍大臣)の『長崎海軍伝習所の日々』の「日本人の性癖」という章には次のようにある。 <<日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ。我々はまた余り日本人の約束に信用が置けないことを教えられた。或る時、勝麟太郎が、新造カッターを暗礁に乗り上げてしまったので、同船の艫に一大修理を施す必要が起こった。いろいろ苦心の結果、我々はやっと船の修理を行うに適した場所を発見したので、次の満潮時に修理台に引き揚げるつもりで材木を注文し、そうして非常な苦心の後、漸くその船を修理台に引き揚げようとする段になって、材木がまだ届いていないという始末で、また次の満潮時まで待たなければならなかった。万事すべてがこの通りだ。 私は数回日本人との交渉の席に列したが、その交渉をしくじらせないように纏めるには、人並みの辛抱強さでは、とてもうまくゆかないと思った。日本人は交渉が始まろうとするのに、何時までも座り込んで、喫煙したり、あたりを眺めたり、あたかも気晴らしにでも出掛けているようなつもりらしい。そしてこうした場合にもかかわらず、お茶を呑んだり、菓子を食べるといった呑気さである。 日本人はお正月には、しこたま祝い酒を呑んで方方回礼をする。なかには出島の我々の館にまでやって来る者もあって非常に困った。この回礼は一般の慣習で、身分のもっとも卑しい階級の者にいたるまで怠らない。そんな工合だから大そう時間を潰し、私の許にいる日本人の馬丁は、その朋友全部に回礼を済ますのに、まる二日を要したと言っていた。>> どうやらカッテンディーケは、日本人の時間観念のルーズさにずいぶん悩まされたようである。 橋本毅彦氏は、カッテンディーケの文章を引用した後、西洋においても労働における時間規律が重視されるようになったのは18世紀以降で、さらに19世紀の鉄道普及が人々の時間意識に革命をもたらしたことを指摘し、日本人に時間規律の概念が定着したのは開国後に西洋文明の仕組み、特に鉄道・工場・学校・軍隊などの制度を一挙に導入した結果だとしている(橋本毅彦・栗山茂久編著『遅刻の誕生』三元社、2001年、序文)。 さらに橋本氏によると、庶民レベルでの時間規律の浸透が図られたのは大正期のことであり、その象徴が大正9年に東京教育博物館(現国立科学博物館)で開催された「時」展覧会とそれをきっかけに制定された「時の記念日」(6月10日)だったという(『遅刻の誕生』所収、橋本毅彦「蒲鉾から羊羹へ・・・科学的管理法導入と日本人の時間規律」)。 いいかえると、大正期の東京においてもそのようなイベントを必要とするほど庶民への時間規律定着は遅れていたのである。 |
●(4)<第5章 オカルトとしての「江戸しぐさ」偽史が教育をむしばむ(157p)>より一部をご紹介します。
◆高学歴者もオカルトにはまる(181p)・・・・・専門家も荒唐無稽な話にリップサービスをしてしまうことがあるということは、その手の話を受け入れるに際して、専門知識でさえ、障害にはならない(ことがある)ということである。 いわんや、関連する専門知識を欠いた人なら、いかに他の分野で学識に富んでいたとしても、荒唐無稽な話を信じ込んでしまうことは避けようがない。特に、学問の細分化と孤立が進んだ現代では、その傾向は強まりこそすれ、たやすく解消には向かわないことが予想できる。 詐欺師にとって最もありがたいカモは、「先生」と呼ばれる職業の人だという話がある。 人が話を受け入れる基準は、その内容の荒唐無稽さ以上に、その人が抱いている欲求と密接な関係があるもののようである。詐欺師は相手の欲求を見抜き、それに応じて耳当たりのいい話を提供する。 ◆企業経営者・コンサルタントのオカルト嗜好(183p)・・・・・荒唐無稽な話を広げる媒体といえば、まず筆頭に挙げられるべきはマスコミだが、意外と影響力があるのが経営コンサルタント・投資コンサルタント・マーケティング業者などによる拡散である。 経営・投資コンサルタントが、顧客相手にオカルトなど荒唐無稽な話を持ち出す最大の理由は、本人が好きで信じているからなのだろうが、それに素直に耳を傾ける顧客は、その手の話を受け入れやすい性格、もしくは心理状態ということになる。それは結果として、カモになりやすい顧客を選別する手段ともなっているわけである。 ◆オカルト好きコンサルの代表・船井幸雄(184p)・・・・・オカルト好きのコンサルタントで最大の人物と言えば、年間クライアント数約5000を誇る船井総合研究所の創業者・船井幸雄(1933~2014)であろう。 船井氏は、自分が支援するオカルト物件を「本物」と呼んでいた。船井氏のいう「本物」の筆頭といえば、有用微生物群ことEM菌であろう。 ちなみに、船井氏の人脈は主に元陸上自衛隊陸将補・池田整治氏(1955~)を介して、越川氏の「NPO法人江戸しぐさ」とつながっている。 <<明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。 実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。>> この池田氏のコーナーの存在から察するに、どうやら船井も「江戸しぐさ」を「本物」とみなしていたようである。 <<「江戸しぐさ」にまともな関心をよせた人、越川禮子 牛島靖彦等がともに察する仕事、マーケッティングリサーチに従事していた事は興味深い。(“マーケッティングリサーチ”は原文ママ)>> 越川氏も牛場氏も「察する仕事」には違いないが、今まで述べてきたことからすれば「江戸しぐさ」の荒唐無稽さも、彼らは経営コンサルタント業ということで、越川氏や牛場氏と同業者だったわけである。 |
く文責:藤森弘司>
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