2013年4月15日 第129回「今月の言葉」
●(1)今回のタイトルは「求不得苦(ぐふとくく)」で、「四苦八苦」の中の「八苦」に含まれるものです<「今月の言葉」第128回「カウンセリングとは何か(八苦)」ご参照>。
さて、下記の(3)で紹介する作品は、奈良内観研修所で30年近く前に発行された小冊子です。 奈良内観研修所の所長は三木善彦先生で、私(藤森)が30年近く前に所属していた市民団体の勉強会で、私が役員をしているときに、講師としてお招きした先生です。また、そのご縁で、私が主宰する勉強会などでもご指導いただきました。 その頃、三木先生は、お子さんが通っていた小学校のPTAの会長をされていて、その小学校の「PTA主催教育講演会」に、両腕をなくし、口で絵を描く画家の南正文先生を講演会にお招きされました。その時のお話が聴衆に深い感銘を与えたので、三木先生が、奈良内観研修所で、小冊子として発行されました。 私が市民団体の役員をしている時に、この小冊子と、「自信をもつ子育てのすすめ」(三木善彦著、奈良内観研修所)、「内観療法の実際」(三木善彦編、奈良内観研修所)の3冊セットで1000円を100セット購入し、私が担当したときに100セットを売り切りました。どうしようもなく未熟な自分を何とかしたい・・・・・と自己成長に猛烈に取り組んでいた頃の懐かしい思い出です。 その後、この小冊子は絶版になりましたので、その素晴しい内容を紹介したいと思います。南先生のお話は、文字通り、猛烈な「求不得苦」(求めても、求めても得られない苦しみ)を体験し、そして「求不得苦」を克服された貴重なお話です。ご覧になる方それぞれの人生に重ね合わせて、いろいろな思いをご体験ください(便宜上、「あとがき」を最初に紹介します)。 三木先生については、『ウィキペディア(Wikipedia)』と、帝塚山大学のホームページより、さらに詳しいことを下記に紹介します。 ◆出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2012/02/07 18:48 UTC 版) 三木 善彦(みき よしひこ、1941年 – )は臨床心理学者。臨床心理士。文学修士。大阪大学名誉教授。京都府生まれ。専門は、臨床心理学・内観療法・犯罪被害者の心理学。 ◆帝塚山大学のホームページより 三木善彦名誉教授が平成24年春の褒章(藍綬褒章)に選ばれました。 2012年05月10日 三木善彦教授プロフィール |
●(2)さて、これから南正文先生の講演記録をお読みいただきますが、南先生は、現在、「手が使えない人々が自ら運営している・口と足で描く芸術協会」の会員として、素晴しい日本画を描いていらっしゃいます。
「生きる喜び・・・たとえ両腕がなくとも・・・」(日本画家・南正文先生) <あとがき>(三木善彦) |
●(3)<司会の言葉>
本日は教育講演会の講師として大阪市堺市に住んでいらっしゃいます南正文先生に来ていただきました。先生は小さい頃に事故で両腕を無くされたのですが、口で絵を描いておられると言う画家でいらっしゃいます。この先生の生きてこられた歴史は皆様の人生を考えるうえで、とても参考になろうかと思います。 (1)生い立ち 私は堺市の田舎で育ちました。家は経済的に非常に貧しい生活でした。 両親は借金をしておりましたが、借金と言うのはいずれ返さなくてはならないものですから、何か商売をして返そうということになり、堺市に出てきたのです。それで転々と引越しをしました。4回くらい引越しをしたでしょうか。そしてやっと資金が出来てやり始めた仕事というのが製材所だったのです。それこそずぶの素人だったのです。毎日毎日が忙しく、新しい経験だったようです。朝早くから遅くまで働いている両親の姿を私はずっと見ておりました。 (2)事故 始めのうちは危険な機械はなるべく避けるようにして手伝っていたのですが、そのうちに馴れてまいりますと、危ないものが危なく感じなくなってまいります。頭のなかは遊ぶことに一杯になっておりますし、それに嫌々手伝っておりますものですから、そばにある機械をいじったりしておりました。 当時はスーパーマンとかいう番組が流行っておりまして、主人公はものすごい力で、走ってる車なんかを手で止めたりするのです。私は人間にはない力があるのではないかと錯覚しまして、自分にもそういった力があるのではないかと錯覚したんです。そして大きな危険な機械でも自分は止められるのではないかと思ったんです。