2013年7月15日 第132回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(インナーチャイルド)

●(1)前回の<カウンセリングとは何か(自利利他)>に相応しい実例(日本を代表するジャズピアニスト)がありましたので、<「今月の映画」第131回「奇跡のリンゴ」>の中の下記の部分を再録します。

<<<●(3)平成25年6月15日「THE BIG ISSUE JAPAN」

 <私の分岐点 小曾根 真さん>

 無償の愛を与えてくれたパートナー。
日々の生活の中から
本当の感謝を伝えたい

 身内のことを言うのは・・・・・と思われるかもしれないけれど、僕にとって、人生最大のターニングポイントは、彼女に出会ったことにつきます。そしてこれからの僕の人生は、彼女が僕にしてくれたことに報いるためにあると思っています。

 “魂削る”とはこういうことなんだというくらい、彼女は僕につくしてくれました。彼女がいてくれなかったら、僕はとっくの昔に死んでいたんじゃないかな・・・・・かつての僕はそれくらい破天荒で“オレ様”な性格でしたから。車に乗ればスピード狂、仕事を始めたら周りのことがまったく見えなくなる。身勝手な個人主義で、都合がいいところはいろいろ世話をしてもらうくせに、ここから先はプライバシーって壁をつくって、自分の時間や空間を共有しようとしなかった。

 本当に、僕の身勝手さをあげたらキリがないですよ。海外生活が多くて、そのたびに彼女を振り回した。彼女がお母さんの介護で大変だった時も仕事を逃げ道にほとんど協力しなかった。そればかりか僕の世話までお願いした。面倒みてくれる“お母さん”的な存在を期待して、彼女の存在をないがしろにしていたと思う。結果として彼女の時間や女優としてのキャリアを犠牲にさせてしまった。

 それなのに、彼女は無償の愛を与えてくれた。自分のことを放ったらかしにして、僕のために時間とエネルギーを使ってくれました。僕の幸せや成功を自分のことのように涙を流して喜んでくれる。でも僕はそれを自分一人の手柄のようにしか思ってなくて、いてもらって当たり前・・・・・と感謝することをしなかった。本当にお子ちゃまです。

 自分のことを放ったらかしにして、誰かのために生きるってことを僕はこれまでの人生でほとんどしてこなかった。恵まれた環境に育ったせいもあるかもしれない。それなりの苦労はあったけれど、明日からどうやって生きていくのか、というところにまで追い詰められたことはありません。やりたい音楽を存分にでき、才能を伸ばしてくれる環境が常にあった。まわりにいろんなことをやってくれる人がいて、それを当たり前だと思っていた。10代で海外留学、20代でソロリサイタルと、音楽人生は次々に切り開かれていきました。でも、人間としての部分は未開発のままだった。

 キャリアが成功していると、人間的に未熟でも、世の中、まわってしまうことが多いんです。未熟さに気づかせてくれるチャンスがないから、どんどん“オレ様化”しちゃう。仕事もあってお金もあって生活にも苦労してない。「オレのどこが間違ってるの?」ってところに逃げちゃうんですね。でもその陰でたくさんの人を傷つけ、泣かせているかもしれない。そのことに気づいたら、「俺ってそういう性格だから」と卑屈になるのではなく、自分がしでかした醜いこと、汚いこともしっかり受け止めていかなければいけない。

 僕の場合、ここではとてもお話できないほどひどいレベルで「彼女を失って当然だよ」ということをしでかした。何も言わなかった彼女から「私が傷ついたと言わないと、あなたは本当に無理なんですね」と言われた。それでようやく目が覚めたんです。

 一方で、エゴがないと音楽家はつとまらないという側面もあります。イラッとする気持ちがエネルギーになるから曲がつくれることもある。それはコインの表裏のようなもの。そのバランスを取ってくれるのが、感謝する気持ちなんだと思うんです。

 感謝ってプレゼントとか言葉とか直接的なものだけじゃない。「ありがとう、感謝してるよ」って口で言っても、本当かどうかは一緒に生活していればわかるものでしょう。本当の感謝はおのずと出てくる言葉や態度から表れるもの。だから日常が大切だと思うんです。

 今年で結婚して18年。彼女がどれだけの時間を僕のために使ってくれたのか?時間は取り戻せないけれど、その時間が無駄になっていなかったと思えるように、彼女にどうやったら幸せになってもらえるのか、日々、考えながら歩んでいきたいと思います。(飯島裕子)

 おぞね・まこと・・・・・1961年、兵庫県生まれ。父の影響でジャズに興味をもち独学で音楽を始める。ボストンのバークリー音楽大学を主席で卒業。米CBSと日本人初の専属契約を結び、アルバム『OZONE』で世界デビュー。日本を代表するジャズピアニストとして活躍している。>>>

