2012年10月15日 第123回「今月の言葉」
カウンセリングとは何か(十牛図)

●(1)一般に言われる「カウンセリング」とはなんでしょうか?「カウンセリング」の目的はなんでしょうか?

 一般的には、たとえば「ウツ」や「不登校」「イジメ」などの課題を解決することのように思われています。しかし、私(藤森)は昨年の4月に、いろいろな課題に取り組むことは、現代の「イニシエーション」だと言いました。

 昨年のその部分を再録します<「今月の言葉」第105回「イニシエーション・通過儀礼とは何か?」>

<<<(11)さて、「風習」としての「イニシエーション」が無くなり、アメリカに骨抜きにされた日本人にとって、ではどうしたら良いのでしょうか?
 それが今回のテーマであり、河合先生が憂えていたものです。「私のイニシエーション」をどうするか?

 実は、理想的な「私のイニシエーション」を発見しましたので、次の(12)で紹介させていただきますが、その前に「重大なこと」を書きます。

 私(藤森)自身は、若いころ、ムチャクチャな人生を生きてきて、全てを失い、心身ともに「破綻」しました。それから多くの専門家に助けていただき、命懸けで這い上がってきました。這い上がってみますと、結果的に、それが「私のイニシエーション」になっていたことに気付きました。

 そういう私の体験から考えますと、「ウツ」や「不登校」や「大病(癌や心筋梗塞や脳溢血)」や「大怪我」などを患って、そのことと真剣に取り組むことこそが、各人の「私のイニシエーション」になることを発見しました。「癌」などは典型的なケースです。
 「癌の心身医学的研究」というのがあります。「自然退縮」した人を調査してみると、「人格変容」しているそうですが、これは私の理論からすれば、当然のことです>>>

 つまり、「カウンセリング」という手段で自分自身の課題に取り組むということは、現代の「イニシエーション」になるということです。そして、重要なことは、「イニシエーション・通過儀礼」とは、「交流分析」でいう「脚本分析」をすることになるということです。

●(2)別の角度から説明しますと、「カウンセリング」とは、何か問題があって、その問題を解決するなどというものではないということです。
「カウンセリング」とは、「自己成長」する場です。言葉を替えれば「自己回復」する場です。「自己回復」については、表紙の<⑦自己回復とは>をご参照ください。
 さて、では「自己成長」とは一体なんでしょうか?
 この辺りの説明が非常に難しいのですが、それを理解していただくのにピッタリの資料がありますので、それを紹介します。

 次の(3)で紹介する「白隠(はくいん)」とは、江戸時代の禅僧です。禅宗だけでなく、日本の仏教史上でも屈指の大僧侶です。その「白隠」について書かれた本の最後にある有名な「十牛の図」は「自己成長」のプロセスを見事に説明しています。その「十牛の図」に沿って、私(藤森)が考える「カウンセリング」における「自己成長」とは何かを説明します。

 以下は、「白隠ものがたり」おおいみつる著、春秋社刊より転載の「十牛の図」です。

●(3)<鼎州(ていしゅう)梁山(りょうざん)に往す 廓庵(かくあん)和尚十牛図

 <一、尋牛(じんぎゅう)>

 尋ね行く深山(みやま)の牛は見えずして
 ただ空蝉(うつせみ)の声のみぞする

 一人の牧童が、深い山の中に入って、牛はいないかと、探し廻るのだが、いっこうにそれらしい姿が見えない。「こんなことで、いいのかしら」と自分の生き方に不安を感じ、佛門に入ろうとか、道を求めようという気持ちを抱いた時の、人間の姿を描いている。
 しかし大方の人間は、「これではいけない」と、思ったとしても、毎日の生活に忙しく追われているものだから、なかなか本当に山の中へ入って、径(みち)に迷ったり、足を痛めたりという苦労をしてまでも、道を求める気にならない。

 まず、心からなる道心を抱くことが、安心(あんじん)への第一歩であることを示している。なお付されている和歌は、後に日本でつけられたものである。

 <藤森注・・・・・「ウツ」や「不登校」、あるいは「親子関係」などで苦しむということは、まさに「道を求める気」になる重要なチャンス、というよりも最大のチャンスです。「人生」行き詰ることは辛いですが、行き詰らないと「道を求める気」にならないものです。
それでは「道を求める気」にならない人たちは、単に、道を求めていないだけで、それなりに順調に生きているのでしょうか。万一、そうであるならば、道など求めないほうが良いことになります。