扇風機を手で止めるような感覚だったんです。そして大きなベルトが回っている機械に手を入れました。 その時は一瞬の出来事でして、私はその時の記憶を今でも失っております。あまりの恐ろしさの為に記憶喪失になったのだと思いますが、片一方の手が機械に挟まって、それを取ろうとしてもう一方の手も巻き込まれて飛んでしまったらしいです。 当時は医療体制も出来ておりませんでしたから、その時、救急車を呼んでいたら、たぶん私の命は出血多量で無かったのではなかったかと思います。ちょうど家の前にトラックが止まっておりまして、その運転手に頼んで病院まで運んでもらいました。病院に着いた時にはそのトラックの荷台は一面血の海だったと言います。両腕が無くなったのですから、それこそものすごい量の血がでるのです。 病院についても医者から、出血多量で九分九厘駄目だろうと言われたんです。それでも何とか、という両親の思いで手術をしてもらいました。約9時間の手術だったといいます。9時間と言いますと、手術を受けている私は意識がありませんので、分かりませんが、それをじっと待ってる両親の気持ちはどんなものだったかと思います。それはものすごく長いものに違いなかったでしょう。手術が終わりましても、私は丸2週間も意識不明でした。その間、点滴やら輸血やら、目が離せない状態だったらしいです。 (3)両腕が無くなったと知った時 ある時、治療最中に目隠しの隙間から、それはわざと隙間を作ったんですが、その隙間から自分の手をのぞいたんです。すると両腕が肩から無くなっていて、その傷口が血とウミでグチャグチャになっていたんですね。それを見ました時は、なんと言ってよいやら言葉になりませんでした。もう世界が真っ暗になるような感じでした。言葉もでませんでした。 それでも子供のことなので、看護婦さんや先生、それに患者さんたちが親切にしてくださいますので、回復につれて病院の中を駈けずりまわるようになりました。ちょうど一年間入院しておりました。だいたい、切断というのは回復が遅いのです。子供といえどもそのくらいかかったんです。 私事で恐縮なんですが、先日も家のドアのノブが壊れまして、それを修理しております時に、下からツエをもって来たら良かったんですが、面倒臭くて足でノブを蹴ったんです。するとその金属のでっぱりに足の裏が引っ掛かりまして、二針くらい縫いました。回復に2週間くらいかかったでしょうか。たった二針でさえそのくらいかかるのですから、両腕を切断したのですから、回復には相当かかりました。それでも病院にいる時は良かったんです。色々な人達に囲まれまして、両腕が無いということを直視しなくても良かったからです。しかし、家庭療法ということで家庭から病院に通うことになりました。回復が遅いものですから、1年間は通院しなければならないのでした。 (4)両腕の無いつらさ 例えばトイレにも一人では行けない、ボタンを掛けるにしても掛けられない。あれもこれもと考えるとすべて出来ないものだらけになってしまいます。友だちは暖かく迎えてくれるだろうと思っていたのですが、「手無し人間、手無し人間」等といってからかうのです。そうしますと、子供ながらにも自分には手がないことを嫌でも感じてしまいまして、生きて行くことの辛さというんでしょうか、そういったものを感じてしまいました。もう生きて行くのが嫌になりましていっそ死んでしまおうかとか考えました。一度、庖丁を足に挟んで首をついてしまおうと考えまして、庖丁を本当に足に挟んだこともありました。その時は怖くなりましたし、両親の顔を思いますとそれも出来ませんでした。 (5)ノートを取ること、トイレのこと しかし、私はノートを取るにはどうしたら良いのだろうかと考えたんです。からかわれたり、自分の姿を人に見られるのは嫌だったのですが、学校には行きたかったんです。それにはノートが取れなければなりません。それで私は考えたんです。自分に残っている機能というのは、これは足しかありません。足に鉛筆をもって文字を書こうとしました。しかし、なかなか字にならないんです。それで半年くらいかかって毎日毎日練習しました。それでやっと人が見て文字らしいものが書けるようになったんです。やっと学校に行けるようになったのです。ですから人より丸2年遅れているわけです。 学校に行けるようになって、それはそれで良かったのですが、問題が出てきました。まだ下級生の間は一日の授業数が少ないので大した問題にはなりませんでしたが、上級生になりますと授業時間数が多くなってまいります。