2013年6月15日 第131回「今月の言葉」
●空海は、「釈教は、一言之を蔽えば、唯二利に在り」(しゃくきょうは・いちげん・これをおおえば・ただ・にりにあり)(御請来目録・ごしょうらいもくろく)。 <「空海!感動の言葉」(大栗道榮著、中経の文庫)> 「お釈迦さまの教えはひと言でいってしまえば、自利と利他のただ二利に尽きる」 法事が終わったあとで、 漢文で書かれているお経を漢音(かんおん)や呉音(ごおん)や梵語(ぼんご)で読むので、一般の人には、わからないのが当然です。しかし、お経はお釈迦さまが亡くなられたあとで、弟子たちがお釈迦さまのことばを書き残したものです。お釈迦さまの教えは八万四千の法門といわれるほど、たくさんの、たとえ話を引いたりして、人間としての生き方を、手を変え品を変えて教えておられます。 空海さんは『御請来目録』のなかで、「お釈迦さまの教えは、お経の本でも何千巻とあるが、つまるところは自分の利益を求めることと、他人の利益を願うことの二つに尽きる」といわれています。 『御請来目録』というのは、中国からのお土産の目録です。空海さんは唐へ留学されたとき、宮中へは20年間の予定で留学申請をしました。ところが、空海さんは入唐すると、さっそく超人的な努力をされて、唐でいちばん優れていた密教の奥義を、たちまち極めたのです。そればかりか、当時世界一発達していた唐の文化を、わずか2年で吸収してしまいました。 そうして20年の十分の一の年月で帰国してしまった空海さんは、大同元年(806)10月に、日本ではじめての密教の経典や仏像や法具など、膨大なお土産の目録をおっかなびっくりで宮中に提出されました。宮中では、それをご覧になって驚嘆されたことでしょう。 空海さんはそのとき、「お釈迦さまの教えを密教的に解釈するとひじょうによくわかる。自分の利益と他人の利益とは相反するようだが、“自利利他(じりりた)”といって、これを一致させるのが密教の目的なのだ」と主張されたのです。<「空海!感動の言葉」(大栗道榮著、中経の文庫)> |
●(2)お釈迦さまの教えは「八万四千の法門」、お経の本で「何千巻」もあるそうです。 そういえば、キリスト教でも、分厚い聖書があり、たくさんの教えがありますね。私(藤森)は、まったくわかりませんが、神父さんや牧師さんが脇に抱えている姿をよく映画などで見受けます。しかし、しかし、です。 「密教」といえば、なにやら奥が深く、難解な感じがします。何万の法門があり、何千巻の書物がある仏教を研究し、膨大な解説書も書いている立派な学者や専門家がいらっしゃるけれど、要は「二利」にあるんですね。「真髄」はわずかこれだけです。 <<<自分の利益と他人の利益とは相反するようだが、“自利利他(じりりた)”といって、これを一致させるのが密教の目的なのだ」と主張されたのです。>>> 世の中に立派な学者や専門家はたくさんいるけれど、「二利」を実践している方を私(藤森)はほとんどまったく見たり聞いたりしたことがありません。 さて、「二利」とは「自利利他(じりりた)」とのことです。 たぶん、一般に「自分と他人」と考えていらっしゃると思います。これは当たり前のようですが、では「他人」とは誰のことでしょうか?たぶん、ほとんどの方は、商売の場合であれば、「商人」と「お客様」の関係、会社であれば、自分と周囲の上司や社員と考えているように思います。 もちろん、これは大正解であり、学者・専門家も同様に考えているはずです。しかし、これは大変狭い範囲の理解です。たぶん、「親鸞聖人」も同じような理解(???)だったように思われます。私が親鸞を好きになれない理由はそこにあります。 私(藤森)が考える「自利利他(じりりた)」の「自」はもちろん「自分」ですが、「他」は、自分以外のすべてを意味していると解釈しています。そして、「自分」以外のすべての中で最も重要な他者とは、夫であれば妻(配偶者)や子供です。 しかし、親鸞は、私の記憶では「妻」を軽んじています。「妻」をして、同じ墓に入りたくないと言わしめています。親鸞は「衆生済度」に猛進したことと思いますが、私のように「深層心理」を専門にしている人間からみると、「衆生済度」の中に「妻子」が含まれない不満があります。含めないのであれば、結婚しなければ良いわけですし、子をもうけなければいいわけです。親鸞は晩年、息子にも裏切られて「義絶」しているはずです。 立派な学者・・・残念ながら「心理学者」までもが、「利他」の中に、無意識のうちに「妻」や「子供」を含めていない、あるいは、軽んじているように思われます。