2014年4月15日 第141回「今月の言葉」
●(1)<2009年11月15日、「今月の言葉」第88回「知足観(1)」>の最初の部分を再録します。
<<<「知足観」は「ちそくかん」と読みます。といいましても、これは、私(藤森)の造語です。 「足るを知る」という言葉は、皆さん、ご存知のことと思いますが、これに「観」を付けました。国語的に正しいのか否かは全く不明(むしろ、間違いかもしれません)ですが、私は、これをとても気にいっています。 意味は、例えば、「吉本式内観法(内を観る法)」などと同様、「足るを知ることを深めるための行法」(修行の方法)といった感じです。「吉本式内観法」を行ずると、人や物事を見る目の「歪み」が修正され、「あり難さ」が実感できるようになります。 それと同様、「知足観」が進むと、いつ、いかなる状況でも「不満」が減り、「オーケー」とする気持ちが強くなります。逆に、「知足観」が不足していると、「不足」の量に比例して、いつも、どんな状況においても、「良し」としない、つまり、「不満」の度合いが大きくなってくるものです。ファミリーカーを買えば、もっと大きな車を、さらにはベンツを・・・・・と人間の欲望にはキリがありません。 「満足」するのは、なかなか、難しいものですが、「満足」しないまでも、「不満」の度合いが小さくなれば、それに反比例して、人生、生きるのが楽になってきます。恐らく、「知足観」の究極は、生きるのに必要な最低限の衣食住が満たされるならば、いつ、いかなる状況においても、「これで良しとする心境」に達するものと思っています。 いろいろな角度から、いろいろなことを述べたいのですが、私の説明よりも、現実は、遥かに、私が言うところの「知足観」が求められているように思えます。そういうメディアを通した現実のいくつかを、まず、お届けしたいと思います。>>> |
●(2)前回の「知足観(10)」では、老子の言葉を紹介しました。
ところが「仏教」の方にもありました。「禅後百選・・・今日に生きる人間への啓示」(松原泰道著、祥伝社NON BOOK) 八大人覚は、 これらは、それぞれ独立した必修項目であるとともに、それを修めることによって、最後の「知足」を身につけることになります。 ところで「知足・・・足ることを知る」とは「すでに得たものでも、これを受けるには分限を知れ」ということです。この知足を行じてほとけの知恵が体得できるので、質素・倹約の道徳律と少し趣きを異にします。道元も「いま(八大人覚)を習学して、生生(しょうじょう)に増長し、かならず無上菩提(さとり)にいたり、衆生のために、これをとかんこと、釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)にひとしくして、ことなることなからん」と、生涯の最後の筆を投じています。 この「知足」が茶道に入って、「茶の本意は知足を本とす。茶道は、分々(ぶんぶん)に足ることを知るという方便なり。足ることを知れば、茶を立てて不足こそ楽しみとなれ」(松平不昧・ふまい)となります。茶によって「知足」を行じて知恵を身につけよと示します。 京都の竜安寺の庭のつくばい(手水鉢)に「吾唯知足(われ、ただ足ることを知る)」が図形化して浮き彫りされているので有名です。 経団連前会長の石坂泰三氏は「当時の東京府立一中(現日比谷高校)卒業のとき、帰山信順先生がくれた『満足しているものは、最も富めるものである』のことばがすきだ」といいます。 この言は、前記『遺教経』や、あるいは古人の「足ることを知る者は、身貧しけれども心富む。得ることを貪る者は、身富めども心貧し」をふまえて座右の銘とされたものと思われます。 氏に対して、それは退嬰(消極)的だと評する者もあります。すると、氏は唐の詩人李白の「笑而不答心自閑(笑って答えず、心おのずからしずかなり)」と通うものがある、と応えています。 |
く文責:藤森弘司>
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