2012年2月15日 第115回「今月の言葉」
知足観(8)

 ●(1)私(藤森)にはオリンピックを目指すような選手は、ほとんど国家を挙げて、可能な限りの応援や援助がもらえる中で練習をしているというイメージがありました。

 <第110回「逆説の心理学」「同一観と脱同一観⑤」>の中で紹介した荒川静香さんは、ご両親からの応援が凄く、毎年、1千万円もの経済援助があったようです。個人か、企業か、団体か、国の補助(海外遠征などはそうでしょう)かの違いはあっても、私の知る限り、一流の選手は、周囲からの莫大な経済援助があってオリンピックを目指しているように理解していました。

 しかし、今から7年半前、マラソンの野口みずきさんの下記の新聞を見たとき、ビックリ仰天しました。今の日本で、こういう境遇の選手がいるのか!!!このような境遇の選手が、アテネオリンピックで金メダルを獲得。ただ、ただビックリして、その新聞記事を大切にしていました。
 
 それから3年後、さらに進化して北京オリンピックの代表に選ばれました。その時の読売新聞の記事も、切り取って大事に保管していました。私(藤森)の「動物的な直感」がビビッときたのです。

 そして今年、私のバイブル、週刊ポストがやってくれました。野口みずきさんは、素晴しいご家族に恵まれていたのです。またまた、私の直感が動物的であることが証明されました。

 とにもかくにも、下記の(2)(3)(4)を続けてお読みください。

●(2)平成16年8月24日、日刊ゲンダイ

 <野口小柄(1メートル50)な26歳の知られざる経歴と波乱のマラソン人生とは>

 <兄姉の助言でやっと高校進学>

 野口みずきのこれまでの競技生活は決して順風満帆ではなかった。
 中学時代、三重県大会で上位に入賞し、強豪の宇治山田商への入学を周囲に勧められた。
 兄と姉は高校に行かず働いており、両親は「うちは経済力がなかったから」と野口も進学させるつもりはなかったという。熱心に陸上に取り組む野口を思いやった兄姉が「私たちの分まで、みずきを高校に行かせてあげて」と両親に願い出たことで高校進学が認められた。

 宇治山田商では2度のインターハイ出場を果たし、96年アトランタ五輪のマラソン代表に選ばれた真木和にあこがれ99年にワコールへ入社。ところが、その翌年に慕っていた藤田信之監督が会社側と指導方針をめぐって対立、解任された。監督が退社すると野口も後を追った。

 <失業保険で食いつなぎ“貧乏練習”>

 退社後は、同様にワコールを退社した先輩の真木らと5人の共同生活を送ったが、稼ぎはなく、失業保険で食いつなぎながらの“貧乏練習”を続けた。
 5ヶ月間の失業生活の後、女子陸上競技部を新設したグローバリーに入社。02年の名古屋国際マラソンで初マラソン初優勝を飾った。

 数々の逆境をものともせずに勝ち得た金メダル。野口を見守り続けた周囲の喜びも格別だったはずだ。

●(3)平成19年11月19日、読売新聞「東京国際女子マラソン」

 <野口 進化のスパート>

 大会記録を8年ぶりに更新する2時間21分37秒で優勝した野口みずき(シスメックス)が、北京五輪代表切符をほぼ手中にした。従来の大会記録は1999年に山口衛里(天満屋)が作った2時間22分12秒。野口は2005年9月のベルリン以来2年2ヶ月ぶりのレースで、マラソンは6大会で5勝目となった。

 <8年ぶり大会新>

 レースは16キロ付近で野口、前日本記録保持者の渋井陽子(三井住友海上)、コスゲイ(ケニア)の3人に絞られた。野口は前半、向かい風もあって自重したが、追い風となった折り返し地点からペースアップ。36キロ過ぎにコスゲイを振り切り、2位以下に2分近い大差をつけた。渋井は30キロ手前で失速して7位。前回2位の尾崎明実(セカンドウィンドAC)が日本人2番手の4位となった。五輪代表は来年3月に発表される。

