2012年4月15日 第117回「今月の言葉」
⑦(まとめ)
●(1)<逆説の心理学「同一観」と「脱同一観」>は<2010年11月15日、第100回「今月の言葉」で①>をやりました。以後、
<2010年12月15日「②」>、 <2011年1月15日「③」>、 <2011年8月15日「④」>、 <2011年9月15日「⑤」>、 <2011年10月15日「⑥」> と連載を続け、やっと最終回にたどり着きました。 上記の中で、なかなかの傑作は<2010年12月15日「②」>です。 <2011年8月15日「④」>もなかなか良いです。トリノオリンピック、アイススケート金メダリストの荒川静香さんのご家庭の例が、このタイトルにかなり相応しいので、併せて、是非、再読をお薦め申し上げます。。 |
●(2)さて、前回の「⑥」より半年が経過していますので、一部を再録します。
<<<下記は、再録部分です>>> ●(2)<「育児」とは何か・・・・・「同一観」> 「自分の存在を最も感じさせてくれるもの、生きていることを感じさせてくれるものに自分自身を同一化していくこと。自分の価値を最も高めてくれるもので、自分でも一番重要だと思うものに自ら同一化(同一観)することです」 ここでいう「一番重要だと思うもの」とは、極端な場合を除いて「両親」と考えてください。乳幼児は両親、特に母親を我がことのように同一視し、母親も我が子を「我がこと」のように感じて育児をします。 さて、私たちの人生は困難に満ち溢れています。経済的なこと、夫婦関係のゴタゴタ、職場での人間関係、自分自身の健康の問題など、いろいろな困難に苛まれていますが、ひとまず、今、ここでは、育児をする上で、まあまあ、最低限の状況・環境に恵まれているものとします。 |
●(3)乳児はいろいろなものを要求するとき、泣くことで自分の要求を知らせます。当然のことですが、乳児は泣くこと以外に伝達手段を持っていません。お腹が空いたとき、オムツが濡れたとき、ダッコをしてもらいたいとき・・・・・などのすべては、ただ単に泣いて知らせるだけです。
当然、母親は、乳児が何を要求しているのかわからず、戸惑います。オムツが濡れたのかと思ってオムツカバーを外してみると、オムツは濡れていなかったり、ダッコをしてほしいのだろうと思ったら、そうではなくてオムツが濡れていたり・・・・・。 当初はこういう混乱が毎日続くでしょう。しかし、まあまあ、なんとか十人並みの生活ができている、まあまあなんとか健全な家庭であれば、やがて母親の「直感」が働いてきて、オムツが濡れたのか、お腹が空いたのか、ダッコをしてもらいたいころなのか・・・・・乳児の波長に合わせた生活感覚が備わってきます・・・・・これを「同一観」と言います。 ●(4)この「同一観」でほぼ一年間は順調に育てられます。厳密には、日々、乳児は変化・成長していますが、ひとまず、ここでは大雑把に考えます。 ところが、日々、変化・成長している「乳児」は、やがて「変化・成長」の「量」が、母親の対応の範囲をオーバーするようになってきます。 私(藤森)は多くのものを、大雑把に三分割して考える癖があります。 問題は、次の三分の一(最後の三分の一)です。そろそろ「変化・成長」の量が増えてきて、違和感が増大してきます。コップの水が溢れるように、乳児の違和感が部分的に溢れ出たときが「グズル」です。これが最初の「反抗期」で、ほぼ一歳ころと考えて良いでしょう。 これからさらに「育児」に必要な種々様々な対応をしなければなりません。離乳食であり、オムツを外してトイレットのしつけをしたり、散歩をしたり、サジや箸の使い方を教えたり・・・・・さらに、乳児と違って幼児の行動力は比較にならないほど大きくなります。一瞬の油断で、大事なものを壊されたり、汚されたり、はたまた、転んで怪我をしたり・・・・・母親はパニック状態になります。 特に、昔と違って電化製品を始めとする「貴重品」は沢山あるし、自動車などの危険なものが周囲を走っています。コミュニティがあった昔と違って、周囲は育児をする母親に協力的ではないし、危険な「変なおじさん」も沢山います。 |
●(5)<脱同一観>
さて、子どもがグズルことは、「おかあさん!そのやり方は違うよ!」と主張していることを意味しています。しかし、実際に子供のグズリは親のパワーで押さえ込んでしまうものです。 こうやって、乳児がグズルたびに、乳児の要求に応じようと工夫して、要求に適うように対応していくことが「脱同一観」です。 「同一観」は、乳児の要求にピタッと寄り添います。ピタッと寄り添うと快適な母子関係になりますので、「一心同体」のような気持ちで「育児」をしますが、やがて乳児は、自分の成長に沿ってくれない親に対して、グズルという形で「邪魔だからどいてよ!」と言わんばかりに自己主張し始めます。 その要求に沿って、「一心同体」のような母子関係を少しずつ、「二心二体」・・・・・つまり、乳幼児の人格が育つ質量に沿って、母親が距離をおくようにすること・・・・・つまり、乳幼児の人格が育つ質量に比例して、乳幼児の「自我」を尊重していくことが「脱同一観」です。 「同一観」をしっかりやり、「脱同一観」が、まあまあそれなりに適切に行なわれたときに、その子は「適切」に育ちます。 「同一観」「脱同一観」の説明としては以上ですが、実は、このように「適切」に育児が行われることは、ほとんど「皆無」と言っても過言ではありません。だからこそ「サイコシンセシス(精神統合)」という心理学・・・・・特に「セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)」という概念ができたのだと、私(藤森)は思っています。 それが次回、最終回のテーマです。 いつの時代でも「脱同一観」は人間にとって大変難しいものですが、現代は特に「困難を極める」と言っても過言ではありません。困難を極めた結果、人間らしくなるための「同一観」も適切に行なわれなくなってしまいました。その結果、恐ろしい社会現象がいたるところに見られる悲惨な日本になってきました。 なかなか説明が難しい上に、私(藤森)の才能不足もあって困難を極めるでしょうが、次回の最終回で、このあたりを率直に説明したいと思っています。このホームページをご覧の皆様は、人間らしくなるための「同一観」はそれなりに順調に通過された方々であろうと思っています。 <<<上記は、再録部分です>>> |
