2013年3月15日 第128回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(八苦)

●(1)前回の「不貧」の一部を再録します。

<<<親は皆、欲望をコントロールしていると錯覚していますが、それはほとんどの場合「つもり」であって、多くの場合、「欲望」が丸出しになっているものです。
 そういう欲望丸出しの「無意識的欲求」に必死で応える子供。でも、長いスパンで考えてみると、多くの場合は挫折するか、「心身の不調」を体験します。
 しかし、例外的な人間が「大成功」を収めると、我れも我れもと目指したくなるものです。

 例えば、大相撲の横綱は、引退後、還暦を迎えると、赤いフンドシを締めて「土俵入り」をすることになっていますが、還暦を迎える横綱よりも、その前に亡くなってしまう横綱が多いそうです。つまり、若死にするほど過酷な鍛錬をしているわけです。
 
 作家の芥川竜之介は、私(藤森)が感動する「名作」を沢山生み出しています。それも宗教的な境地の高い作品が多く、「芥川賞」があるほどの日本第一級の作家ですが、彼は「自殺」しています。>>>

●(2)これに関連しての下記の新聞報道。

 平成25年2月20日、日刊ゲンダイ「藤田まこと長男も覚醒剤」

 故・藤田まこと(享年76)の不肖の息子が覚醒剤に溺れていたことが分かった。大阪府警に覚醒剤取締法違反(所持)容疑で逮捕されたのは、藤田の長男で会社員の原田知樹容疑者(47)。1月20日ごろ、大阪市内のビジネスホテルで覚醒剤の入った水溶液を体に注射したとみられている。知樹と知人女性との間でトラブルがあり、通報で駆けつけた府警の警察官が知樹の様子を不審に思い尿検査したところ、覚醒剤反応が出た。
 10年2月に死去した父親の葬儀で喪主を務めた知樹は、藤田まことの若い頃にそっくり。一時は芸能界を目指していたが、父親は「堅実な道を歩ませたい」と芸能界入りを許さず、友人と不動産関係の仕事をしていた。

 <藤森注・・・・・『父親は「堅実な道を歩ませたい」と芸能界入りを許さず』とありますが、「堅実な道」どころか、覚醒剤で逮捕です。親と子供の感覚がいかにズレているかの典型例です。
重要なことは、「堅実な道」を歩ませたい
<親の欲望>ではなく、堅実な道を歩めるような<親子の触れ合い>をどのようにしたのかということで、これこそが「育児」の基本です。
そして「親の欲望」が
「アイデアリズム」で、「親子の触れ合い」が「リアリズム」です>

●(3)平成25年2月20日、日刊ゲンダイ「元五輪体操・岡崎聡子また逮捕」

 実に6回目のお縄である。きのう(18日)、女子体操の元五輪選手・岡崎聡子(52)が覚醒剤使用容疑で逮捕された。
 岡崎は高校在学中の76年にモントリオール五輪に出場し“和製コマネチ”ともてはやされたが、引退後はヌードになるなど紆余曲折。95年に覚醒剤で逮捕されて以降、5回も実刑を食らっている。絵に描いたような転落人生だが、刑務所に何回ぶち込まれても覚醒剤をやめられないオンナは多い。
<略>

 <藤森注・・・・・覚醒剤使用は「寂しさ」が中心です。親の願望に沿って、自分自身を大切にしない生き方をするとこのようになるという典型例です。人生の長いスパンを考えて、どういう生き方が大事かを考えられる人間になりたいものです>

●(4)さて、本題に入ります。

 「四苦八苦」の四苦はどなたでもお分かりのことと思います。「生・老・病・死」のことです。

 問題は「八苦」です。「四苦」の「生・老・病・死」の次の「四苦」、つまり、下記の(5)(6)(7)(8)が「八苦」です。

 (5)愛別離苦(あいべつりく)・・・・・どんなに愛し合っている夫婦でも恋人でも、またかわいい子どもとも生別死別にかかわらず、必ず別れなければならない。これは胸がはりさけるような苦しみである。

