2015年5月15日 第154回「今月の言葉」
驚愕!江戸しぐさ②ー②

●(1)私(藤森)は、数年前、有名な3~4個の「江戸しぐさ」に触れて、あまりの素晴らしさに驚嘆しました。それからは散歩の時などに、「傘かしげ」や「肩引き」などを参考にしながら、未熟な人間性の訓練に活用してきました。そういう意味では、私にとってはとても良い教材でした。

 しかし、下記の(2)~(4)をお読みいただければご理解いただけると思いますが、あまりにも杜撰であり、また、歴史の捏造オカルトチックな内容にはショックでした。
 しかも、あまりにも酷い歴史の捏造が溢れている「江戸しぐさ」が文科省を始め、マスコミなどに高く評価されたり、道徳教材に使われたり・・・この酷さには、ただ、ただ驚愕です。

 「江戸しぐさ」がいかに酷い歴史の捏造でオカルトチックか・・・それを具体的にご紹介します。

●(2)<第1章「江戸しぐさ」を概観する(17p)>より一部をご紹介します。

◆文部科学省の教材にまで登場(22p)・・・・・しかし、もっとも危惧すべきは教育の現場における浸透である。
 文部科学省では第二次安倍政権下での教育改革を受けて、平成26年度から新しい道徳教材として『私たちの道徳』を作成した。

 その小学校5・6年生用では、「礼儀正しく真心をもって 江戸しぐさに学ぼう」という小見出しで「江戸しぐさ」を正式に教材として用いている。ちなみに道徳は現状の学校制度では正式な教科ではないため、検定済教科書は存在しないが、そのために文部科学省が統一の教材を作り、教科書出版社がその副読本を教育現場に向けて販売するという形式をとっている。

 道徳教材としての「江戸しぐさ」導入はここ最近で始まったものではなく、小学校の道徳副読本では東京書籍『明日をめざして』、学校図書『かがやけ みらい』が早くから「江戸しぐさ」を導入していた。
 また、中学校についても、日本標準『中学校道徳副読本1年 みんなで生き方を考える道徳』、学研『中学生の道徳1年 かけがえのないきみだから』、日本文京出版『中学校道徳 あすを生きる』、正進社『中学生 キラリ☆道徳』などの道徳副読本が「江戸しぐさ」をとりいれた授業に対応できる内容になっている。

 さらに公民教科書では、育鵬社の『中学社会新しいみんなの公民』が平成24年度版からコラムとして「江戸しぐさ」を好意的にとりあげている。
 ちなみに、沖縄県石垣市・与那国町・竹富町で構成する教科用図書八重山地区採択協議会では、2011年夏に中学公民教科書としてこの育鵬社版を採択したが、竹富町がそれを拒否して他社の教科書を採用したため、竹富町の決定を尊重する沖縄県教育委員会と採択協議会の決定を後押しする文部科学省まで巻き込んだ騒動になった(2014年、沖縄県教委が竹富町の採択協議会からの離脱を認め文部科学省が違法確認訴訟断念という形で一応決着)。

 これらの教科書・教材・授業例では、いずれも「江戸しぐさ」が江戸時代から現代まで伝わったのは自明のこととして扱われており、実際には江戸時代のものとみなす根拠がないことには触れられていない。
 すでに平成24年度の時点で公民の教科書検定にパスした上、平成26年度からの文部科学省の道徳教材への正式採用で、「江戸しぐさ」はいわばお上のお墨付きとなった、ということになる。

◆恐怖の「江戸っ子狩り」と隠れ江戸っ子の苦難(24p)・・・・・さて、「江戸しぐさ」は江戸の商人の間では広く共有された行動哲学だったという。しかし、最近までその内容があまり知られていなかったことも事実である。では、なぜ「江戸しぐさ」はつい最近まで忘れられていたのだろうか。
 「NPO法人江戸しぐさ」の越川禮子氏によると、その原因は、幕末・明治期に薩長勢力が行った「江戸っ子狩り」に求められる。

