2013年2月15日 第127回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(不貧)

●(1)「不貧」と書いて「ふとん」と読む「仏教用語」です。

 <布施というは不貧なり。不貧というは、むさぼらざるなり>(道元)

 こだわりを捨てることが与えるということ

 人にものをあげることは良いことですが、その時に必要な心構えがあります。それはあげるという気持ちを捨てること。そもそも生きていくために必要な物はそれほど多くはありません。人に物をあげられるということは、もともと不要な物を持っていたということ。
 つまり、むさぼるような欲望があったともいえるのです。だから物をあげる時は、不要な物をもらっていただくという感謝の気持ちを持つぐらいがちょうどよいのです。
 (「心が澄みわたる名僧の言葉」リベラル社刊)

●(2)仏教では「貪(とん)」「瞋(じん)」「痴(ち)」の3つを「三毒」と言い、戒めの言葉として大切にします。

 今回は、この3つの「貧・瞋・痴」を「三毒」としてタイトルに入れようと思いましたが、どうも、「貪る」がとても重要に思えてなりません。
 通常、最初に来る言葉は重要だからです。単に、語呂がいいので最初に持ってきた可能性はありますが、でも、よくよく考えて見ますと、最初にある「貪り」が最も重要であるように思えてなりません。そこで「道元」の言葉から「不貧」を選びました。

 さて、多くの場合、「貪る」というと「お金・財産」が代表的です。
 しかし、カウンセリングを通して「育児」を考察してみますと、「お金・財産」ではない「貪り」大問題であることが明確になります。では「お金・財産」ではなく、どんな「貪り」が育児を歪めているのでしょうか?

 「お金・財産」以外のものの「親の欲望」、その代表的なものが「学歴」です。少しでも良い成績を取り、少しでもランクが高い高校や大学に通ってほしい。

 昔は、「戦争」「飢餓」「疫病」などによる死亡率が高く、一家に一人は若い人が亡くなっていたものです。しかし、現代は、これらが原因で亡くなる危険性が極端に低くなりました。その結果、一人っ子や二人っ子家庭が非常に多くなり、なおかつ、生活が昔と比べてかなり豊かになりました。

 少子化の中の平和で豊かな生活は人類初の体験かもしれません。
 中国の一人っ子政策は完全に行き詰っています。もちろん、人口がドンドン増えていいわけがありませんが、かと言って、強権で「一人っ子政策」を強行することも、巨大な歪みを種々、生じさせます。多分、中国の一人っ子政策も人類初の試みかもしれません。

 さて、少子化の中の平和で豊かな生活を送ると「育児」はどうなるでしょうか?
 それは、私達人間の本質的な「未熟さ」や、潜在意識の中に眠る「無意識の欲望」が諸に噴出することになります。

 古今東西、高邁な宗教があるということは、逆に考えれば、人間がいかに未熟な存在であるかということです。
 逆に言えば、自分の未熟さを悟ることこそが「成熟した人間」であると言えます。

 それでは「未熟さ」とか、「無意識の欲望」とは具体的に何か?

 それは第一に、「高い学歴」や「大学の偏差値の高さ」に対する「渇望」です。

 次に、潜在意識の中に眠る「怒り」「寂しさ」などの「影」を子供に投影して、「思い通りの子供」にしたい欲望です。
 そういう欲望の中には、自分がピアノやダンス、スポーツなどの分野に進めなかったことへの「渇望感」や、私(藤森)がそうですが、自分の劣等感コンプレックスを代わりに穴埋めしてもらいたいという「欲望」、さらには世間に対して鼻を高くできる子供であって欲しい・・・ピアノ、ダンス、英会話などに堪能、一流大学、一流花形企業勤務、医者や弁護士、大学教授、有名人、種々様々なコンクールやスポーツでの優勝、オリンピックのメダル、ノーベル賞・・・・・・・・。

 等々に対する「欲望」や「渇望感」です。

●(3)さて、あらゆる欲望はコントロールされている限りは全く問題がありません。むしろ、人間が成長する上で重要なエネルギー源になりますが、無意識のうちに肥大した「親の欲望」は子供の心身を蝕みます。

