2012年3月15日 第116回「今月の言葉」
●(1)最近、「足るを知る」について、抜群に素晴しい2つの資料を入手しました。
その前に、<2009年11月15日、第88回「知足観(1)」>の最初の部分を再録します。 <<<●(1)「知足観」は「ちそくかん」と読みます。といいましても、これは、私(藤森)の造語です。「足るを知る」という言葉は、皆さん、ご存知のことと思いますが、これに「観」を付けました。国語的に正しいのか否かは全く不明(むしろ、間違いかもしれません)ですが、私は、これをとても気にいっています。 意味は、例えば、「吉本式内観法(内を観る法)」などと同様、「足るを知ることを深めるための行法」(修行の方法)といった感じです。「吉本式内観法」を行ずると、人や物事を見る目の「歪み」が修正され、「あり難さ」が実感できるようになります。 それと同様、「知足観」が進むと、いつ、いかなる状況でも「不満」が減り、「オーケー」とする気持ちが強くなります。逆に、「知足観」が不足していると、「不足」の量に比例して、いつも、どんな状況においても、「良し」としない、つまり、「不満」の度合いが大きくなってくるものです。ファミリーカーを買えば、もっと大きな車を、さらにはベンツを・・・・・と人間の欲望にはキリがありません。 「満足」するのは、なかなか、難しいものですが、「満足」しないまでも、「不満」の度合いが小さくなれば、それに反比例して、人生、生きるのが楽になってきます。恐らく、「知足観」の究極は、生きるのに必要な最低限の衣食住が満たされるならば、いつ、いかなる状況においても、「これで良しとする心境」に達するものと思っています。 いろいろな角度から、いろいろなことを述べたいのですが、私の説明よりも、現実は、遥かに、私が言うところの「知足観」が求められているように思えます。そういうメディアを通した現実のいくつかを、まず、お届けしたいと思います。>>> |
●(2)さて、最近、「足るを知る」について、2つの貴重な資料を入手しましたので紹介します。
ひとつは、テレビに出ていた古川元久大臣が大切にしている言葉として紹介されていた言葉「吾唯足知」です。 <「吾(われ)唯(ただ)足るを知る」> 石庭で有名な京都の竜安寺の裏庭に、丸い石の真ん中が四角にくりぬかれ、その四角を口に見立てて時計回りに読むと、「吾唯足知(われ、ただ、たるを知る)」と読めるつくばいがあります。 古来より中国では丸は「天」を、四角は「地」を表すと言われています。私たちの生きる世の中です。 その間に調和のとれた形で並ぶ「吾唯足知」の文字。 私はこの図が「世の中が調和の取れた社会となるために必要なのは“足るを知る”こと」を示唆していると思います。 世界にはさまざまな対立が存在し、しかもその対立は先鋭化しつつあります。しかし対立の先に真の解決はありません。 どこかで対立を超えて、調和へと進んでいかなければなりません。 この対立を超えて調和へと導く智慧。私は、その智慧こそが「足るを知る」ことだと思います。 私たちはひとりでは生きてゆけません。他者の存在があってはじめて私たちは存在できるのです。そのことに感謝し、他を思いやる気持ちを持つ。 そこに世の中の調和が生まれます。そのためには、まず自らが「足るを知る」ことが必要です。 私はこの「足るを知る」という智慧を世の中に広げて、一日も早く調和の取れた社会が実現することをめざしてまいります。 古川元久 |
●(3)もうひとつは、私(藤森)が尊敬する仲間の一人、石原光則先生が、最近、二冊目の漢詩集を出しましたが、その詩集の中にも「足るを知る」が出ていましたので、それを紹介します。
