2013年5月15日 第130回「今月の言葉」
●(1)これから紹介する内容は凄まじいものです。
<第128回「カウンセリングとは何か(八苦)」>の中の「(7)求不得苦(ぐふとくく)・・・・・・・人には誰でも欲がある。「一つかなえばまた二つ、三つ四つ五つ六つかしの世や」ということばがあるように、欲にはきりがない。そして、いくら求めても得られないで苦しむことを『求不得苦』という。」 とありますが、私(藤森)は、多くの人たちが感じる「不幸感」は「求不得苦」だと思っています。もちろん、私自身も、長年、この「求不得苦」、「求めても、求めても得られない苦しみ」の中でもがいて生きてきました。 でも、とにかく、「絶望感」を抱いたにせよ、得ようとすることを「諦め(諦観)」てみると、生きるのがかなり楽になりました。そうして周囲を見渡してみますと、少なくても、私が見るところ、世の中の多くの苦しみは、この「求不得苦」であるように思えます。日常、多く見られるものがこれです。 ●(2)さて、今回の「求不得苦②」で紹介する内容は凄まじいお話です。映画やドラマに出てくるようなお話です。 万次郎という人が酔って、夜中に突然、妻の浮気に逆上して日本刀を振り回し、芸妓6人を切り捨てた。今回の主人公、大石順教先生は、この頃、妻吉という名前でしたが、両手をバッサリ切り落とされましたが、辛うじて生き延び、それから想像を絶する苦難の道を経て、私(藤森)流に言いますと「求不得苦」を乗り越え、「悟りの境地」に達した、私の尊敬する先生です。 両手を斬られた2年後に、三遊亭金馬一座に加わり、そこで柳家金語楼とも出会います。その後、藤村叡運僧正の門下生になります。明治45年、画家のY氏と結婚。昭和8年、紀州高野山天徳院に於いて得度、「順教」と改名します。 さて、巻末に、昭和56年11月に限定千部印刷、定価680円、1部の原価580円、身体障害者の施設への寄付が100円と記されています。 著者・佐々木勇雄氏略歴・・・1910年、東京都新宿区に生まれる。高野山大学卒。当時の住所は大阪府守口市大久保、社団法人守口市シルバー人材センター理事。 製作・・・有限会社新世紀書房 千代田区丸の内。 |
●(3)「続・回顧妻吉後日物語・・・大石順教尼の横顔・・・」(佐々木勇雄著)
大石順教尼口筆による記念碑(割愛) 何ごとも <<<平成25年1月26日、東京新聞「今週の言葉」(青山俊菫)より 何事も成せばなるてふ言の葉を 胸にきざみて生きて来し我れ・・・勅題「立つ」にちなみ・・・大石順教尼 明治38年6月、大阪堀江の遊郭、山梅楼の主人、中川万次郎は、妻の浮気に逆上して芸妓6人を切り捨てた。両手を失ったが奇跡的に命をとりとめることができた妻吉は、以後三遊亭金馬の一座に身を投げ、旅芸人として生活が始まる。 青葉城下の仙台の宿で一つがいのカナリヤに出合う。手もなく、羽があっても飛べない籠の中で、カナリヤは楽しげにさえずり、雛をだき、口でやしなっている。「私にも口がある」と思い立ち、口に筆をくわえての死にもの狂いの勉強を始める。後に出家して大石順教尼となり口で描かれた書画はミュンヘンにまで出品された。 「両手あって何が書けない。本気の心の立ちあがりがないだけのことではないか」と自らに問いかける日々である。(愛知専門尼僧堂長)>>> <自序> 1981年(昭和56年)は「国際障碍者年」である。この記念すべき開幕の年を迎えるに当たり、筆者はさきに「自己の不自由な体を精神力によって見事克服し、その生涯を身障に悩む人びとのため自らの体を捧げた妻吉こと後の大石順教尼の一断面」についてつたないながら紹介した。その目的とするところは、戦後一部の人びとによってようやく失われかけようとされている人情の機微を、たとえわずかでも戦前に見られるような人としての本来の美しい姿に取り戻すことが出来たならばとの淡い願いから、不学の身をも省みず出版に踏み切ったものであった。