 (6)怨憎会苦(おんぞうえく)・・・・・恨み骨髄に徹し二度と顔も見たくない奴と、エレベーターの中でバッタリ会う苦しみや、いくら憎んでも足りない奴といっしょに仕事をしなければならない苦しみ。これは案外、多いのである。

 (7)求不得苦(ぐふとくく)・・・・・・・人には誰でも欲がある。「一つかなえばまた二つ、三つ四つ五つ六つかしの世や」ということばがあるように、欲にはきりがない。そして、いくら求めても得られないで苦しむことを「求不得苦」という。

 (8)五蘊盛苦(ごうんじょうく)・・・・五蘊というのは、般若心経という有名なお経の中のことばである。蘊は集まるという意味で、人間の身体は、色受想行識(しき・じゅ・そう・ぎょう・しき)の五つが集まってできているという。人間というものは、色がついたものはすべて、つまりあらゆる物質と、感覚や感情や意志や判断をする心から成り立っているのである。
 「血沸き肉おどる」というが、身心に精気がみなぎるといろいろな煩悩がおこる。若いころは元気が良すぎ、それにともなって苦しみもまた多いのは当然であろう。

 これで八苦である。

 では四苦八苦する根本の原因は何かといえば、すべては欲望から起こる。人の心の中には百八つの煩悩があるという。大晦日に、除夜の鐘を百八つ突く。それは、一年間に人々の心に起こった煩悩の迷いの目を覚まさせるためである。

 その煩悩の中で、いちばんの悪者が「欲望の心」である。
 欲望を「渇愛(かつあい)」ともいう。のどが渇ききって今にも死にそうな人に水を与えると、いくら飲んでももっと欲しがるからであろう。
 どこまで行っても満足することのない欲望の心は、適当なところで滅ぼされなければならない。

 <略>

 世の中で、金、地位、名誉、学問、権力というものは、人が幸せに生活するための材料である。
 しかし、愚かな人は、こうした生きるための材料を作ったり集めたりすることだけで生涯を費やしてしまう。これらを生かして使うということ、つまり会社の人と物と金を上手に生かして使うということが、すなわち、欲望を滅ぼし四苦八苦から逃れる唯一の道ではないだろうか。
 以上は、「空海!感動の人生学」(大栗道榮著、中経の文庫)

●(5)さて、四苦八苦の中の「生・老・病・死」はいかんともしがたいものです。もちろん、修行を積めば「四苦」も楽に受け止められるのかも知れませんが、ひとまず、超高度な課題は除外して考えてみます。

 私たちが日常、直面する「八苦」・・・・・「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五蘊盛苦」の中の「求不得苦」に焦点を当ててみたいと思います。

 求不得苦(ぐふとくく)・・・・・・・人には誰でも欲がある。「一つかなえばまた二つ、三つ四つ五つ六つかしの世や」ということばがあるように、欲にはきりがない。そして、いくら求めても得られないで苦しむことを「求不得苦」という。

 <いくら求めても得られないで苦しむこと>・・・実は、私達の日常の苦しみの多くがこれです。辛いところでは、死別です。例えば、日航ジャンボ機の墜落事故です。御巣鷹山に墜落し、そこに記念碑を建てました。

 しかし、あんなに不便なところに記念碑を建てたために、毎年、8月に難儀をしながら遺族の方々が登山していました。数年はともかく、10年を過ぎると、遺族の方が老齢になってくるだけでなく、数千人はいらっしゃるであろう遺族の方々のほうがどんどん亡くなって来ます。
 15年、20年も過ぎると、亡くなる遺族のほうが多くなりかねません。どこかで、求めても求めて得られない苦しみから超越する必要があります。

