2012年11月15日 第124回「今月の言葉」
●(1)前回の「十牛図」とは少々違う角度から、自己成長のプロセスを考えて見たいと思います。
前回の「十牛図」は、未熟な私たちが自己成長を遂げるプロセスそのものでしたが、今回の「十界(じっかい)」は、私たちの心の中に潜む10種類の人間性を示したものです。 まずは、空海の言葉から「十界」を紹介します。 |
●(2)「十界(じっかい)の有る所、これ我が心なり」(続遍照発揮性霊集・へんじょうほっきしょうりょうしゅう)<空海!感動の言葉、大栗道榮著、中経の文庫>
『自分の心のなかには、十の世界がある。』 あなたはいままでに、とても他人にいえないような破廉恥なことを考えたことがありますか? 人間の心の世界は、善玉の世界(悟りの世界)が四つ、悪玉の世界(迷いの世界)が六つ、合わせて十の世界に分かれています。といっても、それぞれの世界はオリンピックの五輪のマークのように互いに重なり合っています。人の気持ち(感情)は、まるで花から花へと蜜を求めて移り飛ぶ蜜蜂のように、一刻の休みもなく、いつも十の世界を飛び回っているのです。 その十の世界とはどんな世界でしょう。まずは善玉の世界からです。 最高は「如来(にょらい・仏)の世界」です。宇宙という永遠の生命を信じて、この世のものにまったく執着がない世界です。 二番手は「菩薩(ぼさつ)の世界」です。縁のある人が苦しんでいたり困っていたりすると、自分のことは犠牲にしても助けてあげようとする世界です。 三番手は「縁覚(えんがく)の世界」です。坐禅をして瞑想することによって自然の道理を身につける世界です。 四番手は「声聞(しょうもん)の世界」です。お釈迦さまの道理の法を信ずる人の話に耳を傾ける世界です。 ここまでが善玉世界で、これから悪玉の世界に入ります。 五番手は「天上の世界」です。天上には天女が住んでいますが、彼女たちはいつも有頂天で、人の不幸など知らぬ顔の世界です。 六番手は「人間の世界」です。毎日を四苦八苦している世界です。 七番手は「修羅(しゅら)の世界」です。争いごとの大好きな世界です。 八番手は「畜生(ちくしょう)の世界」です。弱肉強食で、生きものの生命なんてなんとも思わない世界です。 九番手は「餓鬼(がき)の世界」です。どんなに美食をし、美衣を着、豪邸に住んでも、どんなに財宝や土地をもっても、やっぱり欲求不満の世界です。 最低は「地獄の世界」です。何事もよいことは自分のせい、悪いことは全部人のせいにして、つねに他人を責め憎む世界です。 空海さんは、「どうか、みんなが善玉の世界にすみますように!」と祈っておられることでしょう。 おおぐり・どうえい・・・・・代々木八幡大日寺住職。高野山真言宗大僧正・傳燈大阿闍梨・本山布教師。日本文藝家協会会員。日本ペンクラブ会員。1932年、徳島県四国八十八ヶ所第十三番霊場に生まれる。中央大学を経て、高野山専修学院を卒業。1977年、東京代々木に大日寺を建立。傳燈大阿闍梨として僧侶指導にあたるほか、働く人のための「密教通信講座」を主宰して難解な密教を生活に活かす道をやさしく説いている。 |
●(3)さて、10月31日の「今月の映画」「アシュラ」で、<<<「アシュラ」とは・・・・・六道の一として人間以下の存在とされる。>>>と書きました。
この中の「六道(ろくどう)」とは、上記の「五番手」の「天上」から「最低」の「地獄」までの6種類で、六番手の「人間以下」という意味は、七番手の「修羅」を意味します。 さて、私(藤森)は、上記10種類のうち、「如来」は別格として、残りの9つを3つのカテゴリーに分けて考えています。 ①まず、下から3つの「地獄」「餓鬼」「畜生」は文字通りに読めば人間界のものではありません。私たちは、時折、このような気持ち、精神になることがあります。社会的な事件などがそうです。文字通り、人間以下の存在です・・・・・これを私は「地獄界」あるいは「地獄相」と呼んでいます。 ②次の3つの「修羅」「人間」「天」は、通常、私たちが体験する人間らしいというか、人間が日常的に体験する好ましくない一面を意味しています・・・・・これを私は「修羅界」、あるいは「修羅相」と呼んでいます。私たちの人生は「修羅場」の連続です。 ③次の3つの「声聞」「縁覚」「菩薩」は、本来の人間性・・・・・私たちが、通常、人間らしいと呼ぶ「微笑ましい」というか、人間らしいハートが溢れている姿、赤ちゃんをあやしている時の母親の姿・・・・・人間の奥底に潜んでいる「仏性」に目覚めたというか、目覚めつつある人間を意味しています・・・・・これを私は「菩薩界」「菩薩相」と呼んでいます。私は、最近、「人生は菩薩行」だという気持ちが強くなっています。 ④最後の「如来」は、常識的には達せられない最高の境地、歴史上、類稀な最高峰を意味していると考えています。ですから、私たちにとっては、ひとまず「神」とか「仏」レベルの別格と考えても良いように思えます。 ●(4)さて、本題の「カウンセリングとは何か」という観点から「十界」を眺めて見ますと、空海も言っているように、「十界(じっかい)の有る所、これ我が心なり」であることを認めることです。 私たちは、誠に残念ながら、日常の中で、「地獄」や「餓鬼」「畜生」のような精神が湧き上がってくることがあります。 しかし、悔しいながらも、そして残念ながらも、徐々に、そういう醜い部分が自分の中にあることを認め始めます。認めれば認めるほど、「地獄」や「餓鬼」「畜生」の世界の囚われが弱くなってきます(反比例関係)。 私たちは、生きるに十分かつ適切な「愛情(ストローク)」が不足しているものです。それなりに十分な愛情を受けて育ってきたという人は「皆無」だと言っても決して過言ではないと、私(藤森)は認識しています、もちろん、私自身を含めて。 そのために、まるで「地獄」のような、あるいは「餓鬼」のような、さらには「畜生」のような「非常に歪んだ価値観(認知の歪み)」に命懸けの「執着」や「こだわり」を見せます。 その猛烈な「執着」や「こだわり」は、私自身がそうでしたが、それは自分にとっては絶対的な「価値」だと「誤解(認知の歪み)」していて、その価値観を必死で守ろうとします。 「夫婦間」や「親子間」のゴタゴタ、あるいは、子供の「非行」や「不登校」「ウツ」などの現象が現れると、それを何とかしようと思う「人間的な愛」、「声聞(しょうもん)の世界」に誰でも一度は目覚めるのですが、「自己成長」とか「カウンセリング」などに取り組み始めると、どうしても己の無意識にある声無き声が聞こえてきます・・・・・ <<<最低は「地獄の世界」です。何事もよいことは自分のせい、悪いことは全部人のせいにして、つねに他人を責め憎む世界>>> 内容はともかくとしまして、「地獄の世界」の自分が顔を出してきて、自分が変わるのではなく、相手を変えたい猛烈な欲求が湧いてきます。「自分を変えろ」という相手や周囲をナギナタでなぎ倒したいほどの地獄の様相を呈してきます。 この辺りの困難さは、前回の「カウンセリングとは何か(十牛図)」の中の「第4番目」の「得牛」を参考にされるとより分かり易いと思われます。暴れ牛は、まさに自分自身ですから、七転八倒の苦しみ、もだえ、葛藤・・・・・まさに「地獄の様相」そのものです。 どうしても、自分の価値観を変えたくない、自分の価値観にしがみつきたいという気持ちが私たちには強くあります。まるで、それを手放したならば溺れたり、粉々に破壊されてしまうかのような錯覚さえして、絶対に価値観を変えようとしません。 その執着心が強ければ強いほど、親からもらった「愛(ストローク)」の「質」も「量」も不足だったことを、残念ながら、証明しています。 この辺りの対応は、「心理学」や「精神医学」や「カウンセリング」の世界では全く語られていません。対応する「技法」もありません。 最も重要なこの時期に、時間を十分にかけて、ここをしっかりストロークで満たして乗り越えて行かないと、サビ止めをしないペンキのように、暫くすると、そのペンキは剥げ落ちてしまいます。 「不登校」に喩えれば、学校に行き始めたけれど、暫くすると、また学校に行かなくなるようなものです。しかし、世の中の「心理・精神世界」は、こういうケースを「治った・直った」、あるいは「治した・直した」と言っているようです。 「十牛図」でも解説されていたように・・・・・ <<<結局は、長年の良からぬ習性というものが、心を支配しているものだから、どうしても、それから抜けられないのである。 ●(5)「地獄」「餓鬼」「畜生」の醜い自我に振り回される度合いが弱まれば弱まるほど、私のいうところの「修羅界・・・修羅、人間、天」に住む時間が長くなります。 「修羅界」に住む時間が長くなればなるほど、自然に「菩薩界・・・声聞・縁覚・菩薩」の精神が芽生えてきます。世の中の道理というものに耳を傾ける、つまり、聞く耳ができてきます。聞く耳を持ち、わかってくれば、自ずと、それを実践し、体得したい欲望が湧いてきます。 <<<「菩薩(ぼさつ)の世界」は、縁のある人が苦しんでいたり困っていたりすると、自分のことは犠牲にしても助けてあげようとする世界です>>> とありますように、子供が熱を出して寝込んだりしたときに、今までとは違った、まるで「菩薩」のような心境で看護する自分の姿に驚くことも出てくるでしょう。 そうかと思えば、カットなって「地獄」のような自分の一面が現れて驚いたりもします。 まさに、空海の言われたように、「十界(じっかい)の有る所、これ我が心なり」です。 カウンセリングは立派な自分になることではなく、「十界(じっかい)の有る所、これ我が心なり」の境地になることです。 (次回の12月15日「平等性(びょうどうしょう)」に続きます) |
く文責:藤森弘司>
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