 それらの「欲望」があることは人間として当然のことですが、行き過ぎに注意しましょう、「欲望」を少しでもコントロールしましょうというのが、今回のテーマ、「不貧」です。

 親は皆、欲望をコントロールしていると錯覚していますが、それはほとんどの場合「つもり」であって、多くの場合、「欲望」が丸出しになっているものです。
 そういう欲望丸出しの「無意識的欲求」に必死で応える子供。でも、長いスパンで考えてみると、多くの場合は挫折するか、「心身の不調」を体験します。
 しかし、例外的な人間が「大成功」を収めると、我れも我れもと目指したくなるものです。

 例えば、大相撲の横綱は、引退後、還暦を迎えると、赤いフンドシを締めて「土俵入り」をすることになっていますが、還暦を迎える横綱よりも、その前に亡くなってしまう横綱が多いそうです。つまり、若死にするほど過酷な鍛錬をしているわけです。

 作家の芥川竜之介は、私(藤森)が感動する「名作」を沢山生み出しています。それも宗教的な境地の高い作品が多く、「芥川賞」があるほどの日本第一級の作家ですが、彼は「自殺」しています。

 私(藤森)の息子は小学校の2年生からサッカーをやっています。
 今回、本人の学力に見合ったそこそこの高校の推薦入試に合格しましたが、自己PRでも、面接でもプロのサッカー選手になりたいと公言しています。
 満員のサッカー場でゴールを決め、拍手喝采を受ける息子の姿を思い浮かべると、感極まるものがあります。何千万円、何億円の契約金がもらえたら、私の長く貧しい人生が一遍に報われます。こういう願望は麻薬のような興奮を与えてくれます。

 しかし、幸か不幸か、長年の貧乏暮らしや、世の中の恵まれた体験がほとんど全く無い私は、自分の欲望を抑圧せざるを得ませんでした。その結果、気がついてみますと、「欲望」のコントロールができるようになっていました(諦観)

 今は、毎日、腹いっぱい食べられて、雨露を凌げる住居があり、最低限の衣類があり、夕餉には家族がワイワイ勝手なことを言い合える自由さがあることは、悲惨な人生を送ってきた私にとって、これ以上の「幸運な生活」は無いと心の底から思えるようになりました。

 ですから、息子がアッケラカンと「プロのサッカー選手」などと言えるのではないかと思っています。私は冷静に考えて、プロの選手になるのは難しいだろうと思っています。
 しかし、真面目にそのように思い、その目標に向かって進んでいる息子の気持ちを大事にしてあげようと思っていますし、万一、思い通りのサッカー人生を歩めなくても、息子は、多分、挫折はしないのではないかと推測しています。何故ならば、親の期待に沿って必死で頑張っているのではなく、自分がやりたいからやっているだけですので。

 さて、カウンセリングの場で、クライエントの方が回復していくためには、「不貧」はゼッタイに必要です。この「貪る気持ち」を少しでもコントロールしようとする気持ち・・・それまでは「貪る」気持ちではなく、子供を思う親の「限りない愛情」だと認識(錯覚)していましたが、この「貪る気持ち」を少しでもコントロールしようとする気持ちが芽生えてきますと、芽生えた量に比例して、家庭は落ち着いてきます。

 そうすると、我が家(藤森)のように、相変わらず貧しくても、さらには、昔からの生活に何の変化が無くても、子供の成績が十分でなくても、(僭越な言い方をさせていただきますと)精神的に「豊かな生活」ができるようになります。

 それが、道元の言う「不貧」です。

●(4)<「空海!感動の人生学」大栗道榮著、中経の文庫>

<人を毒する「三つの煩悩」とは何か>p60
人間には、誰にも迷いがある。
 これを仏教では「煩悩(ぼんのう)」という。百八煩悩というくらいに、人の心はさまざまに迷う。なかでも、最も人の心を毒す煩悩が三つある。「貪欲(どんよく)」、「瞋恚(しんに・しんい)」、「愚痴(ぐち)」、略して「(とん)」、「(じん)」、「(ち)」といい、これを三毒とよんでいる。

 「貪欲」とは、むさぼりの心であり、自分だけがうまいことをしようとする強欲な心である。

 人間の欲には五つある。貪欲、睡眠欲、性欲という本能的欲望のほかに、財欲、名誉欲というものがある。これが五欲である。
 こう書けば、「食べることも、眠ることも、愛することも、みんな欲か」と、びっくりする人もいるだろう。

