2014年5月15日 第143回「今月の言葉」
コピペとは何か?

●(1)小保方晴子さんの「論文盗用疑惑」問題で、「コピペ」という言葉を、私(藤森)は初めて知りました。

 「コピペ」とは、「コピー&ペースト」の略で、「コピー&ペースト」とは、「複製・転写」(3月14日、夕刊フジ)なんですね。広辞苑によると、ペーストとは「材料をすりつぶし、柔らかく滑らかな状態に仕上げた食品」とあります。英語では「paste」で、同じ意味です。
多分、複製というよりも、「合成」に近いのではないでしょうか。広辞苑には、合成とは「二つ以上のものを合して一つのものにすること」とあります。

 私(藤森)のように本もあまり読まず、学問もあまりやってこなかった人間にとって、「コピペ」という言葉はとても魅力的です。インターネットには情報が満載な上に、簡単に転写できるので、幾つかを拾って(?)きて、自分なりの考えを少し混ぜると、簡単に、立派な論文(?)が出来上がります。

 しかし、よくよく考えてみますと、「コピペ」とは大変な問題が含まれているように思えます。「コピペ」という言葉の意味を厳密に考えてみますと、無限大の問題が含まれているように思えます。
 また、HPを作成している私の立場から「コピペ」を考えてみますと、重大な意味が含まれているように思いますので、考察してみたいと思います。

●(2)私たちが作る文章の中で、「コピペ」に絡まない文章がどのくらいあるでしょうか。例えば、地理や歴史を考えてみます。私たちが持っている知識や情報の、多分、全ては、地理の本や歴史の本から学んだり、仕入れたもののはずです。

 例えば、<明治維新は1868年だ>と言いますが、私たちは、どうして1868年が明治維新だと言えるのでしょうか。それは何かの資料や本から学んだはずです。そうであるならば、<明治維新は1868年だ>という度に、例えば○○出版社の教科書から学んだというべきではないでしょうか?
 まるで、自分のもののごとく、当たり前に「1868年の明治維新は・・・」という言い方をしますが、それは許されるものなのでしょうか?

 例えば、<日本の水の豊さは世界一だ>ということは、井沢元彦氏の「逆説の日本史」(週刊ポスト)から私は学びました。とすると、私(藤森)にとって、「日本の水の豊さは世界一」だと何かで書いたり、話をする度に、これは井沢元彦氏からの情報だと言うべきではないのでしょうか?

 私であれば、このホームページを作成するとき・・・・・有能な方であれば本を書くときなどに、「日本は世界一、水が豊かな国」であると書いたら、「コピペ」になるのではないでしょうか?「日本は世界一、水が豊かな国」であると書く度に、井沢元彦氏の説によれば・・・・・と書くべきではないでしょうか?

 今は、水が豊富であるということだけを論じていますが、同様に、1868年の明治維新は・・・・・と書くときも、○○出版の◎◎先生の本によると・・・・・と書くべきではないのでしょうか?

●(3)例えば、「集団的自衛権」の問題を考えてみます。

 私(藤森)自身がそうですが、条文を読んだことがありませんし、また、読んでも理解が難しいです。単に、字面だけ読んで、日本語だけを理解するだけでは不十分なはずです。
 その条文が、一体全体、どういう場合に問題になり、どういう場合には許されるのか、多分、私だけでなく、多くの方々にとっても、自分一人で理解するのには困難が伴うのではないでしょうか。とするならば、どうやって判断するかが問題です。

 私であれば、日ごろから信頼している専門家やジャーナリストがどう判断しているか、これを一つの判断材料にします。
 もう一つは、誰が書いているかは問題にせず、意見を述べたり、解説をしている内容を読んで、私の価値観が納得するかどうか、なるほどと共感できるか否か、これを大事にします。
 さらに付け加えるならば、例えば、集団的自衛権の問題であれば、それを論じるに相応しい体験や経歴を持っている方の意見を大事にします。単に著名な学者であるとか、単に詳しいというよりも、より体験的に相応しい経歴の方の意見を大切にします。