●(2)さて、本題の「二利」とは・・・・・

<<<「お釈迦さまの教えはひと言でいってしまえば、自利利他のただ二利に尽きる」>>><カウンセリングとは何か(二利②ー①)>

 そして、「利他」の「他」とは、自分以外のすべての存在であることを説明しました。おそらく、空海先生も同様に考えていたと思われますし、僭越な言い方をしますと、すべての仏教関係者も同様に考えていると思われます、親鸞先生を除いて(?)。

 しかし、私(藤森)の専門分野から考察した場合、これから紹介する「利他」は、ほとんど全く考慮されていない部分であり、そして、最も重要な部分です。そして、これから説明する「利他」の部分に思いが及ばない、配慮ができないことが、世の中の一切の物事がうまくいかない「根本理由」だと、私(藤森)は思っています。

 一般にまったく理解されない部分、まったく考慮されない部分ですので、説明に困難をきたしますが、下手なりに挑戦してみます。

●(3)これから説明することは、くれぐれも、「定義」的な理解をしないでください。フワッとした理解、こういう感じかなというアバウトな理解をしてください。また、私自身の説明にも不適切な部分が多いかも分かりません。併せて、ご理解ください。

 さて、今回の「二利」・・・・・一般にいう「自分自身(自利)」に対する「対象(利他)」は、「インナーチャイルド(内なる子)」です。

 「インナーチャイルド」・・・・・「内なる子」は、心理学の中でも、理解されにくい最たるものかもわかりません。「インナーチャイルド(内なる子)」という言葉は聞いたことがあるかもしれませんが、実際に正しく理解している人は、専門家を含めて、ほとんどいないように見受けられます。正しく理解されにくいので、正しく活用されるということも、ほとんど全くありません。世の中のほとんどすべて・・・・・一人の人間に起きるほとんどすべての問題は「インナーチャイルド(内なる子)」が放置されていることからくる問題です。

では、「インナーチャイルド(内なる子)」とは何か?

 一般に言われる「言行一致」の「言」は、私たちが一般に考える「自分自身」を意味します。

 では、「言行一致」の「行」とは何か?これが「インナーチャイルド(内なる子)」に相当すると言って差し支えないと思われます。

 「悟りの心境」がわかることを「理入(りにゅう)」と言います。これに対して、「悟りの心境」を「実践」できることを「行入(ぎょうにゅう)」と言います。ほとんどの場合は、分からなければ悟れません。「分かったこと(理入)」を練習して(行じて)、本来の「悟り(行入)」に至ろうとします。

 では、何故、「分かったこと」が「実践(行じること)」ができないのでしょうか。
例えば、スポーツや武道・芸術などならば、「分かる」ことをすぐに「実践」できないことは、誰でも納得していることと思います。「分かったこと」を長い時間をかけて練習して、「実行」できるようになる。そして、練習した量にかなり比例してうまくなることも、多分、多くの人は納得していると思います。

 しかし、「悟りの心境」とか、社会的な「礼儀」、人に対する「優しさ」「愛情」などは、中学生になれば、少なくとも、高校生、大学生になれば、ましてや「社会人」になれば、十分すぎるほど分かっていることであり、それを「実践」することに「困難」をきたすこともありません。ですから、練習しなければできないという問題ではありません。

 例えば、電車の中で、お年寄りや体の不自由な方に席を譲る、人には「優しく」「思いやり」を持って接する、携帯電話を控え目にする、「イジメ」や「万引き」は悪いことだ、「暴力」や「虐待」はいけない、家庭をオロソカにすることもいけない、「夫婦」は仲良く・・・・・などは、みな、分かりきったことです。実行することも「簡単」なことです。

 しかし、それを「自分の人間性」として「実行」する、あるいは、「継続」して実行することは、極めて困難であることも、多分、ほとんどの人が感じているはずです。それはまさに「インナーチャイルド(内なる子)」が納得していないからだというのが、私(藤森)の考えです。
 ですから、「悟り」とは、これらの「当たり前」のことを、淡々と実行できる「人間性」を獲得することを意味します。特別に立派な人間性を獲得することではありません。

 しかし、一般に言われる「教養」は、「知性」(「交流分析」という心理学では、これを「A(アダルト・大人)」)の部分ですので、本をたくさん読んだり、勉強したり、立派な大学に入ったり、学問・研究をやり、偉大な成果をいくら上げようとも、「インナーチャイルド(内なる子)」(「交流分析」でいう「C(チャイルド)」の奥にある「C」)を鍛えることとは全く関係ありません。
むしろ、
「インナーチャイルド(内なる子)」の気持ちを「無視」、ないしは、過剰な「負担」をかける、つまり、ほとんど「虐待」をすることで得られる「業績」であったりすることから、「二利」は、猛烈に歪みます(「ウツ」や「不登校」「家庭内不和」「各種の病気」「人間不信」「生きる辛さ」「様々な事件」・・・・・等々の全てはこの「歪み」がある一線を超えたときに起きます)

