2013年1月15日 第126回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(平等性・後編)

●(1)下記の(1)(2)(3)(4)は、私(藤森)が尊敬している大須賀発蔵先生の著書には付されていませんが、便宜的に、私(藤森)が勝手に付けさせていただきました。また、「平等性・前編」の「(2)平等性智」も合わせて掲載いたします。
 カウンセリングの真髄が解説されている大須賀先生の著書の一部をそのままご覧ください。私たちにはとても達することのできない境地ではありますが、お手本として「目標」にしたいものです。 「心の架け橋」(故・大須賀発蔵先生著、柏樹社)  <5つの智恵>(p96~p107)

 これから私たち一人一人の人間の心、しかしそこにまぎれもなく働いている五つの知恵について考えてみたいと思うのです。私はそこにカウンセリングの基本構造を見出してびっくりしているのです。それをだんだんにお話したいと思います。
 下図は先ほどご覧に入れました金剛界曼荼羅の基本構造としての図を描いたものです。

 <法界体性智・・・宇宙の本質の姿と性質>

 先ほど申しましたように真ん中に「大日如来」という象徴を持ってきておりますが、その智恵を「法界体性智(ほっかい・たいしょうち)」というのです。「法界」というのは宇宙の本質の姿と性質を丸一つで表わして「法界体性智」と書いたと、ご理解ください。そんな簡単なことではとても済まないことでありますが、さしあたりそういうふうに言ってみたいと思います。

 下に「遍処遍満(へんしょへんまん)」と書いてあります。これは決まり言葉で、「法界体性智」は「遍処遍満」といわれます。つまり無限の、無辺際の宇宙の至るところにどんなすき間もなく全部仏さまの智恵が行き渡って、仏さまの世界にあらざるところはありません。全部、仏さまの智恵の世界であり、悟りの世界であります。そういうことを丸一つで表わしているのです。

 しかしそれは全体であり、その中に働いているものを全部含んで一つとして表わしておりますから、どんな特色の働きがあるかというのはちょっとわかりません。そこで中心の丸を4つの丸で囲み、4つの側面から仏さまの智恵の特色を示しています。

 <(1)大円鏡智・・・全体を写しとる>

 第一番目は中心の丸の下に下りてきまして「大円鏡智(だいえん・きょうち)」と書いてあります。日本人はどうも上から順序をつけたいと思うようですが、金剛界曼荼羅は東が下になっていまして、東を1とします。「大円鏡智」というのは、宇宙は一切のものを摂(おさ)めて写しとっていますね。それが仏さまのこころだということなんですが、わかりやすくこんなたとえをしてみてはどうかと思います。

 たとえばいま、ここに大きな球体の鏡を下げたらどういうことが起きるでしょう。一瞬にして一切を写しとるのです。仏さまの心も、そのように宇宙の一切を瞬時に写しとっているということです。しかもあるがままに。下に書いてある「色相顕現(しきそう・けんげん)」というのは、そういう働きです。

 私たちの心だって同じだというのです。それがいろんな煩悩によって働かなくなっているという残念さはありますが、私たちの心にも「大円鏡智」があって、ぱっと全体を写しとる働きが最初から命に組み込まれている。そういう「大円鏡智」が第一番目の働きであり、またいちばん大本の働きといわれております。

 そしてこの智恵を象徴して「阿シュク(漢字は、上図の大円鏡智の上にあります)如来」と書いてあります。サンスクリットの「アクショブヒア」の音訳で阿シュクといっているのですが、訳しますと「動かない」ということです。「不動」というと、お不動さんになってしまいます。ですから「無動」といいます。すべてを摂め取って動くことがない。

 人間でいうならば、人生のすべてを引き受けたなかで自己が確立している。アイデンティティが確立している。中心性が揺るぎなくそこにあって、「天上天下唯我独尊(てんじょう・てんげ・ゆいが・どくそん)」ではありませんが、我が命が一つにはまさに地球の地軸を貫き、一つには宇宙の中軸を貫いて中心性を形成している。どの命もみなそういう動かざる中心性を持って存在しているということを、ここで表わしてくださっているのだろうと思います。真ん丸い鏡が全部を写しとってしまうということは、そこに当然、その調和としての中心点ができるわけですから、無動なる世界、揺るぎない悟りの世界を表わしているのだと思いますが、私たちにはそれはなかなか難しいことであります。