 <35キロからの坂 一気に>

 渋井には一瞬のスキさえ与えず、食い下がるコスゲイも一蹴した。大会新に加え、日本選手では初の大阪、名古屋と合わせた3大大会制覇。「目標が達成出来て良かった」と笑顔で話す姿に、圧倒的な存在感が漂う。

 35キロ付近から、高低差25メートルの坂が待つ東京で35~40キロの5キロを16分台(56秒)でカバー、残り2・195キロを7分13秒と男子並みのスピードで走り、後半のハーフは前半より約1分上回った。

 近年の国内大会で、これほど鮮やかに、速さと強さを見せつけた女子選手はいない。藤田監督が「進化している」と評価した快走は、2度の故障後、地道に取り組んできたフォーム修正の成果だろう。

 野口は、疲れると左足の筋力が落ち、体の左右のバランスが崩れる癖がある。その弱点を補うため、軽い負荷ながら回数と種類を増やすなど、筋肉の持久力をつける練習を行なってきた。ほぼ毎日、継続してきた成果が、長年見慣れている監督でさえ、「まろやかになった」という変身ぶりに表れた。以前より強さと安定感が増したストライド走法が、この日の好結果につながった。

 アテネ直後から描いていた五輪V2へ、大きな一歩を刻み、野口は「走れない時があったからこそ今がある」と手応えを語った。ただし「強い相手と戦うためには今まで以上の練習が必要」と付け加えることも忘れなかった。尽きることのない向上心が、野口の最大の強みでもある(新宮広万)

 <五輪出場へ 記録、実績とも十分>

 アテネ五輪金メダリストで日本記録を持つエース野口が、前半に強い向かい風が吹き、20キロ地点で22・5度まで気温の上がった悪条件下、大会新で優勝。登りを含む35キロからの5キロは16分台でカバーし、2時間21分37秒は、自身が記録の出やすい大阪で作った日本人国内最高に、あと19秒と迫る快記録だった。記録、内容、実績とも文句なしで、野口が北京五輪代表をほぼ確実にしたのは間違いない。既に大阪世界陸上銅の土佐礼子(三井住友海上)が五輪代表に内定。今後の選考会は1月の大阪、3月の名古屋の2大会となった。

 シドニー五輪金の高橋尚子(ファイテン)、ハーフマラソン日本記録保持者の福士加代子(ワコール)、アテネ五輪7位の坂本直子(天満屋)など、いずれかに出場を検討する選手には、残りの五輪出場枠が「1」の状況になった可能性が、限りなく高まった。(近藤雄二)

 <満足している>

コスゲイ「38キロまでは、野口と素晴しいレースができた。彼女のおかげでいい結果を残すことができ、満足している」

●(4)平成24年2月10日、週刊ポスト「特別読物」(柳川悠二・ノンフィクションライター)

 <大阪国際女子マラソン欠場・・・それでも走り続ける彼女の「原点」>

 <野口みずき(33)「父と母への42.195km」>

 走った距離は裏切らない。野口みずきの口癖である。彼女が踏みしめてきたこれまでの“道”は平坦ではなかった。連覇を狙った北京五輪では、レース直前に左太ももの肉離れで欠場。一昨年の暮れ、左足首を疲労骨折。そして1月29日の大阪国際女子マラソンでは、またも左太ももの炎症で出場を辞退した。繰り返される悲劇・・・しかしそれでも野口はロンドン五輪を目指し、走り続ける。その原動力とは何なのか。ノンフィクションライター・柳川悠二氏が実父、恩師らへの取材を経てマラソン会の女王の深淵を辿る。

 <靄の中を走っている感じ>

昨年12月、山陽女子ロードレース(ハーフマラソン)を5位で走り終えた野口みずきは、私に対してこう語っていた。

 「まだ靄(もや)の中を走っている感じです」
 表情は明るい。約1ヶ月半後に迫った大阪国際女子マラソン――ロンドンオリンピックの代表選考会を兼ねたこの大会で、靄を切り裂いてやろうという意気込みだけは強く感じられた。

