2014年1月15日 第138回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(残像)

●(1)今回のテーマ、「残像」の説明に適した、非常に面白い「生物学」の話を、まず、紹介します。一見、なんの関係もないように思えますが、実に、実に、含蓄のある、面白いお話ですので、まずはジックリとお読みください。

●(2)平成26年1月11日、夕刊フジ「池田教授の今宵学べる生物学」

 <瞬間的な行動>

 <脳細胞120億個の人間が1万分の1の昆虫に敵わない>

 人間の大人の脳細胞は約120億個、それに対して昆虫の脳細胞は約100万個である。
そこだけ考えれば、人間は昆虫より1万倍能力があるということになるが、話はそう単純ではなさそうである。

 蛍光灯は実はついたり消えたりしているが、われわれの目にはずっとついているように見える。なぜか。物理時間は連続的に流れるが、動物の脳内では時間は連続的に流れず、離散的なのだ。しかも、その度合いは動物の種類によって異なる。たとえばカタツムリは1秒間に4回以上の点滅は識別できない。別の言い方をすれば4分の1秒以下の短い時間の差は、カタツムリには同時と感じられるのだ。人間は個人差があるが、これが15分の1秒から60分の1秒。蛍光灯は1秒間に100回または120回点滅しているので、どんなに感覚の鋭い人でも、点滅しているようには見えない。

 ところが、ハエの解像度は人間よりはるかに高く、150分の1秒程度なのだ。ということはハエには蛍光灯は、はっきりとついたり消えたりしていることが分かるのである。時間の解像度に関しては、人間よりハエの方が能力が高い。ちなみに、解像度が極端に低いカタツムリは、目の前で1秒間に5回以上棒を出し入れすると、棒の動きを検知できずに、棒の上に乗ろうとするとの報告がある。

 色を感じる能力も昆虫と人間では異なる。ミツバチやチョウは赤い色が分からず、代わりに紫外線が見える。可視光線の波長帯が短い方にずれているのだ。人間の目には同じように白く見えるモンシロチョウの羽であるが、オスの羽とメスの羽では反射する紫外線の量が違うので、モンシロチョウには違う色に見えているはずだ。

 2匹のチョウが絡み合ってクルクル回りながら飛んでいるのを見たことがある方も多いでしょう。これはオスがメスに対して飛びながら求愛しているシーンである。よく見ていると、相手の動きに合わせて瞬時にシンクロして飛んでいるのが分かる。人間の脳細胞の数は昆虫のそれよりはるかに多いのに、こんな芸当はまねできない。シンクロナイズドスイミングの選手たちは練習に練習を重ねて、シンクロしているので、新しい事態にいきなり対応しているわけではない。人間の脳は相手の動きに合わせて、瞬時にシンクロする能力をもっていない。

 人間の大きな脳は、外界からの刺激を脳内で処理し、それからおもむろに行動を選択するのに適した構造をしており、瞬間的な対応には向いていないのだ。刺激・反応系を瞬時につなげるためには長い訓練が必要なのだ。どんなに運動神経が優れた人でも、初めて挑戦するスポーツでは、それなりにヘタなのはだから当然なのである。

 それに対し、脳の小さい昆虫や小鳥では訓練もせずに、相手の動きに瞬時に反応することができる。冬になるとムクドリの大群が大空を飛んでいるのを見ることがあるが、まるで1つの生命体のごとく流れるようにシンクロしている。人間が昆虫や小鳥の行動をまねるためには血が滲むような訓練が必要だというのも考えてみれば不思議な話だ。

 <池田清彦・・・生物学者、早稲田大学教授。1947年東京生まれ。東京教育大学理学部卒。東京都立大学大学院博士課程終了、理学博士。専門の生物学分野のみならず、幅広い分野での著書多数。フジテレビ系「ホンマでっか?!TV」にも出演中>

●(3)さて、これを「カウンセリングとは何か」にどうやって結ぶ付けるのか・・・・・と疑問を持たれることと思います。

 今回は「危険」のサブタイトルで、「危険」を三段階に分類して面白い話をする予定でしたが、「生物学」の面白い話がありましたので、こちらを優先しました。次回のサブタイトル「危険」もご期待ください。

 さて、「残像」ですが、私たち人間・・・・・「人間関係」「育児」は、無意識のうちに、この「残像」によって歪められています。ここでは、1秒間に何回とかのレベルで説明されていますが、私たちの人生では、何年、何十年単位の残像で歪められています。

 例えば、「育児」の場合を考えて見ましょう。「育児」が適切に行なわれない最大の理由のひとつに、私は「残像」があると思っています。
 例えば、赤ちゃんのとき、ほとんどのご両親は、可愛くて可愛くてたまらない気持ちになるはずです。もちろん、いろいろ、例外はあるでしょうが、ここでは、ひとまず、通常の場合を考えます。

 赤ちゃんが可愛くて、可愛くてたまらない毎日だったのに、いつの間にか育児が困難になるのは、「赤ちゃんが可愛くて、可愛くてたまらない毎日」の「残像」が強く残っているからだと私(藤森)は考えています。
 例えば、3歳である今の我が子を見て、それを受け入れていくのではなく、赤ちゃんのときの軽くて、ヒョイと抱き上げれば、ニコニコと可愛い笑顔を見せてくれた乳児の残像が脳裏に強く潜んでいるものです。
 その我が子は、3歳になって、ダダをこねるわ、物は投げつけるわ、味噌汁はこぼすわ、抱っこだオンブだと勝手気ままなことを言う。そのギャップにウンザリしがちです。

 小学生になれば反抗の度合いも大きいし、勉強をやらせようとしても、3歳ころのように可愛く反応してくれないことにイラついてしまいます。中学生になると、授業参観も嫌がる生意気な態度を取ったりもします。
 20歳になると、酒もタバコもやり、オヤジだオフクロだと偉そうな態度、可愛い娘は彼氏を連れてきたり・・・・・自分ひとりで大きくなったような態度にショックを感じたりします。

 つまり、今、目の前にいる我が子を受け入れるのではなく、以前の「残像」を強く抱いていて、その「残像」「現前の我が子」とのギャップに、私たちは苦しみがちです。

●(4)それでは、一般の人間関係ではどうでしょうか?

