2011年4月15日 第105回「今月の言葉」
イニシエーション・通過儀礼とは何か?

●(1)今回は、過去最大級、私(藤森)の無い知恵を絞って、本格的に書きたいと思っています。実は、これは前回の第104回(3月15日)に準備していたものです。ところが直前に「東日本大震災」が発生し、急遽、「早急に『挙国一致の救国内閣』を!!」に変えました。
 ところが、「東日本大震災」のその後を見ていますと、今回のテーマにピッタリ合致しますので、もう一度気を取り直して挑戦してみたいと思っています。

 さて、これから、大変重要な「ユング心理学」「イニシエーション(通過儀礼)」について挑戦してみたいと思います。私(藤森)の頭の中はスッキリしているのですが、分かっていることを、いかに分かりやすく説明するか・・・・・このことの困難さを毎回感じています。モタモタした説明はお許しください。最低限、ご理解いただける程度には工夫してみたいと思います。

 なお、ユング心理学の第一人者、故・河合隼雄先生が20年(?)くらいまえにテレビの多分、3チャンネルでなさった講義の録音をもとに私なりにまとめてみました。今の日本の「世相」が明確にわかる凄い内容です。なお、間違いや不明確なところがありましたら、私(藤森)の力量不足からきていることをご理解ください。

 <藤森注・・・・・この録音テープは、私の尊敬する飛鳥井雅之先生からいただき、長年、大切に保存していたものです>

●(2)<イニシエーション・通過儀礼とは何か?>

 伝承社会では・・・・・世界は初めに、神が創ったものとして完全に出来上がっていると考えていた。そこで、その出来上がっている社会に生まれてきた子供が、この世界に入れていただく、つまり「加入」。この「加入」するときに、「イニシエーション」がある。
 近代社会では・・・・・世界は進歩すると考える。子供が大人になったときに、出来上がっている世界に入るのではなく、子供はもっと大人を越えていくのだと考える。だから、近代社会に入って、「イニシエーション」を否定したのは当然のこと。だから「風習」は持っていない。

●(3)儀式とは何か・・・・・儀式とは「水路」をつけること。無意識の世界から流れてくる心のエネルギーを、意識の中心としての「自我」が、うまく使って仕事をする。日常の普通に行なわれる仕事のエネルギーは流れやすいが、日常の普通のことでも、沢山のエネルギーを必要とするときには、「儀式」が必要になる。
 また、何か新しい事業をやるとき、生活が全部変わる・・・こういう時、今まで使わなかった新しいエネルギーが必要になる。こういうとき、流れ込んでくるエネルギーの「水路」をうまくつけるために「儀式」がある。

 車の運転がそうですね。ベテランになると、隣の助手席に座っている友人と話をしながらでも運転できますが、免許取得前後の運転では、雑談をするどころではなく、全神経を集中させて運転します。
 通勤もそうですね。毎日、通いなれている場所に行く時は、無意識のうちに、時間に間に合うように行動していますが、転勤したり、出張の場合は、前の日から、何度も荷物や時間を確認し、翌朝も再度、確認したくなります。

 オリンピックの決勝スタート前に、いろいろな「儀式(?)」をする選手がいます。野球でも、例えば、大リーグのイチロー選手は、バッターボックスの中で、儀式的にバットを動かします。多分、これらの動作は、無意識界にあるエネルギーを、バットを振る瞬間に発揮できるようにという思いからでしょう。

●(4)では再度、「儀式」とは何か・・・・・「儀式」とは、「死」「再生」・・・イニシエーションの中の最も大事なテーマは、一旦、死ぬこと。そして、新しい存在として「再生」する。「死」という大きな体験こそが重要です。

 中年の35歳~40歳の間に、とても大事なイニシエーションがある。中年で一種の「死」の体験をする。そして、もう一度、「再生」することによって、新しい世界が開ける。このようなことが、社会的風習としてうまくできている。日本の「厄年」も、この辺に一つの節がある。

 現代の結婚式・・・新郎・新婦が、未開人が経験したような「実存的な変革」、ここで大人になるとか、社会人になる。そういう実存的体験をしている人は、非常に少ない。非常に甘く、楽しくなってしまって、結婚式の裏側にある「死」の体験・・・処女が死んでこそ、花嫁になれる。

●(5)儀式の例・・・・・①七・五・三 ②入学式 ③卒業式 ④成人式 ⑤結婚式 ⑥厄年 ⑦葬式 ⑧その他・・・「相撲の仕切り」「闘いに出るときの儀式」「新築・引越し」「神と出会う」

「相撲の仕切り」・・・立ち上がった一瞬に、全力でぶつかり合うパワーは凄いものがあるようです。立ち上がった一瞬の遅れ、多分、十分の一秒くらいの遅れが致命的な遅れになるでしょう。一瞬の立ち合いと、その一瞬に全力を出せるように仕切りをくり返して、うまく「水路」づけをする。そのために「行司」が必要。仕切りも行司もなしに、瞬時に力を出し切るのは困難です。

「闘いに出るときの儀式」・・・闘いに必要なエネルギーを引きだすために、シャーマンが侮辱する。ツバを吐きつけることもある。戦士のエネルギーがグーッと上がってくる。
 格闘技のコーチも、うまく選手を怒らせる。コーチがうまくエネルギー(闘争心)を引きだす。しかし、あまり怒らせると失敗することがある。

「新築・引越し」・・・近代的な超高層ビルの建設でも、「地鎮祭」などの儀式があります。

「神と出会う」・・・「超人的」な存在に出会うとき、宗教的には「神」に出会うとき・・・「超人的な存在」や、「神」に直接会ったら潰されてしまう。ある種の人が、一線を越えて近づくときには、やられてしまうに違いない。そのために、この人は守られている必要がある。
 そこで、一つの儀式という「守り」を通じて、神に近づくことができる。日常的に近づいては危ない。だから近づいて行く人は、日常の服装ではない。いろいろな服装をしたり、いろいろな物を持って行く。・・・イギリス国王の戴冠式や日本の皇室も・・・。

■ある部族で、子供が、ある年齢になると、山から神様(これは村の長老たち)がやってきて、子供たちをさらっていく。その時、子供はもちろん、殺されると思うし、母親たちも、自分の息子が死ぬと思うので、嘆き悲しんだり、恐れたりする。
 山では、断食をしたり、歯を抜かれたり、石でガリガリ歯を磨かれたりする。そういう一種の試練や死の体験をしたあとに、一度、死んだので、名前を変えられ、成人としての名前をもらって、村に戻る。

●(6)儀式の形骸化・儀式の死

神から遠ざけられる・・・非常に細かく決められた手順でやっていくことによって、かえって、「守る」というより、「神」から遠ざけられてしまう。ここに「儀式」の難しさがある。
 精神が死んでしまって、こちらの形だけが残る。そういう危険性を儀式は持っている。

お坊さんや神官など・・・神に近づくための衣裳が、自分の身を守ったり、「ペルソナ(仮面)」になってしまうと、本当の意味での宗教性を殺す側に回ってしまう。儀式が本来的な精神を全く失って、ただ形骸化してしまう。これが「儀式の死」