 しかし、実は、単に、道を求めるキッカケが無かっただけで、皆、人生の行きづらさを感じているものです。私自身、20代で何もかも失った時、自分ほど不幸な人間はいないと感じて、周囲は皆、恵まれているように見えました。

 しかし、不十分ではありますが、それなりに「自己成長」「自己回復」してみると、自分が思うほど不幸でもなかったし、周囲の人たちは、私が思うほど恵まれた人生を生きているのではないことに気がつきました。

 むしろ、行き詰ったことで「道を求める気」になるという「幸運」に恵まれていたことに気付きました。「才能」や「素質」など一切関係ありません。「道を求める気」になるという幸運に恵まれるか否かが全てです。

 ということは、「道を求める気」になるほど、いや、「道を求める気」にならざるを得ないほど「行き詰る」ことが最重要事項です。素質や才能ではなく、「神様」「仏様」などという自分を超えた「天の配慮」(ユング心理学でいう「共時性」などもそうかもしれません)のようなものがあるか否かでしょうか。

 つまり、これが「尋牛」です。

 私自身は、人生に行き詰った頃と、今と、環境や条件はほとんど同じです(年を取ったり、両親を亡くしたり・・・という条件は違いますが)。ただ、物事の受け止め方が変わっただけです。この辺りは「今月の言葉」第88回「知足観(1)」~「知足観(9)」をご参照ください>

●(4) <二、見跡(けんせき)>

 心ざし深き深山(みやま)の甲斐ありて
 枝折(しおり)の跡を見るぞ嬉しき

 牛を尋ね求めて、山中を散々歩き廻った牧童が、やっとの思いで、とある谷川の畔(ほとり)に、木の葉に見え隠れする牛の足跡を見出した。そして、
「この足跡を辿(たど)って行けば、きっとがいるに違いない」
と、山径をさらに急ぐ。しかし、足跡を見つけた喜びに胸弾ませる反面、歩きながら、
「もしいたとしても、果たして自分のような人間に、捕らえられるであろうか」
と、不安にもなってくる。経典を学び、提唱を聞いて、
「なるほど、そこに安住の世界があるのか」
と、法の有難みに一入(ひとしお)感じ入り、これからの精進(しょうじん)に想いを馳せているところである。

 <藤森注・・・・・「ウツ」や「不登校」、あるいは「親子関係」などで苦しむということは、まさに「道を求める気」になる重要なチャンス、というよりも最大のチャンスではありますが、しかし、かつて、見たことも聞いたことも無い世界。
というよりも、むしろ、今までの生き方が真っ向から否定されるのですから、訳のわからないチンプンカンプンの世界。一時期は、何がなんだかサッパリわからず、混乱の極みに達してしまいます。

 しかし、それでも、時折、ハッとすることもあって、そうなのかなと思ったり、また、訳がわからなくなったり、頭の中がグチャグチャになります。実は、理解できるということは、従来の「認知の歪み」・・・・・間違った価値観でわかることですから、理解できるということは、そもそもが間違いであって、理解できなくて、頭の中がグチャグチャになることこそが正しい価値観が芽生える必須のプロセスです。

 そういう混乱の中でも辛抱強く取り組んでいるうちに、なんとなく・・・・・なんとなく、ボヤーッとわかるというか、なんとなく感じてきます。

それが<見跡>です。>

●(5)< 三、見牛(けんぎゅう)>

 吼(ほ)えけるを志るべにしつつ荒牛の
 影見るほどに尋ね来にけり

 足跡を辿りながら、山中をかき分けて行くと、時折牛の声が聞こえてくる。それに勇気づけられてなおも行くと、岩蔭に、ちらっと牛の尻が見えた。
 「あっ、いた!」
 と、初めて見るその牛の姿に、我を忘れて見入っているところである。
 提唱もずいぶん聞き、経文もかなりのものを読んだが、どうも、本当の得心が得られない。もちろん、打坐はおさおさ怠りない。そうした心許ない気持ちでいる時に、たまたま何かを契機として、何となく、本然の自性らしきものに気付かされた、そんな喜びを示している。
 朧気ながらではあるが、今までとは全く異る、輝かしい人生を実感させられたのである。