しかし、知名度が皆無の筆者の出版ゆえ、果たしてどこまでその目的が達成されるものやら内心不安に思ってはいたが、ひとたびこの出版が各新聞によって広く報道されるや、思いのほかの反響を呼び、翌早朝より数日間というものは、連日夜遅くまで申し込みが殺到し、文字通り電話は鳴りっぱなしの状態となり、嬉しいことではあったが、一時は筆者一人でどうなるかと頭を悩ます程となった。 このようにして、またたく間に限定の一千部はそのほとんどが、約1ヶ月にしてご理解ある方々の手によって消化され、なおその後現在に至るまで、未だに残部の有無の問い合わせを受けるほどとなった。そればかりではなく、増刷の声や、まだある秘められたエピソードとか、尼のプロフィールをも知りたい、という声さえも耳にされるようにまでなってきた。しかし、筆者の真の目的は、さきにも述べたように身障者に対する真の理解者を一人でも多く求めるところにあり、決して利益を追うところではない。それよりも、自費による出版はあまりにも費用がかかり過ぎるため、誰一人として後援者もなく、また、何の力もない筆者にとってはあまりにも荷が重すぎるため、さきの出版は限定どおりの一千部にとどめおき、それに代え、今回多数の方がたから寄せられたご要望にいささかでも答えるため、おのれの無学をもわきまえず、再び四十数年前の記憶を一つ一つ呼び起こし、拾い集め、それを整理してまとめ「大石順教尼の横顔」のサブタイトルを付し、ここに「続・回顧妻吉後日物語」を出版するに至った。 従って今回出版の内容は先のものとは多少趣きを異にし、尼の伝記は省かれ、前回に書かれなかったエピソードを重点として筆をすすめることにした。すなわち、 前回同様文筆の才能なき筆者のいたって粗末な、しかもその上につたない著ではあるが、舌足らずのところはお許しを願い、読者諸氏の鋭い感覚によってご推察下され、この記念すべき「国際障害年」という世界的な大行事を今年一年だけに繰り広げられたお祭り的なそして口先だけのものにならぬよう、これを契機として幾世代にいたるまでお一人でも多くの方がたから身障者の上に正しいご理解とあたたかい愛情を賜りますよう、心からお願いする次第である。 最後に今回第二次の出版に当たり、重ねて大阪市教育委員会指導主事中西稔先生から身にあまるご助言を賜わり、心より深く謝意を表し序にかえるものである。 昭和56年9月1日 |
●(4)<まえがき>
米子(後の妻吉こと大石順教尼)は、舞いの道を選んだばっかりにとんでもない事件に巻き込まれ、養父万次郎の妖刀にかかり、黄金にも等しき両腕を失う破目にまで陥ってしまった。両親の嘆きもさることながら、当の米子の心情は如何ばかりであっただろうか。一瞬の間に奈落の底に蹴落とされ、視界は全く真っ暗やみとなってしまった。ただ、幸せであったことは、辛うじて彼女の頭上に、それはほんの僅かばかりではあったが、生命(いのち)を死から護るだけの絆が垂れさがっていたことだけであった。ことは終わった、いまさら過ぎしことを振り返り、思い出してみてもどうにもならない。病院のベッドの上ですっかり変わり果てた自分の姿を鏡に映し出し、じいっと見つめていた彼女米子は、一人寂しく涙を流し、諦めるより外には術はなかった。 日にち薬はようやくにして彼女の体を快方にむけて来た。それにつれて米子は彼女自身本来の不屈の精神がまたまたひさびさに頭をもたげはじめ、それがやがて、全身にみなぎりはじめてくるのであった。今ここでくじけてはいけない。いくらくよくよと考えてみたところで一旦失った腕が再び戻るはずはない。みじめならばみじめなりにどうにかなるだろう、と割り切って考え、自分で、自分の心にそういい聞かせはしたものの、若い彼女のこと、一まつの寂しさは禁じ得なかった。 そうこうしているうちに何ヶ月かは夢の如く過ぎ去り、病院での生活も終わりに近づき、やがて退院の日を迎えることになった。しかし、まだ自宅での療養は続けなければならない。 このようにして養生をした甲斐があったか、彼女の体はめきめきと回復し、もとの元気さを取り戻すことが出来たので、米子はひとまず旅の芸団(三遊亭金馬一座)に身を置くことにし、旅から旅へと浮き草の如く流れ歩いた。