 しかし、今となってみれば、彼女の言葉はこの事態を予見していたのかもしれない。
 野口は、レース4日前の1月25日に、大阪国際への出場断念を発表した。やはりレース直前になって欠場にいたった北京オリンピックと同じ轍を踏んだのだ。欠場の理由は左太ももの炎症である。

 歴史は繰り返す。これでもかというように、野口を追い詰める。そして彼女はいまだ深い靄の中にいる。
 野口が最も輝きを放ったのは、もちろん04年8月22日に行われたアテネオリンピックだろう。私はゴール地点となるパナシナイコ競技場で彼女がゴールテープを切る瞬間を見届けた。
 野口は所在なさそうにゴール周辺をうろついたあと、シューズを脱いで手に取り、そっと口づけをした。彼女なりの返礼儀式だった。
 野口のゴールに少し遅れて、競技場に戻ってきたのが父・稔と母・春子だった。36㌔地点の沿道で声援を送った稔は、大混雑に巻き込まれて足をねんざし、ゴールには間に合わなかったのだ。春子は春子で、稔より先にツアーガイドの運転するバイクの荷台に跨がって競技場に向かったが、バイクを降りてからの道中で息切れを起こし、酸素吸入を受けていたという。

 三重県伊勢市に暮らす稔と春子にとっては結婚後初めての海外旅行だった。金メダルの瞬間を見届けることはできなかったが「無事に帰ってきてくれたのだから十分」というのが、偽らざる本音だった。
 しかし、家族の生活はその日を境に一変する。野口はヒロインとして一挙手一投足を追われる立場となり、実家には大勢の報道陣が詰めかけ、とりわけ一家が貧困を極めた時代のエピソードを記事にした。
 はじめは気丈に応じていた稔や春子も、次第に取材を断るようになる。不遇時代を記事にされることで、誰より娘が傷つくことを恐れていた。

 極めつきは、北京五輪のレース直前に発売された写真週刊誌の記事だった。春子の前夫が某県で再婚相手と暮らしており、野口は稔の子ではなく前夫の子だという記事を掲載したのだ。
 それは事実と異なる。一家が抱える複雑な事情は後述するが、両親や兄妹だけでなく、母の前夫の新しい家族をも冒とくするような記事に、野口のショックは計り知れなかった。左足付け根部分の故障によって北京五輪欠場を決めた背景には、この記事による動揺もあるのでは、という憶測も流れたほどだ。

 以来、両親が口を閉ざすのはもちろんのこと、野口がインタビューなどで伊勢時代のことを語ることはなくなった。そして繰り返しこう話すのである。
 「私にとって(所属先の)シスメックスの藤田信之監督(現在は退任)が父で、廣瀬永和コーチ(現監督)が兄のような存在です」
 しかし、野口のピョンピョンと跳ねるような軽快な走り、そして大舞台に動じない強い心、何より、「走った距離は裏切らない」という信念は、伊勢で生まれたものであるはずだ。

 野口の才能を開花させた藤田はかつて、アエラ誌のインタビューで野口のことを次のように話している。
 「いまどきにしては苦しい家庭やったかもわからんですね。そういう環境で育ってきたからこそ、野口には持ってるもんがあるんです。同じ年代の、他の選手にはないもんが」(07年11月12日号)

 私は彼女の走りのルーツを探るべく、昨年1月に伊勢を歩き、ついには名古屋に単身赴任中の稔と会うことができた。その時、彼が発した一言は今も脳裏に焼き付いている。
 「あなたにとっては小さな幸せかもしれませんが、私たち家族にとっては今が大きな幸せなんです。そっとしておいてもらえませんか」
 そして「よろしいですか?」と言って席を立ち、そそくさと店を出て行く。マスコミに対して強い不信感を抱いているのは明白だった。
 ところが、それから9か月が経った昨年10月、突然、稔から電話が入る。
 「あなたは私と会ったあと、何も書かなかった。私はあなたを信頼する。すべてを正直に明かします」