 <藤森注・・・・・「ウツ」や「不登校」、あるいは「親子関係」などで苦しむということは、まさに「道を求める気」になる重要なチャンス、というよりも最大のチャンスではありますが、しかし、かつて、見たことも聞いたことも無い世界。頭の中がグチャグチャになりながらも、時折、日常生活の中でハッとすることが出てきます。

 たとえば、「親子関係」で苦しんでいるとします。夫婦の間で子どものことを話し合っているうちに、言い争いになり、大喧嘩をしたとします。今までは相手が悪いと決め付けてきたが、どちらが悪いかどうかはともかくとして、長い間、こうやって醜い夫婦喧嘩をしてきたことに気がつきます。

 両親がこういう夫婦喧嘩をするのを聞いてきた子供は、今までどんなに心を痛めてきただろうか、どんなに辛かっただろうか、ということに気付かされます。
 子どもの問題はこれだったんだと気付く。

 これが<見牛>です。>

 ●(6)<四、得牛(とくぎゅう)>

 離さじと思えばいとど心牛
 これぞまことの絆(きずな)なりけり

 ちらっと見えたその牛に、そっと近づいて、手早く縄をかけた。縄はうまく牛の首にかかったが、気付いた牛は必死になって暴れ山の中へ逃げ込もうとする。しばらくは、捕らえようとする牧童と、逃げようとするとの、凄惨(せいさん)な闘いとなる。だが、やがて牛はおとなしくなり、どうにか捕らえることができた。それでも、ちょっとでも縄を緩めると、すぐ逃げ出そうとするから、油断はできない。

法というものが、或は本然(ほんぜん)の自性(じしょう)が、そして人生や安住の世界がどのようなものであるか、多少分かったような気がしたのも束の間、提唱や経典の示すところと、実際の自分の心とが、どうもうまく一致しない。正念工夫の努力が、なかなか実らない。あの時は、確かに分かったように思えたのだが、すぐ自分の心が元へ戻ってしまう。

 結局は、長年の良からぬ習性というものが、心を支配しているものだから、どうしても、それから抜けられないのである。
 「習を、断ぜざるべからず」
 と、一喝されるが、それでも、己の心でありながら、何としても言うことを聞いてくれない。心の明澄度も、潜在意識にまで及ばないと、つまるところ空廻りになる。何かあると、すぐ昔の自分に戻っていくのである。それでも、「これではならじ」と、また意を新たにして努めていく。
 苦悩と希望の入り混じった、人間らしい姿を描いている。この期間が、一番長く苦しい時期でもある。

 <藤森注・・・・・両親がこういう夫婦喧嘩をするのを聞いてきた子供は、今までどんなに心を痛めてきただろうか、どんなに辛かっただろうか、ということに気付かされます。子どもの問題はこれだったんだと気付きます。しかし・・・・・

 結局は、長年の良からぬ習性というものが、心を支配しているものだから、どうしても、それから抜けられないのである・・・・・ということになります。

 夫婦喧嘩が悪いとはわかっても、長年の(私を含めた)夫婦の関係性の悪さ、人間性の未熟さは如何ともしがたく、ついつい、言い争いをしてしまいます。
 そして「反省」をし、「いい争い」をし、そして「後悔」をし・・・・・「大喧嘩」をしたり、「後悔」をしたり、行ったり来たり。分からなかったときは、相手を責めていればよかったのですが、理屈が分かると、相手を責めるのも辛いし、反省しても思い通りにならない辛さも大きい。腹の虫が治まらず、殺意さえ抱きかねない「苛立ち」と「後悔」の連続にのたうち回ります。

 苦悩と希望の入り混じった、人間らしい姿を描いている。この期間が、一番長く苦しい時期でもある。

 これが<得牛>です。

●(7)< 五、牧牛

 日数(ひかず)経て野飼いの牛も手馴るれば
 身に添う影となるぞ嬉しき

 さすがの暴れ牛も、すっかり飼い馴らされて、牧童の思うままになってくれたところである。
 長年の正念工夫がやっと実り、法と自分の人生とが、どうにか一致するようになってきた。しかし、何分にも、野性の荒牛である。心を許すと、いつ暴れだすか分からない。

 「悟ることは易し、相続することは至難なり」

 様々に教えを受け、また打坐などにも励んだ甲斐あって、どうにか人間らしい生き方ができるようになったのだが、それでも気がついてみると、いつしか心が煩悩に占拠されている時がある。
 自分も大分できてきた、とか、あの人よりはできている、などというのもそれである。不断の正念工夫こそ大事だということを暗に示している。