もちろん、その実例の多くを私は知っています。 <<<自分の利益と他人の利益とは相反するようだが、“自利利他(じりりた)”といって、これを一致させるのが密教の目的なのだ」と主張されたのです。>>> さて、「結論」です。 「自分」と自分以外のすべての「他者」とのバランスを考えることが、平穏な人生を送る上で大変重要です。逆に言いますと、家庭の外での業績が抜群に素晴らしい人がいたとします。家族は、そのすばらしい業績による地位や高い収入・著名さ、などには満足でしょうが、家庭をおろそかにされて、果たして、日々を安穏に送れるでしょうか。 マンションを借りて、一人で住んでいるときは、ひとまず、私生活は好き勝手に生きれば良いでしょう。しかし、結婚すれば、配偶者の生き方、好みを考慮する必要があります。理想を言えば、フィフティ・フィフティです。 例えば、寝るときの消灯時間やエアコンの温度などを調整する必要があります。男は外で仕事をして生活費を稼いでくる。だから夫の主張を通したいと思うのは間違いで、家庭で家事・育児を引き受けているからこそ安心して仕事に精を出せているのにもかかわらず、自分が働いているから生活できているのだという考えは、「安穏」に人生を送る上で、それは「困難」を伴うものです。どういう形で問題が出るか分かりませんが、なんらかの形で「症状」は必ず出ます。 また、子供が生まれれば、フィフティ・フィフティの関係からさらに譲り合ってワン・サード(3分の1)の関係になります。どこを譲り、どこを主張するのかという細かい話は別にして、子供の人数により、育児の負担は膨大になります。 そして、さらに、職場でのバランス、友人関係のバランスなども含まれてきますので、自分自身とそれらの関係性とのバランス、つまり「自利利他円満」の境地は大変なものになります。もちろん、瞬間々々においてはアンバランス・・・・・例えば、今週、自分の遊びや仕事に力を入れすぎたので、来週は家族サービスということがあるのは当然です。 ですから、大人になるということは、そして、年を取っていくということは、「自利利他」の関係性がさらに複雑になるため、「自我の成熟性」を高めていかないと、その人の周囲には「軋轢(あつれき)」が生じるのは当然のことです。そして、残念ながら、ほとんどの場合、少年や青年の頃の人間関係レベルで一生を過ごしています。 さて、タイトル的に表現しますと、「カウンセリング」とは、「自利利他」が猛烈にアンバランスになっていることから生じる「場の乱れ(ウツや不登校や離婚の危機など)」を「調整」して、「自利利他円満」に少しでも近づける作業を意味します。 そして、少しでもバランスが調整されますと、調整された度合いに応じて、「場の乱れ」は収まってきます。「自我の成熟度合い」に比例して。 |
●(3)先日、ある葬儀に参加しました。
亡くなったその方は、料理はうまいし、彫刻はできるし、ドライブは好きで乗り回す。高山植物には深い興味があり、上から下から写真を撮るなど、葬儀の場でいろいろ聞きました。 特に、ある兄弟の方が、 私(藤森)はその話を聞きながら、これは一体全体なんなんだ!!!と思いました。 と言いますのは、亡くなった人の配偶者をよく知っていて、車のエンジン音を「ブオン、ブオン」と響かせていたとき、その配偶者は「ウツ」で、薄暗い家の中で唸っていたからです。 私たちがどうしてもウカツになってしまうのですが、しかし・・・・・人生を少しでも落ち着いて生きるためには、最も重要であり、最も難しい対象を忘れないことです。その方は、最も重要であり、最も難しい対象以外の「自利利他」は、かなり「円満」であったようです。そして、程度の差はあっても日本には、非常に多い話です。 大事なことは「光」と「陰」の両方を同時に感じられる「感性」を磨くことです。「光」の部分が輝けば輝くほど、「陰」の部分は大きいものです。業績が大きければ大きいほど、その業績の「陰」に隠れた「症状」は重くなる可能性が高くなります。 20年くらい前だったでしょうか。東大の英文学の大権威の名誉教授と、その子供も英文学の権威ある教授の家庭で、孫の少年か青年が祖父をナタで殺す事件がありました。英文学の権威ある家庭ですから、食事中はネクタイを締めていたとのことです。私の専門の立場から考えますと、これは「典型的」なケースです。 もう一つの側面の「自利利他円満」は、次回、「インナーチャイルド」で説明します。 |
く文責:藤森弘司>
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