私は一人ではトイレに行けないんです。これは人には言えませんでして、非常に困りました。それでも夏は無理に汗をかいて、それで発散できますので、私は無理矢理汗をかくように強いて努めるんですが、それでも汗を拭くのに困るのですが、トイレの問題よりはましでした。 問題は冬でした。一日中我慢するのですから、授業が終わってから、私の家までは走って15分くらいかかりましたが、私は毎日走って帰ったのです。考えてみれば、自分は腕がありませんので、素直に頼めばよかったのですが、トイレなど今まで一人でずっとやってきたものですから、頼むのが恥ずかしいのです。養護学校の先生等に頼めばやってくださるはずなんですが、それが出来なかったのです。お願いしますの一言が言えないのです。ですから、我慢する以外にはなかったのです。そんな状態ですので、授業が終わる頃には冷汗は出ますし、顔面蒼白になって、授業が終わるのを待ちかねて毎日のように家に走って帰ります。 しかし、恥ずかしい話なのですが、小学生の時に帰る途中で我慢しきれなくて失敗したことがありました。その時は恥ずかしい気持ちで一杯になってしまいまして、惨めと言いましょうか、その現実を見て、情けなくなってしまいました。人がいないところを帰るものですから時間も長くかかって、その分、惨めさも長く味わわねばならないことになりました。帰りましても母親にひどく叱られるのではないかと思ったりもしましたが、母親は何も言わずに後始末をしてくださいました。 その時からこんな失敗は二度とするまい、と子供ながらに思いました。それでどうしたかと言いますと、あまり食べたり飲んだりしなければ失敗はしないだろうと考えまして、私はあまり飲んだり食べたりしないようにしました。もちろん、育ち盛りでしたので食欲はありましたが、それよりも失敗した時の惨めな気持ちのほうが強くて、だんだん食べないし飲まないでも耐えられるようになりました。それから失敗はなくなりました。 (6)大石順教先生との出会い 私はそんな状態でしたが、両親のほうも今まで順調にやっていた製材所もうまく行かなくなりまして、止めることになりました。それで引っ越しをしまして、現在のところに移りました。今から考えますとその引っ越しが良かったのです。その引っ越し先に今は亡き大石順教尼という先生と親しくされている人がおられまして、その人が私に先生に会うように勧めてくださったのです。 先生は若い頃、大阪で舞子をなさっておられたのですが、ある事件に巻き込まれて私と同じように両腕を無くされてしまって、両腕の無いままで、いろいろな人生経験を重ねて、日本画家になった方です。先生は当時、京都の山科に住んでおられました。それで両親共々、京都の先生のお宅に伺ったのです。先生は明るい快活な方で、暖かく向かえてくださいました。 そして私を見るなり、「自分の弟子になりなさい」とおっしゃってくださいました。私は現在は日本画を描いて家族4人の生活をさせて頂いておりますが、当時は絵はあまり好きではありませんでした。しかし、先生から離れてしまうと自分はどうなるか分からないと直感的に感じまして、「弟子にさせてもらいます」と答えたのです。 すると先生は、二つだけ条件があるとおっしゃいました。一つは当時、私が住んでいました堺から京都まで、一人で来ることというのでした。そしてもう一つは今までは足で描いていたかも知れないが、今度からは口で描くようにということでした。 最初の堺から京都まで一人で行くというのは、順調に列車の連絡が良くて、そうですね2時間半くらいかかります。5回ほど乗り換えます。私は身の周りのことは何もできないというのは先生は充分知っておられるはずなのですが、それでも、あえて一人で来るようにというのです。初めて、一人で京都に行く時には、本当に緊張いたしました。段々とその日が近づいてまいりますと、トイレの問題とか、また切符をどうして買おうかとか、色々なことが頭を占領するのです。トイレの問題は食べたり飲んだりする量を減らすことには馴れておりましたが、しかし、時間的に長いものですから、前の晩から何も食べない、飲まないでおれば大丈夫だろうと思いまして、実行しました。まあ、それは巧く行きました。 しかし、切符をどうして買うかというのは問題でした。普通では考えられないところに問題があるのです。これはどうしようもないので、自分ほど不幸な人間はいないと、そんなことを本気で考えたりいたしました。そんなことを考えておりましたから、見も知らぬ人に、ポケットにお金がありますから切符を買ってくださいとは言えません。