 <藤森注・・・・・「結局は、長年の良からぬ習性というものが、心を支配しているものだから、どうしても、それから抜けられないのである」という心境から、徐々に脱して、「長年の正念工夫がやっと実り、法と自分の人生とが、どうにか一致するようになって」きます。

 こうなるとかなり楽になってきますが、「しかし、何分にも、野性の荒牛である。心を許すと、いつ暴れだすか分からない。『悟ることは易し、相続することは至難なり』

 という日常になります。日々、比較的心地よい反省ができるようになります。「牧牛」以前は、「反省」というよりも「後悔」が多かったのですが、ここに到ると「後悔」よりも「反省」が多くなります。

 これが<牧牛>です。>

●(8)< 六、帰牛帰家(きぎゅうきか)>

 かえり見る遠山路の雪消えて
 心の牛に乗りてこそ行け

 この絵は、よく掛軸に描かれていたり、置物などになっているので、たいていの人は、見たことがあると思う。よく飼い馴らされた牛に、牧童が安心して乗っている。そして、静かに笛をふきながら、牛を連れて、我が家へ帰るところである。

 帰牛、つまり牛に乗るということは、求めに求めた真理を、我が心が捉え得て、それと全く一致した状態を示している。そして帰家は、これこそが本分の家郷であり、人間の心が、本当に安住できる故郷(ふるさと)、我が家なのだと言っている。そこへ帰ってこそ、本当の安らぎの世界がある。

 人間は誰でも、本来佛なのだ、ということは、誰でもが強く尊いものであって、決して弱くもなければ、汚くもない。それが、人間本来の面目なのだ、本性なのだ、と言っているのである。

 ここに、東洋哲学の持つ人間観が、明確に示されている。人は本来罪深いものとする、西欧の人間観とは、全く対照的なのである。
 ただ、妄想念というものがあるばかりに、長者の家の子と生まれながら、貧里(ひんり)の中に迷い込み、あたら貴重な人生を、価値なく過してしまうことになるので、とにかく、この妄想念を除(と)ること、そして、現在只今の自分を、より清らかなものへと持っていくことが、必要になってくる。でないと、聞かされた提唱も、経文で読んだ法も、単なる知識と願望に終わってしまう。

 <藤森注・・・・・私自身は「牧牛」のレベルでウロウロしていますので、この段階は理屈になりますが、禅でいう「浄穢(じょうえ)一致」(物事を相対的に見ない)の世界です。
また、
空海は「仏法遥かに非ず。心中(しんじゅう)にして即ち近し」とおっしゃっています。

 私たちは、物事を相対的に見がちです。何かと比較して「良い」とか「悪い」などと汚染した価値観で判断しがちです。
 たとえば、世の多くの家庭では「勉強の成績」こそが絶対的な価値観だと錯覚しています。

 たとえば、「そんな成績だったら将来どうなると思ってあいるの!」と叱るお母さんが多いです。そういうお母さんに、私は「お母さんはどうなるかわかるのですか?」と尋ねますと、全員が「わかりません」と言います。

 私たちは「絶対的な価値観」を見失ってしまっています。そういう絶対的な価値観に目覚めることが「帰牛帰家」のレベルではないかと思っています。理屈ばかりになりますので、以下は、本の内容だけをご覧ください>

●(9)< 七、忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)>

 忘れじと思えし牛は忘れけれ
 忘るる後は忘れにくけれ

 今まで牧童と一緒にいた牛が、ここではもういなくなっている。牧童だけである。これは、前の図では、求める牧童と、求められる牛とが一体になっていたが、さらに修行が進み、気付いてみると、今まで求めていた牛が、本然の自性が、そしてその中に秘められている、所謂(いわゆる)本心が、そのまま自分であった、ということである。

 今まで求めてきた真実の人生が、その人と一体になっている。寝ても起きても一体となれば、もうそれは、有るも無いもない。従って、ことさら心の安らぎなどと、考える必要もない。そのままで生きていく。

 だから、道を求めるなどということも、すっかり忘れている。ところが、忘れまい、求めなければいけない、と懸命に思っていた時は、つい忘れることもあったのだが、ここまできて忘れてしまうと、今度はもう忘れないと言う。忘れた後は、忘れない。

