2013年9月15日 第134回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(是々非々)

●(1)今回の「是々非々」は説明すると、とても簡単なことですが、実際に行なおうとすると、極めて難しいものです。

 一番分かりやすい例で簡単に説明します。

 「夫婦喧嘩」をしたとしましょう。長い間、ずっと口をきかない関係が続いているとします。しかし、奥さんが「食事」の仕度をしてくれたり、「お茶」を入れてくれたりしたとしましょう。「夫婦喧嘩」と、「食事」の仕度とは、何の「因果関係」もありません。
 ですから、夕ご飯を食べたら、「ありがとう」「おいしかったよ」と言い、「お茶」を入れてくれたら、同様に、「ありがとう」と言うことが、「是々非々」です。簡単なことです。でも、残念ながら、実行することは極めて難しいことです。

 もっと極端な説明します。

 喧嘩をした直後に夕食の時間になり、奥さんが食事の仕度をしたとします。喧嘩の直後に、奥さんと一緒に食事をすることになります。この時、「ご苦労さん」「ありがとう」「おいしかったよ」と言えることが「是々非々」です。

 説明するまでも無いことですが、あることについて「意見」が合わず「喧嘩」になったとしても、そのことが「食事」と全く関係ない場合は、「別個」のこととして考える、あるいは、「別個」のこととして受け止めることが大事ですが、私達は、どうしても、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」心境になります。

 喧嘩して、不愉快で、不愉快で堪らないとき、奥さんが新聞を取ってきて渡してくれたとします。私達は、つい、引ったくりたくなります。夕食であれば、「要らない!」と言って、外に食べに行きたくなります。

 つまり、あることで喧嘩したとします。あることを仮に「A」とします。夕食を「B」とします。 「A」は「A」であり、「B」は「B」であることをシッカリ認識し、仮に「A」を「非」だとします。しかし、「B」は「是」だとすると、当たり前のことですが、「A」は「非・不愉快」になっても、「B」は「是・愉快・OK」として対応することが、「是々非々」の真骨頂です。

 しかし、私達は、こういう場合、「死んでもありがとうなんか言えるか!」という心境・・・・・つまり、「ラケット感情」に浸ることが大好きです。

 大変難しいことではありますが、少なくとも「理性」は、「是々非々」であるべきだと「認識」することが大事です。つまり、喧嘩して不愉快だから、新聞を引ったくったり、食事を不愉快極まりない態度で食べることを当然だとは、最低限、思わないことです。この「心境」を少しでも深めますと、日常の人生で困難なことはほとんど無くなります。

 私達、親は、幼稚園児の子供に言っていると思いますよ。喧嘩したとき、不貞腐れている子供に向かって「ゴメン」と言いなさいと。
 しかし、夫婦喧嘩などで、親がみっともない姿を露骨に見せていながら、子供に「ゴメン」を強要しても、子供の中に「不愉快さ」や「不貞腐れさ」が増幅するだけで、私たちが、日常、自分自身の感情を持て余すのは、こういう「メカニズム」からきています。

 そして、持て余す「度合い」が大きければ大きいほど、「自我」の「未成熟さ」を表しています。

●(2)結論

 理屈で考えれば、これほど簡単なことはありませんが、最大級に難しい上に、人間関係を悪くする上で、かなり「重症」な問題です。

 何故、このように簡単なことができないのか、それは「インナーチャイルド」が納得していないからです。これを「サイコシンセシス(精神統合)」的に言いますと、「サブ・パーソナリティー(副人格)」が、ご主人様である「パーソナリティー(人格)」を乗っ取ってしまい、ご主人様の自由を奪ってしまっているからです。

 「ガリバー旅行記」にあったように記憶しています。
 ガリバーがある川に来たとき、老人が川を渡れず困っている。肩車をして渡ったところ、肩から下りず、足で首を絞めて、ガリバーを思い通りに動かそうとする話です。

 ガリバーをパーソナリティー、老人をサブ・パーソナリティーと見なすと分かりやすいと思います。

 そうやって「自由」を奪われたことにより、親は、当然、子供にもそのように対応します。これが子供の「対人関係」を悪くしたり、自分の人生が思い通りにならない「イライラ」「身体症状化」したり、心理的に「症状化」されている場合が多いものです。

 その「サブ・パーソナリティー」を少しでもうまくコントロールできるようになること、タイトル的に言いますと、少しでも「是々非々」の心境を深め、かつ、行動に移せるように支援することが「カウンセリング」にとって、極めて重要なことです。

く文責:藤森弘司>

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