 たとえば、「イヤな奴」だと思う人がいるとします。「イヤな奴」だと思いながらも、でも「親切」に対応すべきだと、「教養」が高ければ高いほど思うはずです。しかし、「言うは易く、行うは難し」と言われるように、「イヤな奴」だと思う相手に「親切」に振舞うのは本当に難しいもので、これは、多分、誰でも体験していることでしょう。

 この場合の「親切」に対応すべきだと思う意識が「自分自身」と言われる部分(自利に相当する部分)で、実際に「親切」に対応することが困難な部分(利他)が「インナーチャイルド(内なる子)」です。
「言うは易く、行うは難し」の「言うは易く」が、一般に言われる「自分自身
(自利・知性教養)」で、「行うは難し」が、ここでいう「インナーチャイルド(内なる子)」(本音の部分)です。

 別の言い方をしますと、一般に「自分自身」だと言われる(思われている)部分が「建て前」の部分で、「イヤな奴」だと思いながらも、でも「親切」に対応すべきだと思っている部分です。これを一般に「知性・教養」と言われているものの「正体」です。

 それに対して、「イヤな奴」だと思う相手に「親切」に振舞いたくないとヘソを曲げたい心理や、「親切」に対応しているつもりでも、間違えたり、忘れたり、うっかり失礼があったりするものが「本音」の部分で、それが「インナーチャイルド(内なる子)」であると言ってもよろしいかと思います。

 また、「建て前」で「親切」に対応しようと思う部分(分かる部分)を「理入」、「本音」の部分でもそのように分かる、つまり、そのように行動できるようになることを「行入」と言いますが、私たちは、格別の訓練をしていませんので、「建て前」と「本音」を一致させることは困難を極めます。

 いわゆる「教養」が十分でない、あるいは、「インナーチャイルド(内なる子)」が剥き出しになっている人の場合は、むしろ、「あんなイヤな奴は親切にする必要などない」と「本音」を優先させかねません。

 あるいは、「建て前」を優先させすぎて、「インナーチャイルド(内なる子)」に過重の心理的負担をさせ、体調を壊したり、「カウンセリングとは何か(自利利他)」で説明したように、周囲にいい顔をしすぎて、家庭内を犠牲にしたり、「夫婦」の歪みを「子供」に「投影」させたりするということは、日常茶飯事・・・・・というよりも、これで「人生」が成り立っています。まさに、「人類の歴史」そのものだと、私(藤森)は思っています。

 とするならば、私たちは、立派な人間になるよりも大事なことは、こういうメカニズムをよく知って、自分の「未熟さ」を悟ることです。

●(4)私たちは、特別に訓練していない限り、「インナーチャイルド(内なる子)」の存在を全く意識していないし、理解もしていません。
では、この「インナーチャイルド(内なる子)」というのはどこからくるのでしょうか。
通常、私たちは、学校で学んだり、本を読んだり、セミナーで指導を受けたり、親に口うるさく叱られたり・・・・・特に、現代は、ありとあらゆる機会に、「建て前」の部分の情報は十分に詰め込まれています。

 つまり、特別に教養が必要なこと・・・・・たとえば、テーブルマナーであるとか、冠婚葬祭の対応であるとか・・・・・を除いて、日常的な物事は、ほとんどすべて分かっています。それでいて、それらの対応が適切にできないのは、「本音」の部分である 「インナーチャイルド(内なる子)(我・ガ)」の訓練ができていないからです。「本音」と「建て前」の「建て前」ばかりが詰め込まれて、その「建て前」を訓練する「場」や「機会」の多くが失われているために、頭でっかちの

 「建て前人間」が多くなっています。
たとえば、私が子供の頃は、夕方になると子供たちの遊ぶ声で溢れていました。そういう「場」では、先輩や後輩との関わり方が自然に身につきます。少々のイジメや喧嘩もあり、そういう中で生きる知恵も根性も育ったことと思います。
また、昔は、例えば、寿司職人であれば、実際に寿司を握る技術を子供や周囲に見せることができます。ソバ屋の技術、ソロバンをはじく技術、染めたり、編み物をしたり、多くの物は、鍛えられた技術を直接見せることができましたが、今や、理屈が優先したり、毎日が塾通いで、偏差値が高い人間ほど優秀だと思われる偏った価値観に覆われています。

 今や「偏差値」的な価値観が優先され、

 「偏差値」が高い人間は頭が良いとされて、人間的に優秀だとされています。つまり、「偏差値」(「交流分析」の「A(知性)」)偏重の人間が、「中身(つまり、「本音」や「行動」)」も優秀であると理解されています。典型的な例を言いますと、