 集団的自衛権の問題は、機会ができたら、是非、論じてみたいと思っていますが、もし私が論じるとしたら、私が論じることの全ては、新聞や雑誌、週刊誌などから学んだことばかりです。
 今、私の手元には、これらのメディアから切り抜いた情報がたくさんあります。私のように文才が無い人間でも、読めば、すぐに、そこに書かれていることを、さも、私の知識として分かっていて、集団的自衛権は必要であるとか、不要であるとか、こういう場合には警察権で対応できるとか、自民党の高村副総裁の理論付けはあまりにもおかしいなどと、いろいろ、知ったかぶりをしながら書くことができます。

 しかし、これは盗作にならないのだろうか?
 そこに書かれていることを、私なりに工夫して「まとめ直す」というと聞こえは良いですが、それは「コピペ」ではないのだろうか?中国がディズニーや、日本のアニメなどのキャラクターを模倣というよりも、ほとんどコピーしていることが問題になっていますが、でも、彼らなりにチョットは変えています。

 今、資料が無いので適当な例がありませんが、例えば「フナッシー」であれば「フナッチー」くらいは工夫しているはずです。それと同様、メディアの情報を読み、それを頭の中でほんの少しシャッフルする・・・ほんの少し文言をいじくれば、自分独自の知識や情報らしく書ける程度の文才は、不肖ながら、この私にもあります。卒業論文のかなりの数は「コピペ」だそうですね。

 しかし、どう考えても、あまり勉強もしていない私が、さも知っているとばかりに、集団的自衛権についてあれこれ書くのは、ささやかな良心ではありますが、心が痛みますし、これこそが「コピペ」ではないかと考えて、悩んでしまいます。私の基準では、「コピペ」というよりも「盗作」に思えてなりません。

 そうかと言って、いろいろな資料を読み込んで、自分独自の考えを出すというのは、あまりの作業になってしまって、これは私の能力を超えてしまいます。
 そのために、例えば、集団的自衛権について何かを書くとき、盗作にならない許容範囲のものかも知れないが、どうみても私の価値観では「コピペ」ではないかと考えてしまう上に、いかにも教養があるかのように書く浅薄な我が精神にも恥ずかしくなります。

 そして、ある時、どなたかに、私がHPで書いた文章は、だれそれが書いた文章にソックリだ、「盗作」ではないのか、「コピペ」ではないのかなどと言われることを空想すると、単なるマイナーHPではあっても、プライドがズタズタになってしまいます。

 そういうことを真剣に考えてみますと、私の頭の中にある知識や情報の中で、「コピペ」でないものってどのくらい存在するのだろうか?と甚だ疑問に思えてきます。

●(4)地理や歴史的などの情報は、全て、どなたかが書いた歴史書や地図を参考にしています。

 地理と言えば、NHKの大河ドラマ「黒田官兵衛」で、2~3週間前に、面白い場面がありました。宣教師が持ってきた地球儀を信長や家臣が見ている場面です。家臣が尋ねます。世界とか、日本はどれか?

 丸い地球儀が世界全体ですと言われて、あまりにも小さいのに驚きます。それで日本はどれですか?え!こんなに小さい!・・・・・と、ただ、ただ、驚きますが、それが実感というものです。

 私(藤森)自身、いまだに地球が丸いなどとは信じられません。
 今、私が立っている反対側の国の人は、私と同じように立っていれば、反対の姿勢、つまり、天井から逆さに吊るされているように立っているわけです。そんな馬鹿なことがあるのでしょうか。それでは落ちてしまうし、そもそも、血液が逆流して生きていられなくなるのではありませんか?

