2011年10月15日 第111回「今月の言葉」
逆説の心理学 「同一観」と「脱同一観」

●(1)<サイコシンセシス>

 イタリアの精神科医・心理学者、アサジョーりが体系化した「サイコシンセシス(精神統合)」という心理学の中に「セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)」という重要な概念があります。  誠心書房刊『サイコシンセシス叢書ー1 意志のはたらき』『叢書ー2 無条件の愛とゆるし』『叢書ー3 内なる可能性』『叢書ー4 統合的な人間観と実践のマニュアル』という本があり、日本の第一人者、故・国谷誠朗先生・平松園江先生が共同で上記4冊を翻訳されていらっしゃいます。  この中の『叢書ー4 統合的な人間観と実践のマニュアル』の解説に・・・・・「セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)」とは「自分の存在を最も感じさせてくれるもの、生きていることを感じさせてくれるものに自分自身を同一化していくこと。自分の価値を最も高めてくれるもので、自分でも一番重要だと思うものに自ら同一化することです」とあります。

 さて、翻訳者の両先生は、「セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)」を「同一化」と訳しましたが、私が尊敬する飛鳥井雅之先生はこれを「同一観」としました。
 「同一化」では無理がありますので、ここでは飛鳥井先生の卓越した感性の「同一観」で統一して解説します。

●(2)<「育児」とは何か・・・・・「同一観」

 「自分の存在を最も感じさせてくれるもの、生きていることを感じさせてくれるものに自分自身を同一化していくこと。自分の価値を最も高めてくれるもので、自分でも一番重要だと思うものに自ら同一化(同一観)することです」

 ここでいう「一番重要だと思うもの」とは、極端な場合を除いて「両親」と考えてください。乳幼児は両親、特に母親を我がことのように同一視し、母親も我が子を「我がこと」のように感じて育児をします。

 さて、私たちの人生は困難に満ち溢れています。経済的なこと、夫婦関係のゴタゴタ、職場での人間関係、自分自身の健康の問題など、いろいろな困難に苛まれていますが、ひとまず、今、ここでは、育児をする上で、まあまあ、最低限の状況・環境に恵まれているものとします。
 日々の生活や育児に苦労しながらも、それなりになんとか順調に毎日を過ごせる「家庭」であると仮定します。

●(3)乳児はいろいろなものを要求するとき、泣くことで自分の要求を知らせます。当然のことですが、乳児は泣くこと以外に伝達手段を持っていません。お腹が空いたとき、オムツが濡れたとき、ダッコをしてもらいたいとき・・・・・などのすべては、ただ単に泣いて知らせるだけです。

 当然、母親は、乳児が何を要求しているのかわからず、戸惑います。オムツが濡れたのかと思ってオムツカバーを外してみると、オムツは濡れていなかったり、ダッコをしてほしいのだろうと思ったら、そうではなくてオムツが濡れていたり・・・・・。

 当初はこういう混乱が毎日続くでしょう。しかし、まあまあ、なんとか十人並みの生活ができている、まあまあなんとか健全な家庭であれば、やがて母親の「直感」が働いてきて、オムツが濡れたのか、お腹が空いたのか、ダッコをしてもらいたいころなのか・・・・・乳児の波長に合わせた生活感覚が備わってきます・・・・・これを「同一観」と言います。

●(4)この「同一観」でほぼ一年間は順調に育てられます。厳密には、日々、乳児は変化・成長していますが、ひとまず、ここでは大雑把に考えます。
 最初の一年間は、母性の優れた感性により、乳児の泣くだけの要求を、まるで「我がこと」のように適切に対応でき、乳児も、まあそれなりに順調に育ちます。

 ところが、日々、変化・成長している「乳児」は、やがて「変化・成長」の「量」が、母親の対応の範囲をオーバーするようになってきます。
 例えば、今までは寝かせていれば安全だったが、ハイハイをするようになると、周囲には危険がいっぱいです。汚いものや危ないものを口に入れるかもしれないし、階段から転げ落ちるかもしれません。
 歩けるようになると、周囲のものを引っ掻き回したり、カレンダーなどを破ってみたり、オシッコやウンチを所構わずにやってしまうかもしれません。