 言うところの、純一無雑の境である。従って、何の束縛(そくばく)も無ければ、苦しみも無い。もちろん、金銭や名誉などに心を動かされることもない。物我一如(ぶつがいちにょ)、彼我一体の境地である。己を忘れて、ものを観る。ものを忘れて、道を観る。天地にことごとく、我ならざるはなし。

 自分も他人もないのだから、ことさら人を愛する必要もない。他人も、自分だと思っている。他人と自分の、区別がないのである。これが、本当の愛というものであろう。親切にしなければいけない、などと思っているうちは未だし。

●(10)< 八、人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)

 雲もなく月も桂(かつら)も木も枯れて
 払い果てたる上の空かな

 禅で言う円相、無である。本然の自性、佛性、自我の本質、本心、佛心は、絶対であることを現している。
 この世界には、いっさいの執着煩悩が無いのだから、従って、悟りも無い。迷いが無ければ、悟りも無い。佛性独朗(どくろう)の境涯。融通無碍(むげ)、自在の境である。

 

●(11)< 九、返本還元(へんぼんかんげん)>

 染め出(い)だす人はなけれど春来れば
 柳は緑花は紅(くれない)

 自然現象そのものを、詠(よ)んだ歌である。春ともなれば、馥郁(ふくいく)たる梅の香に、ついうっとりするのも、人の心の自然の趣(おもむき)である。神韻縹渺(しんいんひょうびょう)とした、大自然の営みが、この僅かな文字の中に詠(よ)み尽されていく。

 修行の途中に於て、様々に悩み苦しんだことも、或は周囲に起こる出来事も、それを否定したり肯定したり、また善だ悪だと思い煩(わずら)ったのだが、いざ心が純粋そのものになってしまうと、いっさいに対して否定も肯定も無い。あるがままに観るのみで、それによって、心は少しも動ずるところがない。

 相対の世界から、現象世界を観ている時は、花は紅柳は緑であった。しかし絶対の世界に入り得て、相対現象を観ると、やはり柳は緑花は紅であった。善は善であるし、悪は悪であった。明澄透徹(めいちょうとうてつ)、鏡の如き水面(みのも)に映る山のように、いっさいをありのままに観じ、しかも水面は、微動だもしない。

 そしてありのままであるから、一見したところ、少しも偉そうに見えない。
 「大賢は愚の如く、大人は小児の如し」
 で、まことにもって他愛がない。修行をしましたとか、悟りました、などという臭みや粕はどこにも見られない。その反対は、
 「凡夫しばしば賢者を装う」
 で、これに肩書やら、地位をつけると、よりいっそう、偉そうに見える。

●(12)< 十、入てん垂手(にってんすいしゅ・・・てんの字を出せません)>

 身を思う身をば心ぞ苦しむる
 あるに任せてあるぞあるべき

 これは、誰でもが知っている布袋(ほてい)様である。布袋和尚は、中国に実在した禅僧で、弥勒(みろく)菩薩の再来と言われたほどの、徳の高い人であったという。しかし高僧ではあっても、この絵のように襤褸(ぼろ)を身にまとい、肩から布袋をいつも下げては、村から村へと、文字通り行雲流水の生涯を送った人である。

 てんは部落で、要するに修行の聖地に対する俗界を意味している。完成された人格が、再び俗悪の娑婆(しゃば)に戻って、今度はその浄化に専念する姿を描いている。
 茨(いばら)をかき分けて山に入ったのも、荒牛とくんずほぐれつの苦闘を繰り返したのも、結局は、この入てん垂手を現実化するためであり、また禅の究極の目的も、ここにあるのだと言い、結びとしているのである。

 以上が、禅僧としての修行の段階と、その目的を、巧みに牧童に譬(たと)えた、十牛図の話である。しかしこれは、ただ単に禅僧に限ったことではなく、道を求め、安心を求める人間にとっては、ひとしく身につまされる内容を持っている。

 だからこそ、ここに登場してもらったのだが、白隠の弟子東嶺和尚が、師の後半生を果行格と呼んだのも、結局は、十牛図の最後に出てくる衆生済度(しゅうじょうさいど)という、佛教本来の目的を、白隠が全く余念なく現実化していったからに他ならない。
 (以上は「白隠ものがたり」おおいみつる著、春秋社刊より転載)

 今月末の「今月の映画・・・アシュラ」、来月の「今月の言葉」「カウンセリングとは何か(2)」に続きます。

く文責:藤森弘司>

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