石原先生は日本を代表する「論理学の天才」であり、「漢詩創作の達人」で、私とは四半世紀のお付き合いをしている方です。 <漢詩集 「続 木蓮亭雑詠」>石原光則著 <十一 無題>(p64~p68) いつだったかテレビで純白の仔羊が紹介されたことがあった。 科学技術の進展は目覚しい。いまこの稿を書いている最中にもNHKが人工生物の現状を報じている。番組によると、自然界には存在しない生きものをヒトが造り出したそうだ。それを売買する会社まであるという。なかでも私が驚いたのは、ある染色体(テロモアとかいう)を人工的に操作して年老いたラットを若がえらせた実験結果である。番組の取材に応じた研究者は、近い将来この技術がヒトに応用されれば人類にとって大きな福音になると言って胸を張った。唐突だが、ここで一首を賦そう。 報或得若老鼠術 或(あるひと)老鼠を若がえす術を 人情固是慕新奇 人情固(も)と是(これ)新奇を慕う
新を競い奇を求めてやまないのが人の性であるらしい。理を究めて精妙な機器や装置を造りあまつさえヒトの生命現象まで制御して所欲を満たそうとする。それにしても憶い出されるのは、足るを知らないことほど人間にとって大きな殃はないと喝破した老子の言葉である。 詩はなにも花下酒間にのみ成るのでない。ときに強い嫌悪感が詩心を押し退けて表出することがある。「人の奇を好むは是れ一病」とは『中庸(ちゅうよう)』にみえる言葉だが、際限のない進歩(?)へのそこはかとない疑問がこんな益体(やくたい)もない詩を作らせた(益体もない詩を作って無用の放電をしている)。 時事に材を採った詩は一般に評林体と呼ばれる。正岡子規によれば、評林とは卑陋(ひろう)な内容を韻文の金粉で糊塗したもので、詩に似て詩にあらざるものである。子規の目からすれば、右の推敲もへったくれもない即興詩(敢えて詩といおう)は評林の一端を窺かせており、詩の筋目からは外道であろう。内容を補足するかのような長ったらしい題も外道かもしれない。 <殃無大似不知足> は老子(周代の思想家。姓は李〔り〕、名はタン〔漢字が出せません。ごめんなさい〕)の言葉として古来より人口に膾炙(かいしゃ)したが、これを縮めた知足(足るを知る)を座右の銘にする人は現今(いま)も禅僧などに多い。この老子の七字をそのまま結句として嵌め込んだのが右の詩で、仄韻(そくいん・初句踏み落とし)としたのは、末字足に韻に合わせたためである。そのぶん承句の押韻が窮屈になった。 知足については他にも故事がある。建武八年(西暦三十二)漢王朝再興のため各地に転戦した光武帝はロウ(地名ですが漢字がでません)を陥(お)とした勢いに乗じて蜀(しょく・四川省成都付近)へと軍を進めた。蜀を窺いつつ陣中で書いた手紙のなかで光武帝は自分の野望が際限もなく膨らんでゆくことを ロウ(先ほどの地名です)を得て蜀を望む と表現した。一つ望みがかなえばまた一つを望む。人の欲望に限りがないことを嘆いた言葉である。ついでながら三国魏(ぎ)の曹操(そうそう)にもこれと同じ話がある。曹操が各地を攻めて蜀の手前まで進(き)ながら、参謀司馬イ(しばい)の献言を退けた故事である。曹操は言う。「人間というのは足りるということを知らないがために苦しむのだ、このうえなお蜀を望むのか」と。 ここまできて、筆の運びの書生っぽさに自分で閉口している。閉口しつつ、あと少し取りとめのない書生論を書きたしておこう。 一つの発明発見によってその周辺が殺気立つのはこのためである。こうして得られた技術の集積は私たちの生活を途方もなく便利なものにし、そのため殆ど神聖視されるまでになったが、便利になればなるほど人の欲望はその度合いを強め、心の闇を深めてゆく。誰が言い出したのか、熱湯に放り込まれたカエルは驚いて桶から飛び出すが、常温の水のカエルはそれがゆっくり熱っせられるのに気付かず、そのまま茹であがるという。私たちが浴している心地よい文明という名の液体はもう十分熱くなっている。 |