<<「江戸っ子を一部の官軍は目の色を変えて追い回した。“江戸っ子狩り”は嵐のように吹き荒れた。摘発の目安は“江戸しぐさ”。ことに女、子どもが狙われた。私たちの目にはふれないが、ベトナムのソンミ村、アメリカネイティブのウーンデッドニーの殺戮にも匹敵するほどの血が流れたという話もあながち嘘ではないかもしれない。それらは、史実の記録はおろか、小説にも書かれていないが」(越川禮子『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』157~158頁)>>

 この「江戸っ子狩り」の魔手を逃れるため、多くの江戸っ子が地方に逃れて隠れ江戸っ子になったという。その江戸っ子脱出を手引きしたのは幕臣の勝海舟で、領国から船を出して武蔵や上総に何万という人を送った。彼らは多くは神奈川、埼玉、遠くは北海道の函館まで逃れて「江戸しぐさ」を伝える江戸講の組織を維持し続けていた。

 また、「江戸しぐさ」はもともと口伝で書き物を残すことを禁じられていた上に、江戸っ子たちが江戸に関する記録を薩長勢力にわたすことをこばんだすべてを焼き捨ててしまった。そのため、「江戸しぐさ」に関するわずかな覚書まで失われたのだという。
 薩長の子孫からしてみれば、濡れ衣もいいところである。また、勝海舟の履歴にもそのような事実はない。

 ともあれ、「江戸しぐさ」は勝の尽力で命脈を保つことができたのだという。
 ところが、1938年施行の国家総動員法で集会が禁じられたため、江戸講はその組織を維持できなくなった。さらに多くの隠れ江戸っ子が戦争に駆り出されて帰ってこなかったため、地方の江戸講での伝承は絶えてしまった、というわけである。

 越川氏の言うウーンデッド・ニーは1890年、第7騎兵隊が行ったスー族虐殺の舞台となったサウスダコタ州の地名である。最近では、映画『アイアンマン3』(2013)における悪役マンダリンの反米演説の中でも触れられていた。その犠牲者数は、多く見積もって約300人とされる。

 ソンミ村は1968年、ベトコン追討の名目で米軍が非武装の民間人504人を殺害した場所である。この2つの地名は、アメリカ合衆国の負の側面を示す例として、70~80年代のアメリカ公民権運動の中でよく並べて言及された。
 とはいえ、どちらの事件も凄惨ではあるが犠牲者は数百人単位である。一方、幕末期における江戸町方の人口は新政府による調査で町奉行・寺社奉行支配合わせて54万人近かったとされる。そのうち数百人、それも伝承の担い手ではない女子供を主に殺害することで、広く共有された伝承が絶えるということがありうるだろうか。

 また、「江戸っ子狩り」を記した文献は、古文書や記録どころか小説にさえないことを「江戸しぐさ」の伝承者という人物さえ認めている。証拠が残っていないのは虐殺のため、その虐殺を記した証拠も残っていない、これではまるで話にならないではないか。
 ちなみに事実としては、幕末・明治初期における江戸町方の記録は大量に残っており、意図的に記録が隠蔽された形跡はない。

 また、新政府は1868年5月の江戸開城後、同年7月に上野戦争で彰義隊ら旧幕府勢力を打ち破るまではむしろ旧幕府勢力による略奪や兵士の暴行や殺害に悩まされており、上野戦争後は長岡・会津・箱館政府との戦いに相次いで兵を繰り出さなければならなかったため、「江戸っ子狩り」など行える余裕はなかった。
 「江戸しぐさ」伝来譚における「江戸っ子狩り」の話は眉唾物とみてよいだろう。

◆1980年代、『読売新聞』に突如現われた「江戸しぐさ」(30p)・・・・・「江戸しぐさ」という言葉が文献上、最初に現われたのは1981年8月28日付『読売新聞』の「編集手帳」においてである。
ただし、その中では「江戸の良さを見なおす会」の江戸文化研究について、江戸町人の独特の振りである「江戸しぐさ」も研究テーマの一つ、という扱いになっている。

 その後、1983年2月23日付同紙「編集手帳」でも、「江戸の良さを見なおす会」の芝三光という人物が、「江戸町民のしぐさ」を「文献に当たったり、古老から聞き出したりして掘り起こす」作業をしていること、その「江戸しぐさ」を子供たちに演技してもらうことで、子供たちの間に新しいマナーが生まれるのではないかと期待していることなどが記されている。

