2011年9月15日、第110回「今月の言葉」
⑤
●(1)「同一観」と「脱同一観」は、簡単に言ってしまえば、一行あれば説明できてしまうことです。しかし、十分に理解していただこうとすると、これがまた、なかなか面倒です・・・・・もっとも心理学全般に言えることではありますが。 こういうとき、作家は本当に凄い職業だなと驚きます。思うことを思うように表現できるって快感だろうなといつも思っています。 さて、ということで、今回も四苦八苦しながら説明したいと思います。今回は、前回の「荒川静香」さんの新聞記事を例にしながら説明します。 |
●(2)下記の新聞記事(前回の109回でご紹介)の中に、私(藤森)の注釈を入れて、いかに「脱同一観」が行なわれにくいかを説明します。
ただし、誤解のないように申し上げますが、私の注釈は、下記の荒川静香家を意味しているのではありません。荒川家のやり取りを一般化させていただいています。その理由は、上記の(1)でも言いましたように、私の表現力があまりにも不足するために、下記の新聞記事を参考にさせていただきます。 とはいえ、全く違うとはもちろん思っていません。むしろ、いい線いっているくらいには思ってはいますが・・・・・。 <<<●(5)トリノ五輪オリンピック、アイススケートでの金メダリスト「荒川静香」さんは・・・・・ 平成21年8月14日、読売新聞「いま風」 <氷上 一人ではない> その言葉が最初に心に染みたのは、2004年のフィギュアスケート世界選手権(ドイツ)で初優勝した後、競技を続けるか迷った時だ。 ◆◆◆あれれ!ではありませんか。 「全力で支援するのが、唯一両親である私たちにできること」と言いながら、「貴女が決めることに、たとえ世界中が反対しても、私たちは味方だから」という言い方の中に矛盾があることがわかりますか? このように言われたら、子どもは必ず(?)練習を続けるほうを選択します。親というものは、必ず選択させたいほうに力点をおいた言い方をするものです。もし、静香さんが「では、練習は止めた」とアッケラカンと言った場合、皆さんはどのように思いますか。 「えっ!えっ!止めちゃうの!!!」「せっかくここまでやってきたのに・・・・・!!!」「止めるのはいつでもできるんだから!!!」 こうやって親は、強制したのではなく、本人が望んで選んだ道であるというアリバイを作るものです。これが「脱同一観」の難しさです。親は巧妙な網を張って子供の自由を縛りながら、好きに生きていいのよとやります。 日本語で「自由」とか「好きにしていい」という言葉は、多くの場合、逆の意味を持つものです。 さて、「脇で黙ってうなずく父」も、選択の道はこれだと言わんばかりの巧妙なタイミングで、巧妙に仕組まれた雰囲気を持たせながら、「当然、こちらを選択するよね!」というムードをいっぱい溢れさせて、相槌を打つものです。 5歳で始めたスケートは、リンク使用料、年に数回新調するスケート靴、コーチへの謝礼、遠征費用と、競技レベルが上がるにつれ、年1000万円以上かかるようになった。会社員の父の給料を生活費に回し、スケート関連は母が一手に工面した。幼い頃は「見慣れていたので何とも思わなかった」その母の仕事ぶりが、実は半端ではなかった。 ◆◆◆これほど凄まじい状況が、なんと「見慣れていた!!!」これはもうDNAレベルに刷り込まれています。 朝一番に家を出てゴルフのキャディーに。午後5時ごろ、一人娘を学校からスケートリンクに送り届け、練習が終わる夜9時か10時に自宅へ。夜は時に衣裳を縫い、午前3時からは、コンビニの惣菜を詰める工場に。眠るのは、リンク脇で待っている間、車中での4時間余りだ。運転中でも赤信号になると、「青になったら教えて」と言って、座席の背をがっちり倒して寝てしまう。そんな母の姿に思った。 ◆◆◆「きゃあーーー!!!」と悲鳴を上げたいほどの凄まじさです。「情緒・情動」を育てるのに一番大事なときに、ほとんどスケートマシンみたいになっているように、私(藤森)には感じられてしまいます。 そういえば、水泳競技では、「魚になれ!!!」と言われるほどですから、スケートマシンのようになるのは当然の世界なのかもしれません。何をどうしようとそれぞれの人生ですから、他人がとやかくいうべきことでないことはもちろんです。 ただ、「サイコシンセシス(精神統合)」という心理学の中の「脱同一観」という観点からは、大変失礼ながら、まるっきり「脱同一観」ができていなくて、「同一観」、つまり、子供の人格を乗っ取って、自由度を奪ってしまっていると言わざるを得ません。 ただ日本では、こういうことが「美徳」とされているので、「脱同一観」の考え方がとても希薄です。ましてや「少子化」の日本では、わずか1人か2人の子供を、目いっぱい、親の願望に沿って生きるように育児する傾向が強くなっています。◆◆◆ 「学業もスケートも、一生懸命やらないのなら申し訳ない。やる価値がない」 05年、トリノ五輪を目指すと心に決めた。06年2月、五輪本番の氷に立った時、心は驚くほど澄んでいた。「自分の気持ちだけだったら、(とうにやめて)今ここにいない。両親ら見守ってくれた人々の思いを背負って自分は立っている。一人ではないのだと」。無心の喜びに近い感覚だった。 ◆◆◆「エッ!エッ!!エッ!!!」・・・・・学業も、スケートも誰のためにやっているの!!!自分のためにやっているのではないの??? でも、多分、日本の文化では、私(藤森)の考え方のほうが異常なのでしょうね。荒川家や静香さんのほうが美しく感じられるのだろうと思われます。◆◆◆ 金メダル獲得。観客席に報道陣が殺到して両親が見つからなかったハプニングはあったけれど、2人の首にメダルをかけてあげたのは、1週間後だったけれど、表彰台の頂点に立った時の気持ちは忘れない。 (運動部・結城和香子)>>> |
●(3)さて、程度はともかく、上記のような家庭は非常に多いように思います。
対象は、「勉強」だったり、「ピアノ」だったり、オリンピックや甲子園を目指す「スポーツ」だったり・・・・・。 しかし、そこに親の強い「願望」「欲望」が上乗せされるのですが、「この子の将来のためならば・・・・・」という名目に摩り替えられて、莫大なエネルギーがかけられていきます。 これほど子供のために尽くしてくれるのは、まさに親だからこそです。親だからこそどこまでも尽くしてくれるし、お金もかけてくれる・・・・・これを日本では「愛」と呼んでいます。 何故でしょうか? しかし、一般に、親にこれだけ尽くしてもらいながら「自由」を行使することは、ほとんど不可能です。 その結果、親は、自分自身のために一生懸命尽くしていることが、愛する我が子のためだという「大義名分」・・・・・でも、実は、半無意識ではかなりわかっている・・・・・のもとに、自分自身の「欲望」や「自尊心」を満たすためにどこまでも子供を追い込んでいくことになります。 逆に、自由を認めていくのが「脱同一観」です。日本では「脱同一観」がほとんどできず、「同一観」のまま大人になっている人間で溢れています。これこそが日本の大問題で、現代の政治家を見ていれば、「脱同一観」ができていない甘ったれ人間のオンパレードです。 次回にまとめをやります。 |
く文責:藤森弘司>
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