2014年3月15日 第140回「今月の言葉」
●(1)「足るを知る」の大本が見つかりました。老子がすばらしいことを言っているのに、今更ながら驚いています。<「老子・100分で名著」峰屋邦夫氏、NHKテレビテキスト>から、幾つか拾い出してみます。
罪は欲す可(べ)きより大なるは莫(な)く、 故に足るを知るの足るは、 欲望が多いことよりも大きな罪悪はなく、何かを手に入れようとするよりも大きな過失はなく、満足を知らないことよりも大きな災禍はない。 そこで、満足することを知って満足することは、永遠に満足することなのだ。 考えてみますと、私たちの日々は、かなり恵まれています。毎日、飲めるほどの綺麗な水で、好きなだけお風呂に入れます。喉が渇けば、お茶なり、コーヒーなり、あるいは水道の水なりを好きなだけ飲めます。 中国では、黄河だったでしょうか、世界的な大河が枯渇しているとのことです。日本でいえば、多摩川や利根川が枯渇するようなものです。それがために黄砂が酷いのかもしれません。 井沢元彦氏によれば、日本は世界一水が豊かだそうです。そういう豊富な水を自由に使っていられることだけを考えても、満ち足りた気持ちになります。贅沢さえ言わなければ、今の日本の生活は、何もかもが満たされているのではないでしょうか。 |
●(2)平成26年3月17日、東京新聞「東京レター」
東京で暮らす外国人たちは、異文化とのふれあいで、何を思い、どんな苦労や感動を味わっているのだろう。思い出の風景の写真とともに、母国の家族に知らせるような手紙スタイルで「東京生活」をつづってもらう。 ベナン共和国へ=ゾマホン・ルフィン 留学生として初めて日本に来た時はびっくりしたよ。日本人はみんな礼儀正しく、きれい好き。それから誰もちょんまげを結ってなかったし、刀も差していなかった。「えー、これは本当に日本ですか。おかしいなあ」と思った。 正直、東京での生活は大変だったよ。江戸川区の日本語学校に通いながら、3つのアルバイトを掛け持ち。日本語学校は午前8時から正午まで。それが終わると、総武線に乗って津田沼駅まで行き、京成線に乗り換えて八千代台駅へ。午後2時から6時まで部品製造工場で働いた。中国語の講師、引越し作業の手伝いもした。中野区に38000円でアパートを借りて、食事は1日1食。よく行ったのは、高円寺駅北口の「牛丼太郎」。並一丁200円、大盛り350円。 アルバイトが終わって帰ってくるのが午前3時。7時すぎの電車に乗らないと、学校に間に合わないから、1日1、2時間しか寝られない時も。ある日、工場での仕事中に眠くなって、機械で指を切断してしまった。でも、労災事故の慰謝料で上智大に入ることができた。大学のあった四谷はめっちゃ好きな場所です。 東京オリンピックが開かれた1964(昭和39)年にベナン共和国のダサズメで生まれた。上流、中流、下流でいえば、下流社会の人間です。お母さんは子どもを11人産んで、8人が死んだ。朝早く起きて掃除して、皿洗いして、片道6キロの道を歩いて水くみに行かなければいけない。学費を払うために、小学生の時から農作業をやっていたわけですよ。 中学時代、日本について学び「日本は資源が少ないのに、経済大国になった。それはおかしい」と思った。われわれは石油、金、ダイヤモンドとか、何でもあるのにまだまだ大変でしょ。きれいな水も飲めない、近くに学校もない。「日本面白いなあ、行ってみたいなあ」と。その後、国費留学先の中国で知り合った日本人のつてを頼って来日した。 <人生を変えた1杯のラーメン> テレビに出るようになって本も出版。3000万円の印税が入ったので、税金と家賃を払って残りは全部ベナンに寄付して小学校を建てたり、井戸を作ったり。中野区役所へ行ったら、当時の中野区長さんが歩いてきて「ゾマホンさん、あなたの税金のおかげで中野区はきれいになりますよ」と言われた。面白かったよ。 こうした活動が評価され、2004年に大統領特別顧問、11年12月に在日ベナン大使館の特命全権大使になった。タレント時代よりお金は少ないけど、光栄だよ。超お金持っているよりも、心が幸せ。国の代表は、お金では買えないから。日本がどうすればもっともっと外国人、特にベナン人に愛されるかを考えて命をかけてがんばっている。 学を為す者は日に益し、 之(これ)を損し又(ま)た損し、 無為にして而(しか)も為さざる無し。 学問を修める者は日々にいろいろな知識が増えていくが、道を修める者は日々にいろいろな欲望が減っていく。 欲望を減らし、さらに減らして、何事も為さないところまで行きつく。 何事も為さないでいて、しかもすべてのことを為している。 故に、道を失いて而る後に徳あり、 夫(そ)れ礼なる者は、忠信の薄きにして、 前識なる者は、道の華にして、愚の始めなり。 是(ここ)を以(もっ)て、大丈夫は其の厚きに処(お)りて、 故に、彼(か)れを去(す)てて此れを取る。 そこで、無為自然の道が失われると、徳化をかかげる世の中となり、徳化の世の中が失われると、仁愛をかかげる世の中となり、仁愛の世の中が失われると、社会正義をかかげる世の中となり、社会正義がの世の中が失われると、礼をかかげる世の中となった。 そもそも礼とというものは、まごころの薄くなったもので、混乱の始まりである。 先を見通す知識というものは、道にとってのあだ花であって、愚昧の始まりである。 そういうわけで、りっぱな男子は、道に即して純朴なところに身をおき、誠実さが欠けた薄っぺらなところには身をおかない。 だから、あらちらの礼や、先を見通す知識を棄てて、こちらの道を取るのだ。 |
く文責:藤森弘司>
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