 また、1983年5月31日付、同紙都民版朝刊には「『江戸しぐさ』に学ぼう」という記事が掲載されている。その中では、芝を代表とする「江戸の良さを見なおす会」が「文献にあたったり古老に尋ねたりして」収集した「江戸しぐさ」を高校生に実演させたビデオを作成していることが報じられている。ただし、記事によるとその内容はあいさつの仕方などで、現在の「江戸しぐさ」と同じものではなさそうである。

 1985年10月16日、同紙「論点」に「江戸の良さを見なおす会主宰」の肩書で芝三光の「今こそ必要な『江戸しぐさ』人間関係円滑化の知恵」という投稿が掲載されている。
 その文章は「江戸しぐさでは、足を踏まれた者も謝ります。先を見通して足を引っ込めなかったウカツさを反省するのです」という文で始まり、「江戸しぐさ」に関する具体的説明もないまま、次のようにその効能を宣伝していた。

<<見ず知らずの人に出会ったとき、敵対行為をせず、天子・将軍よりも偉い人と思って接する江戸しぐさの気構えが身に付いていれば、無差別犯罪や悪徳商法などの非社会的な犯罪行為の横行する余地はないでしょう。
いま深刻な社会問題になっているいじめや体罰も、体力や年令に応じたしつけやしぐさを知っていれば、テレビを騒がせるような悲惨な事態にはならないでしょう>>

 以上、芝が「江戸しぐさ」を説き始めた当初、普及の主な舞台は『読売新聞』だったことがうかがえる。

●(3)<第2章検証「江戸しぐさ」パラレルワールドの中の「江戸」(39p)>より一部をご紹介します。

◆個々の「江戸しぐさ」を解剖する(40p)・・・・・本章では、「江戸しぐさ」の中でも代表的とされるものについて、個別の検討を行っていきたい。
 序章で述べた通り、「江戸しぐさ」は1980年代に提唱されはじめたものであり、芝三光をはじめとする現代人の創作である。
 ゆえに、実際の江戸時代の風俗とかけ離れていたり、江戸時代においては使う意味がない、或いは使うと逆に不利益を被りそうなもののオンパレードである。
 けれども、逆に現代のマナーとして考えると理屈が通っていたりするものもある。
 個々の「江戸しぐさ」の検討を通じて、それらが生み出された背景を考えてみたい。

◆「傘かしげ」はありえたか(40p)・・・・・「江戸しぐさ」を代表する三大しぐさは「傘かしげ」「肩引き」「こぶし腰浮かせ」だと言われている。
 その「傘かしげ」について、『商人道「江戸しぐさ」の知恵袋』(以下『商人道』)では次のように説明される。

<<雨や雪の日、道路ですれ違うとき、相手も自分も傘を外側に傾けて、一瞬、共有の空間をつくり、さっとすれ違う。お互いの体に雨や雪のしずくがかからないようにするとともに、ぶつかって傘を破らないようにする実利的な意味も含んでいた(『商人道』、93頁)>>

 しかし、これは誤解に基づく創作である。
 浮世絵の題材や歌舞伎の小道具に傘がよく使われること、時代劇などで浪人の内職としてよく傘張りが出てくることから誤解しがちだが、江戸では差して使う和傘(唐傘)の普及は京や大阪に比べて遅れていたのだ。

 江戸時代も末期の天保年間(1830~1844)頃には江戸でも和傘の普及が進むが、それでも贅沢品という性格が強かった。江戸っ子たちは雨具として、主に頭にかぶる笠や蓑を用いていたのである。

 江戸でも大店の商家では、急な雨の際に客に傘を貸し出すサービスをすることもあったが、これはその傘に入った屋号を目立たせることによる宣伝という意味が大きかった。
 浮世絵や歌舞伎に傘が出てくるのは贅沢品ゆえで、今でいえば雑誌グラビアや映画でブランド品が使われるようなものである。
 また、下級武士の内職に傘張りが好まれたのも、贅沢品に関わるゆえに他の内職に比べて実入りがいいからである。

