2014年8月15日 第145回「今月の言葉」
「知行一如」とは何か?

●(1)「知行一如」は、「ちこう・いちにょ」と読みます。

 陽明学の祖・王陽明が称えた「知行合一(ちこう・ごういつ)」を、私(藤森)流に言い換えたもので、意味は同じです。

 これは私の人生で一番大事にしているものの一つですが、「知識があっても行動が伴わなくては意味が無い」
 つまり、王陽明は「知識と行動は、もともと一つである」と主張しました(「江戸しぐさ事典」越川禮子・監修、桐山勝・編著)が、本来、これは当たり前のことだと私は思っています。現代は、あまりにも「知性偏重」過ぎるというのが私の考えで、それをドンピシャリと言っているのが王陽明です。

 しかし、しかし、です。
 天下の王陽明が主張する言葉にケチをつけるのは生意気過ぎますが、でも、「知識と行動は、もともと一つである」というのは、少々、いかがかと思います。

 同じ東洋人である王陽明に言うのは妙ですが、東洋には「一如」という優れた言葉がありあます。
 例えば「心身一如」などが典型例です。私たちは「肉体」を持っています。と同時に「心」も持っています。「肉体」と「心」は同じものではありませんが、しかし、単独で働くのかと言いますと、どうも単独で働くのではないようです。

 「心」と「体」という明らかに違うもの、別個のものがありますが、しかし、それぞれが独立しては存在しません(植物人間などの特殊な事例は、ひとまず、脇においておきます)。
 「心」と「体」は、別々に存在しながら、それぞれが別々に独立して作用しません。「心」というものがあり、「体」というものがありながら、「心」だけ、あるいは、「体」だけが独立して働きません。

 こういうのを「相互否定媒介的」というらしいです。私(藤森)自身、若いとき、これを理解するのに大変苦労しました。

 コインを考えてみると分かりやすいです。
 コインには「表」と「裏」があります。「表」という独立したものがり、「裏」という独立したものがあります。しかし、「表」だけ、あるいは、「裏」だけを取り出すことはできません。あくまでも「裏」があっての「表」です。
 こういう関係を東洋では「一如」・・・「二」ではないが「一」でもない。「一の如く」です。

 説明は相も変わらず下手ですので、<「今月の言葉」第44回「危機とは何か?」>をご参照下さい。そこで説明されていることですが、例えば、「危機」は、私たちは「危険」ばかりを強調して考えますが、「危機」とは、まさに「危機一如」を意味しています。
 つまり、「危機」とは、「危険」と「機会(チャンス)」の合成語なんです。

 これと同じで、「知識があっても行動が伴わなくては意味が無い」という意味で王陽明氏が言うのであれば、「知行合一」はおかしいではないかと、僭越ながら、私は思います。こういう表現は欧米的で、同じ東洋人ならば、ここは「知行一如」というべきではないかと思います。
 「知行合一」は、「知識と行動は、もともと一つである」と言い切るのはどうも納得できません。「心身一如」や「表裏一如」「危機一如」のように、「知行一如」に軍配を上げたくなります。
 私が思うに、「知的」に分かったことを、如何にして「行動」に結びつけるか、「知識」と「行動(分かったことができる)」は別物であることをしっかり認識できることが重要です。

 「知識」はあくまでも「知識」だけであって、「知識」がある人が、まるでそのことを出来る人間であるように思ったり、思われたりすることの間違いをしっかり認識することが重要です。

 その典型例が心理学者です。人間の心理が深く分かったからといって、分かったことを活用できることとは全く違うことを認識することです。
 しかし、「心理・精神世界」は、見えないものですから、言いたい放題、やりたい放題の分野になってしまっています。
 古今東西、多分、昔からそうだったのでしょう。だから、それを戒める言葉が多数あり、王陽明氏もその観点から戒めたのではないでしょうか?