しかし、その間に学問の必要性を深く心に銘じたため、帰阪後芸の生活から身を退き、藤村師の門下生となり、自己の無学を取り戻すために、ひたすら学問の修行を続けるのであった。このようにして第二の人生を送っているうちに、やがて彼女にも楽しい春が訪れて来るのであった。だが、その春はいつまでも続かなかった。茨の道は遠く長く、いつまでも容赦なく彼女を苦しめる。彼女はその茨の道を転げながらも、ただ黙々と歩み続けるのであった。二人の愛児の行く末に一縷の望みを託して。 禅宗の高僧間宮英宗禅師はその著に、 とにかくに 手汲(たくみ)し桶の 底抜けて と詠んでいる。如何なる苦しみも天がわれわれに与えた試練である。口先だけではこの世の荒波は乗り越えることは出来ない。あらゆることを経験し、また、あらゆることを直接膚に触れて体験し、それを育てあげ積みj重ねてこそ、いつしかさわやかに輝く真如の月を仰ぎ見ることができるわけである。と、そう自分なりに悟った彼女は、わが身の苦しさをも忘れていままで以上にただしゃにむに働き、そしてまた学びもするのであった。時には夜を徹することも幾夜あったか、そのため未だ若いみそらでありながら、なりふりにもかまわず、いわんや他人の陰口などを気にするだけの余裕もなかった。このようにして途中多少の難所はあったものの、大きな過ちもなく、一意専心光に向かって歩み続けることが出来たためか、ようやく車を正しく軌道に安定させることができたのであった。ここに至るまでの彼女の苦しみ、また悩み、それは体が不自由であっただけにひと一倍のものがあったことであろう。この間の苦しかった生活の状態は、資料がないため、残念ではあるが今ここで筆者の手によってはお伝えすることはできない。 憂きことの なおこの上に つもれかし 熊沢蕃山先生詠 |
●(5)<第一部 順教尼のプロフィール(横顔)>
波瀾に満ちた順教尼の一生には、数多くの秘められたエピソードがあったに違いない。だが、これらの一つ一つを今此処で披露しようと思ってみても、尼と筆者との触れ合いがあまりにも短かったためか、尼の口からは直接(じか)に話を聞く機会に恵まれなかった。従って資料の持ち合わせはあまりない。そのため今回は第壱集に載せられなかったあまり知られていないエピソードを中心にして、側面から尼の人柄に触れてみることにしよう。 <目の前に雛ちゃんの生首が!> 妻吉は、芝居から帰って来たお父さん(養父万次郎)がいつもと変わりのない上機嫌な様子にそっと胸を撫でおろした。そして眠たい目をこすりながらも、夜遅くまで万次郎の話し相手をしていたのであった。時刻は一刻ごとに過ぎて行き、夜の帷(とばり)もますます深まって行く。周囲は静寂そのもので、時折聞こえてくる犬の遠吠え以外には、なんの物音も聞こえてこない。 杯(さかずき)を片手にチビチビとお酒(みき)を飲んでいた万次郎の手が急に止まり、話が少し途絶えた。しばらくすると、万次郎は眠たそうな目をしながらも懸命に自分の話し相手をしていた妻吉のあどけない姿を見て「妻吉や、もう遅いから先にお寝み」と言うのだった。妻吉はやっと万次郎の相手から解放されたので、「ではおとうさん、お先に寝ませていただきます」と挨拶をして二階にある自分の寝間に静かに入った。 部屋には淡い電灯の光の下で、雛ちゃんが幽かな寝息をたてながら、何の屈託もないような顔をして機嫌よく静かに眠っている。自分の寝床はもう敷いてあった。雛ちゃんが敷いてくれたのだろう。妻吉はそんなことを誰に言うともなくつぶやきながら、寝巻に着替え、いつもの通り着物はきちんとたたんで枕元に置き、寝床に入るのであった。夜はしんしんとふけてゆく。妻吉は床に入ったもののなかなか寝つかれない。何度寝返りしたか、無理に寝つこうと思ってみても、次から次へといろいろのことが走馬灯のように頭の中を駆け巡る。 そのうちいつとはなしに深い眠りに陥ってしまった。どのくらい寝たのだろうか、夢の中で障子の開く音がかすかに聞こえた。しばらく(それはほんの二、三秒程であったか否か二、三分ぐらいであったか?)