 したがって、江戸で傘を差したもの同士がすれ違うという状況が、特殊なしぐさを必要とするほど頻繁だったかどうかには疑問がある。
 また、傘かしげは相手も同じ動作をするという暗黙の了解によって成り立っている(そうでなければ、かしげた側が上からの雨と相手の傘からの雨を同時にかぶることになる)。それなら一方が立ち止まって道を譲るなり、傘をかしげるのではなくすぼめるなりしてぶつかるのを避けた方が賢明である。

 そして、和傘はスプリングが入った洋傘に比べ、すぼめたまま手で固定するのが楽な構造になっているのだ。
 江戸時代末の浮世絵師・歌川広重(1797~1858)が晩年に描いた錦絵『名所江戸百景』では、雨の中、蓑笠を着た人に混ざって和傘を差す人物も登場する。そこに描かれる彼らは、しばしば傘をすぼめるようにして持っている。

 つまり、雨の日に狭い路地で傘を差す人同士が出会っても、一方もしくは双方が傘をすぼめればいいだけで傾ける必要はない。
 さらに、江戸の路地で「傘かしげ」を行うには別の問題もある。
 江戸の商家や職人の家は、長屋でも一戸建てでも、道に面したところに開け広げの土間を作り、そこを店頭や作業場、調理場などに用いるのが常だった。

 つまり、路地で「傘かしげ」をやると、すれ違う相手の代わりに人の家の中に水をぶちまけるおそれがあったのである。
 「傘かしげ」は、実際の江戸の生活では実用性がない上に、傍迷惑になりかねないしぐさだったということになるだろう。

◆海軍式の「蟹歩き」(45p)・・・・・また、「蟹歩き」は次のようなものである。

<<辺しか歩けないような道ですれ違うときには、互いにカニのように横歩きすること。一見、ユーモラスなしぐさだが、とてもつつしみ深い、“往来しぐさ”だ。聞くところ、まだ、江戸教育のよさを知っていた先生が残っていた戦前の小学校では、雨の日、体育館で児童たちに“蟹歩き”の練習をさせていたそうだ。(『商人道』97~98頁)>>

 まず、教師が「蟹歩き」を小学校の体育館でおおっぴらに練習させていたというのは、「江戸しぐさ」は秘伝だったという話と矛盾している。
 また、「聞くところ」というが、越川氏はいったい誰から戦前の小学校の話を聞いたのか。
 それは「蟹歩き」を「江戸しぐさ」の一つとみなしている人物、つまりは芝と考えるのが妥当だろう。
 芝の小学生時代がいつごろか、芝の生年には幾つか説があるが、私は1934年4月から1941年3月までとみなしている。また、当時、芝は東京ではなく横浜に住んでいた。

 つまり、「蟹歩き」を小学校で練習していたというのは、1930年代の横浜の小学校でのことと考えてよいだろう。
 「傘かしげ」「肩引き」「蟹歩き」は、いずれも狭い道を2人以上が同時に通り抜けることを前提とする動作である。
 しかし、私個人についていえば、狭い道で行きあう時にはいったん立ち止まり、挨拶して道を譲り合う。あるいはどちらかが先に立ち止まって相手に道を譲り、譲られた方はお礼を言うなり会釈するなりして感謝を示す(もちろん譲る側は体を斜めに引くわけだが、無理に自分も歩き出そうとはしない)。

 なぜ、「江戸しぐさ」では同時に進むことにこだわるのだろうか。
 私には、これらのしぐさの背景には、狭い通路で相手に道を譲る、あるいは相手から譲られることを受け入れるだけの余裕がない状況があるように思われる。
 明治39年(1906)に出された『各個教練歩哨及斥候勤務教授法』(海軍砲術練習所編)という海軍兵士訓練用の教本には、「横歩」という項目がある。それは、「右(左)足を運ぶ時、膝を屈することなくまた左(右)踵を打つごとく行進せしむ」訓練だという。つまりは蟹のような横歩きである。