 <(2)平等性智・・・違いがそのまま平等>

 今度は左に回って2のほうへ上がるわけでありますが、「平等性智(びょうどうしょうち)」と書いてあります。これは、丸い鏡にたとえれば、そこへ写った諸々の現象はどれ一つとして同じものはありません。

 しかし、それは全部「法界体性智」としての仏さまの命を分かち持ったものであって、本来平等です。姿が違うことがそのまま平等であります。「差別即平等」と仏教ではいいます。二番目には、そのことを感じとる心の働きが私たちの心にも組み込まれているというふうにとらえていいのではないでしょうか。

 しかし、なかなかこれが働かないですね。どうしても姿で差別をつけることだけになってしまって、生命本来の平等性を感じられないのです。

 「差別(しゃべつ)」と「差別(さべつ)」は違います。上下になることを我々「差別(さべつ)」といっています。「差別(しゃべつ)」というのは現象の違いです。現象の違いがそのまま平等ですよ、違うがゆえに平等ですよ、ということを深く感じとる心の働きが「平等性智」といわれているのです。

 その智恵の象徴は「宝生(ほうしょう)如来」と書いてあります。違って存在している姿がみんな宝に生(な)ってしまうのです。宝に生まれかわるのです。「万像(まんぞう)平等」の世界です。

 「平等性」ということが洞察できたときにはすべての現象がみんな宝になる。これは後で、カウンセリングの具体的体験の中でいろいろお話したいと思います。

 <(3)妙観察智・・・現象の一つ一つを観察>

 次には一番上の丸に行きまして、真ん中に「妙観察智(みょう・かんざつち)」と書いてあります。これはどういうことかといいますと、鏡に写ったそれぞれ違った現象がみな平等の命を持っているということを感じとったうえで、さらに「妙」というのは一つ一つの独自な現象です。「大円鏡智」のところでは全体が写りましたが、ここでは現象の一つ一つを観察するということです。

 「観」というのは、観自在菩薩とか観音さまとか「観」を使いますね。わかりやすくいったら、あたたかな心のまなざしで包むことではないでしょうか。「(さつ)」というのは、理科の観察のように客観的にわかるというのではなく、相手の心の中に入っていって、相手が感じている世界に耳を傾け、「ああそうだったんですか」とあるがままに感じとる働きだと思います。そういうことができる智恵が私たちのどの命にもまぎれもなくありますといってくれているのです。

 カウンセリングは「妙観察智」の世界ではないでしょうか。お一人お一人の違いを心からあたたかなまなざしで包むと同時に、心の耳で察していく、感じていく、汲み取っていく。そういう世界はまさに「妙観察智」の世界でありますから、カウンセリングの世界といっていいでしょう。

 その働きをなさるのは「無量寿(むりょうじゅ)如来」ということになっていますね。阿弥陀さまです。

 これは「無量」をどう読むかということに一つのカギがあるように思います。「無量」というのは数えることができないほど無限なるもの、無辺際(むへんざい)なるもの、永遠なるものと理解されるのが一般的であろうかと思いますが、私はカウンセリング体験の中で、これを「量らない」と読んでみたのです。「量ることが無い」と字のとおりに読んだのです。そうしたらわかりましたよ、阿弥陀さまの働きが。こちらの物差しで切り刻むように量ることなく、あるがままに「妙」の世界、その人だけの世界、ユニークネスというか独自性を持って生きている固有の命に対して、量ることなくあたたかな目で包み、心からの耳で感じとってくれる働きということなのではないでしょうか。

 そうすると、阿弥陀さまの働きの中にカウンセリングの原型があるのではないかと思っております。たいへん大それたことであって、もちろん同じだなんていっているわけではありません。そういうことに写せる原型があるのではないかと思うのです。