 空海先生は・・・・・
 「言って行ぜざれば信修(しんしゅ・信心修行)とするに足らず」「道を聞いて動かずんば、千里いづくんか見ん」と千年以上も前に言っていることを考えますと、いつの時代、どこの国でもこの違いが誤解されていることが分かります。

●(2)平成26年8月7日、日刊ゲンダイ「世界に報じられた笹井氏の自殺」

 <ノーベル賞・野依理事長よ あなたは責任を取らないのか

 あまりにも衝撃的だった「STAP細胞」論文の中心人物の自殺。これでますますこの人の責任が問われることになるのではないか。理化学研究所の野依良治理事長(75)である。

 理研が設置した外部有識者による改革委員会は今年6月、小保方氏の“特例採用”や研究内容の囲い込みなど、CDB(発生・再生科学総合研究センター)内の異常な環境が不正の背景にあったと指摘。CDBの解体と竹市雅俊センター長や自殺した笹井副センター長らの更迭を求めた。ところが、理研トップの野依理事長については「ご自分でお考えになると確信している」とお茶を濁した。

 野依氏はノーベル賞受賞者だけに、「どうしても批判しにくい空気がある」(科学ジャーナリスト)という。
 だが、日本の科学技術に対する信頼を根本から失墜させるほどの一大不正事件である。ことの重さを一番わかっているのが、世界的な科学者である野依氏ではないのか。それなのに、批判が小保方氏や笹井氏に集中する中、「今の私の仕事は、改革をしっかりやっていくことです」と、第三者然として責任逃れに終始している。野依氏がそうした態度がとれるのは、文科省とのベタベタの関係があるからだ。

 「理研を『特定国立研究開発法人』に指定するための法案提出はSTAP疑惑で止まっていますが、もともとこの特定法人構想は、長年、文科省と野依氏が二人三脚で進めてきたものです。野依氏は03年に理研の理事長に就任した際、『一般社会での理研の存在感を高める』などとうたった<野依イニシアチブ>を発表。巨額の科学技術予算を獲得するために、インパクトのある研究をよしとしてきた。特定法人の指定はその集大成といえるものでした」(霞ヶ関関係者)

 組織や企業のガバナンスに詳しい経済ジャーナリストの有森隆氏はこう言った。
 「笹井氏の自殺を受け、野依理事長は、『世界の科学界にとってかけがえのない科学者を失ったことは痛惜の念に堪えません』とコメントを出しましたが、客観的すぎて当事者が出すコメントではない。自分が組織の最高責任者という認識がないんじゃないか。ノーベル賞の褒美に天下った官僚のような意識で、トップとして不適格です」

 野依理事長のままでは理研の改革など、絶対無理だ。

●(3)平成26年8月13日、日刊ゲンダイ「ノーベル賞学者は尊敬すべき人なのか」

<略>

 ノーベル賞受賞者は世界で870人を超える。米国が断トツの4割弱を占め、続く英国が1割強。日本勢は2%にすぎない。だからこそ、日本では権威が増し、ありがたがられるわけだ。

 01年に文科省が策定した「第2期科学技術基本計画」にある<ノーベル賞に代表される国際的科学省の受賞者を50年間で30人程度輩出する>という趣旨の数値目標も、ノーベル賞学者に対する特別視に拍車を掛けている。

 「再生医療のトップランナーのひとりだった笹井氏の死は、国家的な大損失です。STAP細胞の一件でキャリアに傷がついたとしても、研究者としてやり直せるチャンスはいくらでもあったはず。こう言ってはなんですが、ノーベル賞に国の威信をかけるのであれば、高齢の野依理事長よりも笹井氏をより大事にすべきだった。皮肉な話です」(寺脇研氏・京都造形芸術大学教授)

 知性と品性は別物だということか。

 <後略>

●(4)上記(2)の中にある・・・・・

<<<「今の私の仕事は、改革をしっかりやっていくことです」と、第三者然として責任逃れに終始している。野依氏がそうした態度がとれるのは、文科省とのベタベタの関係があるからだ。>>>

<<<「笹井氏の自殺を受け、野依理事長は、『世界の科学界にとってかけがえのない科学者を失ったことは痛惜の念に堪えません』とコメントを出しましたが、客観的すぎて当事者が出すコメントではない。自分が組織の最高責任者という認識がないんじゃないか。ノーベル賞の褒美に天下った官僚のような意識で、トップとして不適格です」>>>

 ここにある
<<<第三者然として責任逃れに終始している>>>
<<<客観的すぎて当事者が出すコメントではない>>>

 と誰もが思うでしょう。しかし、違うのです。
 以前から、私(藤森)は、ノーベル賞を受賞する人の特徴を周囲の方に述べていますが、特に、野依良治氏はその特徴が際立っています。

 簡単に説明しますと、スポーツでも文芸でも学問や芸術でも、何でもそうですが、エネルギー一定の法則から考えて、ある分野の能力を極端に伸ばすということは、必ず、別の分野を犠牲にするものです(もちろん、例外的・天才的な人を除きます)。