すると、何か異様な物音が聞こえたような気がした。と同時に、今まで自分がしていた枕がはずれた。妻吉は無意識のうちにそのはずれた枕を取ろうと両手をのばしたその瞬間、何かが腕に触ったと思ったとたん夢が破られ、自分の腕が雛ちゃんの枕元へ飛んでいるのがおぼろげながら見え、その傍(そば)には生首らしいものが鈍い電灯の光の下に見えたような気がするのであった。 その間ほとんど一瞬の出来ごと、腕からはどす黒い血が吹き出し、腕先は見る見るうちにほおずきのようにふくらみはじめ、意識は朦朧(もうろう)として何もわからなくなってしまった。・・・腕先がほおずきのようにふくらみ、出血をある程度防いだので、彼女の生命は取り留められたのかもわからない。・・・ 順教尼は感慨深げに当時を回顧し、自分の生命力がこれまで強かったのか、と今更ながら驚き、大きな溜息をつくのであった。また順教尼はこんなこともつけ加えて言っていた。 万次郎は自分(妻吉)の両腕を切った後、私の顔に掌(てのひら)をかざして息をうかがっていたようであったので、その間息を止めていたのだが、その数秒間の時間が長かったこと。この辛抱強さによってもわかるように、この気力が尼をして悲願の達成に導くことが出来たものであるといえるのではあるまいか。 <待ったなし> 昭和11年頃のことであったかはっきりした記憶はないが、平素から健康そのものの順教尼の体は、別に苦痛を訴えているわけではないが、最近どうも様子がおかしい。それというのもあまり病気を知らない彼女のこと、いつもならば朝は早くから起床し、庭に出て高安山から吹きおろされる冷たい新鮮な空気を腹いっぱいに吸い込み、ひとしきり軽くウォーミングアップをする習慣がついている順教尼であったが、最近の彼女は起床の時間も定まらず、また起きて仕事をするにしてもなんとなく重苦しい様子。 だが、順教尼はその重苦しさを強いて表面に現すようなこともせず、いつものとおり平静をよそおっていた。そのくらいであったから、周囲の者には尼の体に変化が生じたことなどわかるはずはない。従ってまさか先生(順教尼のこと)が病気などとは、塾生の誰しもが思ってもみなかった。ただ近頃の先生は少し様子がおかしい、と思っているぐらいで、別に気にもとめていなかったようである。 ところがある日のこと、かねてより親しくしていた知人の芝原ウラ女史がたまたま高安の庵を訪ねて来た。女史は医学の経験があり(看護婦さんであったとか)常々からサンガー夫人が提唱していた産児制限に共鳴していたところから、それとなくその筋よりマークされていた女丈夫であり、当時阿倍野区の旭町にささやかな居を構え、席の暖まるいとまもないほど社会のために活躍し、多くの人びとから尊敬されていた人であった。そのような人であったから、順教尼と褄(つま)が合わぬはずはない。 女史は座敷に上り、しばらくの間順教尼と言葉を交わしていたのであったが、今日の順教尼はいつもとどこか違う。言葉に張りがなく、第一朗らかさが見られない。だが、そこはもともと医学に心得のある人、職業上から来る勘は鋭かった。尼のただらなぬ変化が生じていることを感じ取り、それとなく医師の診断をすすめてみるのであった。順教尼は、健康体であっただけに医者嫌いな方である。 しかし、今度ばかりはそうもいっていられなかった。善は急げ、という言葉もある。女史のたってのすすめに応じ、診察をしてもらうだけという軽い考えで何の準備もしないまま、女史に伴われて上六(うえろく)の日赤病院へ向かった。当時日赤病院は大軌鉄道(今の近鉄)上本町駅の裏手にあったと記憶している。 さていよいよ医師の診察となった。見立ては芳しいものではなかった。結果は子宮筋腫とのこと、それも手遅れ一歩手前のため、早急に筋腫の部分を摘出しなければならない。しかし、尼にしてみたならば、ほんの軽い気持ちで診察を受けに来たのだから、今すぐ手術だからといっても何の準備も出来ていない。費用もいるだろうし、着替えの着物一枚もいるだろう。