2013年8月15日 第133回「今月の言葉」
●(1)聞くところによりますと、中国は「気(き)」の文化で、日本は「間(ま)」の文化だそうです。
そういえば、中国は「気功法」や「太極拳」がとても盛んです。 日本では、「間」を使った言葉が非常に多いです。 「床の間」「時間」「空間」「人間」「間違い」「間隔」「間を詰める」「間をはかる」「間もなく」「束の間」「間取り」「間尺」「板の間」「間を取る」「間がいい」「間をうかがう」「間が抜ける」「間が延びる」「間が悪い」「間が持てない」「間を合わせる」「間を置く」「間を欠く」「間を配る」「間を持たす」「間を渡す」「間明き大名」「間祝着」「間内(まうち)」「間人(まうと)」「間男」「間借り」「間貸し」「間数」「間木(まぎ)」「間切(まぎり)」「間切(まぎ)る」「間口」「間配(まくば)る」「幕間」「間仕切り」「間狭(まぜま)」「間代」「間怠(まだる)い」「間近」「間使(まづかい)」「間遠い」「間所」「間中」「間無し」「間部(姓氏)」「間に合い」「間に合い紙」「間に合い言葉」「間に合う」「間抜け」「間抜ける」「間緩(まぬる)い」「間延び」「間柱」「間外(まはず)れ」「間引き」「間分・間歩・間府(まぶ)」「間夫」「間塞(まふたぎ)」「間別」「間間」「間宮」「間を合わせる」「間を置く」「間を欠く」「間を配る」「間を持たす」「間を渡す」 |
●(2)さて、「間」という言葉はよく使いますが、「間」とはなんでしょうか。
「間」とは何かと言いながらおかしな話ですが、多分、最も説明が困難な言葉の一つではないかと思います。「困難」だからこそ、適切な「間」を取ることも困難です。 剣道には「一足一刀の間合い」という言葉があります。一歩踏み込めば打ち込める距離であり、一歩下がれば、相手の打ち込みをかわせる距離で、実際には、「剣先が軽く触れ合う位置」を言います。 人間関係においても、相手によって「間」・・・距離は違いますし、同じ相手でも、好意的な気分のときと、不愉快なときではかなり違ってきます。 愛する幼児のわが子には頬ずりをしたいほど可愛く思えるときもあれば、「ワアーワアー」泣かれたり、デパートであれを買って、これを買ってと愚図られたときなどは、張り倒したいほどの怒りを覚えるときもあるでしょう。 ●(3)今回のテーマである「間」は、非常に説明が困難であると同時に、それに比例して、極め付きに重要なことでもあります。 「親子」や「夫婦関係」において、適切な「間」が取れることが重要ですが、特に、「親子間」における「間」について、もう少し、考察してみたいと思います。 育児は、主として「母親」が担当することは当然のことです。 10ヶ月間、胎児として生き、さらには母親から授乳されるのですから、育児は、直接的には「母親」が中心です。もちろん、その母親は配偶者である「夫」の影響を強く受けますので、育児の「責任性」は「フィフティ・フィフティ」、「半々」であることは当然のことです。 しかし、直接的には関わらなかったから、育児の責任は「妻」にあるといって、妻を責める「夫」は、実は(私・藤森を含めて)「最低野郎」です。それは・・・・・ ①同じ屋根の下で生活しながら、何故、酷い育児をしている妻の対応が放置されていたのか?あるいは、知らなかったのか? |
●(4)さて、そういうことを前提に、「育児」における「間」について、簡単に説明します。
子供(乳幼児)は、年々、成長していることは当然のことですが、成長しているだけでなく、日々、時々、刻々、気分は変化します。これは「乳幼児」に限らず、我々、すべての人間がそうであることは、もちろんですが、成長の早い「乳幼児」は、「人間性」が訓練されていない(つまり、「我」が強い)ことと相俟って、気分の変化は、最近の気象の変化の激しさのように、とらえどころの無い激しいものがあります。 一例を言いますと、たった今、キャッキャ騒いでいたと思った次の瞬間、コロッと熟睡してしまい、時と場所によっては、大慌てになります。 私(藤森)の息子が1歳くらいの真冬、お風呂で頭を洗っていて、シャンプーだらけになっている最中、コロッと寝入ってしまったことがありました。