2011年1月15日 第102回「今月の言葉」
逆説の心理学 「同一観」と「脱同一観」

●(1)第100回の「①」の下記の部分を再録します。

<<<●(2)さて、タイトルの「同一観」「脱同一観」は、「サイコシンセシス(精神統合)」という心理学の重要な用語です。「サイコシンセシス(精神統合)」を学ぶ方の、多分、ほとんど全ての方々は、「同一化」「脱同一化」という用語で学ぶはずです(翻訳の本が「化」であるため)。
 この「同一化」「脱同一化」を「同一観」「脱同一観」のように、「化」から「観」に変えたのは、「サイコシンセシス(精神統合)」の日本の第一人者・飛鳥井雅之先生です。飛鳥井先生については、<主にご指導いただいた先生方>をご参照ください。

 この「化」を「観」に変えた業績はとてつもないものがあります。「化」はそれと一体になることですが、「観」は、そのように「観る」ことを意味します。この差は、とてつもないものがあります。とてつもない、というよりも「正」「邪」ほどの違いがあります。

 日本の過干渉・過保護が過ぎる育児・・・・・「化」になっていることからくる歪みは、最終局面に至っているのではないかと思えるほど、育児の歪みがひどくなっています。
 育児の「理想」は、「同一観」そして、「脱同一観」ですが、では「同一観」「脱同一観」とは何か?>>>

 これを説明するために、週刊ポストで連載している井沢元彦氏の「親アイヌ派の『同化』政策がアイヌ文化を破壊した皮肉」<第101回「②」の(3)をご参照>を前回、ご紹介しました。
 これをじっくりご覧いただければおわかりいただけることと思いますが、<「2009年10月15日、第87回」>の時点では、単に、日本の育児の観点から説明しました。しかし、これは、まさに、サイコシンセシスの最重要概念である「同一観」「脱同一観」の問題を一番適切に説明してくれます。
 両親は誰でも(極端な例外を除いて)、自分の子供を愛しています。愛しているがために、子供が将来、より良く育って欲しいと願うあまり、育児を間違ってしまいます。それは、いろいろな観点から説明できます(例えば、親の自我が未成熟だから、とか)が、ある面、「サイコシンセシス」の「同一観」「脱同一観」の視点から考えてみますと、非常にわかりやすいものと思います。

●(2)それでは、なぜ、育児を間違えてしまうのでしょうか?それは、

<<<文明開化の流れの中、明治政府は、日本全土の「陋習(ろうしゅう)」を廃止していく。そこでは、民族性の異なるアイヌの文化の独自性は留意されず、「陋習」などとみなされて制限あるいは禁止されていった。>>>

 これと同様の考え方が親の側にあるからです。
 経験豊富な親の側からみると、乳幼児や少年の生き方、やり方は「陋習」、つまり、間違ったものだと考えてしまう傾向にあります。「個性」とはみずに、間違っていると見れば、それを正すのは当然のことです。
 上記のアイヌの問題も、「親アイヌ派」だとういうところが悲しいですね。これは正に「親子供派」、つまり、子供を愛しているが故に「同一化」したくなるわけです。例えば、他人の子供であれば、大金を掛けて「ピアノ」をやらせたり、「ダンス」や「英会話」「アイススケート」などをやらせるわけがありません(スケートの金メダリストの「荒川静香さん」は、スケートの実力が上がれば上がるほど費用がかかり、毎年、1千万円もかかったそうです)。

●(3)つまり、「同一化」とは、それと「一体化」することを意味します。二つのモノが「一体化」するということは、どちらかが「消滅」を意味します。アイヌの文化が消滅するように、育児のときに、親の側(ひとまず母親とします)が愛する(溺愛する)が故に、正しいと思う自分のやり方を通す(強制する)ことになります。
 母親が、正しいと思えば思うほど(権威ある育児書など)、強制力は強くなります。あらゆる面で、パワーが桁違いですから、有無を言わさず、親の要求するようにやらせることになります。その結果、子供の個性は抹殺されて、親に対して従順になります。その時、世間では「いい子ネ」と言います。これが「いい子」の実体です。

●(4)これに対して、「同一観」とは、そのように「見做す」ことを意味します。親の「感性」で、赤ちゃんが泣いているのは「お腹が空いたのかな?」とか、「オムツが濡れたのかな?」とか、はたまた、「眠いのかな?」と我がことのように、子供の気持ちにフォーカスしてより良く理解しようとする「心理・心境」と言えば良いかもしれません。
 「同一化」であれば、同一化するための「強制力」が働きます。親の側の価値観に同一化させようとする強制力が働きます。しかし「同一観」であれば、そのように「見做す」のですから、そのように「見做して」みて、間違えば変える心理的な余裕があります。