当惑した尼は一旦帰宅することを申し入れたが、医師はその願いを聞き入れず、ただちに病室の手配をし、帰宅を禁じたのであった。まさに 「待ったなし」の宣告である。 手術はそれから2日後に行なわれ、無事筋腫は取り除かれた。取り上げられたものは直径約10センチ、高さは約4センチ程もあっただろうか、ピンク色をした表面の美しいまんじゅう型をした固まりであった。今でも日赤の標本室にアルコールづけとなって残されているのではないだろうか。 筋腫を摘出した後、順教尼はしばらく高安の庵にて静養していたが、その後も変わりない目まぐるしい日々をおくっていたとか。 彼女が明治21年3月、大阪難波の道頓堀に生まれ、昭和43年4月22日午前0時10分、京都の山科において永眠するまで満80年の間、病気らしい病気で病院生活をしたのは、後にも先にもこの時ぐらいではなかったのだろうか。亡くなる時でさえ、数時間前までは元気に働き、寝床に入ってそのまま静かに文字通り眠るが如くの大往生を遂げられたとか。 順教尼の一生をかけての事業は、決して派手なものではなかった。むしろ地味なものであったといったほうが適しているかも知れない。しかし、尼が歩み続けて来た茨の道、そしてまた多くの身体的並びに精神的障碍者に与えて来た愛の灯火、それはいつまでも消えることなく永遠に点(とも)し続けられて行くことであろう。 澄めば澄む 澄まねば澄まぬ わがこころ 古歌『英宗禅師集』より |
●(6)<恩讐を越えて>
阿鼻叫喚(あびきょうかん)の巷(ちまた)と化した置き屋山梅楼(やまうめろう)での魔の一夜は夢の如く過ぎ去り、再びいつもの静寂へとたちもどった。昨夜来降り続いていた雨も漸く上がり、東の空も白みだし、薄日もさしはじめてきた。一瞬の間逆上し狂っていた万次郎は、右手にしっかりと握りしめていた血のしたたる妖刀を畳の上に投げ出すなり、崩れるようにして座り込んでしまった。 正気に返った彼は「自分は今まで何をしていたのだろうか」と思い出そうとしてはみたが、頭がモヤモヤとしていてなかなか思い出すことが出来なかった。妻吉をさきに寝ませたところまではおぼろげながらでもどうにか憶えている。だが、それから後のことはどうしても思い出すことが出来ない。しかし、事実家の中にいるのは自分ただ一人で、あとは物いわぬ家族とあちこちに飛び散っているどす黒い血溜まりだけである。その現場の様子に気がついた万次郎は、あまりにも無残な光景に、自分がしたこととは知りつつも、ただ茫然として声も出ず、のどがむしょうに乾くのをおぼえるのみであった。 万次郎はこの有様をまのあたりに見、思わず目を閉じた。「ゆるしておくれ、妻吉」他の者はともかくとして、あれ程までもいつくしみ、可愛がって育ててきた妻吉までも己が刃の犠牲になったとは、自分ながら到底信じられないくらいであった。 妻吉にすすめられ、芝居に行って見た出し物「伊勢音頭恋の寝刃」がこの惨事を引き起こした直接の引き金になったのだろうか、当の万次郎自身にもはっきりとしたことはわからなかった。「こうしてはいられない!なまじ恥をかくよりも、いさぎよくお上の裁きを」と、返り血を浴び真赤に染まった着物を脱ぎ捨て、新しい着物に着替えると、重い足を引きずりながら、夜明けの街を西警察署へと急ぐのであった。自首をした万次郎はやがてその身柄は堀川刑務所に移され、翌年、すなわち明治39年死刑が確定されることになった。 妻吉は、万次郎の死刑が確定されたある日のこと、一日堀川j刑務所を訪れ、万次郎に面会を求めるのだった。万次郎は、この妻吉の優しい思いやりに心から喜び、妻吉に向かって、 「罪を憎んで人を憎まず」という諺がある。罪は法がこれを裁く、私には人まで憎むことは出来ない。ましてや、たとえ一時とはいえ義父(おとうさん)と仰ぎ、また特に自分を可愛がり育ててくれた大恩ある万次郎である。今さら怨んだところで一度失った両腕が再び元へもどるわけでもない。こうなかば悟ったような、また諦めたような妻吉は、複雑な思いで内心は辛かったが「おとうさん、心配しないで。どうか安らかに法の裁きを受け、罪に服して頂戴。