 例えば「夫婦関係」です。10年もすると、愛情はスッカリ冷めてしまい、単なる同居人みたいな関係になりがちです。
 しかし、恋愛中の、あるいは、新婚時代の配偶者の「残像」を強く残していて、あの頃は良かったとか、あの頃は優しかったとか、あの頃は早く帰宅したとか、あの頃は綺麗だったとか・・・・・

 つまり、私たちは、今現在の「像」を受け入れていくのではなく、何かの面で良かったときの像、つまり「残像」を強く抱いていて、「残像」と「現実」の比較を無意識のうちにしています。そして、現実は、時々刻々と変化しているにもかかわらず、「残像」とのギャップに不満を持ったり、不幸感を抱いたりしがちです。
 私たちは、いかに、「現状」を在りのままに受け入れていないか・・・・・このことにシッカリ目を向けることが大事です。

 例えば「老境」になって、階段で転んで大ケガをしたり、寿命を縮める方がいらっしゃいます。多分、これも現状を在りのままに受け入れていなくて、「残像」のご自分を生きていることが原因である可能性が高いです。

 もちろん、ご本人はうっかりしたと思っていらっしゃるでしょう。そして、確かに、うっかりしたからということもあるでしょうが、うっかりするということことそのものが、「残像」の自分、つまり、階段くらいシッカリ降りることができるというかつての自分、若くて元気だった自分の「残像」の中に生きています。
 階段をヨタヨタしながら上り降りしなければならない自分というのは、どこか否定したい、認めたくないというものがあり、「残像」にしがみつきたくなる無意識的な気持ちがあるものです。

 ありとあらゆる面・・・・・「能力」や「収入」「若さ」「体力」「気力」「学力」「才能」「地位」「美貌」「名誉」・・・・・等々、私たちは、これらの「残像」に「意識的」「無意識的」にしがみついて、「満足感」や「幸福感」とは反対の「不満足感」や「不幸感」を、心の奥底に抱いている可能性が高いように思われます。

 例えば、「ウツ」「不登校」などがそうです。
 ご本人はバリバリ働いていたときの自分、学校でシッカリ成績を上げて活躍していたときの自分の「残像」を追い求めますし、周囲、特に両親も(善意ではありますが)その子の「残像」を追い求めますので、苦しさは倍加します。

 「ウツ」や「不登校」など、多くの心理的な問題は、現実を受け入れたならば、苦しいものは何も無いのですが、「現実の自己像」「自己の残像」の違いを識別する訓練がなされていませんので、「残像」という「蜃気楼」を追い求めて、カタツムリと同様に<<<棒の動きを検知できずに、棒の上に乗ろう>>>として、何度も、何度もつまづいたり、棒から落ちたりしてしまいます。

 交通事故で足を失った人が「幻肢(げんし)」といって、まだ肢があるものと認識して、肢が痛いとか、肢が痒いなどということがあるそうですが、まさに「幻肢」は「残像」そのものです。
 大切な人、特に大切な身内を亡くした場合、心身医学では3年、最低でも1年は自分自身を大切にすることが大事だと言いますが、これは私(藤森)流に言いますと、「残像」が薄れるまで、「残像」に対する「罪悪感」で自分自身を苦しめてしまうので、自分自身を大切にすることがとても重要なのです。

 恐らく、野生動物は、「今」「ここ」だけに生きているはずです。獲物を取り損ねたライオンがガッカリしているのは、多分、一瞬であって、次の一瞬には、平静な心境になっているはずです。少なくとも、取り逃がした獲物を恨めしそうにいつまでも眺める、ましてや翌日まで持ち越すということは無いはずです。
 しかし、私たち人間は、一生恨むということがあります。

 「今」「ここ」に生きることは不可能に近い超高度な心境(名僧、高僧レベル)ですが、少なくとも、少し意識することは、直ぐにでもできるはずです。「残像」を少しでも減らして、「今」「ここ」での喜びを見出すことが少しでも上手になりたいものです。
 とは言いましても、「残像」は、こびりついているその人の「価値観」ですから、「価値観」を変えて「残像」を薄めることは、言うは易くても大変な困難を伴うものです。
 しかし、ブッチャケタ言い方をしますと、「残像」を薄めて「今」「ここ」に生きれば、人生は非常に楽になることは事実です。

 先ほどの「生物学」の話・・・・・

<<<解像度が極端に低いカタツムリは、目の前で1秒間に5回以上棒を出し入れすると、棒の動きを検知できずに、棒の上に乗ろうとするとの報告がある。>>>

 階段から転げ落ちたり、夫婦や親子が争ったりすることは、まさに<<<棒の動きを検知できずに、棒の上に乗ろう>>>とするカタツムリみたいな人生を生きているからなのかも知れませんね、悔しいけれども。

 案外、<<<目の前で1秒間に5回以上棒を出し入れ>>>どころではなく、「1秒間に1回の出し入れ」、いやいや、「ずっと出ている棒」・・・・・つまり、今、そこに「ずっとある愛情」、「ずっとある有り難いもの」に気付かない人生を送っているのかもしれませんね、私たちは。

く文責:藤森弘司>

言葉TOPへ