 海軍では、艦船の狭い通路を複数の兵士が動く必要から、体を横にしてすれちがう訓練は必須だった。太平洋戦争開戦前夜の世相において、軍港横須賀に近い横浜の小学校で軍事演習まがいの授業があったとしてもおかしくはない。「蟹歩き」の起源が海軍の教練内容にある可能性は高い。
 さらにいえば、狭い通路で同時にすりぬけたがる「江戸しぐさ」そのものが、海軍演習的な発想の延長線上にあるとみてよさそうである。

◆電車が走る江戸の街(47p)・・・・・これも代表的な「江戸しぐさ」とされる「こぶし腰浮かせ」については、次のような解説がなされている。

<<川の渡し場で、乗合舟の客たちが舟の出るのを待っているとき、あとから乗ってきた新しい客のために、腰かけている先客の2~3人は、腰の両側にこぶしをついて、(あるいはこぶし分)軽く腰を浮かせ、少しずつ幅を詰めながら、一人分の空間をつくる。・・・現在、電車やバスでこんなしぐさを見るのはまれになった(『商人道』98頁)>>

 まず最初に言っておかねばならないのだが、浮世絵や名所図会などからうかがえる江戸時代の渡し船には、座席にあたる構造がない。
 乗客は、腰かけることなく船の底板にしゃがむようにして座っている。また、大きな荷物をくくりつけたままのが同じ底板の上に乗っていることもある。
 江戸時代の川柳には「渡し船 馬の小便 一大事」というのがある。逃げ場がない狭い船で、一緒に乗っている馬が小便を始めたら、落ち着いて座っているどころではないだろう。渡し船は人を乗せるのに特化したものではなく、むしろ人も馬や物と同様の貨物として運ぶ船だったと考えた方がいい。

 このような渡し船で後から来た人のために座る場所を作るなら、腰を軽く浮かせるような小さい動作ではなく、いったん腰を上げた方がいいだろう。
 「こぶし腰浮かせ」は、それこそ現代のバスや電車のように長い座席がついた乗り物からしか生まれない発想である。
 そのため、越川禮子監修『図説暮らしとしきたりが見えてくる江戸しぐさ』では、江戸時代の渡し船のイラストと言いながら、実際にはない横長の座席を書き込んでいる。

 また、文部科学省『私たちの道徳小学校5・6年』の「江戸しぐさ」解説ページのイラストでは、茶店の縁台と思しきものに二人座っているところにもう一人がやってきたので席をつめる様が描かれている。
 が、そこには湯呑や茶菓子の皿を置くために当然縁台の上にあるはずの盆がない。

 そのため、そのイラストでは客が湯呑を手に持って、縁台に一人でも多く座らせるために席をつめる、という行動をとっている。これは、茶店の縁台はただ座ればいいという空間ではなく、くつろぐための空間でもあることを忘れた(或いは知らない)人の発想である。
 「NPO法人江戸しぐさ」作成の教材用動画では、「こぶし腰浮かせ」の実技を、底に畳を敷き屋根がついた構造の船で正座して行っている。それは渡し船ではなく屋形船である。畳がなく正座に不向きな渡し船で同じ実技を見せるのは難しそうである。

 さて、江戸時代の渡し船は一般に川の両岸の渡し場を往復するものである。また、幕末の作ではあるが隅田川の船着場での人々を描いた『乗合船恵方萬歳』(慶応2年=1866初演。初演時は人形所作事、後に舞踊化)で見られるように、船に乗る人は船着場に集まり、出発直前に船頭の合図で一斉に船に乗るものだった。
 つまり、渡し船で中途から新たな乗客が乗ることは通常ありえない。これでは、江戸時代の人がいかに「こぶし腰浮かせ」を習得しても実際に使う機会はまずなかっただろう。