それに中学生ですので、一番恥ずかしい時期ですから、尚更です。 しかし、人に頼まねば切符は買えませんので、切符売り場でさんざん迷ったあげくに、思い切って人に頼むのです。さんざん迷ったり、自分を呪ったりした後でしたから、その声の表情というのでしょうか、私の態度が不自然であったからでしょうか、私が声をかけると逃げて行く人もいましたし、また怒る人もいましたし、反対にわざわざ乗り換え口のところまで来てくださった人もおられました。そんな人達と色々出会いまして、やっとの思いで先生のもとに着きました。 先生は待ちかねるようにして、「よく来た、よく来た」とおっしゃってくださいました。私はその言葉にものすごく感激しまして、その反面に自分がここまで来るのにどのくらい惨めな思いをしたか、また色々な人から何と言われたか、というのがワーと込みあげてまいりまして、思わず全部先生に言ってしまうんです。すると先生は、ウン、ウンと聞いてくださって、そして最後に返って来た言葉というのが というのでした。何が良かったのか、こんな惨めな思いをしたのに・・・・・と思ったのですが、先生は続けておっしゃいました。 その時はどういう意味か理解はできませんで、そういうものかなと思ってはいたのですが、今ではその意味がわかるようになりました。 (7)何もしないで子供を見守る しかし、何もしないで子供の成長を見守るというのは、これはものすごく難しいのです。子供が一人で生きて行けるようになるように見守るのは、親にしてみれば辛く、厳しいことです。それを考えると手をだして援助するほうがずっと簡単だと思います。先生の態度というのは、見守る愛とでもいうのでしょうか、そういう意味で私を見てくだされていたのです。いずれ社会に出て、生きてゆかねばならないのです。手がないと言っても生きてゆかねばなりません。家に閉じ籠ってばかりでは駄目なのです。そのためには、色々な人と、また人の気持ちというのを、肌で感じなければなりません。そういった意味で、一人で京都まで来るということで、人との出会い、人の気持ち、そして、悔しい気持ち、惨めな気持ち、色々な心の動きを教えて頂いたのだと思います。それが今日の私を支えていると思います。 (8)見えない所に心をつかう 足で描いたというのと、口で描いたというのとでは違うんですね。足というのは、下という感じが付いてまわります。口でも足でもどこで描いてもよいのですが、そういった目に見えない所に心をつかうかどうかによって、絵の表われかたも違ってきますし、生きかたも違ってきます。人の前では良いことを言っても、誰もいないところでは逆のことをしているのに似ています。見えない所に心を使うことが大切なんですね。 「・・・・・そういう目に見えないところに心を使わねば、本当の身体障害者になってしまうよ」 そう言うものかなと思いまして口で描いておりますと、口で描くというのは、なかなか難しいのです。奥歯と前歯で筆を咬んで描くのですが、長時間描いていますと歯が痛くなってきます。物も満足に食べられないくらい歯が痛くなる時もありました。それに日本画は紙を下に置いてうつむいて描きますので、ずっと下を向く格好になります。これも長時間続けますと疲れてきまして、肩こりもします。中学生の時に肩こりの辛さを知ったのです。一回、肩こりで寝込みますと、そうですね三日は寝込んでしまいました。頭痛はしますし、フラフラになりますので、先生のところに行って、「もう駄目ですから足で描かせてください」とお願いするのです。しかし、先生はただ「続けなさい」の一言でした。 それでやって行きますと少々無理をしても描けるようになってきました。するとまた無理をしてしまうのです。今度は1週間くらい入院してしまいました。退院して先生のところに行って、「これ以上できませんので、足で描かせてください」とお願いするのです。しかし、先生はただ「続けなさい」の一言しかおっしゃいませんでした。それでも頑張ってやって行きますと、肩こりもしなくなりまして、一晩くらいの徹夜は平気になりました。ふと鏡を見ましたら、私の首がですね、相当太くなってるんですね。普通の人の首よりも見ただけで分かるくらい太くなってるんです。下を向いて長時間絵を描くものですから、頭は一番重いために、普通の首の力では支え切れずに肩こりをしていたのです。 しかし、だんだん練習をしているうちに支えきれるくらいにまで首が太くなったんです。それを見ました時に、続けるということの、体の変化までしてしまう不思議さを思わずにはおれませんでした。