●(3)さて、私(藤森)は「心理」(心理学ではありません。「心理学」は「学問」であり「理論」です)、特に「個人の深層心理」を専門にしています。そのため、歴史的な表現や多数の方を対象にした表現をするときは、多少、いい加減なことを言っているとお考えください。大雑把に理解していただければ幸いです。
さて、簡単に復習してみますと、「同一観」とは、自分の意思を適切に表現できない乳幼児・・・特に、「乳児」の「泣き声」を聞いて、「我がこと」のように「要求」を理解しようとすることです。 これに反して「脱同一観」とは、乳幼児の要求・・・実際は「反抗」という形での要求・・・に沿って、「同一観」を止めていくことです。 「同一観」「脱同一観」というほどのものではありませんが、分かりやすい簡単な実例で説明します。 しかし、当たり前のことですが、日一日と子供は成長しているのですね。毎日、オンブをして散歩をしていているうちに、体をピンと張って、「降りて歩きたい」(脱同一観)という主張をし始めたのです。 さらに、脚力がついてくると、私がオンブをしたくて、息子の前に座って「オンブをしよう」という姿勢を取っても、その脇を素通り(脱同一観)して行きます。息子が成長することは嬉しいに決まっていますが、同時に「脱同一観」の寂しさもウッスラ感じたことがありました。 |
●(4)さて、戦後のいつ頃からなのでしょうか。日本人は「脱同一観」がとても下手になりました。下手というよりも、子供の人格を奪い取ってしまうほどです。
しかし、世の中がさらに「進歩」した結果、「脱同一観」どころか、「同一観」がハチャメチャになってきてしまいました。これが社会のどうしようもない様々な現象・・・「事件」や「出来事」です。 日本人や東洋人は、多分、「儒教」などの影響だと思うのですが、どちらかというと育児は「同一観」が中心です。そのために、「脱同一観」が非常に下手な民族だと言えます。もともと、そういう民族である上に、戦後のある時から、ハチャメチャに「脱同一観」が下手・・・というレベルを超えて、子供の人格を奪い取ってしまうほどになってきてしまいました。 しかし、この場合は、人格の「基礎」はそれなりにできているから良いのですが、問題は、ある時期から、人格の基礎工事である「同一観」がハチャメチャになってきてしまったことです。 |
●(5)人格の「基礎工事」である「同一観」がハチャメチャになってきてしまったのはどうしてだろうか。 私が考えるのは、次の諸点です。①従来の日本は、今回の東日本大震災でもわかりましたが、それぞれの地域に「コミュニティ」がありました。そのコミュニティの中には、育児が終わったベテランがいるものです。育児で四苦八苦している若いお母さんの手伝いや心理的な応援をしてもらえました。 夜泣きをしたり、ぐずったり、反抗期で困り果てている若いお母さんに対して、ベテランのお母さん(おばあさん)が応援してくれたものです。住居の構造的にも、隣近所の応援がしやすかったことと思います。ですから、孤独死というのはチョット考えられなかったのではないでしょうか。②買物や何か用事があった場合、コミュニティの中で助け合ったり、また、大家族の生活だったので、おじいちゃんやおばあちゃんが、直接助け合ったものです。 特に、毎日の買物などの応援は、日常に見られたものです。 ③昔は、何もかも、生きることそのものが大変でした。掃除も洗濯も、風呂を沸かすことも、ご飯を炊くのも、薪割りも、何もかもが大変でしたので、育児が大変だとはいえ、育児が突出して大変だというものではありませんでした。何もかも大変な中で、育児が他の仕事よりも少し大変だった程度ではないでしょうか。 昔、我が家(藤森)は小さな衣料品店を経営していましたが、一年365日、日曜、祭日の休みは一切ありませんでした。私が小学生のころ、朝6時に起きると店を開け、夜10時過ぎに寝るときに店を閉めていました。 ④しかし、現代はいかがでしょうか。 そうすると人間は「欲望・我欲」が強くなるのだと思います。子供をより偏差値の高い学校に入れたい、ピアノやダンス、絵画や英語、はたまた、ゴルフやサッカー、野球など、親の欲望を満たす分野に進んで欲しい・・・・・子供の将来のために・・・・・という大義名分のもとに、親の思い通りの道を、無意識の内に強要するようになる結果、子供の「自立性」(脱同一観)を阻害してしまいます。 この欲望がさらに強くなり、欲望が「丸出し」になってくると、非常に煩わしい乳幼児の基礎工事(同一観)に手をかけるよりも、親の側の「我欲」が中心になってしまうようです。 こうなると、子供の基礎工事どころではありません。電化製品やゲーム機、パソコンや携帯電話などは思い通りになるのに、「夜泣き」を始めとする「育児」の困難さは想像を絶する事態になってしまい、今や、理解不能なトラブルが日本中で発生してしまっています。 <●(5)は、いつかまた、「補足」でジックリ解説してみたいと思います。現代の様々なトラブル(現象)は「同一観(基礎工事)」ができない人間が増えた結果だと、ほぼ決めつけて問題がないでしょう。> |
く文責:藤森弘司>
最近のコメント