儀式の否定・・・形だけは整っているが、すごいエネルギーが流れていない。神社で、さい銭をあげるなどの儀式をするにしても、人間を超えた存在が実感されないという場合は、「儀式の死」という。
 現代は、儀式の死骸が累々としている。結婚式も入学式も、バカバカしいから止めてしまう。式というものを一切、止めてしまうという人がいても不思議ではない。バカげているから。
 しかし、そのように否定しても、儀式はいろいろな形をもって、人間の心に現れてくる。特に「夢」の中などに。

●(7)私としてのイニシエーション

①風習としてのイニシエーションは持っていないが、私が大人になるというためには、私としてのイニシエーションが必要。
 このことが現代人として難しいのは、「社会的風習」に守られて、社会的風習の中で大人になるのではなくて、自分個人の中から生まれ出てくるものによって、一つのイニシエーションを経験しなければならない。

②風習としてのイニシエーションがなくなると・・・・・

1)風習がない、体験していない親に育てられると、その典型的な例がモラトリアムである。風習としてのイニシエーションが消失した上に、経済が豊かになると、モラトリアムやパラサイト・シングルを支えられるし、女性が経済的に自立できるようになる。

2)母親の代の過酷な労働(家事・育児・マザコンの夫の面倒)や夫の浮気などを見聞きしてきた経済力豊かな女性は、結婚を好まなくなる。

3)その反対に、上記のように女性が自立する、つまり、強くなればなるほど、相対的に男性が弱くなる傾向がある。

4)その結果、「死と再生」がテーマのイニシエーションは、ますます、形骸化してしまう。

 以上が「イニシエーション・通過儀礼」の説明です。
 ご理解いただけましたら、それは全て、河合隼雄先生の講義の素晴らしさです。また、わかりにくかったり、間違いがある場合は、全て、私(藤森)の責任です。その点は、ご理解賜りますようお願いいたします。

 さて、「風習」として実際に存在する「成人儀礼」を紹介します。

●(8)平成22年9月18日「世界不思議発見」

 <パプアニューギニアの成人儀礼について>

 パプアニューギニアには、それぞれの部族に、それぞれの「成人儀礼」がある。その中の「クロコダイルマン」について。

 1930年代、パプアニューギニアには人が住んでいないと思われていた。西洋の探検家たちは金鉱脈を求めて、未知の国、パプアニューギニアの中央高地へ。そこに数百万人の人たちが暮らしていた。これが山岳部族と西洋文明との最初の出会い。そんな中の「フリ」の人々の村。

 男性がおしゃれ、特にカツラがデラックスで、これは自分の髪の毛で作る。このカツラには先祖の魂が宿っている「神聖」なものと考えられていて「フリ」の男性にとって「大人」の証。だから特別の場所でしか作れない。その特別の場所で、「成人儀礼」・・・ヒゲが生え出した頃から1年半。山にこもって、髪の毛を伸ばし、呪術師にマジナイをしてもらってカツラを作るのが「フリ」の男の伝統。

 呪術師は、コケを手で磨り潰し、男性の髪の毛に振りかけ、早く伸びるようにオマジナイをし、さらに、呪文をかけた葉っぱを渡す。その葉っぱでお互いに聖滴を髪にかけあう。1年半後、竹で作ったナイフで、髪の毛の根元から頭に沿って切る。それをそのまま外して、内側をヒモで補強し、奇麗に形を整えていく。

 カツラを作る場所は、大人になるための「学校」でもある。髪の毛が伸びるまでの1年半、若い男性は家族と離れ、ここに籠もる。その間、女性との接触を一切断ち、畑や土壁の作り方など、この地に生きるために必要な知恵を学ぶ。カツラは、それを成し遂げたという証である。最近は、山に籠もらず、自分の家から通う人も増えてきた。

  <クロコダイルマンとは>

 長いカヌー。その先端が「ワニ」の形をしている。ここでは「ワニ」は神聖な生き物。

 「成人儀礼」を行なうところを「精霊の家」と呼ぶ。家の中の全ての柱や梁にはワニなどの彫刻がしてある。精霊の顔を象(かたど)った仮面もある。
 ここの二階・・・男は17、18歳になると、「成人儀礼」として、ここに籠もり、ナイフで全身の肌をワニのザラザラの表面のように切る。こうして全身に「ワニ模様」をつけることで、初めて「大人の男」として認められる。

 ワニは最強の生き物で、「神聖」とされている。
 何故、痛い儀礼をやるのか。それは、ワニの姿になることで、ワニのパワーを体内に取り入れられると考えるから。そして、それは「シキタリ」で、男だけとされている。

 学校でもある「精霊の家」では、2週間、まず若者が全身に泥を塗る。それから長老たちに「村の掟」を学ぶ。その後、ワニの模様をつける「儀式」を行なう。

若者へのインタビュー・・・少し不安。でもこれを終えれば、皆から、認められる。だから早くやりたい。これが村の伝統だし、やり遂げれば大人の男になれる。

 別の男性で32歳・・・私は若いとき、街へ働きに出たため、今まで、「成人儀礼」をやれなかった。村に帰ると、「精霊の家」に入ることも許されませんでした。これを受けることで、やっと一人前の男として認められる>

 これから半年、この「精霊の家」に籠もる。全身に傷をつけるのは「成人儀礼」のほんの一部だ。
 傷をつける前と、つけた後の数ヶ月間、ここに籠もって、長老たちから「部族の歴史や掟、そして家族を養っていく知恵」を学ぶことが最も重要。

 この村では、一人前になって初めて与えられる大切な仕事・・・・・それは、「サゴヤシ」という椰子の一種を切り倒すこと。このサゴヤシは最も大切な木で、この木を切り倒すことができるのは、成人の男のみに許された重要な仕事。

 切り倒した後、皮を剥いて、幹を叩いていくとワラのようになる。それを女性たちがカゴに集め、水をかけて絞ると牛乳のような汁が出る。それを干すと澱粉ができる。それをクレープのように両面を焼くと、インド料理の「ナン」のようになる。
 さらに、以前、切り倒してあった「サゴヤシ」の木のところに行くと、その腐った木の皮の中に、蜂の幼虫を大きくしたようなもの、これはカブトムシの仲間で「ピナタン」という幼虫で、貴重なタンパク源。滅多に食べられないご馳走で、焼いて食べる。甘いらしい。

 幼虫の「ピナタン」とサゴヤシの澱粉から作った「ナン」のような物を、「成人儀礼」を受けている若者たちに、女性が運ぶ。「成人儀礼」を受ける若者たちは、村人全員に支えられている。

●(9)さて、現代の日本がいかにメチャクチャな社会になっているか、「イニシエーション」の角度から見ると、非常にわかりやすいですね。
 いろいろな心理学がありますが、ひとつの心理学で全てを説明するのには無理があります。それぞれの心理学の特徴を理解して、社会や個人の「現象(症状)」にふさわしい心理学を選択することが重要です。今の日本のメチャクチャな現象は、「私としてのイニシエーション」の欠落で説明するのが最もふさわしいと、私(藤森)は思っています。  現代は、私(藤森)がみるところ、ほとんど全く「イニシエーション」は行なわれていません。特に2000年代になってからの日本は、背骨を完全に抜かれてしまったような、あるいは、男女が逆転してしまったような感じさえします。このあたりを説明すると、いや、説明したらキリがない、いや、ほとんど全ての人に該当してしまうので、差し障りがありすぎて、個人的(カウンセリングなど)に説明する以外にないほどに、現代日本は人間性がメチャクチャになっています。<<菅総理大臣や、東電の清水社長や、保安院の偉い方々、原発の御用学者の皆様、いつまでも「どうたらこうたら」言って、義援金を被災者に配れない社会的に立派な方々・・・・・等々・・・等々・・・平時にぬくぬくと「太ったブタ」になっていた沢山のエリートの方々>>

 科学が発達して、「風習」としての「イニシエーション」は否定されてしまいました。さらには日米安保条約により、日本人は「血」を流さずに「平和」が維持できてきましたが、それも、もはや危なくなってきました。そうなると、アメリカに頼ることが難しくなる中・・・もしかしたら「トモダチ作戦」で、アメリカの第51州のようにさらに強化されてしまうのでしょうか?・・・「宦官(かんがん)」のような日本人は、今後、どうしたら良いのでしょうか?