できないと思い込んでいては何もできないので、何でもやっているうちに、絶対できるのだと感じるようになりました。 それに最近では自転車にも一人で乗れるようになりました。ハンドルの高い自転車で何度も練習して乗れるようになったのです。今では自転車に乗ってスケッチにひとりででかけられます。電車なんかと違って、景色を見ながら行くのは、本当に楽しいです。 (9)できないことと、しないこととは違う 一番難しかったのは、これはボタンをかけることでして、なかなかできませんでした。なんと言うこともない普通のボタンがかけられない。小さな子供でもできることなのに自分はできませんでした。いくら工夫してもできないんですね。毎日毎日稽古して、また色々な器具をつくったりしたんですが、できなかったんです。そして諦めようと思ったとき、フッと考えたんです。今まで何から何までできないと思っていた時は確かに何もできなかった。 しかし、やれると思って頑張ったらできたじゃないか。できないことと、しないこととは違うんだと思ったんです。できると思ってやろうと考えましてボタンつけに挑戦したんです。毎日やって半年ほどかかりましてやっとかかるようになりました。それだけのことができるようになった時には、おおげさではありませんが、声をあげて喜びました、いろいろな器具と鏡を使ってかける訳ですが、最初にできたものはちぐはぐなものでしたが、今では1分もかからなくなっております。 (10)結婚生活 両親は私のことを心配してくださっており、それが私にとっては心苦しく早く安定した生活をしなくてはならないと考えておりました。それが先決問題だったのです。そのうち、絵のほうも依頼がくるようになり、自分なりに安定生活ができるようになりました。そしてある会合で出会ったのが今の私の家内なんですけども、自分としてはかなり慎重になっていました。 結婚を考えるようになる前に、大体自分の身のまわりのことは一人でやれるようになっておりました。すると不思議なんですが、手のないことを忘れてしまうことがあります。相手の人も私に手がないことを忘れてしまって、例えば荷物なんかを手渡すんです。ハイとかなんとか言って荷物を渡すんです。私もそれを手で受けようとするんですが、その時自分には手がなかったんだと思いだすんですね。今まで手がないことで悔やんでおり、以前に切符を買うことさえできずに、人に頼み、そして逃げられたりしたことを思うと、手がないことを忘れてしまうようになったというのは、ありがたいなあと思います。 そして考えたんです。切符を買ってもらおうと思って人に頼んだ時に、ある人は逃げ出したんです。それは私が暗い、いじけた表情やら感じを漂わせていたからなんだと分かったんです。相手が悪いのではなくて、自分が悪かったんだということに気がついたのです。そして、それから手のないことにこだわらないで生きようと決心しました。そう思うようになった時に彼女と出会ったんです。そして慎重にはなっていたんですが、この彼女とならばやっていけると思いまして結婚したのです。 いろいろな人から祝福されまして、一年後に子供が生まれました。子供が生まれましてから、再び自分には手がなかったんだなというのが思い知らされました。家内は子供のおしめを換えたりその他の世話をします。自分も時間はかかりますが、何とかその手伝いはできます。 しかし、子供泣いたりした時なんか、抱けないんです。一時間くらいも泣かしたりしたこともあります。それに子供はよく中耳炎をしました。治ってはまたやるんです。それの原因は最初はわからなかったんですが、それは私がお風呂に子供を入れた時に耳に水が入って炎症を起こすのだということが分かりました。どうしても抱けないものですから、耳に水が入ってしまうのです。その時に、たいていのことは自分でできるように思っていたのですが、しかし、できないこともあるのだなと思いました。 (11)親の気持ちが分かる それは、子供を育てると言いますが、実は親は子供に育ててもらっているのではないかと私は思います。これは世間の考え方とは逆なんですが、私はそう思うのです。 (12)させていただく しかし、そういう気持ちでやらせてもらっていると、よく私の行為を「してやっているのだ」という人がいますが、これは反対で、私は、させてもらっているんじゃないかなと思います。ついつい、何々のためにとか、人のためにとか、よく世間では言われていますが、それは実は自分のためにやっているのではないでしょうか。