 私(藤森)は多くのものを、大雑把に三分割して考える癖があります。
 乳児にとって最初の一年間の三分の一は大変心地良い、満足のいく生活ができているものと思います。母親の適切な「同一観」によって、かなり心地の良い生活ができることと思います。次の三分の一は、若干、違和感が出てきても、全体的には、ほぼ満足のいく毎日だと思われます。

 問題は、次の三分の一(最後の三分の一)です。そろそろ「変化・成長」の量が増えてきて、違和感が増大してきます。コップの水が溢れるように、乳児の違和感が部分的に溢れ出たときが「グズル」です。これが最初の「反抗期」で、ほぼ一歳ころと考えて良いでしょう。

 これからさらに「育児」に必要な種々様々な対応をしなければなりません。離乳食であり、オムツを外してトイレットのしつけをしたり、散歩をしたり、サジや箸の使い方を教えたり・・・・・さらに、乳児と違って幼児の行動力は比較にならないほど大きくなります。一瞬の油断で、大事なものを壊されたり、汚されたり、はたまた、転んで怪我をしたり・・・・・母親はパニック状態になります。

 特に、昔と違って電化製品を始めとする「貴重品」は沢山あるし、自動車などの危険なものが周囲を走っています。コミュニティがあった昔と違って、周囲は育児をする母親に協力的ではないし、危険な「変なおじさん」も沢山います。
 この時期、現代の母親はほとんどパニック状態になっていると言っても過言ではないでしょう。

●(5)<脱同一観>

 さて、子どもがグズルことは、「おかあさん!そのやり方は違うよ!」と主張していることを意味しています。しかし、実際に子供のグズリは親のパワーで押さえ込んでしまうものです。
 何故ならば、母親は自分のほうが正しい(つまり、グズル赤ちゃんがおかしい)と思ったり、多忙などで適切に対応できなかったりしますが、そのズレが大きくなってきたとき、「まあまあなんとか健全と言える家庭」の母親は、幼児のグズリをなんとか理解しようと努めます。 
 やがて、パズルのピースがピッタリくるように、グズル幼児の要求に合致する答えを探り出します。

 こうやって、乳児がグズルたびに、乳児の要求に応じようと工夫して、要求に適うように対応していくことが「脱同一観」です。

 「同一観」は、乳児の要求にピタッと寄り添います。ピタッと寄り添うと快適な母子関係になりますので、「一心同体」のような気持ちで「育児」をしますが、やがて乳児は、自分の成長に沿ってくれない親に対して、グズルという形で「邪魔だからどいてよ!」と言わんばかりに自己主張し始めます。

 その要求に沿って、「一心同体」のような母子関係を少しずつ、「二心二体」・・・・・つまり、乳幼児の人格が育つ質量に沿って、母親が距離をおくようにすること・・・・・つまり、乳幼児の人格が育つ質量に比例して、乳幼児の「自我」を尊重していくことが「脱同一観」です。

 「同一観」をしっかりやり、「脱同一観」が、まあまあそれなりに適切に行なわれたときに、その子は「適切」に育ちます。

 「同一観」「脱同一観」の説明としては以上ですが、実は、このように「適切」に育児が行われることは、ほとんど「皆無」と言っても過言ではありません。だからこそ「サイコシンセシス(精神統合)」という心理学・・・・・特に「セルフ・アイデンティフィケーション(self-identification)」という概念ができたのだと、私(藤森)は思っています。

 それが次回、最終回のテーマです。

 いつの時代でも「脱同一観」は人間にとって大変難しいものですが、現代は特に「困難を極める」と言っても過言ではありません。困難を極めた結果、人間らしくなるための「同一観」も適切に行なわれなくなってしまいました。その結果、恐ろしい社会現象がいたるところに見られる悲惨な日本になってきました。

 なかなか説明が難しい上に、私(藤森)の才能不足もあって困難を極めるでしょうが、次回の最終回で、このあたりを率直に説明したいと思っています。このホームページをご覧の皆様は、人間らしくなるための「同一観」はそれなりに順調に通過された方々であろうと思っています。

く文責:藤森弘司>

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