◆時間泥棒に支配された江戸(57p)・・・・・「江戸しぐさ」には、「時泥棒は十両の罪」という言い回しもあったという。

<<江戸時代の大名時計は1分刻みの精巧さだったので、仕えていた武士はもちろん、将軍家御用達の商人たちも時間には正確にならざるをえなかった。日の出、日の入りを基準に、現代でいえば夏時間を採用していた。一時は2時間6分から1時間37分と幅があったという。複雑なこの時間に合わせて、商人は厳密に行動していたから、突然、押しかけて相手の都合にかかわりなく、勝手に時間を奪う行為は“時泥棒”といって厳しく禁じられた。金銭は借りてもあとで返せるが、過ぎた時間は取り返しがつかない。時泥棒は弁済不能の10両の罪といわれた。訪ねるときは事前に書きつけを送って了承を得ておくか、アポイントをとっておくのがならわしで“訪問しぐさ”といった。(中略)現代では電話しぐさに応用できるだろう。“突然のお電話で失礼ですが、少し、お時間をいただけますが?”と断る。相手の都合をたずねないと“時泥棒”になる(『商人道』57~58頁)>>

 江戸時代の刑法では、金品を盗んで死罪に問われるかどうかの目安となった被害額は10両だった。つまり、「時泥棒は10両の罪」というのは、死罪にも値する罪だという意味である。
 さて、江戸時代、大名がお抱えの時計師に西洋時計の技法を用いた時計、いわゆる大名時計を作らせていたというのは事実だが、それは分刻みでもなければ実用的なものでもなかった。江戸時代の日本で採用された時刻の制度は、越川氏が指摘する通り複雑な不定時法である。大名たちは、その複雑な不定時法に対応できる機械仕掛けをギミックとして楽しんだのである。

 そもそも、一般の武士や商人は大名時計と同じ精度の時計を持っていないし、大名時計を見ながら仕事をするわけではない。正確な時計が実用性を持つのは、持ち主だけでなく他の人も同じ時刻制度に従って行動するという前提であればこそである。そして、現実の江戸時代にはそのようなものはなかった。
 江戸時代の人々はその複雑な時刻制度にどのように対処しながら暮らしていたのか。それはまさに、細かいことは気にしない態度によってであった。
 江戸時代の人が時刻に従って行動していたなら、もっと簡略化された時刻制度が求められ、採用されていたことだろう。

オランダ人の見た「時間にルーズな日本人」(60p)・・・・・江戸時代、都市の住人は寺の鐘、あるいは夜間なら夜回りの拍子木で時刻を知った。落語「時そば」(上方落語では「時うどん」)の夜泣き蕎麦屋も、それで知った時刻を客に告げたわけである。寺などでは長い燈芯を燃やして時間経過の目安にしたわけだが、現代の時計のように厳密なものではない。
 また、夜回りが出発してからその管轄の区域を回り終える頃には、それなりの時間が経過していたことだろう。当然、その分の時刻のずれが生じているのだが、当時の人はそれを気にするほど時間に縛られてはいなかったのである。

 オランダ海軍大尉として日本に西洋式操船を伝えたウィレム・カッテンディーケ(1816~1866、後に海軍大臣)の『長崎海軍伝習所の日々』の「日本人の性癖」という章には次のようにある。

<<日本人の悠長さといったら呆れるくらいだ。我々はまた余り日本人の約束に信用が置けないことを教えられた。或る時、勝麟太郎が、新造カッターを暗礁に乗り上げてしまったので、同船の艫に一大修理を施す必要が起こった。いろいろ苦心の結果、我々はやっと船の修理を行うに適した場所を発見したので、次の満潮時に修理台に引き揚げるつもりで材木を注文し、そうして非常な苦心の後、漸くその船を修理台に引き揚げようとする段になって、材木がまだ届いていないという始末で、また次の満潮時まで待たなければならなかった。万事すべてがこの通りだ。

 私は数回日本人との交渉の席に列したが、その交渉をしくじらせないように纏めるには、人並みの辛抱強さでは、とてもうまくゆかないと思った。日本人は交渉が始まろうとするのに、何時までも座り込んで、喫煙したり、あたりを眺めたり、あたかも気晴らしにでも出掛けているようなつもりらしい。そしてこうした場合にもかかわらず、お茶を呑んだり、菓子を食べるといった呑気さである。

 日本人はお正月には、しこたま祝い酒を呑んで方方回礼をする。なかには出島の我々の館にまでやって来る者もあって非常に困った。この回礼は一般の慣習で、身分のもっとも卑しい階級の者にいたるまで怠らない。そんな工合だから大そう時間を潰し、私の許にいる日本人の馬丁は、その朋友全部に回礼を済ますのに、まる二日を要したと言っていた。>>