 重力があるから落ちないことまでは分かるとして・・・でも、反対側の人たちが逆さまの姿勢にならないのは何故なんだろうか?丸い地球に、すべての国の人たちが、同時に立っているとしたら、上向きと下向きの人が存在するはずなのに、全員が上向きなのが不思議でなりません。

 それを、私たちは納得していますが、それは何故なのでしょうか?
 それは、何かの本を読んで知ったからではないでしょうか。宇宙飛行士以外は、地球が丸いことを実感として知っている人はいないはずですから、地球は丸いとか、地球には重力があるんだ・・・などと言うときは、必ず、何かの情報源があるはずです。少なくとも、○○によれば、と書かなくても良いのだろうか。

 「コピペ」を厳密に考えてみますと、「コピペ」はしたくない。しかし、厳密に考えてみると、自分独自のアイデアはほとんど無い。それでも世の中のいろいろなことを考えたり、HPで意見を述べたりしたい欲望があります。

 そこで私独自に考え出したアイデアが、心理学・心理療法にある「コラージュ法」です。
 メディアで報道されたいろいろな情報をもとに、私なりに意味があると思われる情報を集め、切り抜いた紙をHP上に張り合わせるように紹介し、それらから導き出された私なりの意見や結論を紹介する方法です。
 もちろん、それらの全てに、当然、情報源を明示します。

 この「コラージュ法」を活用しますと、「コピペ」や「盗作」の心配が無い上に、お読みいただく方々には、私の偏見ではなく、正しい情報をしっかりお伝えできる大きなメリットがあります。

 ただ一つ、難点があるのは、「コラージュ法」をご存じ無い方には、単なる切り貼りだけ・・・新聞などの記事を紹介しているだけのHPだとご批判を受けそうなことです。しかし、世の中の情報のほとんど全ては、多分、「コピペ」に近いのではないかと、密かに、私は思っています。

 情報をどのように読み取り、自分の中で、どのように知識として蓄えていくか・・・これが肝心要ですが、これは「コピペ」そのものだと思っています。心理学・心理療法における「コラージュ法」も、クライエントの方が作成したコラージュから、何を読み取り、どのように対話するかが最大のポイントです。
 大部分の作業は、クライエントの方の作成ですが、一番重要な作業は、そこから何を読み取り、いかにして気づきを深めるためのワンポイント・アドバイスができるか、です。

 「記者クラブ」で入手する情報は、ほとんどが、官僚が発表する、あるいは、手渡す資料で、それを基に報道しているはずですが、それは明示されていません。それを私は、正直に明示しているのだと思っています。

●(5)平成26年5月9日、東京新聞「画像切り貼り 他誌も指摘」

 <理研「ネイチャー誌の掲載前」>

 理化学研究所の調査委員会は8日に開いた会見で、STAP細胞の論文が英科学誌ネイチャーに掲載される前に、小保方氏らが米科学誌サイエンスにほぼ同じ内容の論文を投稿しており、その際に同誌側から画像に切り貼りの加工があると指摘されていたことを明らかにした。

 調査委は、ネイチャー誌に2013年3月に投稿する時点で、画像の切り貼りが問題であることを小保方氏は認識していたはずで、「切り貼りが故意だったことは明らか」と結論づけた。

 不服申し立ての審査の中で判明した。サイエンスに投稿したのは2012年7月。掲載にはいたらなかったが、論文の査読者から「画像が切り貼りされている。異なる実験の画像の場合は、白い線を入れることになっている」と指摘を受けたという。

 小保方氏は調査委に対し、査読者からのコメントは「精査しておらず、具体的な内容について認識はない」と回答した。サイエンスに投稿した論文の提出を求めたが、ネイチャー論文と趣旨が異なるので不服申し立ての審査には関係ない、として応じなかった。

 ところが調査委が、共同研究者だった若山照彦山梨大教授にサイエンス論文の内容を確認したところ、ネイチャー論文とほぼ同じだったと判明。「査読者からのコメントについてまったく目を通していなかったとの説明に合理性はない」との見解をまとめた。

く文責:藤森弘司>

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