●(4)私(藤森)のように本を読んだり本格的な勉強をしない人間にとって、上記のような正式な意味や出典が分かるとホッとします。その上、正式な意味や出典がわかれば、今後はさらに「知ったかぶり」ができる嬉しさがあります。 一度、正式に分かってしまえば、もうそれはこっちのもの。それ以後は、昔から常識として知っていたという「態度」を取ることができます。「この程度の教養は常識さ」とばかりに。 さて、今回、予定していたのは下記の2つです。 下記の映画「マシンガン・プリーチャー」は、「今月の映画」のほうに掲載しようと思ったのですが、私の尊敬する曽野綾子先生のエッセイに連動させて紹介したいと思い、「今月の言葉」にしました。 「事実は小説よりも奇なり」という言葉がありますが、この映画もそうです。プリーチャー(preacher)とは「牧師」を意味しますが、この牧師が凄い!アメリカ人の牧師がアフリカに行って、マシンガンをぶっ放すという物語です。そして、これは荒唐無稽な話のように思われますが、(実は)「実話」に基づいているんです。 まずは、インターネットで検索した下記の「解説」や「あらすじ」を紹介します。 |
●(5)マシンガン・プリーチャー
解説: アフリカの紛争地で内戦に巻き込まれた子どもたちの救出に奔走する実在のアメリカ人活動家、サム・チルダースの半生を描いた人間ドラマ。監督は『チョコレート』『ネバーランド』のマーク・フォースター。武装ゲリラに誘拐された子どもたちを救い続ける元麻薬売人の主人公を、『300 <スリーハンドレッド>』のジェラルド・バトラーが熱演。そのほか『M:i:III』のミシェル・モナハン、『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』のマイケル・シャノンら実力派が共演する。 あらすじ: 酒と麻薬におぼれ、犯罪を繰り返してきたサム・チルダース(ジェラルド・バトラー)は、自分が起こしたある事件に対して自責の念に駆られ、信仰と家族のために生きることを誓う。数年後、教会で牧師からウガンダの話を聞いて興味を持ったサムは、現地へボランティアに向かうことにする。そこで彼が見たのは、武装ゲリラ「神の抵抗軍」の恐怖にさらされる子どもたちだった。 「マシンガン・プリーチャー4」“共感”ではなく“衝撃”が観る者の胸を撃ち抜く驚愕実話の映画化 マシンガン牧師。この奇抜な題名を目にして、真っ先に連想したのは1996年のトム・ベレンジャー主演作「野獣教師」だ。凄腕の元傭兵がとある高校に教師として赴任し、学園に巣くう犯罪組織との激闘を展開。そんな“でたらめ”だが、ひたすら“痛快で面白い”B級活劇を勝手に期待していた。 実際のところ、本作のストーリー展開は荒唐無稽だ。ペンシルベニアの麻薬の売人が妻の勧めで教会を訪れ、神への信仰に開眼。そしてアフリカでのボランティアに参加した際、現地の子供たちが虫けらのように殺される現実を目の当たりにし、怒りのマシンガンを握り締める。 「チョコレート」から「007 慰めの報酬」まで多彩な作風で知られるマーク・フォースター監督は、この仰天実話を予定調和的な美談に仕立てなかった。私財をなげうってスーダンの荒野に孤児院を建設し、故郷の妻子や友人を顧みなくなる主人公の矛盾を丸ごと描き、観客の共感を誘うどころか、驚かせ、困惑させ、動揺させる“問題作”を生み出した。そこにこの映画の価値がある。悪魔と闘う神のしもべに扮したジェラルド・バトラーの大熱演も凄い。危うい狂気すらみなぎらせるマシンガン牧師は、救済という言葉の意味や、正しき行いとは何なのかという問いを発しつつ、観る者の胸をこれでもかと撃ち抜いて蜂の巣にするのだ。(高橋諭治)(映画.com) [2012年01月26日 更新] |
●(6)「マシンガン・プリーチャー」は強烈な映画でした。ストーリーはもちろんですが、日頃、曽野先生が強調されていらっしゃる世界の困窮している人々の姿が活写されていました。
貧しいとか、殺し合うとかいうだけでなく、小学生くらいの少年たちが武装ゲリラ「神の抵抗軍」に誘拐されて、戦士に仕立て上げられるのです。映画の主人公や政府側の兵士は、敵が少年兵だとわからずに撃ち合い、撃破して、倒れた彼らを見に行くと、そこには何人ものあどけない顔をした少年兵が死んでいます。 ある場面では、村を襲った武装ゲリラが、誘拐しようとする少年に向かって、泣き叫ぶ母親を「ナタで殺せ!」と脅迫します。 平和な日本でノホホンと生活している我々には、ただ、ただ、悲惨なスーダンの状況に茫然とします。日頃、曽野先生がおっしゃっている言葉が彷彿としてきました。 そういうところでも、キリスト教のシスターというのでしょうか、あるいは、医者や看護師たちなのでしょうか、「正義」の戦いをしているつもりの主人公に向かって、「殺し合い」を止めるように強く訴えます。 ただ「悲惨」としか言いようのないこういうところにまで来て活動するシスターたちか、あるいは「国境なき医師団」なのか、ただ、ただ、強く打たれました。 この後しばらくの間、私(藤森)は東北大地震の悲惨な状況を忘れて、「シスター」や「国境なき医師団」たち、そしてスーダンの少年たちのことが頭を離れませんでした。 |