グニャッとしているので、シャワーでシャンプーをシッカリ落とすこともできず、また、湯船で体を温めることもできません。 ●(5)はてさて、そういういろいろな条件がありますが、ひとまず、普通の専業主婦が育児をしていると仮定して、「間」についてもう少し考察してみます。 「間」とは、先ほど触れましたが、「心理的」「空間的」「時間的」な「距離」の総合を意味します。育児に関して、この「間」が適切に保たれたとき、子供は順調に育ちます。 その結果、「心理的」「空間的」「時間的」に適切な「距離」が取れないために、総じて、育児環境は劣悪にならざるを得ません。「心理的」「空間的」「時間的」な「距離」・・・つまり、「間」が近すぎると、「間」が詰まり、子供はゆとりの無い、心理的に狭い空間で生活せざるを得なくなります。 狭い空間で生きざるを得なくなると、満員電車の中で身体的「自由」が阻害されるのと同様、その狭い「親子関係」の「間」の中で、「自我」を適切に育てることは不可能になります。 しかし、満員電車の中での窮屈な状態に絶えがたくなる乳幼児は、所かまわず、すぐに愚図り始めます。 愚図る乳幼児に、下手なりにも、それなりにうまく対応できれば、対応できた「質・量」に比例して、子供の「自我」は育ちますが、多くの場合、主として「母親」の側が、先ほどのような理由で「ストレッスフル」な状態にありますから、ほとんどの場合、適切な対応ができません。 当然、ここで両者に大きな葛藤が生じますが、権力・腕力の差は歴然ですから、子供はうまく生きるために、親の「意向」に極端に沿って生きることを決断せざるを得ません。これを心理学では「幼時決断」と言います。まさに、親の隷属状態(主従関係)になります。 残念ながら、そういうことに全く「無知」な私たち「親」の側は、「自我」を押し殺して従属するわが子の「いい子」に喜び、微笑んで可愛がります。自己満足に浸りながら。 逆に、「心理的」「空間的」「時間的」な「距離」が遠くなると、幼児は猛烈な「寂しさ」を味わいます。「寂しさ」を埋め合わせるために、子供は、おとなしいという形の「いい子」になる場合と、問題児になることで、結果的に、学校の先生であったり、警察であったり、あるいは、病気がちという形で、親に構ってもらい、距離を縮めようとします。 大雑把な言い方をしますと、社会的に大きな事件を起こすタイプは、多くが「寂しさ」を内包したタイプです。寂しさが強い分、起こす事件も大きくなります。そして、「間」を詰められ、自我を抑圧したタイプは、多くが「心理的」「身体的」な「病気」を発症したり、事件を起こすとしても「家庭的」であったり、小さい「事件」のように、私(藤森)は「定義」しています。 さて、私たちは、みな、程度の差があるだけで、大なり小なり、このようなパターンの中で生きています。 |
●(6)日本の文化は、極端に「過干渉」する文化です。おそらく、閉ざされた島国であるために、狭くて閉ざされた社会の中で、良く言えば「助け合い文化」、悪く言えば「干渉」するという極端な文化が出来上がったのだと、私(藤森)は推測しています。
極端な過干渉が当たり前、それが普通の愛情だと錯覚しています。 本来、「育児」は、親が悩むべきですが、日本の育児は、親が悩まず、子供が悩んでいます。子供が悩みながらも「いい子」を演じてきて、やがて、子供が「いい子」を演じきれなくなって発症するのが、一般に「病気」であったり、「ウツ」や「不登校」であったり、「イジメ」や「家庭内暴力」、「犯罪」などです。 今回のテーマに沿った表現をするならば・・・・・私(藤森)を含めて、お互いに未熟です。ですから・・・・・ 子供が、何らかの「症状」を発症させたとき、親の側が、いかに「間」を詰めて(あるいは、「間」を空けすぎて)「育児」をしてきたかを実感として「反省」し、多少でも、過去の「空間」のとり方を「調整」できるような関わり方を「創意工夫」していくことが大切で、それを側面からお手伝いすることが「カウンセリング(間)」です。 <さらに、この続きを、次回、「カウンセリングとは何か(同一観・脱同一観)」でご説明申し上げます> |
く文責:藤森弘司>
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