おとうさんが亡くなっても、妻吉は必ず欠かさずに冥福を祈るから」と慰め、刑務所を去ったということである。 高安の一室である日こう語った順教尼は、この惨(むご)い思いで話が終わると窓ぎわに立ち、空に向かって一度大きく深呼吸をするのであった。晩秋の空には一人月が笠をかぶって鈍く下界を照らしている。眼下に広がる河内平野は濃い墨を流したように真っ暗やみ。その遥か向こうにはひと筋大阪の街のともしびが見える。今宵もまた、あの街のどこかで悲しい事件が起こっているのではないだろうか。 順教尼の朝の日課は、五人の犠牲者の菩提と恩讐を越えた万次郎の供養であった。高安の庵にあっても、また山科の慈鏡苑にあっても、これだけは欠かしたことはなかった。 <「かげきよ」さん> 順教尼の水茎(みずくき)の跡は、それが口筆であっただけになおいっそうのこと、誰が見ても見事なものであった。どうしてあのような美しいまろやかな、そしてまたどこか気品のある文字が書けたのであろう。生まれつき手筋が良かったのかも知れない。(尼に限っては口筋といったほうが適しているだろうか?)ともあれ尼のたゆまざる努力が、彼女の筆跡をしてかくも上品に且つ美しいものにしたに違いない。 「何ごともなせばなるてふことのはを 胸にきざみて生きて来しわれ」と、こう詠んだ短歌は尼の心の内をいかんなく表現し得たものであることが知られよう。それに反しとりあえず五体揃った筆者、恥ずかしいことではあるが、生まれつき筆とは性が合わぬせいか、自分ながらあきれる程の悪筆、どうしてこうも違うのであろう。筆者はかつて「佐々木さんの字が読めたならば一人前である」といわれたことがある。本人もこれを諒としているから世話はない。 昭和8年8月、初めて順教尼を知ってからようやく1年ほど過ぎた頃であった。たまたま高安の庵を訪ね、尼と共に小さな畑の草むしりをしていた時であった。「かげきよさん、かげきよさん」と誰かを呼ぶ声が聞こえた。あたりを見たが人らしい姿は見られないので、筆者は思わず「ハイ」と返事をした。尼は、いつの間にか当時の筆者に「かげきよさん」という愛称をつけたらしい。その後も筆者は何のことかわからぬままこのニックネームに甘んじていたが、あるときこの「かげきよ」の意味について聞いた。 平安朝時代の末期の頃、平氏の一門に平景清という武将がおった。彼はまたの名を「悪七兵衛景清」ともいわれ、能楽にもよく出てくる人物であったそうである。この「景清」即ち「悪七兵衛」は「悪筆兵衛」と語呂が似ているところから、この愛称を選んだらしい。筆者にとってはあまり嬉しくないニックネームであった。筆者は現在でも文字を書くことだけは特ににが手のひとつとしている。 順教尼は真面目な中にも一面、時折りこのようないたってユニークな洒落をいうこともあった。 <略> <多技多才> 順教尼は稀にみる信念の固い人であった。彼女に人生、それはたしかに波乱に満ちたドラマであったに違いない。しかし、彼女は長い間茨の道を歩んで来た割には意外に心が円く楽観的であり、何事にもこだわらない人柄の持ち主であった。その順教尼であるが、彼女は不自由な体をしていたにもかかわらず、多才な趣味と多くの技能を身につけていた。しかも、それらのほとんどのものはいずれもその域に達していたようであり、その深い造詣にはただただ恐れ入るばかりであった。 勿論これには、彼女が花街で育ったということも一つの大きな原因として数えあげられるかも知れないが、それよりも更に大きな、そして見落とすことができないのは、彼女自身の持って生まれた怜悧な頭脳と負けじ魂とが、彼女をして技術を大成に導いたのかもわからないということであった。今これらの一つ一つを挙げてみるならば、日舞はいうまでもなく絵画・書道・短歌・謡曲・小唄・長唄等に通じ、食通でもあり、また茶道・華道も心得、陶磁器をも愛好し、高安の里にある時などは、庵の横を流れ落ちる谷川のせせらぎのほとりに窯(かま)を設け、楽焼を楽しんでいたようでもあったといわれている。 