●(7)平成24年2月24日、週刊ポスト「昼寝するお化け」(曽野綾子)
<小さな父たち> 先日、岩見隆夫氏が毎日新聞の「近聞遠見」という欄で、3・11の後で見られたいい話を紹介しておられた。 一人のベトナム人記者が避難所で、両親を亡くした男の子にインタビューした。まだ避難所では一つのおにぎりを分け合うような厳しい生活だった。少年が寒そうなので、記者が自分のジャンパーを着せ掛けると、そのポケットからバナナが転がり出た。「バナナ、ほしいか」と聞くと頷くので、記者がバナナを与えると、少年はそれを自分で食べずに、皆の共通の食糧置き場において、自分はすぐに戻って来た。 同じような話がもう一つ紹介されている。 アリヨシ氏は近年になって、五百旗頭(いおきべ)真防衛大学校長にその話をし、「世界のどこの子供がこんなふうにできるだろうか。モノとしての日本は消失した。しかし、日本人の精神は滅んでいない。あの時、日本は必ずよみがえる、復興すると確信した」と語ったという。 どこにも立派な大人のような少年がいる、ということは事実だ。大人のような、というのは、受けることばかり期待しないで、むしろ「与えることに喜びを見出す」精神を指す。 たとえばチャドという内陸国の、まだ三、四歳の子供に飴やビスケットを与えると、握ったままなかなか食べない、第一の理由は、こんなきれいな紙に包んだ飴など見たことがないから、どうしたら食べられるのか、どうしたら紙がむけるか、よくわからないのだ。 栄養失調の子供は、どこの国にもたくさんいた。あばら骨が出るようになっているのが「マラスムス」と呼ばれるカロリー不足の症状で、蛋白質不足から痩せずに浮腫を来たすのが「クワシオコル」と呼ぶ栄養失調の状態である。全く違う外見なので、私は初めのうちは浮腫を肥満と間違えていた。 こうした子供たちに、日本風に言うと「炊き出し」のような活動をしている組織がよくある。日本人のカトリックのシスターたちもそれをしている。野菜を入れた穀類のおじやなのだが、魚粉やイモムシのように見える干した虫の粉など入れて、栄養が偏らないように工夫してある。修道院の庭や病院の小児科病棟の建物の外におかれた籠で近所のお母さんたちがそのおじやを煮て、時間になると痩せがひどいと認定された子供たちがめいめいプラスチックのお皿を持ってどこからともなく集まって来る。お母さんたちが、お皿いっぱいのお粥をよそい、そこで食べさせる。近年では、その場で食べさせることが、多くの土地で一つの知恵となった。 私が見てるとその日も一人の八、九歳に見える男の子が、そのおじやを自分が持って来たビニール袋の中に入れようとした。もちろん液体に近いものだから、お皿を縦にして入れれば、中身はすべてビニール手提げの中に流れてしまう。私も「アッ、どうするの!」と声をあげたのである。 ボリビアでは、日本のお金で、地方の小学校の給食をしている場に立ち会った。家ではほとんど食べていない子もいるので、学校に来ても勉強が頭に入らない。それで昼食だけ、給食にした。一日置きに肉か卵がつき、それに野菜と主食のご飯が添えられている。 ボリビアのサンタクルスから少し離れた日本人の入植地に近い学校の給食に居合わせた時、私は生徒の一人が給食のお皿を持って、広い校庭を反対側の木陰まで早足に歩いて来るのに気がついた。いったい何をしようとするのだろうと見ていると、木陰には他に三人の男の子たちが立って待っていた。そのうち二人は少年の兄弟で、もう一人は友達だった。給食をもらえる学校にいる少年は、兄弟と友達と昼食の給食を分け合うことで、生活を助けていたのである。それはまるで小さな父親のような感じだった。少年は一皿全部どころか、もしかするともう一皿余分に食べたい年頃なのだ。 南アフリカには、エイズ・ホスピスで死亡する若い娘の中に、売春婦もいた。自分がブランドもののハンドバッグを買いたさに援助交際をしているのではない。病気の父や、弟妹に食事をさせるために売春をしてそしてそのまま二十代の若い死を遂げているのだ。 |