 若さ・・・アンチエイジングというのでしょうか、しかし、若さも失われます。アンチエイジングの気持ちが強いと、無意識のうちに「求不得苦」の世界に入っている可能性があります。
 そこそこに求める気持ち・・・欲求は、成長のエネルギーになりますが、合理的な範囲・・・・・という抽象的な表現ではありますが、その範囲を超えると、無理が生じて「求不得苦」の世界に入ってしまいます。

 私たちは知らず知らずのうちに、ただひたすら求める「強い気持ち」に引きずられて、「求めること」そのものが「目的化」してしまうことが多いものです。これを私は「手段の目的化」と読んでいます<2005年6月15日「今月の言葉」第35回、「手段の目的化について」ご参照>。

 老齢になると、失われるものが多いものです。「体力」も「視力」も「歯」も「記憶力」も衰えてきます。増えるのは「年齢」と「シワ」だけだと言われています。
 健康は誰でも間違いなく衰えてきます。衰えてくるというより、あちこちが故障してきて、足が痛い、腰が痛い、忘れっぽいと悩んだり、苦しんだり、悲しんだりするものです。痛みが大きくて「苦痛」を感じるほどの方は、ひとまず別にさせていただいて、多くの場合、それらの「苦痛」は「心理的」なものからきています。それが「求不得苦」です。

 今までできたことができない「苦痛」です。今までは立ったり坐ったり、なんでもなくできたのに、最近は簡単にできない苛立ち・・・・・それが「苦痛」になっています。台所やトイレに一人でいける「有り難さ」よりも、今までのようにできない苛立ち、今までのようにやりたいのにできない「苦痛」・・・・・これが「求不得苦」です。

 交通事故で手足を失った方がいたとします。失った足を認めがたい人は「幻肢(げんし)」と言って、意識、感覚の上で存在していることになっていて、足が痛いとか、痒いとか言うそうです。大変残念なことですが、これも「求不得苦」です。

 収入も、誰それと比較して少ないとか、メディアを通して知る平均値と比べて自分の収入が少ないことを嘆きたくなります。これも「求不得苦」です。

 そこそこの欲求は生き生きとしたものがありますが、その欲求を「求不得苦」の世界に入らないよう、いかにして欲望をコントロールするか、欲望をコントロールする「自我」を成熟させるか、これが人生にはとてつもなく重要な気がしています。

 「求不得苦」の世界からの脱出こそ、人生を楽に生きる「要諦」のように、私(藤森)には思えてなりません。逆に言いますと、「求不得苦」の世界に住しながらそれを知らず、正当な要求であり、正当な欲求であると錯覚していることが「育児」を誤らせている部分が大きいように思えます。

 「育児」だけでなく、人間関係全般に言えることです。人間関係がなかなかうまくいかない多くの理由は、無意識のうちに、私たちは相手に要求しているのです。例えば、付き合いをよくしてくれとか、自分の思った通りの対応をしてくれ、何故、俺の気持ちがわからないのだ・・・・・などです。それらの無意識的欲求が通らない時、つまり、求めても、求めても得られない時に、私たちは苦痛を感じたり、恨んだりします。

 その要求を取り下げれば、多くの場合、その苦痛は和らぐか、苦痛を感じなくなるものです。

 例えば、周囲と比較して、収入が少ないとします。車を買ったり、グルメに出かけたり、外国旅行を楽しめないと思うと苦痛になります。
 しかし、その収入で家族が生きるに十分な食料が得られている。寒さを凌ぐに足る衣服が得られている。雨風を凌ぐ住まいがある。テレビを見たり、おやつを食べたり、散歩をしたり、また時には映画にも行けるとわかると、苦痛どころか、これほど恵まれている幸運を喜んだり、感謝したりすることができるものです。

 また、「八苦」「抜苦(ばっく)」に通じます。「八苦」をコントロールできるようになりますと、「抜苦(ばっく)」、つまり、苦しさから抜けられることを意味します。まさに、これが、「人生をさらに楽に生きられる」具体的な方法です。

く文責:藤森弘司>

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