また一方尼の人柄であるが、がさつな筆者とは対照的に、到底真似のできない長所を持ち、行儀作法にしても、話術にしても、他人の心理をす早く察するテクニックにしても、非常に巧みであったと記憶している。しかしまた、その反面ユーモアなどにも富み、ひょうきんな、そして無邪気な一面もあり、だれからでも愛されていたようであった。 <堀江事件の現場跡> いつの頃であったか定かな記憶はないが、筆者は順教尼に案内されて堀江六人斬り事件があったといわれていた現地を訪ねたことがあった。上六から市電で湊町に向かい、それより北へ一停留所か二停留所、御池橋で下車し、西へ徒歩で約10分、この辺一帯が、事件のあった俗に南地堀江といわれる所であった。あの事件があってから四十数年、勿論当時の忌まわしい形跡は見られなかったが、色街の匂いだけは何処かに漂っていた。どの辺りであったのであろうか、順教尼はとある一軒の家に入った。この家がもとの山海楼で、ここで事件が起こったとか。訪問当時は中二階のある三階建ての家屋で、洗い張りを営む家と変わり、その家の主(あるじ)夫妻は実直な人で、家業も相当繁盛していたようであった。標札には「中川」と明記されていたが、万次郎とは何等関係はなかったようである。 <略> <妓生(きいさん)に学ぶ> 順教尼は一生の間に各地で講演をおこなった。そして、何処の会場においても、話が終わると必ず聴衆の前で実際に口に筆をとり、軽快なタッチで、色紙とか奉書に絵や和歌をかいて見せるのだった。なかでも尼は文字を好み、万葉がなを最も得意としていたようであった。また、絵画は文字ほどではなかったが、それでも蘭・海老・案山子・蛙・コウモリなどの即席画は見事なものであった。 これらの絵の中でも、尼は特に蘭の花を好んでいたらしい。それは、慈鏡苑の創立当時、自在会の会章を「蘭の花びら」に定めたことによっても、その辺の一端がうかがい知られる。このように順教尼は、蘭が好きでよくこれを描くのであったが、描くたびごとに気に入ったようにはかけない、とよくもらしていたようであった。ところが大陸の慰問も終わり、帰路再び京城を訪れた時、縁があったのか、一日亀山師に案内され、妓生に接する機会を得、その際妓生から蘭の書法を習ったといわれている。それ以来順教尼は自信をもって蘭の絵を描くようになったと。因みに妓生とは相当学問があり、その上歌舞音曲はいうまでもなく、絵画・書道・作法にも通じていなければ一人前の妓生とはいえなかったとのことである。 <略> <境遇に負けるな> ひと口に障碍者といっても、その種類はさまざまである。例えば、身体的な障害から見たならば、肢体の障害があるだろう。また内臓の障害もあることだろう。また、精神的な障害から見た場合ならば、異常な性格もそうだろうし、精神薄弱もその一つに数えることが出来ることであろう。このようにして考えてみると、残念ではあるがこの地球上で障害を持たぬ人は数えるほどしか、否、一人もいないと言っても言い過ぎではないような気がしないでもない。 しかし、今ここではごく狭い意味での障害として、一つは外面的ないわゆる目に見える体の障害と、他の一つは内面的な、目には見えない心の障害について話をしてみたいと思っている。この二つの障害のうち、数的に見ていずれが多いかといったならば、心に障害を持つ者のほうが身体的障害を持つ者をはるかに越え、絶対的に多数を占めているようである。 身体的障碍者は、なるほど初めのうちは自己の障害のみにとらわれ、その他のことを考えるだけの余裕を持たず、身の不遇を嘆くばかりであるが、ひとたび同じ境遇の者に接し、心が開けたならば、案外悟りは早く、社会の一員としてスムーズに溶け込むことが比較的容易にできるが、それに引き換え、手に負えないのは心の障碍者、それも特に心のひねくれた者である。こればかりはちょっとやそっとではなかなか正しい軌道に乗せることはむずかしく、骨の折れる仕事である。そのため順教尼は、日頃から塾生(弟子)達には口癖のようにして「体に障害はあっても、心まで障碍者になるな」と戒めていたそうである。