●(8)ただ、ただ・・・・・言葉がありません。
彼らには申し訳ないような気持ちを抱きながらも、私(藤森)は、私の日常が「幸せ」に満ち溢れている「幸運」を有り難く思っています。寒さをしのぐ家があり、衣類があり、空腹を満たす食べ物にも恵まれています。「蛇口」をひねれば水がでます。毎晩、お風呂に入ることもできます。 多くのものが、「必要最低限はある」ということの「充実感」。「終わりよければすべて良し」といいますが、人生の晩年になってこれほどの「充実感」を味わえるということは、私(藤森)の長い人生の「七転八倒」を考えれば「奇跡」としか言いようがありません。 東京直下型大地震が騒がれています。今、こうやって幸せな時間を過ごしているこの瞬間に「修羅場」になるかもわかりません。そういう「非日常的」な悲劇がいつ襲ってくるかわかりませんが、少なくても、日常的な毎日において、「不足」とか「不満」という気持ちがほとんど無くなったことが、私の人生では「奇跡」です。 |
●(9)追伸
今回のテーマに直接関係ありませんが、上記の「昼寝するお化け」に岩見隆夫氏のことが出てきます。曽野先生と岩見氏とのことで2年半前のことが思い出されます。 2年半前の平成21年9月だったでしょうか。「政権交代」が起き、日本中が熱狂的な状態(私・藤森も同様です)だったその頃のことです。曽野先生のエッセイに、「老評論家の岩見氏が言うのだから、今回は少しは期待できるのでしょう」という趣旨のことを書いていらっしゃいました。 つまり、熱狂的な状態だったその頃に、すでに曽野先生は民主党にほとんど全く期待していなかったのです。期待していなかったけれども、大ベテランの岩見氏が言うのだから、チョット期待してみましょうかと言う意味だったと理解しています。 民主党がお粗末な舞台裏を見せてくれているので、さすがの私(藤森)にもダメだという意味がわかりました。結局、日本では誰がやっても「胴元」が同じだからそこを変えない限り何も変わらないということが、シロウトの私にもよくわかりました。 嘉悦大学教授の高橋洋一氏は、「霞が関の反社会勢力」と言われているらしいです。夕刊フジで連載中の「日本の解き方」(平成24年3月1日)で<増税反対論者に強まる圧力、霞が関は「反社会勢力」扱い、国税庁まで動員して口封じか>の中で・・・・・・ 「(略)また、某テレビ局で出演を頼まれたが、相手の政治家が私を嫌って出演をキャンセルされたことはある。 しかしまあ、官僚というのは勉強しすぎておバカさんになってしまっているのかもしれません?何故ならば、自分が跨いでいる枝まで切り始めているからです<「今月の言葉」第81回「自分が跨いでいる枝を切ると?」ご参照>。 最近、テレビの国会討論を聞くと無性に腹が立ってきたり、虚しくなったりします。質問者も大臣の答弁も、あれほど中身の無い、無機質な議論ができる人間性は、もうすでに壊れていると言っても過言ではないでしょう。 人間が壊れていたら恐ろしい話であり、壊れていなかったならば、これまた、恐ろしい神経だと思います。大阪の橋下市長がどういう人格なのか私(藤森)にはよくわかりませんが、やはりここは良し悪しを抜きにして、一度、徹底的に壊さないとどうしようもないのかもしれません。 日本のいろいろな分野の意見は、単純に分けて「シロアリ連合軍」と「アリ塚外連合軍」の違いに分けられるように思いますがいかがでしょうか。 |
く文責:藤森弘司>
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