 以前にも書きましたが、モーツァルトもベートーベンもトルストイも・・・そして、夏目漱石や芥川龍之介、太宰治などは精神の異常をきたしたり、自殺しています。
 学問が秀でるということは、学問に打ち込む、つまり、交流分析の『A(アダルト)』を極端に活用していて、『C』の部分は「無駄」のように思われている可能性が高いものです。極端に言えば、『A』オンリーです。

 ということは、親子関係は「知性的」で、学校の点数が価値観のほとんどを占めるという環境に育っている可能性が高いです。この仮説が正しいとするならば、 <<<第三者然として責任逃れに終始している>>><<<客観的すぎて当事者が出すコメントではない>>>ということは当然のことです。

 常に、「客観的」であり、「評論家的」な表現しかできないパーソナリティーに育てられています。本人は、本人なりに必死になって「責任」を感じているはずですが、片足が無ければ早く走れないのと同様、当事者能力が欠如している人にとっては、これが精いっぱいの「誠意」なはずです。

 ですから、決して「責任逃れ」に終始しているのではなく、欠如している部分を必死になって使おうとしているのですが、幼稚園児が一生懸命両親の手伝いをしようと思って、かえって邪魔になるようなケースと同様に、当事者能力を発揮する場面で、かえって、第三者的・無責任的な態度になってしまっているはずです。

 しかも、ノーベル賞を受賞するということは、研究生活の上で、多分、すべてが順調というか、周囲が一目も二目も置く存在であったはずです。下積みを長くやるような体験は無いように思われます。
 家族や職場などの人間関係なども、かなり犠牲にしているはずです。犠牲・・・ではなく、人間関係がまるっきり下手な可能性が高いです。しかし、ノーベル賞を受賞するくらいの人は、研究のためという絶対的な大義名分がありますから、周囲から見て、堅物、偏屈と思われる人間性がすべて合理化されてきているはずです。

 野依良治氏を見ていると、それらが典型的に現れているように見受けられます。
 ですから、野依氏は、決して「責任逃れに終始している」のでもなく、「当事者が出すコメントではない」ような態度を取っているのでもなく、ご本人は必死に対応しているはずです。責任感も目いっぱい感じているはずですが、そういうパーソナリティー(品性)が育てられていないために、対応すればするほど、場違いになるはずです。

 そして、こういうパーソナリティーの方は、権威に非常に弱いものです。何故ならば、両親という絶対権力者の言いなりになって学問に打ち込み、そして最大級の結果を残していますから、反抗心というものを削除しています。そのために権力に極端に弱いはずで、実際に、上記(2)の新聞記事には下村文科相の前で、もみ手でペコペコ状態の写真が掲載されています。

●(5)さらに、上記(3)に、<<<知性と品性は別物だということか。>>>とありますが、完全に別物です。「知性」はコンピューター的で、「品性」は人間的です。「知性」を「品性」に「昇華」させることが、「知行一如」です。
本をいくら読んでも、学問をいくらやろうとも、聖書や仏典にいくら通じていても・・・です。<<<空海先生は・・・・・

「言って行ぜざれば信修(しんしゅ・信心修行)とするに足らず」「道を聞いて動かずんば、千里いづくんか見ん」と千年以上も前に言っていることを考えますと、いつの時代、どこの国でもこの違いが誤解されていることが分かります。>>> これがシッカリ理解できることこそが「品性」です。上記(2)に、<<<ノーベル賞の褒美に天下った官僚のような意識>>>とあります。
 メディア関係の方は、多くの官僚と触れ合う機会が多いので、無意識的に官僚の体質を理解しているからでしょう。野依良治氏のような体質が官僚的だと喝破しています。つまり、高級官僚は野依氏と同様、「A」オンリー的な育ちをしているはずです。そして、そういう体質で社会的には大成功をしています。

 恐らく、反抗期などもほとんど体験していないはずです。だからこそ、唯々諾々と政治家に対応したり、面従腹背できるのでしょう。反抗期のひっくり返しのような体質です。そして、人格的な意味でまともな人が、脱官僚になるのではないかと思われます。

All work and no play makes Jack a dull boy. 「勉強勉強で遊ばない子は馬鹿になる(よく学びよく遊べ)」

く文責:藤森弘司>

言葉TOPへ