 実は、日米安保条約で日本人が「骨抜き」されただけでなく、「特攻隊」の攻撃などで、日本人魂(武士道精神)が恐ろしくなったアメリカ(今月の映画、第102回「太平洋の奇跡・・フォックスと呼ばれた男」ご参照)は、さらに巧妙に「日本人魂」の「バックボーン」を抜く作戦を秘密裏に実行していたのです。

 次の新聞記事をご覧ください。

●(10)平成21年11月20日、日刊ゲンダイ「春名幹男・国際情勢を読む」

 <森繁が米国大使館で行なった秘密工作>

 森繁久弥さん、96歳。「巨星」の大往生だった。その死を悼み、新聞は号外を発行。テレビはワイドショーで特集、感動的な生涯について伝えた。
 ひとつ、メディアで明らかにされなかった経歴が森繁さんにはあった。

 実は森繁さんは、戦後の一時期、東京のアメリカ大使館「ラジオ部」で、他言を禁じられた仕事をしていたことがあった。
 彼は敗戦後、旧満州(中国東北部)から帰国。1952(昭和27)年には出世作の映画「三等重役」が好評を博した。
 当時の庶民の娯楽、ラジオの民間放送が始まったばかりのころだった。

 日本の民間ラジオ放送第1号は名古屋の中部放送(CBC)だった。51年9月1日午前6時半の放送開始に続いて、同日正午、大阪の新日本放送(現在の毎日放送)が開局した。民放は全国でその年6局、翌52年は8局、さらに53年31局と順調に増えていった。
 しかし、各局とも取材網が不備で、音楽ソフトも不足していた。
 実は、その欠点を補い、助ける形で、東京のアメリカ大使館がラジオ番組を製作して、各民放に無料で配布していた。

 アメリカ大使館ラジオ部制作の番組は、音楽から経済解説、文化番組まで種類が豊富だった。

 関係者が「完パケ」と呼ぶ完成品を、各局はそのまま放送できた。番組の制作・提供者の名前は一切紹介されなかったから、聴取者は各局が作ったものと思っていた。
 森繁さんはそのうち「ようこそ日本へ」と題する録音構成番組で、俳優ボブ・ホープやジョン・ウエインらが来日すると、フランキー堺らと手分けしてナレーションを受け持った。

 日本のDJの草分け、いソノてルヲ(ママ)が最初にDJ番組を手がけたのは米国大使館の中である。「スター千一夜」の三木鮎郎はインタビュー番組、「ねむの木学園」の宮城まり子は「まり子の国際ニュース」などを担当。横山道代中村メイ子(いずれも当時の芸名)らそうそうたる面々をそろえた。

 ラジオ部制作番組は当時の民放の放送時間の5%に達したと米国家安全保障会議(NSC)文書は記している。実はこのプロジェクト、NSCの指示で実行された「心理作戦」だった。日本人をアメリカ好きにする目的の秘密工作は大成功で、71年まで続けられた。(木曜掲載)

●(10)戦後の日本人、特に、男性が軟弱になった最大の理由は「イニシエーション」の問題であると私(藤森)は思っています。
 
 しかし、と同時に、日米安保条約により、国防の問題が救われ、日本人にとって戦争という「脅威」がほとんど無くなった結果、男が最も「男(オス)」らしくなれる命を懸けた「闘い」が無くなりました。このことはもちろん良いことですが・・・その上、GHQ後も、上記の「心理作戦(秘密工作)」により、廃墟とされた占領軍のアメリカを、「日本人が大好き」になるという根本的・・・私(藤森)の専門的な表現を使うならば、深層心理の部分を「アメリカナイズ(洗脳された)」ことが、非常に大きいように思われます。  さらには、CIAから有力な国会議員への「資金の援助」や「情報提供(操作)」などにより、「日本人の矜持(背骨)」を投げ捨てて、アメリカの第51州のごとき政策が自民党や現在の菅政権によってなされてきたようです。・・・・・その顕著な例が「田中金脈問題」であり、「政治とカネの小沢問題」であり、「郵政民営化の問題」であろうと、私は邪推しています。  もう一つ、曽野綾子先生がしばしば指摘される「日教組」の教育方針なども、結果的に、「日本人魂(武士道精神)」あるいは「江戸しぐさ」などの日本の美意識などをぶち壊す(例えば、モンスターペアレントの出現)大いなる役割を担ったのではなかろうかと、素人の私なりに考えています。

 アメリカの家庭では、男である「夫」の実権が強くあります。だから、「レディーファースト」などと美化して女性を優遇するのだと思っています。しかし、日本はその逆です。実権は妻が実質的に握っています。夫は、常日頃、勝手な「振る舞い」をしているように見えますが、本当は奥さんの掌の上で少年のように「振る舞う」ことをさせてもらっているだけです。ですから、社会的に夫は威張っていますが、実質は、その逆です。

 社会の制度(世間的)に守られるような形で男は威張っていたが、実質は、女性(妻)の強さに閉口していました(無意識界で)。ところがアメリカ大好きになりますと、レディーファーストという形で社会的にも女性を立てるようになり、裏も表も女性が優勢になってしまったのが、軟弱男性が増えたひとつの大きな理由ではないでしょうか(「個」を掘り下げるのが私の専門ですので、全体を論じるには知識不足です。まあ、大体、こんなところぐらいに軽く考えてください)。

 <私は、テレビ番組「新婚さんいらっしゃい」をよく見ます。これを見ると、日本の「オス(男)」が完全に「メス(女)」化しているのがわかります。この番組に出ようと思う人が、特に、「メス化」している可能性はありますが、それにしても、完全に「オスのメス化」と「メスのオス化」は「進化(?)」しています。>

 まさに、「神風特攻隊」のような恐ろしい日本人魂を完全に骨抜きにするのが、この心理作戦だったのです。映画「太平洋の奇跡・フォックスと呼ばれた男」をみても、アメリカ人は、日本人魂(精神)を恐れたり、畏怖したりしています。この「根性(魂)」を骨抜きにしない限り、アメリカ人は油断できなかったのかもしれません。
 しかし、今や、骨が抜かれ過ぎて、日本の政権は年中代わるし、約束は守らないし、尖閣諸島は自力で守れないし、幼稚園生みたくなってしまった政治家に、アメリカは手を焼いて、今や、彼らは、日本人を軽蔑さえしているのではないかと推測します。