 <ハナミズキになぞらえた理由>

 現在、59歳になる野口の父・田中稔は静岡県静岡市清水区蒲原の生まれである。中学卒業後、職業訓練校に入り、その後はいくつかの会社に勤め、横浜に流れ着く。

 そこで出会ったのがひとつ年上の春子だった。既に春子には長女と長男のふたりの子供がいた。稔と春子が生活を共にするようになると、78年7月3日に次女のみずきが誕生し、翌々年には次男が生まれた。

 「みずきは間違いなく私の子供です。ただし女房の離婚はまだ成立しておらず、正式には入籍していませんでした。女房と結婚したのは、アテネオリンピックの直前です。パスポートを取得する必要がありましたから。私が春子と一緒になることは、当時、私の親族に反対されました。それに、住んでいた横浜の街は、どうも治安が悪くてね……。ならば知ってる人が誰もいない土地に行こうと思ったのです」
 このあたりのいきさつを稔に問いただすと急に口が重たくなる。とにかく一家6人は駆け落ちするように伊勢市に移り、老朽化したアパートで新しい生活を開始した。

 「着の身着のまま伊勢にやってきたようなものですから、家具もほとんどなかった。伊勢に来てまず、子供たちのためにカラーテレビを一台買いました。子供たちに寂しい思いだけはさせたくなかったのです。2万円でしたが、私は一括で払うことができず、2回払いにしてもらいました」

 野口の「みずき」という名前が落葉高木の「ハナミズキ」に由来するというエピソードはあまりに有名だろう。しかし、この命名に稔の深い想いが込められていることは知られていない。
 まだ野口が春子のお腹の中にいる時のことだ。稔は百科事典を眺めていてふとハナミズキの頁に目がとまる。「返礼」という花言葉を持つハナミズキは、アメリカで最も愛される花であり、1912年に東京市長であった尾崎行雄がワシントンD・Cにサクラを300本贈った際、返礼として東京に届けられて日本における植栽が始まったといわれる。

 「アメリカという国には、様々な人種がいて、肌の色が異なる人々が一つにまとまって国家を築いている。私たち家族も、たとえ父親が違っても、一つの家族として兄妹や姉妹が仲良く、つながりを大事にしながら幸せに暮らしたい。そういう父としての願いをハナミズキになぞらえて、ひらがなで『みずき』と名付けたんです」

 野口は友達と外で遊ぶことが大好きな活発少女だった。自転車が買ってもらえなかったために、自転車に乗る友達のあとをいつも走ってついて回った。稔はパチンコ店を転々として収入を得ていたが、困窮した状況は続いていた。子供たちの誕生日も祝ってあげたことがない。妻が入院した際には、病院までのタクシー代が払えず、往復4時間を徒歩で見舞っていた。タクシー代を使えば、その日の食事代が消えていく。母の不在時は長女が食事を作っていた。

 「みずきも幼少の頃から経済状況を理解していたと思います。家族が協力し合わないと生きていけないと分かっていた。欲しいものがあっても、絶対にねだらなかったし、わがままもほとんど言ったことがなかった」
 小学校の運動会では常に1番をとっていた野口は、中学校に入ると、陸上部に入部する。

 「あの子は走ることが大好きだったし、負けず嫌いだった。私も昔、足が速かったんです。静岡にいた頃は、よく雀を追いかけて捕まえていました。河岸に止まっている雀を追うと、当然逃げます。でも遠くには行かず、離れたところにまた止まる。それを再び追うわけですが、何度も繰り返すうちに雀の方が先に疲れ切ってしまう。そこを捕まえるんです。友人は雀を焼いて食べていましたよ(笑)。シューズもろくに買ってあげられない父親でしたが、あの子は先輩のお古をもらって、走り続けました」

 <間違いなく強くなる>

 いつしか野口は三重県内で知られるランナーとなっていった。当然、進路には注目が集まる。

 だが稔に、野口を高校へ進学させるつもりはなかった。まず彼自身が高校を出ていないし、上のふたりの姉兄も高校へは通っていない。経済状況もさることながら、下の子供だけ高校に通わせることは、上のふたりの感情を考えると心苦しかったのだ。