 しかも「妙観察智」はどんな決まり言葉でいわれるかといいますと、「差別照了(しゃべつ・しょうりょう)」ということなのです。その人だけの世界、まさにその人だけの実存の世界をあたたかな心で照らし、「ああそうだったんですね」と了解していく。「差別照了」していくそこにカウンセリングの働きがあるように私には思えます。五智の中からそういうことを感じ始めたときには、正直いって、私興奮しました。

 <(4)成所作智・・・行動を起こす>

 最後に右横の丸に行きますと、「成所作智(じょう・しょさち)」とあります。「所作」とは行動の意味でありますから、行動を起こすということです。それはどういう働きかといいますと、これもきまり言葉で下に「滋長一切(じちょう・いっさい)」と書いてあります。「滋」は「滋養」の「滋」ですから、茂る、育てる、大きくしていく、発展させるという意味です。私たちの命には、お互いに育て合っていく心の働きが最初から組み込まれているというのです。だからカウンセリングということが成り立つわけです。お互いに話し合うことをとおして、そこに成長なり発展が生まれてくる。それは「成所作智」の中に本来、お互いに育て合う力があるからだと、こういうことになるのではないでしょうか。

 「不空成就如来(ふくう・じょうじゅ)」というのは、「必ず悟りを開くこと空しからず」「必ず悟りを開きます」ということでありますが、ここはお釈迦さまで表わすのです。大日如来も阿シュクも宝生も無量寿も、みな歴史的存在ではありません。働きを象徴して表わしたお名前です。しかしここだけは歴史的存在のお釈迦さまをもって表わしているということは、私たちの現実の世界にその働きがとどいてくることを象徴していると思うわけです。

 いままで順序どおりにみてきましたが、この順序は仏さまのお働きであると同時に、そのいのちを分けもらった私たち一人一人の働きでもあるんですね。

 たとえば、お母さんがもっているお心のことをたどってみますと、お母さんが外出されてお家へ帰ったとします。がらっと玄関をあけたときに、みんなに変わったことがなければいいが、無事ならばいいがと祈るような思いで「ただいま、みんな変わったことはなかった?」と聞きますよね。しぜんに「大円鏡智」、すべてを写しとるところの智恵がお母さんにも働いているということではないでしょうか。

 ここが難しいんですけれども、お兄ちゃん、妹さん、弟さんといろいろいらっしゃる。お父さんもいらっしゃるでしょう。ご家庭のそれぞれが、みんな違ったいのちをもっていることそのままが、同じ尊いいのちだということを感じとる働きをもつことが二番目の「平等性智」ですね。うっかりしますと、差別のままにお兄ちゃんはいいけれど、誰は駄目ということできめつけてしまうことが多いのですが、姿の違いはそのままみんな大事ないのちだということで受けとめたところで、今度はお一人お一人に「太郎君、今日は何があったの?」と太郎君の世界、あるいは花子さんの世界をお母さんがあたたかなまなざしをそそいで、耳を傾けて働きかけていけば、必ずお子さんたちは成長するのではないでしょうか。それは会社だってみんな同じですよ。

 ですから個々の生命、あるいは組織体の発展原理がここに完璧に解き明かされていると思っています。

 <逆回りの世界がカウンセリング>

 これはそれでいいのですが、私が本当に申し上げたいと思っていることは、一、二、三、四の順序で回る本来の回り方を「順観」としますと、四番目の「成所作智」のところを出発点として逆に回る、逆回りの世界「逆観」がカウンセリングの世界ではないかということに気がついたということです。

 私たちが相談室にいることも所作です。そこへ電話をかけて面接を申し込まれるという、相手からも所作がなされます。私たちもこたえて「どうぞ」ということになって出会っているんです。何もわからないけれど、「どうぞ、こちらの部屋でお話をしましょう」とか、「ここでは秘密を守ってお話をうけたまわるんですよ」とか、申し上げて、「成所作智」つまり働きかけることをします。所作することから始めます。