だが、ここで私がいいたいのは、「過ぎたるは、及ばざるがごとし」という、孔子のことばではないが、「何ごともほどほどにせよ」ということだ。
食べ過ぎぎ、眠り過ぎ、愛し過ぎは早死にのもとである。
つぎの財欲も、同じことである。

 だいたい、うまくいっていない人間ほど、目先の利益を追っかけている。こういう人は、相手の利益など考えない私利私欲だけの人である。
 「適正価格」で商売して、「適正利潤」で経営している会社は、必ずうまくいっている。ぼろ儲けは、身の破滅を招くもとである。

 「知足者富(たるをしるものはとむ)」という老子のことばがある。「欲をかくものは、ほどほどにしろよ。そうすれば、心は豊かになり、ふところも豊かになるよ」というのである。

 こういう心がけでいると、私利私欲はいつの間にか、「公利公欲」つまり、社会のための利益を考えるということになる。これを「大欲(たいよく)」という。
 ここまでくると、仏道の目的である「煩悩かえって菩提(ぼだい・仏さまの心)となる」という境地にまで到達できるのである。

 名誉欲も財欲も同じである。自分の能力以上のものを望んでも、ついには勲章の重みでつぶされてしまうのがオチである。はやく、世の中のためにつくす「大欲」に変えてもらいたいものだ。

 さて、次に「瞋恚(しんい)」とは、いかりの心である。
 「よく怒る人は、欲が深い」という。たしかに、欲の深い人はわがままで怒りやすい。このように、貪と瞋とは親戚である。

 「怒り」というのは、瞬間湯沸器のようにすぐカッとなることをいう。何かが心のカンにさわると、たちまち怒り出すのである。
 ところが、「瞋恚(しんい)」の瞋りは、目を三角にして瞋ることであり、「瞋恚」は恨みに恨んで「瞋る(いかる)」ことである。

 したがって、「瞋恚(しんい)」は、ねちねちと嫉妬心から瞋ることが多いのである。「生きかわり、死にかわり、たとえ地獄の果てまでも、この恨み晴らさずにおくものか」というやつで、これが、いちばんおそろしい。
 それにしても、人がみんな自分の思いどおりに動くわけがない。それに腹を立てて、すぐに喧嘩をするのは、この上もなく愚かなことである。

 おしまいは、「愚痴」である。
 自分の望みがかなえられない、となると、愚かな喧嘩をはじめる。それに負けると、こんどは愚痴をいう。

 だいたい、貪欲や愚痴の心で世の中を生きているから、他の人が困ることが分からないのである。それでいて愚痴をいうから、救われない。
 「痴」は、ヤマイダレに「知」と書く。つまり、知恵が病気なのである。ついでに述べるが愚痴は、梵語で「モーハ」という。それが、なまって馬鹿になったのだそうだ。

 とはいっても、「知恵が病気にかかって、馬鹿なことをいう愚かな人」になってはいけない。特に、人の上に立つ者は、グチグチと文句をいってはならない。
 むかしの日本には、問答無用ということばがあった。英語でも「ノーエクスキューズ(いいわけするな)」というではないか。

 社内でも、何を命じられても文句をいわずに、ハイハイと気持ちよく仕事をする社員がいるだろう。こういう社員は、きっと出世するにちがいない。
 釈迦は、
 「貪欲の心が永久になくなり、瞋?(しんに)の心も永久になくなり、愚痴の心も永久になくなり、百八つのすべてが永久になくなってしまったら、そこは涅槃という悟りの世界である」

 といっている。しかし、これは理想であって、人間は誰でも、貧瞋痴という三毒の心を持っている。

 蛇と牛が、同じ水を飲んでも、蛇はその水をにして出すが、牛はその水をにして出す、というたとえがある。
 人間も、貪欲の心を世の中のための公欲に変え、瞋?(しんに)の心をお不動さまのような社会正義のための瞋りの心に変える。そして、愚痴を正しい知恵に変えたならば、三毒変じて三薬となるのである。

く文責:藤森弘司>

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