 「私が泥棒してまでお金を作って、学校に行かせたところで何もなりませんよね。すごい大学を出て、社会人になっても何もできない人がいる。中学しか出ていなくても、立派な社会人になっている人もいる。世間体は気になるかもしれませんが、自分の子供たちなら中卒でも立派な社会人になってくれるんじゃないかと思ったのです」

 しかし、野口の姉兄が父にこう嘆願する。
 「みずきを高校に行かせてあげて。その分、私たちが頑張って家族を支えるから」
 それからしばらくして、稔は長男に誘われて、野口が出場する中学校の大会に足を運んだ。それまで稔は、娘のレースを一度も見たことがなかった。

 「驚きました。3000メートル走だったのですが、みずきは周回遅れの走者を作って優勝したんです。我が娘ながら、かっこよかった。足の運びが美しかった。上の子の言葉と、みずきの活躍を見たことで、高校に行かせることにしたんです」
 長男は、野口の走る姿を父が見れば、必ず翻意すると確信していたのだろう。

 野口が走り続けるためには、家族の犠牲が必要だった。だからこそ、野口は大会で好結果を残すことで、家族を喜ばせようとした。自分にできることは、それしかないと考えていた。今も変わらず彼女が走る理由だ。野口は背中を家族に押されながら、三重の名門陸上部のある県立宇治山田商業高校に推薦入学を決めた。
 現在も同校で陸上部顧問を務める山本顕(51)は、野口が入学するタイミングで母校に赴任した。野口と対面した際の第一印象は「小っちゃい子やな」だった。

 「明るく、ケロケロっとした子でした。入学時点では2000メートルで県で入賞圏内ぐらいの実力で、最初からずば抜けていたわけではなかった。ただし、長距離選手としての足捌きが理想的だった。足捌きというのは、地面への足裏の接地の仕方と、地面の蹴り方ですね。当時、部員は100人ぐらいいましたが、そういう足の運びをしている選手というのは彼女ぐらいのものだし、日本選手権に出場する選手を見てもそうそういない。間違いなく強くなるとは思いました」

 同校では、朝と夕方の二部練習が基本で、朝練が始まる7時半には、必ず野口はグラウンドに出て走っていた。そして練習中に低血糖で倒れることもあった。
 「体脂肪率が高い女子選手は男子に比べて低血糖に陥ることは少ないのです。それだけ彼女は自分を追い込むことができていた。ハートの強さですよね。普通は勝つことを目的にして日々走るわけですが、彼女は単純に走ることが好きだったんでしょう」

 <オリンピックに行けなくていい>

 野口は2年次から2年連続でインターハイに出場し、県内では一度も負けたことがなかった。

 高校を卒業するまで、野口は父の田中姓を名乗っていた。しかし、社会人になると同時に、母の以前の夫の苗字である野口姓となる。この点が誤解を呼び、あらぬ憶測記事が生まれた。
 「社会人となり、陸連に選手登録するためには、戸籍上の名前にする必要があった。この時点で私と妻は入籍していなかったんです。みずきはつらかったと思います」

 その時、野口は涙ながらに稔へこう告げたという。
 「みずきはお父さんの子供に間違いないから、苗字が変わったって平気だよ」
 稔が辛い心情を吐露する。
 「私たちはみずきの恥部なんです。あの子はそんな風に思っていないかもしれませんが、世間から見れば私たちはそうだろうし、実際、みずきには苦労をかけた。みずきは優しい子なので、自分が有名になると私たちを傷つけることになると思っている。だからこそ報道によってノイローゼのようにもなってしまうんです」

 野口が北京五輪の直前、左足付け根部分の故障によって出場を断念せざるを得なくなったのは、代わりの選手を用意できないタイミングだった。そのため野口とシスメックスの監督・コーチ陣には批判が集まった。その時稔は、円谷幸吉のことが頭をよぎった。 円谷幸吉とは、東京五輪の男子マラソンで銅メダルを獲得し、そののち「もうすっかり疲れ切ってしまって走れません」という遺書を残して自死したランナーだ。