●(11)さて、「風習」としての「イニシエーション」が無くなり、アメリカに骨抜きにされた日本人にとって、ではどうしたら良いのでしょうか?
 それが今回のテーマであり、河合先生が憂えていたものです。「私のイニシエーション」をどうするか?  実は、理想的な「私のイニシエーション」を発見しましたので、次の(12)で紹介させていただきますが、その前に「重大なこと」を書きます。  私(藤森)自身は、若いころ、ムチャクチャな人生を生きてきて、全てを失い、心身ともに「破綻」しました。それから多くの専門家に助けていただき、命懸けで這い上がってきました。這い上がってみますと、結果的に、それが「私のイニシエーション」になっていたことに気付きました。

 そういう私の体験から考えますと、「ウツ」や「不登校」や「大病(癌や心筋梗塞や脳溢血)」や「大怪我」などを患って、そのことと真剣に取り組むことこそが、各人の「私のイニシエーション」になることを発見しました。「癌」などは典型的なケースです。
 「癌の心身医学的研究」というのがあります。「自然退縮」した人を調査してみると、「人格変容」しているそうですが、これは私の理論からすれば、当然のことです(平成20年2月24日、「免疫学と癌について」藤森弘司、主催:「人間関係とストローク自主研」・・・送料込みで千円を送るとカセットテープを送ってくれます。古賀武雄氏・・・167-0022杉並区下井草3-6-3 ℡03-3397-5899 携帯090-3573-2299)

 ビッグチャンスだけに誤魔化して、適当に・・・単に時間が経過したことで、なんとなく改善したというのではもったいないです。今回の「大震災」に喩えれば、単に「復旧」するのでなく、「復興」してほしいものです。
 これこそが、現代の「イニシエーション」だと前向きに考えて、積極的に、根本的な課題に取り組んでほしいし、「フリ」の若者が「成人儀礼」を受ける時、村人全員に支えられているように、家族は、「一家総出」で支援してほしいものと念願しています。「根本的課題」とは、一言で言えば、交流分析でいう「脚本」を意味します(「脚本」については、「今月の言葉」第1回をご参照)

 せっかくこういう体験ができたのならば、思い切って「地獄」を見ることです。人生の一場面、数年はジックリ取り組んではいかがでしょうか。私(藤森)は、40年近く取り組んでいます。私は未熟なために、最近やっと、「地獄」の苦しみが半減してきた程度ですが、それでも人生、生きるのがとても楽になりました。

 昔ならば、禅寺(2003年4月、第8回「今月の言葉」「他非を弁ぜず、自非を弁ぜよ」ご参照)などで「修行」したり、いろいろな人生修行の方法があったのでしょうが、現代のこういう時代では、「ウツ」や「不登校」などで、いったん、「壊れる(死)」ことです。壊れるからこそ、つまり、ニッチモサッチモいかない状態に落ち込むからこそ「根本的な課題」に取り組み「再生」するチャンスに恵まれます。

 「ウツ」や「不登校」になったり、「大病」を患ったり「大怪我」をしたならば、是非、このように前向きな取り組み・・・ビッグチャンスに恵まれたことを喜んで、大いなる取り組みをされることをお勧めします。それは、他のほとんどの人が取り組むチャンスに恵まれていない「人生をかけた最大級の課題」に取り組めることを意味します。「フリ」の若者が全身に「ナイフ傷」をつけるように、全身全霊で取り組むだけの「価値」があるものです。

 「フリ」の健全な若者が大人の男になるために・・・「村人」全員の温かい支援を得ながら「1年半」をかけて取り組んでいます。
 「ウツ」や「不登校」になった人は、「フリ」の若者よりも数倍、人間性が傷んでいるにも関わらず、多くの場合、家族の理解がほとんど得られていません。「フリ」の若者が取り組む期間の数倍をかけて・・・人生をかけた「最大の課題」に取り組む覚悟が「本人」にも「家族」にも求められます。

 個人的に、ご不明な点がありましたならば、メールにてお尋ねください。

 さて、私は個人的な対応が専門ですので、日本全体を考えることは、残念ながらできませんが、日本を立て直すための理想的な「私のイニシエーション」があります。それをこれから紹介します。その素晴らしさをじっくり味わってください。

●(12)平成23年2月25日、週刊ポスト「シリーズ<天下の極論『日本リセット計画』第4弾>」<昼寝するお化け・特別版>

 <満18歳の国民すべてに社会活動を義務づけるべき>

 <「他者への奉仕」が育む「ほんとうの自由」>(曽野綾子・作家)

 戦後の日教組的教育に私はずっと違和感を持ち続けていたが、それでも日本は何とかやっていけるのだろうと思っていた。
 「皆いい子」式の誤った人間観察。「生徒と先生は平等」というでたらめな民主主義。人のために尽くすなどという発想は国家の犠牲になるだけだ、という脅し。「人権とは要求することである」という、義務の観念が欠落した思想。富裕は悪、貧困は善。資本家は悪、労働者は善、といった幼稚な人間分類法。日本語の読み書きもまともにできない日本人を育てて平気だった教師たちの怠慢。

 それでも日本人が何とかまともにやっていけるとしたら、それは同胞が非常に賢いからだ、と私はひいき目に思っていたのだ。
 しかし最近、どうもこのままではとうていやっていけない、という危機感が露(あらわ)になってきたらしい。最近の政治家のあまりの質の悪さに驚く必要はないので、つまり日本人全体があのレベルにまで堕ちたのだ。昔の人たちは、「私にはとうていそんな大それた仕事はつとまりません」という謙虚な賢さがあった。それは同時に自分より偉い人の才能を見分け、偉い人には従おう習おうという伸びやかな人間性の存在を示していた。

 昔の人は道徳的にも学問的にも自分の弱点を知れば、それを矯(た)め直そうとしたが、その基本的情熱は己を知る謙虚さにあった。しかし今は根拠のない自信が蔓延した。度を超えた個人尊重と、知識を持つことだけが教育と思われるようになったから、だれもこの愚かさに手出しできなくなった。

 2000年の夏、私は教育改革国民会議のメンバーとして、主に人間性を討議する第一分科会に属して働いていた。その答申の報告前文は、分科会全員の提案を網羅して、「物書き」を本職とする者がまとめた方が早かろうという浅利慶太委員の提案で、私が作文したものである。私はそれを文科省の分室で、三時間ほどでワープロを叩いて仕上げた記憶がある。その原案は分科会の全員が読み、曲解や脱落があれば委員からの申し出を受けてただちに修正した。その中で、私が提案した部分もある。

 「今までの教育は、要求することに主力をおいたものであった。しかしこれからは、与えられ、与えることの双方が、個人と社会の中で温かい潮流を作ることを望みたい。個人の発見と自立は、自然に自分の周囲にいる他者への献身や奉仕を可能にし、さらにはまだ会ったことのないもっと大勢の人々の幸福を願う公的な視野にまで広がる方向性を持つ。
 そのために小学校と中学校では二週間、高校では一ヶ月間を奉仕活動の期間として適用する。これは、既に社会に出て働いている同年代の青年たちを含めた国民すべてに適用する。そして農作業や森林の整備、高齢者介護などの人道的作業に当たらせる。指導には各業種の熟練者、青年海外協力隊員のOB、青少年活動指導者の参加を求める。これは一定の試験期間をおいてできるだけ速やかに、満一年間の奉仕期間として義務付ける」