 そのうえで、では何に働きかけるかといいますと、逆回りで「無量寿如来」のほうに来ていただきますと、「妙観察」をするのです。相手がいま、宇宙の中で受け持って生きていてくださるその世界、「妙の世界」を観察させていただくということです。だから、一般的な話をしようなんてことじゃありません。あなたの世界、あなたの心の世界をお話くださいというのが「妙観察」の世界です。その独自な生命を、阿弥陀さまのお名前を無量寿如来といいますが、“量ら無い”で相手の生きていらっしゃるところを、いいとかわるいとか量りをしないところで受けとめる働きをカウンセリングはしていく。そうしますと、「そういうことだったのですか、お会いしたときには何もわからなかったけれど、一度、二度、三度とお会いしていくうちにいろんなことが感じとれてきました。あなたってそうして生きていらっしゃるのですね」ということがわかってきます。

 そうしますと、量られることなく存分に、自分の思いをたしかめ、振り返ることをしていくうちに、心が整ってきます。そして、苦しまれた方がたどりつくところは、苦しみまでが宝だったと、この子が苦しんで学校に行けない状態にあって、私たち夫婦は一緒になって苦しんできたけれど、その子のおかげで、本当に家の中で愛情を交わしていくことが大事だったんだということに気づきました、この子が私の胸をたたいてくれたんです、とおっしゃる方が非常に多いのです。まさにいままでこれはいい、わるいと言っていたことが、すべてが平等な働きをもって人生の中に現象しているんだということがわかってきます。そこに「宝生如来」の「平等性智」が働くのです。

 いままでは一人で自分だけで苦しんでいるんだと思っておりますし、事実そうですが、量ることなく寄り添ってお話を聴くことをずーっとやってくれている一人の人間がそこにいることをとおして、そこに一人ではない、つまり孤立していない自分のいのちを感じます。つまりいのちといのちの連続性を実感し、深い安心感が生まれるのではないでしょうか。

 そうしますと、いままで心が雲って鏡にさっぱり写っていなかったのがいろいろ見えてきて、洞察が出てきて「大円境智」が働き、そこにその人がでんと自己を確立して立っていく「阿シュク如来」の無動の世界が開けてくるのです。

 仏さまのお働きは、順観をとおして私たちの方にとどいてくるととらえていいでしょうかね。それからお母さんの愛情も、同様のたどりでお子さんにとどいてくると。それから一人一人の苦しみ悲しさに、どうふれていくかというようなときは、組織体とはまた別な個人の問題です。それには、逆観でまず働きかけて観察をしていく。その人だけの世界、違いをわかっていく。

 そうしますと、どういうことが起きるかというと、アメリカの心理学者、カール・ロジャーズという方が同じようなことを言っているのです。

 「成所作智」のところを、自分の心の中の感情と表現が一致していくといいますか、要するに心からの関わりをするところから始まる。「成所作智」のところは無量なんです。無条件に受けとめていくことを中心にしています。あるがままを受けとめていきますと、不思議と相手と同じではないんですね。相手の違い、独自性が明確になればなるほど、何かそこにすーっと寄り添っている自分を感じます。差別がわかればわかるほど私たち人間として同じだなという実感が深まって寄り添っていきます。その寄り添いの支えをうけて、ここに洞察が生まれてくる。

 ロジャーズさんもそのことをおっしゃっています。東西を問わず、いのちの成長発展の原理というのは一つなんですね。すごいことだと思います。

 さて、この循環を一、二、三、四と回ることと、また逆に回ることと、その二つは同時に働いているように思います。たとえば、私どものカウンセリングセンターで考えてもそうなんですが、ご相談にみえた方がいらっしゃれば、順観の方向から「大円境智」のように、全体を感じとる営みをしていきますし、しかもそこに営まれる営みがどんな陰を伴っていても、永遠の宇宙の生命の一つとして、本当に平等なものだということ、つまり「平等性智」を感じながら、そしてまたお一人お一人の独自な違いを観察して(妙観察智)、そこにはたらきかけ、話し合いを展開している(成所作智)ということです。だからこれは順観・逆観の両方がぐるぐる同時に循環している世界だと思います。これはいのちそのものの働きとして本来そうなっているわけですから、私たちが意識しなくてもおのずから働いているのだと思います。

 これは、五つの智恵ですから「五智」といっています。如来も含めて「五仏五智」とか「五智如来」といいます。

 <「カウンセリングとは何か」はシリーズで、さらに続きます>

く文責:藤森弘司>

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