つまり、いかなる境遇にあっても心を豊かにもつことの大切さを教えていた。そして、黙々と正しく自己の道を歩んでこそ、遂には光り輝く明るい世界が目の前に開かれるのではないのだろうか、と。 <二人の聖女> 「アメリカにヘレン・ケラー女史あり、日本に大石順教尼あり」これは昭和12年の4、5月頃のことであったか記憶は定かでないが、盲・聾・唖の三重の苦と終始戦いながら女史自身の強い精神力により見事それに打ち勝ち、しかももっとも深刻なハンディをも克服し、遂にドクターの栄冠にまで輝いた聖女ヘレン・ケラー女史が、秘書トムソン夫人を随行として従え、初めて浪速の地にその第一歩を踏みしめた当時、ある新聞によって報道された記事の一部であった。しかし、その内容についてはどのように書かれていたか、今になっては思い出す術もない。ただ世紀の生んだ偉大なる女性として紙面を賑わしたことは言うまでもないことであった。 東京での講演を無事すませた女史は、関西入りでの第一声を朝日新聞大阪本社の大講堂で放つことにした。勿論女史は口を「きく」ことはできない。そのため幼少の頃より習い憶えた指先による指話を通じ、自分が歩んだ茨の道をトムソン夫人に伝えた。トムソン夫人は、長年女史に仕えた経験を生かし、指話を言葉に変え、自国語(英語)で話をする。それを当時ライトハウスの創立者であった岩橋武夫氏(今保己一と言われる盲目の学者)が聞き、これを国語(日本語)に直して、一般聴衆に伝えるという、いたって手のこんだものであった。 朝日の大講堂の会場は、一度この聖女の話を聞こうとする者で溢れるほどの超満員となっていた。だが、会場の内部は静寂そのもので、終始女史に耳を傾け、誰一人として咳一つする者もいない。ただ話が佳境に入るにつれ、万感胸を打たれたためか、会場のここかしこからはなをすする音が微かに聞こえはじめ、中には思い余ってハンカチを取り出し、それとなく目がしらをそっとぬぐう者さえ居た。いい知れぬ苦難の道を光に向かってひたすら歩き続けた女史のこの不屈の努力、それはわれわれに何処まで想像し得たであろうか。女史の恩師サリバン先生の血の滲むような指導もさることながら、それを忠実に受け入れた女史のたゆまざる努力が、彼女をして聖女の名にふさわしいほどの偉大なる人格者にまで育て上げたのではあるまいか。 順教尼は、この聖女の講演を是非とも聞きたいと思い、またあわせてじかに接することができたらとの願いから、一般聴衆の一人として朝日の会館を訪れ、多くの人びとにまじり、女史の話に耳を傾けたのであった。勿論話の受け止め方は、一般聴衆と順教尼とでは大きな差があったかも知れない。それは、尼以外の何人といえどもわかるはずはない。 ともあれ女史の話は終わった。順教尼は早速控え室を訪れ、かねてから懇意の岩橋氏の紹介により順教尼の身の上を知り、その来訪を心から歓迎し、見えない眼を尼に向け、両手をさし伸べて尼の顔形を「なで」、やがて手を広げ、小さな尼の体をしっかりと抱き締めたのであった。その瞬間、この美しいシーンをまのあたりに見た同室の中から、何処からともなく拍手が贈られ、国こそ異なれここに奇しくも二人の聖女、互いの心の中には無言のうちにも何か相通じるところがあったのではあるまいか。筆者の脳裏には、今なお奥深く当時の印象が焼きつけられている。 再び巡り会うこともなかろう二人。順教尼は別れに際し、白檀の末広を女史に贈るのだった。女史はなるほど目・耳・口の障害こそ持ってはいたが、嗅覚は健全であった。それ故、順教尼は、会館への途中わざわざ市電の戎(えびす)橋で下車し、平素から買いつけの丹青堂画材店に寄り、ふくよかに匂う白檀の扇子を求め、これを贈ることにしたのであった。尼のその細かい心づかいを見ても、尼の生活の一面が如実に現れているのではないか。当時筆者は、たまたま尼に同行し、ここでまた一つ、無言の教訓を学びとることができたのであった。 <略> |
く文責:藤森弘司>
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