 実施の方法として私の頭にあったのは、満十八歳で一年間、すべての日本国民に社会的奉仕活動をさせることであった。十八歳というのは、大学進学を決定したか、就職を決めたか、いずれにせよ将来が一安心になった時である。従って大学浪人、就職浪人には、一、二年の猶予期間をおいていい。しかし果たしてこの私案は、世間からめちゃくちゃに叩かれて無視されたが、怠け者の私は「気楽でよかった」と思ったものである。

 <事故や被害者を恐れぬ勇気>

 反対意見の主なものは、東大大学院教授・佐藤学氏や、故上坂冬子氏から出たものであった。二人共、私のこの提案を「思いつき」という同じ言葉で否定したので、私はその頃「どうして(二人は)私という他人が、或ることをいつ思いついたのか知っておられるのだろう」と書いている。
 世間の反対理由は、私の予測した通り「教育に強制はいけない」という決まり文句だったが、それは間違いだと今でも私は思っている。

 そもそも強制の要素のない教育というものはこの世にない。幼い時と、初めてそのことを学ぶ時、人はすべてある程度、必ず強制を受けてその道に入る。しかし間もなく自我や自分の好みができ、その道を自分の能力の一部として「楽しむ」か、反対に「嫌悪する」ようになる。現在の日本では簡単にその道を捨てられる自由も与えられている。

 私は小学校一年生の時、踊りとピアノと作文の個人指導を受けた。母も典型的な教育ママだったのである。私は中で一番ピアノを嫌ってすぐに脱落し、日本舞踊はだらだらと続けて、今でも盆踊りならすぐに踊れる厚顔さを身につけただけだ。
 初めから人並み以上に才能がないと思われ、私自身も苦行だった作文でやがて私は自分を発見し、それを生涯の仕事と楽しみとするようになった。だから・・・・・自分の例をすべてに当てはめるわけではないが・・・・・奉仕活動をさせても、そのうちの三分の一はあんなもの嫌だと最初から拒否し、三分の一が「ちょっとはおもしろかった」になり、残りの三分の一が「発見があった」になるだろうと思う。

 私の考えは、一年間、若者に質素な共同生活をさせることだった。ケータイを取り上げ、大部屋に寝かせ、テレビは共同のものを一台だけ、同じものを食べさせ、その人に適した肉体労働をさせる。戦時中もそうだったが、病弱な人には免除があるが、どんな心身障害者でも奉仕に加わりたいと言えばそれに合う仕事を探す。
 何か一つのことを始めようとすれば、いくつかの予期せぬ事故と少数の被害者が出るのは致し方ないことだ。しかし全体がまちがいなく利益を受けることなら、社会は勇気を持ってやらねばならないのである。しかし、今社会に一番欠けているのは勇気だから、多分実現はしまい。

 既にこうしたことを始めた外国の実態を私は聞いているが、親たちで文句を唱えている人にはまだ会ったことがない。共同生活、奉仕活動を覚えてから人に優しくなった。体力や忍耐力ができた。自分の家庭と全く出自の違う友だちができた、などいいことの方が比率は確実に多いらしい。
 しかし今のように、「自分の任期中にことが起きなければいい」という小役人根性と、反対しておけば良識人のように見える社会の反応の中では、まず不可能なのである。
 
 2000年から既に11年が経とうとしている。その間に教育学者、教育の実務担当者たちは何をやったのか。人間をほんとうに自由に解き放つのは、教育の場で勝手きままを許すことではない。自分をいささかは犠牲にする義務の伴わない自由は、成熟したほんものの自由ではないのである。

●(13)何故!なぜ!!ナゼ!!!これが無視されるのだろうか!!!

 私(藤森)の個人的な考えからも、また、イニシエーションの観点からも、曽野先生のこの「発想」は「完璧」です。これを強制的に早急に実施すべきです。と言っているうちに、「東日本大震災」がこれを強制しているようです。

 私は、とても不思議に思うのです。東大大学院教授の佐藤学氏ならば、まあ大体こんな程度だろうと思います。立派な大学の先生は「立派なお題目」を唱えることが趣味ですから、こういう実際に行なわれる「行(ぎょう)」は大嫌いなはずです。

 物事は全て「千里の道も一歩から」なんです。曽野先生は、まず一歩を踏み出すビッグな案を提案されたわけです。物事に実際に取り組んでいる・・・行じている人は、まず一歩を大事にします。当たり前のことです。第一歩がなければ、千里は無いわけですから。

 しかし、「立派な学者や先生方」は、アホくさく思えて、一歩のことは論じたくないのです。そんなことよりも、「千里の先」を論じたいのです。心理学の世界は、目に見えない分野だけに、さらにさらに「千里の先」ばかり論じて、今、目の前で苦しんでいる「クライエント」の方をどうにもできないし、理解もできないけれど、立派な本を書くことはできるのです。
 
 例えば、テレビに出ているどうしようもないと思う専門家が、数年もテレビに出ていると、もう著名な専門家ということで、本は書くし、大学の教授にもなっているのには唖然とします(これは私・藤森の嫉妬で述べています。嫉妬ですから、話半分で読んでください)。

 禅の「公案(こうあん)」に・・・脚下照顧(きゃっかしょうこ)」というのがあります。「足元を見よ!」という尊い教えです。私たちは「幸せ」というのは、遠くにあると思いがちですが、実は「足元」にあります。「千里の先」に「幸せ」があると思うのは、「青い鳥症候群」です。

 別の話です。
ある「高僧」が山に籠もって、修行しています。そのウワサを聞いた別の修行僧が問答をしに訪ねます。
「悟りとはなんぞや」
高僧答えていわく「あんたは朝飯を食べてきたかね」
「もちろん食べてきた」
「ならばその食器を洗ってきなさい」ジャンジャン。

 まず目の前のことに対応することが「修行」であり、それができることが「悟り」の境地なのです。千里の先にあるのは、自動車を運転する人はご存知だと思いますが、それは「逃げ水」みたいなものです。

 そういう「逃げ水」のような先のほうにあるものを論じたいのが「立派な学者」といわれる方々です。ですから「東大大学院教授」なる先生が曽野先生のおっしゃるものを軽く考えるのは、私(藤森)からすると、実によくわかます。「食器」を洗ったり、「脚下を照顧」することはレベルの低い、下らないことと考える種類の方々なのです。多分、偉そうに、もっと大局的なこと、もっと哲学的なこと、もっと高邁な議論をやろうぜという類の連中なのです。

 そういう連中は、「脚下を照顧」しないから、家に帰れば、奥さんや子どもさんを泣かせているかもしれません。子どもが幼児の頃、キャッチボールをしたり、お砂場遊びや積み木遊びをするよりも、専門書や哲学書を読むほうにより高い価値をおきたくなるのです。赤ちゃんのオムツを取り替えたり、散歩する暇があったならば、少しでも多くの研究をして、ノーベル賞を狙うほうが遥かに高い価値があると勘違いしている類の人間です。

●(14)それよりも、私が驚くのは上坂冬子氏も高邁な、なんとか大学の先生と同じことを述べたということです。私が驚くのは、主に次の2つの理由によります。

①そもそも、作家というのは「想像力」が豊かで、人の心を慮るのが得意な人たちのことではないのでしょうか。これでは慮るのではなく「無視」をしています。

②上坂冬子氏は、2年前に亡くなりました。死者にムチを打つことは悪いこととされていますが、敢えて、ムチを打たせていただきます。

 <平成22年9月23日、読売新聞「時代の証言者」(才女を超えて・曽野綾子)>

 上記によれば、曽野先生と上坂冬子氏は親友だったようです。上坂氏は「昭和史」や「戦争を題材にした作品」が多かったそうです。
 そんな著名な作家、しかも曽野先生と親友の作家、戦争を題材にした作品を書ける作家が、何故、東大のなんとか先生と同じレベルなのでしょうか???不思議でなりません。
 それは、上坂氏がとんでもなく非常識な間違いをしているからです。