人を生かすということは人から学ぶということで、それは結局は自分の成長のためになるということではないかなと思うのです。 先日は難民の件でカンボジアの方に行かせてもらいました。国境ギリギリのところまで行ったんですが、そこには親を失った孤児たちや、痛々しい人達が大勢いました。痛ましさを身にしみて感じました。彼らは持つものと言えば食器くらいなもので、命からがら逃げのびてきたんです。 しかし、子供たちは皆明るいですね。それには驚きました。素朴であって人なつこくて、何十年か前の日本の良いところの子供たちのような表情でした。でも壁にはってある彼らの描いた絵を見ますとそうではないんですね。自分の両親が銃殺されている姿、またカンボジアの故郷の絵、それは完全に夢のなかのイメージにすぎないような絵などがありました。そう言った夢でしかない絵しか描けない彼らの心を思うとこちらまで心が苦しくなってきました。彼らを見ますと、国境ギリギリの所までどのような気持ちでたどりついたんだろうかとか、そしてこれからどうして生きてゆくのだろうかと考えてしまって、本当に心が痛みました。それらを見て戦争の何であるかを、言葉ではなくて実感として分からせてもらいました。 少年院にしてもそれと同じでして、大体少年院を訪問したいと、東京にも何回も足を運んだんですが、なかなか難しかったです。なかなか許してもらえないのです。それで何とかお許しが出て、何ヶ所か回らせてもらいました。そこでも色々な家庭環境の子供たちがいるということを分からせてもらいました。一人一人を見てみましたら良い子ばかりなんです。それが家庭の環境によって結局は少年院に入ってしまうのです。私の子供も環境がそのようになれば、少年院にはいるようになるかも知れません。それは人ごとではなくて、やはり自分の問題として考えねばならないものです。すると教えて頂けることがあるんじゃないかと思うのです。奉仕とか言ってもほんとうにやらせてもらうという気持ちでしなければ何も見えてこないと思います。 そして私自身考えるのですが、もし私に手があれば、今のような気持ちにならなかったんではなかろうか。逆にそう言ったカンボジアの孤児たちや少年院の少年たちをもっと突き放した目で、それこそ、おまえたちは自業自得なんだとか言った見方で見るようになっていたんじゃないかと思います。 (13)両腕がない事実を受け入れる 絵でも同じことでして、私は口で描きます。もちろん描ける速度も遅いです。同じ時期に入門した人達はどんどん展覧会に入選して行きました。しかし、私は描くことだけで精一杯でした。焦りというか、追いたてられるような気持ちもありました。しかし、自分は両腕がないのだという事実を思った時、そのままで、その状態で、絵を描いてゆくこと、そして私の思いを表わしてゆくこと、それを続けるしかないんだと思い、続けることができたのです。 また、私の出会った大石先生は高野山の尼さんでしたが、最初に少し言ったと思いますが、両腕をなくされたのです。以前は大阪の舞子さんだったんですが、何かの事件に巻き込まれて腕を切られてしまったんです。それから色々ありまして結婚され、そして離婚され、二人の子供を育てて、自分は口で絵を描き、詩を書いたりなさったそうです。そして高野山の祭り日が21日なので、その日に自分は死ぬと予言されたのです。自分は今まで色々な人にお世話になってきたから、死ぬ時くらいは誰の世話にもならないといって、とうとう21日の日にぽっくりと亡くなったのです。そういう素晴しい人とも出会うことができました。 そう言った先生との出会いもありました。不幸というのは不幸に終わるのではなくて、それが幸福になることもあるんだということを、自分の体験を通して教えられました。大石順教尼先生は「禍福一如」ということをよくおっしゃいました。災いも幸せも条件無しなんだという意味です。手がなくなったから不幸で不幸でしょうがないというのではなくて、お金があってもそれが条件で幸せかといえばそうではありません。腕がないということも転じて幸せになるのだということです。 生きていることの素晴しさ、それをもっともっと感じ、そして絵を描いて行きたいと思います。そして色々な出会いを大切にして行きたいと思っております。 <藤森注・・・・・大石順教先生は、私も尊敬している先生です。次回、「求不得苦②」として紹介します> |
く文責:藤森弘司>
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