 どうやらカッテンディーケは、日本人の時間観念のルーズさにずいぶん悩まされたようである。
また、年始参りとは言え、出島のオランダ人館にまでいきなり押しかけた者もいたところを見ると、その時代、突然の訪問も特に忌まれたのではなさそうである。
 カッテンディーケの任地である長崎の人が時間にルーズだったからといって、江戸もそうとは限らない、という言い抜けはできない。海軍伝習所は幕府直轄で、その管理運営は江戸から派遣された幕臣によって行われていたからである。

 橋本毅彦氏は、カッテンディーケの文章を引用した後、西洋においても労働における時間規律が重視されるようになったのは18世紀以降で、さらに19世紀の鉄道普及が人々の時間意識に革命をもたらしたことを指摘し、日本人に時間規律の概念が定着したのは開国後に西洋文明の仕組み、特に鉄道・工場・学校・軍隊などの制度を一挙に導入した結果だとしている(橋本毅彦・栗山茂久編著『遅刻の誕生』三元社、2001年、序文)。

 さらに橋本氏によると、庶民レベルでの時間規律の浸透が図られたのは大正期のことであり、その象徴が大正9年に東京教育博物館(現国立科学博物館)で開催された「時」展覧会とそれをきっかけに制定された「時の記念日」(6月10日)だったという(『遅刻の誕生』所収、橋本毅彦「蒲鉾から羊羹へ・・・科学的管理法導入と日本人の時間規律」)。

 いいかえると、大正期の東京においてもそのようなイベントを必要とするほど庶民への時間規律定着は遅れていたのである。

●(4)<第5章 オカルトとしての「江戸しぐさ」偽史が教育をむしばむ(157p)>より一部をご紹介します。

◆高学歴者もオカルトにはまる(181p)・・・・・専門家も荒唐無稽な話にリップサービスをしてしまうことがあるということは、その手の話を受け入れるに際して、専門知識でさえ、障害にはならない(ことがある)ということである。

 いわんや、関連する専門知識を欠いた人なら、いかに他の分野で学識に富んでいたとしても、荒唐無稽な話を信じ込んでしまうことは避けようがない。特に、学問の細分化と孤立が進んだ現代では、その傾向は強まりこそすれ、たやすく解消には向かわないことが予想できる。
 つまるところ、いかに知識がある人、高学歴の人でも荒唐無稽な話にはまる時ははまるものなのである。

 詐欺師にとって最もありがたいカモは、「先生」と呼ばれる職業の人だという話がある。
 教師、医師、政治家など、自分の知性に自信がある人をいったん話に乗せてしまえば、自分では知性に照らしてじっくり考えた末の結論だと思っている分、騙されていると気づくことに難しくなるのだという。専門分野でそれまで大きな業績をなしていた人物が、自称・霊能者や自称・超能力者にカモられたという例は少なくない。

 人が話を受け入れる基準は、その内容の荒唐無稽さ以上に、その人が抱いている欲求と密接な関係があるもののようである。詐欺師は相手の欲求を見抜き、それに応じて耳当たりのいい話を提供する。
 「江戸しぐさ」に関しては、その登場や普及に意図的な詐欺師は関わっていなかった。しかしその内容は、現代人のモラルが低下していると思い込み、それを憂えている人たちに対して、まさにその欲求に応える耳当たりのいい話として機能したのである。

企業経営者・コンサルタントのオカルト嗜好(183p)・・・・・荒唐無稽な話を広げる媒体といえば、まず筆頭に挙げられるべきはマスコミだが、意外と影響力があるのが経営コンサルタント・投資コンサルタント・マーケティング業者などによる拡散である。
 経営や投資の世界は、いかに万全に考えた上で行動したつもりでも、最後は運を天にまかせなければならないところがある。その中に身を置くうちに、従来の常識を超えた発想なるものが魅力的に見えてくることも起こりがちである。そこに、通常の心理状態なら相手にしないような荒唐無稽な話も忍び寄るだけの隙ができる。