1)まず、上坂氏は、曽野先生とは親友です。「時代の証言者」によると、上坂氏は「あんたが死んだ後、お宅の亭主の後妻に行ってあげる」というほど冗談を言える仲だったようです。

 つまり、私(藤森)の百倍、千倍、曽野先生をご存知だったわけです。その曽野先生が、天下の「教育改革国民会議」という最大級に凄い会議、国民を代表して天下第一級の先生方が参加し、天下国家を討議する場・・・で、曽野先生が「思いつき」で発言したと決め付けることは、曽野先生を最大級に軽蔑した言葉になるということが分からないのでしょうか。下品な私流に言えば、
 「あんたアホね。もっと真面目に論じなさいよ。こんなところで思いつきの考えを言うのはおバカさんよ」
 と言っていることと同じ意味になります。言葉を操ることが職業の上坂冬子氏はこの程度の人間だったのでしょうか。

 天下の「教育改革国民会議」などと大仰な名前がついているけれど、アホの集まりで、結局、この程度の議論しかしていない・・・今の菅政権のナンチャラ本部やホニャラ会議もそうなのでしょう。まともな国家運営などできるわけがありません。まさに「百年河清を俟(ま)つ」ようなものです(私の単なる“嫉妬”“妄想”で書いていることですから、話は半分にしてください)。

2)なんとか大学のなんとか先生や上坂冬子氏は、心理学で言うとんでもない間違いをしています。

 心理学の一つに、「認知療法」というのがあります。その中に「認知の歪み」(2007年12月15日、「今月の言葉」第65回、「認知療法とは何か?」ご参照)というのがあります。

 「認知の歪み」では典型的な11個の「歪みの種類」を上げていますが、専門的なことはともかく、私たちは、自分の「五感」で感じたものは「正しい」という思い込みが強くあります(見たり“視覚”、聞いたり“聴覚”、触ったり“触覚”、味わったり“味覚”、臭いを嗅いだり“嗅覚”して、感じたものは正しいという思い込み)。

 「芥川賞」のように、最大級に権威のある「賞」でも、文学界第一級の作家が同じ作品を読み、選考しながら、絶賛する人と、けなす人がいる場合があります。どちらが正しいのでしょうか。各人に各人の価値観がありますから、両者とも正しいのです。
 この場合、「認知療法」の立場から言えば、自分の価値観を他人に押し付けないことです。「自分の価値観ではこのように感じる」という謙虚さが大事です。

 なんちゃら大学の○○先生や上坂冬子氏が、曽野先生の提案をくだらないと感じる自由はありますが、確認をせずに、それを「決め付けた」ことが最大の間違いです。自分の頭の中で、「曽野綾子ってヤツはアホやな。思いつきでくだらないことを言いやがって。もっとマトモな意見を言えよ」と感じる自由はあります。
 しかし、それを会議で「思いつき」だと断じたことは、救いがたい大バカ野郎です。そういう救いがたい発言をするから、日本の会議はロクでもない発言が多いのです。昔、「ブレーンストーミング(頭脳の嵐)」というのが流行ったが、結局、日本には根付かなかったのは、まさにこういうことなんです。こういう決め付けを頭からされると、発言するのが躊躇されるし、批判されるくらいならば、黙っているか、当たり障りの無い発言をしようという気持ちになります。

 カウンセリングでよくあることです。子どもが勉強をしないと「将来どうなると思うの!!!」と強く叱るお母さんが多いです。
 そこで私(藤森)が尋ねます。
 「学校の成績が悪いと、お子さんの将来がどうなるかご存知ですか?」
 するとお母さんは「わからない」とおっしゃいます。どうなるのかわからないのに自信タップリに叱ります。このギャップともの凄いキメつけが行われていることに気づくことです。

3)曽野先生のこの「提案」は日本を救う最大級の「提案」です。それを潰したナンチャラ先生方を、私は許せない。だから神が大天災を起こして教えてくれているのだと言ったら被災者に申し訳ないことですが。

 曽野先生は、万一、これが通ったならば、先生の余生をかけて、まさに身を粉にして先頭を走る覚悟をもっていらっしゃったはずです。「現場主義」「実践家」「行ずる」とはこういうことなのです。自分の発言には「責任」が伴っていることを充分に認識しているものです。「食言家」とは違います。自分の発言に「責任」を持っていれば、「月」や「火星」に行くがごとき発言はできないはずです。

4)「徴兵制」を復活させるべきだと右よりの方(例えば、石原慎太郎氏)などは言いますが、河合隼雄先生は、徴兵制は、上からの絶対的な命令で動くので、イニシエーションの立場から「徴兵制」を評価していません。

 だからこそ、曽野先生のこの提案は、今の日本に抜群に素晴らしい制度だと思います。日本の救世主になるはずです。それを下品な言葉、侮蔑的な言葉で潰した連中を許せない。彼ら、彼女らは「亡国」的です。

 恐らく、これほど素晴らしい会議であれば、委員だけでも15人とか、20人くらい、しかも、サポートする官僚など、日本を代表する非常に有能な人たち(50~100人?)が、この「提案」に触れているはずです。しかし、誰一人として、どこからも声を上げる人間が出ないとは、エリートが「点取り虫の学校秀才」(松下政経塾出身の国会議員に多いタイプ)ばかりになっていて、根性がいかに腐りきっているかを証明しています。

●(15)曽野先生がどれほど素晴らしい方か、私がどれほど尊敬しているか、いつか詳しく書かせていただきたいと思っていますが、その一部を紹介します。

 <2006年2月15日、第43回「今月の言葉」「現場力について・パート④」>の下記の部分を再録します。

<<<●(15)さて、医療の現場とかカウンセリングの現場は、「職人」としての「実力」が問われますが、特に「心理」であるカウンセリングの現場で、「職人」的な実力をつけるための訓練が、残念ながらほとんど全く行なわれていないのが実情です。
 どちらが偉いかどうかという問題ではなく、本を書いたり、講演したり、研究をする人は、「学者」的な理論を中心に勉強すれば良いし、生身の人間を対象とするならば、その理論をいかにクライエントの方々に、より良く適用できるようになるか、その訓練、つまり「職人」的な訓練こそが重要ですが、この分野においての適切な訓練は、アカデミックな世界も含めて全く実施されていないと言っても、決して過言ではありません。
 
●(16)私(藤森)は、日頃からこの「学者的」、「職人的」という見方、考え方をよくしていますが、特に今回、ここに載せることで、どのように表現しようか、「職人」的な私は、毎日、頭を悩ませました。アイデアはあっても、それを適切に表現するという「学者」的能力が不足しているために、今回は特に苦労しました。
 締め切りの15日をこんなに大幅に経過してしまったのは今回が初めてです。自分の「学者」的能力の不足を痛切に感じています。毎回、毎回、この「学者」的な能力不足に苦心惨憺しながらも、我ながらよく続けているものだと感心しています!