 「あの子は、金メダルを目標に走ってきたわけではない。ただ単純に走ることが好きだということと、支えてくれる監督やコーチ、会社のみなさんを喜ばせたいという一心だったんです。ケガは自分のせいなのに、藤田監督や廣瀬コーチのせいのように言われることが耐えられなかったはずなんです。その時ばかりは私も『もう普通の子になって、うちに帰ってこい。お母さんの胸に飛び込め』という言葉が出かかりました」

 稔に対しては、何度か取材を行ったが、いつも話の途中であるにもかかわらず、「もうよろしいですか?」と突然席を立ち、立ち去っていく。一度に胸襟を開く時間を決めていて、その時間に達すると心をシャットダウンするかのようだった。
 不器用な人なのだろう。以前に聞いた話との矛盾点を訊ねると、「私には学がありませんから」と自身を卑下するのだ。そういう父だからこそ、野口は慮ってあえて父と距離を置いてきたのかもしれない。

 大阪国際マラソンの欠場が報じられる直前、稔は私にこう話していた。
 「オリンピックには行けなくてもいい。大阪では、とにかく完走さえしてくれればいい。北京のあとのみずきは、地獄の中を生きているようなものだった。私は初マラソンも、アテネも、ゴールシーンを見ていない。今度はしっかり娘の姿を見届けたい」

 五輪出場権獲得への道は、3月11日の名古屋ウィメンズが残されている。ケガについて孤高のランナーは軽症を強調し「私は諦めません!」と気丈夫を装っているが、名古屋のスタートラインには立つことはできるだろうか。
 幼少から走り続けてきた野口にとって、両親をはじめこれまで支えてくれた人々への「返礼の旅路」は、まだ終わってはいない。

●(5)私(藤森)はお父さんのお気持ちが痛いほどわかります。

 が、私の「職業病」が僭越なことを申し上げる失礼を許していただきます。

 ご両親もご兄姉もすばらしい方々です。親が違うということは、日本のような文化的社会では一般に「複雑な家庭」と言われています。ましてや籍も入れず、長い年月が過ぎている家庭では、一般に、いろいろな問題(ゴタゴタ)が起きるものです。

 しかし、駆け落ちまでしたご夫婦の複雑な家庭のお子さんたちが・・・・・

 <<<しかし、野口の姉兄が父にこう嘆願する。
 「みずきを高校に行かせてあげて。その分、私たちが頑張って家族を支えるから」>>>

 お姉さんやお兄さんがこのように素晴しいということは、お父さん、お母さんの育児が素晴しかったからです。

 <<<その時、野口は涙ながらに稔へこう告げたという。
 「みずきはお父さんの子供に間違いないから、苗字が変わったって平気だよ」
 稔が辛い心情を吐露する。
 「私たちはみずきの恥部なんです。あの子はそんな風に思っていないかもしれませんが、世間から見れば私たちはそうだろうし、実際、みずきには苦労をかけた。みずきは優しい子なので、自分が有名になると私たちを傷つけることになると思っている。だからこそ報道によってノイローゼのようにもなってしまうんです」>>>

 世の中の報道が間違っているのです。
 お父さんのお気持ちは痛いほどわかりますが、お子さんたちのためにも、<<<「私たちはみずきの恥部なんです。>>>というのは悲しい。自分たちの大切な親から「恥部」なんだと言われたら、お子さんたちは悲しい、とっても悲しい・・・・・はずです。

 瓦はいくら磨いても「ダイヤモンド」にはなりません。駆け落ちとか、経済的なことはともかく、「恥部」のような人間から「美しいお子さん」は育ちません。昔を問えば、私(藤森)こそ「恥部の塊」です。

 野口みずきさん、3月のオリンピック予選はともかく、そしてオリンピック出場はともかく、メダルはともかく・・・・・人生をより良く生きられることを祈っています。

く文責:藤森弘司>

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