 「育児書」を書いている学者・専門家は、実際に「育児」がうまいと思われています。本をたくさん書いている「心理学者」は、書いてあることが実際に「できる」専門家だと思われています。校長は、立派な「先生・人格者」だと思われています。外科手術の専門書を書いている医学者は、実際の外科手術は下手だと聞いたことがあります。

 こういうことから、現代は、ますます、「インナーチャイルド(内なる子)」が置き去りになっています。そこから、悲惨な犯罪やトラブル、相手の痛みが分からない虐待、高級官僚の人間性を疑う仕事ぶり・・・・・天下り先を作ることに精を出したり、福島の原発被害者救済のふざけた対応、予算の使い方、陸山会裁判など・・・・・いつの時代も同じだったのかも知れませんが、あまりにも酷いと思います。

 何故、素朴に感じられるこのような酷い

 ことが平然と行なわれるのか、それこそが「インナーチャイルド(内なる子)」の問題です。
「インナーチャイルド(内なる子)」
を感覚する感性の
「欠如」から来る問題で、現代のように偏差値重視の偏った価値観が大手を振っている時代、そして、私(藤森)の持論である「衣食足りてますます礼節を欠く」時代であるために、「人の心の痛み」に対して「不感症」になっているが故のことと推測しています。「人の心の痛み」とは、まさに「インナーチャイルド(内なる子)」に対する「感受性」です。「戦争」や「疫病」や「飢餓」などの体験を通して、死や人生の悲惨さを実感として分かった昔の人たちは、無意識的に「インナーチャイルド(内なる子)」の「痛み」を感覚していたことと思います。

 特に、現代日本は物質的にあまりにも恵まれている結果、日常生活の上で、悲惨な状態に置かれている自分の「インナーチャイルド(内なる子)」をそのままにしたままでも何とか生きていられるために、抑圧しきってしまって、誤魔化したまま人生を送ろうとしています。

 その「インナーチャイルド(内なる子)」が今や、逆襲してきて、世の中がいよいよ行き詰まりつつあるように思うのは考えすぎでしょうか?
今までの日本では考えられないような悲惨な事件、簡単に人殺しをしてしまう人間性、「江戸しぐさ」が忘れられつつある道徳の衰えなどは、皆、「インナーチャイルド(内なる子)」があまりにも意識されない社会になっているからであるというのが、私の考えです。
少なくても、「衣食が十分に足りて」いるにもかかわらず、各家庭の中で、いろいろな問題が山積しつつあるのではないでしょうか?

 大げさな話はともかくとしまして、人生に行き詰ることがありましたら、それは間違いなく、今のあなたが行き詰っているのではなく、あなたの「インナーチャイルド(内なる子)」が耐え難くなっていることを理解することです。
乳幼児期に傷んだ
「インナーチャイルド(内なる子)」が放置されていて、「助けて!」と悲鳴を上げていると断言して、ほぼ、間違いありません。

 では、「インナーチャイルド(内なる子)」はどこに潜んでいるのでしょうか。
 「交流分析」の「C(チャイルド)」の中の一部ですが、「C」さえもが封じ込めてしまって、「C」の奥底に「隔離されているC(チャイルド)」、あるいは、猛烈に傷んでいる「C」と言えばよろしいでしょうか。

 結論。
 私たちは、意識している自分と、無意識内に存在する「インナーチャイルド(内なる子)」とのバランス、この両者による「自利利他円満」を心掛けることです。
私(藤森)が想像する宗教はこれを目指しているはずです。少なくても、仏教やキリスト教などは、究極、このことを目指しているはずだと推測しています。少なくても、仏教における
悟り」とはこのこと(今回のテーマである「自利利他円満」)であると、断言しても間違いではないでしょう。

 では、この「インナーチャイルド(内なる子)」にどうやって気付いたらよいのか。
 それは、人生の様々な場面で、心の痛みを感じたり、生きにくさを感じたり、悩みや苦しさを感じたり、生きることに絶望感を感じたりするのは、間違いなく、「インナーチャイルド(内なる子)」が傷んでいることを意味します。
 そういう時、自己の内面に気持ちを向けたり、アンバランスな生き方、夢や希望などの無理な追求などに少しエネルギーを割いて考察する勇気を持つことと、人間にとって何が大切であり、何が優先されることなのかを、真剣に考える時間を持つことです。

 そして、「インナーチャイルド(内なる子)」が傷んでいることが分かった場合、それに取り組めば、取り組んだ「質・量」に比例して、十分に回復することは保証できます。

 (なかなか、うまく説明できず、蒸し暑い陽気の中で、のたうちまわっています。どこかを少し訂正すると、その後のほうがおかしくなり、直しても、直しても、スッキリいきませんが、ひとまず、ケリをつけます。いつかまた、まとめて「パート2」を出すことがあるかも分かりません。ご了承ください)

く文責:藤森弘司>

言葉TOPへ