●(17)さて、ユング心理学に共時性というのがありますが、毎日、本気で頭を悩ませていると、うまいものに出会えるものですね。これでやっとスッキリしました。
 梅原猛著、「日本人の心のふるさと<最澄と空海>」(小学館文庫)という本に出会えました。その中に、私が言いたいことがピッタリと書かれていました。
 最晩年の最澄は、嵯峨天皇にもっとも重要な「大乗戒壇設立」という法の改正を主張していて、その内容を梅原猛氏が解説しています。

 「とにかく、ここで僧が、「行動」「弁説」という二点で四つに分類されているのです。行動も弁説も優れている者。行動は優れているが、弁説はだめな者。弁説は優れているが、行動がだめな者。両方ともだめな者です。行動も弁説も優れている者は少ない。それは「国宝」です。>>>

藤森注・・・・・曽野先生は最澄のいう「行動」も「弁説」も優れた「国宝」だと、私は思っています>

●(16)平成23年4月4日、読売新聞「ボランティア学生に単位を」

 <文科省通知 被災地での活動後押し>  文部科学省は、東日本大震災の被災地で大学生がボランティア活動を行なうことを後押しするために、全国の大学に対し、被災地での活動に単位を与えたり、参加した学生への補講や追試を実施したりするなど、参加しやすい環境づくりを進めるように通知した。
  
 これまでは燃料不足や大量のがれきが撤去できない状況などから、ボランティアの受け入れ態勢が整わない自治体も多かったが、震災から3週間が経過し、募集する自治体も増えたことから、通知を行なった。通知では「ボランティア活動は学生の円滑な社会への移行の観点から意義がある」としたうえで、
①授業目的と密接に関わる場合は単位を付与できる
②休学した場合は授業料免除などの配慮を図る
③ボランティア保険の加入を呼びかける
 などと示されている。  1995年の阪神大震災では、大阪大が社会貢献活動に関する講義の単位を与えた例などがある。春休みの開始時期と重なった阪神大震災に対し、今回は授業を迎える時期で、授業に支障を来たす学生が多く出ることが予想されている。
●(17)平成23年4月9日、読売新聞「識者インタビュー・克服へ」(曽野綾子・作家)

 <国家に頼らず自ら行動を>

私たち日本人は、戦後の復興と高度経済成長を経て有頂天になっていた。今回の東日本大震災によって、甘やかされた生活がこれからも続くという夢が打ち砕かれた。
 私は長く海外援助活動にかかわり、アフリカなどへ度々出かけるので、日本は夢のような国だと思っていた。電気や水道が絶え間なく供給され、交通や通信がいつでも使える。多くの国に比べれば汚職や権力の乱用もないに等しい。しかし、今回、国のあり方の基本が崩れた。

 「欲しい」と思えば何でも手に入る社会は、異常社会だ。私は、電気も水も止まるものだと思っているから、普段から自宅の瓶に水を取り置き、練炭、炭、火鉢も床下に保管している。カセットコンロも常備している。頻繁に停電するアフリカでは、いつも手元のバッグに懐中電灯と水、ビスケットを用意している。

 政治家は「安心して暮らせる社会を作る」と言うが、そんなものはありえない。老年世代までが、政治家のそんな言葉を信じていた。政治家も有権者も、自分の頭で考えることをしなくなっている。
 震災後、政府の不手際や東京電力の失敗はあったかもしれない。しかし、犯人捜しをしても仕方ないことだ。現在のシステムは複雑で、総合的に見ないと日本は復興に向かって歩き出せない。

 そうした時代を生きる私たちは、国家やシステムを疑い、それらにあまり依存しないことだ。日本には優秀な技術者や官僚がいるから被災したライフラインも間もなく復旧されるだろう。私もシステムにお世話になっているが、最後は自分で自分を助けることができなければ、人間としての義務に欠けると考えている。

 国家がすべて何とかしてくれると考えるのは違う。めいめいが自分で考え、行動する癖を身に着けることだ。それは他人の痛みを部分的に負うことでもある。被災地の支援も国家に頼るのでなく、「痛い」と感じるくらい自らお金を出すことだ。出さない人がいてもいい。だが、そうした人は人権だ、権利だと言わないことだ。

 東北の人たちが礼儀正しく、苦しさのなかでも微笑をたたえていられるのは、雪深い冬を生き、過去に津波や貧しさを体験し、日常で耐えることや譲ることを知っている人たちだからだろう。以前は集団の出稼ぎもあった。苦しみに耐えてきた人たち、耐えることができる人は美しい。
 人間は本来、苦しみに耐えるようできている。ところが、今の子どもたちは欲しいと思うものを何でも与えられて育った。子どもにも耐える体験をさせることが大切だ。

 18歳になった若者に1年間、サバイバルと奉仕を体験させるべきだと私は主張してきた。携帯電話から離れ、大部屋で暮らし、他人と自分を助けるのに役立つ力を持てるよう、心身を鍛えることは必要だと思う。
 アウグスティヌスは「すべて存在するものは善いものである」と言う。この世にあるもの、起こることには意味があるということだ。今回の事態から何を学ぶか。一人一人が考えることだ。

<聖心女子大卒。「遠来の客たち」が芥川賞候補になりデビュー。「神の汚れた手」「天上の青」など著書多数。1995年から日本財団会長を務めた。79歳。>

(聞き手・生活情報部 榊原智子)

●(18)上記の中の下記の部分を読んで、私(藤森)は悶絶しそうになりました。

 <<<「痛い」と感じるくらい自らお金を出すことだ。>>>

 私には「貧乏恐怖症」があります。生まれてからずっと貧乏の辛さ、悲しさ、苦しさ、寂しさ、怖さなどを嫌というほど体験してきましたが、やっと最近になって、貧しいながらも「幸せ」とか「充実感」に満たされる生活ができるようになりました。いや、貧しいからこそ得られている「充実感」であろうと思っています。

 物欲はほとんど無くなりました。貧しい生活にも不満がほとんど全くありません。毎日、温かいものを腹いっぱい食べられることに満足し、最高の幸せを感じています。聞くところによると、「幸福」の「福」は、物質的なものを意味するそうですので、私は「幸福」ではなく、「幸せ」です。
 曽野先生がどこかで「オカラ」のことを書いていました。オカラなら50円で買えると。
 私は、隣町の立川市の野菜直売所でしばしば野菜を買いますが、ここでは「ガンモドキ」や「白滝」などを買うと「オカラ」がただでもらえます。ソフトボール大の量ですが、これにガンモドキや白滝などを入れると鍋一杯になります。毎週もらってきて、妻に料理してもらっていますが、ただ(無料)でもらってきて、こんなに美味しくて栄養豊富な食べ物はないと思うと充実感が倍加します。この料理したオカラに納豆と卵を合わせると最高級のおかずになります。

 衣服も、寒い冬に、寒さを防ぐ衣類があるので、充分に満ち足りています。
 昨年の秋、八王子の甲州街道沿いで大きなバザーがあり、妻と出かけました。あるところで、ふかふかのジャンパーというのでしょうか、羽毛の入った温かそうな外套を見つけました。千円の札がついていました。どうしようかと考えていると、「500円でいい」と言います。「千円でいいですよ」(このあたり、私は気が小さい)と言いましたが、夕方近くだったからか、500円で売ってくれました。
 これが大当たり!もの凄く温かくて、今年の冬は大変な「幸福感」を味わいました。

