2013年10月15日 第135回「今月の言葉」
●(1)「プライド」とは厄介な存在です。
プライドは生きるうえでとても大切なものです。しかし、往々にして、人生を楽に生きる上で邪魔になることがあります。それは「プライド」にいろいろな意味合いがくっついてしまうことが原因です。 いろいろなものがくっついているとは、海岸の岩にいろいろな貝や海草がくっついているようなイメージでしょうか。 しかし、それが本来の「プライド」であると認識されているために、その「プライド」が人間関係・・・特に、夫婦や親子の関係に「歪み」が生じ、障害となっているにもかかわらず、本来の「プライド」だと錯覚しているために、その「プライド」を動かすことは極めて困難なものになっています。その方の人格にこびりついてしまって、邪魔者であるプライドが人格の中央に座り込んでしまっています。 これを「サイコシンセシス(精神統合)」では、サブパーソナリティー(副人格)がパーソナリティー(人格)を乗っ取ってしまっていると言います(ひさしを貸して母屋を取られるという感じでしょうか)。 |
●(2)では、どうして、人間関係に困りながらも、その「プライド」を守ることにに汲々としてしまうのでしょうか?
さて、その前に辞書を調べてみます。 プライドとは・・・「誇り」「自尊心」「自負心」「矜持」とあります。 私の個人的な気持ちとしては、④が好きです。「横綱としての矜持」・・・わかりやすい例として上げていますが、私たちはみな、「自分としての矜持」を持つことが大切です。それこそが、②の「自尊心」です。 ②「自尊心」とは・・・自尊の気持ち。特に、自分の尊厳を意識・主張して、他人の干渉を排除しようとする心理・態度。プライド・・・しかし、ここで問題となるのは・・・他人の干渉を排除しようとする心理・態度です。 (A)自分の尊厳を意識・主張するあまり、(B)他人の干渉を排除しようとする心理・態度が大きくなって、(A)の「自分の尊厳」に不釣合いな(B)の「干渉を排除しようとする心理・態度」になることが大問題です。 どうしてこういうアンバランスが生じるかと言いますと、それは私(藤森)の若い頃を振り返ってみると簡単にわかります。 私が若い頃は自慢できるものが何もありませんでした。むしろ、情けない自分のほうが多く感覚できて、とても辛い人生でした。でも、辛くても生きていかねばなりません。自分の「尊厳」・・・しっかりした「プライド」を持ちたくても持てないというのはとても辛いものです。 でも生きなければならないとするならば、自分の「尊厳」を高めるために、つまり、溺れている私は、無意識のうちに、すがるためのワラを求めます。そのワラがいくら取るに足らないものであっても、いや、取るに足らなければ足らないほど、そのワラに、さらに必死ですがりつきます。 そうやって、実は、取るに足らない程度のものであるにもかかわらず、自分自身の唯一、絶対の価値がある・・・・・・自分を支える上で重要なものであるかのように思い込んで、必死になってすがりつきます。それを手放したら溺れてしまうほどのこだわりを持って。 しかし、これは止むを得ないことです。何故ならば、腹ペコであれば、落ちている汚いものでも食べるでしょうし、喉が渇き切っていれば、泥水でも飲むのと同じで、取るに足らない価値観でも、無いよりは有り難いものです。戦争中の兵士がジャングルの中で、何でも食べたであろうし、どんな水でも飲んだであろうことと同様に。 しかし、少しずつ、「自我」が育ってきますと、そういうわずかな物事にすがりつかなくても、より優れたもの、より本質的な物が手に入りますから、日常の中で、人間関係に差しさわりがあるような物事にはそれほどの「プライド=執着=こだわり」を抱かなくなります。 つまり、その瞬間、瞬間において、「A」と「B」では、どちらのほうがより大切なのかということが、その状況々々において、より適切に判断できるようになります。そして、優先順位の高いほうを選ぶことにそれほどのこだわりが無くなってきます。 「自我」が未成熟なときは、自分のプライドが優先して、優先順位を変えるということは、プライドを傷つけられるような錯覚がして、その場をめちゃくちゃにしてまでも、自分の優先順位を重視したくなります。 これが、「海岸の岩にいろいろな貝や海草がくっついているようなイメージ」に相当する「プライド」です。 ですから、タイトル的に表現しますと、「岩=プライド」にくっついているいろいろな貝や海草(ナンセンスな価値観)を、少しずつ取り除いていく作業が「カウンセリング」であると言えます。いろいろな貝や海草(ナンセンスな価値観)が取り除かれた量に比例して、生きるのが楽になります。 |
く文責:藤森弘司>
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