 経営・投資コンサルタントが、顧客相手にオカルトなど荒唐無稽な話を持ち出す最大の理由は、本人が好きで信じているからなのだろうが、それに素直に耳を傾ける顧客は、その手の話を受け入れやすい性格、もしくは心理状態ということになる。それは結果として、カモになりやすい顧客を選別する手段ともなっているわけである。

オカルト好きコンサルの代表・船井幸雄(184p)・・・・・オカルト好きのコンサルタントで最大の人物と言えば、年間クライアント数約5000を誇る船井総合研究所の創業者・船井幸雄(1933~2014)であろう。
 いわゆる波動(物理学でいう波動とは別のオカルト的概念)関連グッズをはじめとして、ヒーリングストーン、デトックス系の健康食品など、船井氏が関わることで商売として急成長したオカルト物件は少なくない。

 船井氏は、自分が支援するオカルト物件を「本物」と呼んでいた。船井氏のいう「本物」の筆頭といえば、有用微生物群ことEM菌であろう。
 EM菌の発明者とされる比嘉照夫元琉球大学教授の主張について、その科学的根拠はことごとく否定されている。
 しかしながら、船井氏の支持を得て行政や企業に浸透し、現在では教育現場でも、環境浄化の名目で子供たちにEM菌を撒かせるような授業が行われている(ちなみにEMとは学術用語ではなく比嘉氏がその発明(?)を商品化するために行った登録商標である)。

 ちなみに、船井氏の人脈は主に元陸上自衛隊陸将補・池田整治氏(1955~)を介して、越川氏の「NPO法人江戸しぐさ」とつながっている。
 池田氏は、しばしば越川氏と合同でさまざまな講演会やセミナーの講師を務めている。一方、池田氏は船井氏の会社で販売する防災グッズを監修し、船井幸雄ホームページにも「21世紀ヤマトごころの部屋」というコーナーを持っている。池田氏はそのコーナーで「江戸しぐさ」の断絶について次のように述べている。

<<明治政府が極端な欧米化政策をとった本当の理由が見えてくると思います。彼らは世界金融支配者の裏からの支援を受けて、政権に就きました。世界が称賛してモデルとした江戸のパラダイス社会を徹底して否定するしか彼らの生きる道はなかったのです。西郷隆盛と勝海舟の会談で無血江戸入城となったことになっていますが、それはあくまで勝った方の官軍史観でしかありません。

 実際には、勝海舟は江戸の東側の裏戸をあけて江戸市民を避難させました。店には番頭一人置いて戸を閉めていたと言われています。江戸の周辺は、当時は森林に覆われていました。この森林を利用して逃げ延びたのです。何故なら、「江戸仕草」の体現者たちは、新政府軍の武士たちに老若男女にかかわらず、わかった時点で斬り殺されていったからです。維新以降もこの殺戮は続きました。この「史実」は、明治維新の政府の流れを汲む日本では、未だ歴史のタブーとなっています。>>

 この池田氏のコーナーの存在から察するに、どうやら船井も「江戸しぐさ」を「本物」とみなしていたようである。
 みやわき心太郎「江戸しぐさ残すべし」では、芝が物事を察する能力に長けていて、エリツィン大統領の来日中止(1992年9月)を言い当てたことがあるというエピソードをあげて次のように述べている(ちなみに文中の「牛島靖彦」は危機管理コンサルタント会社・牛場事務所の創設者で、生前の芝と交友関係のあった牛場靖彦氏(1937~)のこと)。

<<「江戸しぐさ」にまともな関心をよせた人、越川禮子 牛島靖彦等がともに察する仕事、マーケッティングリサーチに従事していた事は興味深い。(“マーケッティングリサーチ”は原文ママ)>>

 越川氏も牛場氏も「察する仕事」には違いないが、今まで述べてきたことからすれば「江戸しぐさ」の荒唐無稽さも、彼らは経営コンサルタント業ということで、越川氏や牛場氏と同業者だったわけである。
 コンサルタント業は、実績もクライアントへの説得力も求められる職種であり、知性なしでは務まるものではないだろう。
 しかし、残念ながらその知性はトンデモを排除するものではなさそうである。

く文責:藤森弘司>

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