 住居も、雨風を充分に防げる家の中で生活ができています。地震のときの家具類の転倒防止対策は十二分にやっています。これで「圧死」するようなことがあったら、それはもうしょうがないと思えるほどの対策を施しています。2年前の「強毒性鳥インフルエンザ」問題で、食糧やティシュ、トイレットペーパー、マスクや乾電池などの備蓄も充分に備えています。
 ひとまず、最低限、家族を守る対策と、日々の生活は凌げています。私の人生の中でこれ以上の有り難さは無いほど、今は「充実」しています。

 さて、本題に戻ります。
 今回の大震災の悲惨な状況に対して、私なりに充分な応援をするにはかなりの抵抗というか困難というか、がありました。しかし、この状況の中で、私なりにできるだけのことをしたいという気持ちも強くあり、かなり「葛藤」しました。
 どうしたら良いか、どうしたら良いか。これだけの悲惨な災害を目の当たりにしてどうしたら良いか・・・・・無い知恵をしぼりました。その結果、わずかではありますが「毎月の送金を1年間」続けようと思い立ち、3月と4月に「貧者の一灯」を送金したばかりでした。

 その直後に、上記の言葉に出会いました。わずかな金額であり、わずか2回送金しただけ・・・「痛まない」程度ではありますが、それなりに対応した後だったからなんとか耐えられましたが、万一、何もしていないときにこの言葉に出会ったならば、私(藤森)は打ちのめされていたことと思います。
 3月、4月に送金したばかりであっても、自分が「痛い」と感じるくらいに出していない「自我の未熟さ」に悶絶しそうになりました。

 知らん顔をして「善人」ぶっていればいられるはずです。でも、キリスト教的に言えば「神」が見ているというのでしょうか。仏教的に言えば「己の仏性(ぶっしょう)が許さない。「痛い」思いを避けた自分の未熟さ、恥ずかしさを改めて思い知らされ、なんだかわからないが悔しくて悔しくて仕方がありません。チクショー!、チクショー!と喚きたい気持ちが溢れました。
 もう何日も、この言葉が私(藤森)の頭にこびりついて離れません。

 妻が言いました。
 「『義捐金』の『捐(えん)』は、曽野先生のおっしゃる『痛い』に通じるのかもね」
 妻のこの一言で眼が覚めました。私は今まで、何故「義捐金」に「捐」という字があるのか不思議に思っていましたが、曽野先生のおっしゃる「痛い」に通じるのか、なるほど。「義援金」の「援」では、私の送金と同じで、「痛まない」範囲の意味になってしまうのかもしれません?
 まだまだ私は「イニシエーション」が終了していない・・・・・大人に成り切っていないことを強く反省しました。

 <「捐(えん)」・・・すてること。なげうつこと。「損(そん)」・・・そこなうこと。こわすこと。きずつけること。「援(えん)・・・たすける」(電子辞書・広辞苑)> 

●(19)さて、今回の大震災は、何故、多くの人たちに巨大な影響を与えているのでしょうか?

 <トピックスの第43回>でも触れましたが、巨大な被害だからであることは当然のことですが、もう一つは、津波により根こそぎ押し流され、メチャクチャになった被災地の様子が、私たちのインナーチャイルド(内なる子)を投影しているために、多くの人たちが(深層心理で)ダメージを受け、何かしなければという深い動揺を感じているのです。私自身も大きな心理的なダメージを受けました。
 現実に起きた被害の大きさが重要なのではなく、元々大きく傷ついている(私たちの無意識の中に存在する)インナーチャイルドが被災地の状況に共鳴(投影)して、ダメージを受けているほうが大きいものです。

 自分のインナーチャイルドがあまり「投影」されない出来事に関しては、いくら悲惨な出来事でも、私たちはそれほど動揺しません。アフリカの飢餓や内戦、「ルワンダ」の虐殺、難民問題・・・・・逆に、小さな出来事であっても、その人のインナーチャイルドが反応すれば、それはその人にとって大きな出来事になります。
 私がお世話している会社のある幹部の方は、小学生の時、同じ学年全体からシカトというイジメに遭ったそうです。非常に辛い時に、ブルースリーの映画を見て感動し、映画館に通って、70回くらい見たそうです。その後、ビデオを買い、合計200回くらい見たとのことです。その後、彼は空手や剣道の達人になりました。
 恐らく彼は、今回の大震災よりも、ブルースリーの映画の方が衝撃的だったと思います。 

 私たちは、一般に、もの凄く「インナーチャイルド(内なる子)傷んでいます。だから「病気」になったり、「怪我」をしたり、「交通事故」を起こしたり、「事件」を起こしたり、「人間関係」を壊したりしています。その「インナーチャイルド」に大きな負荷がかかりすぎて、持ちこたえ切れなくなったときに「症状化」するのが、多くの場合「病気」といわれる「症状」です。

 いろいろな「事件」も同様です。もちろん「自殺」も、「不登校」も「ウツ」も、夫婦の「こじれた関係」も、「離婚」も、考えられないような「交通事故」も・・・・・「心理的」「身体的」「行動的」・・・・・そのいずれの形に出ようとも、症状化されたものは、インナーチャイルドの傷みが限界にきていることを意味します。
 そういえば、地震も同じです。プレートとプレートの歪み(ストレス)の極限で地震が発生します。今回の地震は「巨大」であるが故に、部分的な歪みの修正(余震)も大きいのです。

 人間の場合も全く同じです。歪みが大きければ大きいほど、発症する病気も重症になります。ですから「重篤」な病気であるほど、無理な人生・・・・・つまり、表面的には元気なようでも、「インナーチャイルド」にかかる負担が大きかったことを証明しています。

 私たちは皆、「インナーチャイルド」が傷んでいます。何故ならば、完全な親はいないからです。「不完全」な親に育てていただいているので、親の不完全な度合いに応じて、私たちもその分が傷んでいます。ですから自分自身が傷んでいることを認める(自覚する)ことが大事です。
 そうすれば、末代までも「恥」になりそうな「菅直人総理大臣」のような醜いことはやらなくなります。もうちょっと「分」に応じたことをやろうと思うようになります。私(藤森)は、万一、宝くじの3億円が当たったら、間違いなく、人生が狂うと思っています。何故ならば、私のような根性の小さい、狭い人間が大金を持てば人格はおかしくなるのが当然です。
 そういう意味では、今の私の暮らしぶりは、やはり「分相応」であることを充分に理解しています。「分」に応じた生き方、「分」に応じた生活をすることの大事さを、菅総理大臣は教えてくれています。

 私自身のインナーチャイルドは猛烈に傷んでいます。そして、私ほどではないにせよ、私のように傷んでいる人が、今回の大災害を見ることで、自分のインナーチャイルドが投影されてダメージを受けているのです。ですから、上野の花見を自粛させるのは、実は最低の政策です。むしろ、バカ騒ぎをしてもらって、インナーチャイルドのダメージを早く回復してもらい、明日からの人生や、日本の再建に尽力してもらうことこそが大事です。

 ただし、一般にこういうことを言っても、単にアホ扱いされるだけですから言いませんが、私のマイナーなホームページを長年ご覧になってくださっている方々には、充分にご理解いただけるものと思い、勇気を出して書きました。くれぐれもご自愛ください。

く文責:藤森弘司>

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