 例えば、「お腹が空いたのかな?」と思ってオッパイを上げようとしたが飲もうとしない場合、「眠いのかな?」と柔軟に対応できますが、「同一化」の場合は、オッパイを飲もうとせずにグズる赤ちゃんを、思い通りにならない厄介な子のようなイライラ感が起きやすくなります。何故ならば、「同一化」の場合は、善意で出発していますが、自分の思い通りにしようとする強い傾向があるから、思い通りにならない赤ちゃんに対して、ついつい、イライラしてしまいます。

●(5)さて、「同一化」か「同一観」かの違いはさておき、乳幼児、特に「乳児」の場合は、泣くこと以外、通信の手段を持っていません。そのために、親の「感性」、つまり、「同一化」なり「同一観」なりの能力がとても強く要求されます。この時期は、「同一化」でも「同一観」でも構いませんので、乳児の要求にいかに適切に応えるか、これが非常に重要です。
 「同一化」と「同一観」の違いの重要性は、大体、3歳くらいからです。それまでは、どちらでもひとまず構いませんが、乳児が生きるうえで必要な要求にいかに適切に応えるかが求められます。  数十年前までは、乳児のこの要求に応えることは日本人は本能的にうまかったように思います。何故ならば、国中が貧しかったので、とにもかくにも命を大事にしたことと、子供の数が多かったために、子供への過干渉が拡散されたこと、さらには「カラオケ」や「ディスコ」や「ゲーム」やいろいろな遊びが豊富でなかったこと、さらには、洗濯機や冷蔵庫などの文明の機器もなかったために、育児が相対的に楽だった・・・・・つまり、洗濯をするのも、ご飯を炊くのも、風呂を沸かすのも、何もかもが大変な作業だったために、育児が今よりも際立って大変だという印象が薄かったのではないかと思います。  日常の作業が大変だったころは、日々の大変な作業の中に「育児」が組み込まれていて、育児が際立って大変ではなかったものと思います。しかし、電化製品が自由に利用できるようになってくると、「育児」だけが際立って大変な作業になってきました。
 その上、思い通りにならないイライラ感・・・・・炊飯器ならば、機械が勝手に、そして思い通りに炊飯してくれます。洗濯機も、洗濯物を放り込んでスイッチを入れれば、誰がやっても、同じようにキレイに洗濯してくれます。自動車もおなじです。一週間分の食料を冷蔵庫に入れておけば、いつでも自由に料理して、空腹を満たすことができるようになりました。

 このように何もかも、お金さえあれば、自分の思う通りにうまく事が運ぶようになりました。
 しかし、育児だけは、今も昔も、大変さ、困難さは変わりません。しかも、周囲に協力してくれたり、教えてくれたりする育児の長老がいなくなりました。昔は、乳幼児がいれば、近所で助け合ったものです。買い物も手伝ってくれたり、泣き止まない赤ちゃんがいれば、話し相手になってくれたり、教えてくれる仲間やお年寄りがいましたが、今は、孤立無援の中で、半分、パニックになりながら育児している家庭が多いのではないでしょうか?

●(6)さて、乳児の段階は、「同一化」でも「同一観」でも構いません。とにもかくにも、赤ちゃんが要求するものを可能な限り適時、適切に対応することです。現代の大きな問題は、「同一化」なり「同一観」なりの能力が極端に落ちてしまったことが大問題だと思います。
 日常生活の中で、余りにも「育児」が突出した作業・・・・・といったらよいのでしょうか?それとも仕事といったらよいのでしょうか?・・・・・オムツなどの便利品はありますが、基本的に大変な作業であることは、昔から余り変わっていません。
 その結果、突出して大変な作業である「育児」の能力が極端に落ちてしまったことが、毎日の悲惨な事件につながっているように思えます。ゲーム感覚で、たとえば「たまごっち」のように手軽にできない「育児」に、おそらく、日本中で重大問題を引き起こしていると推測します。重大問題を孕ませながら「育児」をし、その中の一部が悲惨な事件という形で表面化しているものと思われます。

 さて、乳児の段階は「同一化」でも「同一観」でも、どちらでも構いませんが、2歳、3歳ころから、この両者の違いが大問題になってきます。
 その違いは、「脱同一化」「脱同一観」、つまり、乳・幼児の成長に合わせて育ててきましたが、乳児から幼児に成長するに合わせて距離を取る必要が生じてきます。乳児が少しずつ「個性」・・・・・「自分」というものを育ててきます。理想を言えば、「個性」を育てた量に比例して「脱同一観」が必要ですが、無意識のうちに「同一化」して育ててきましたので、「脱」することが非常に困難になります。

 先ほども述べましたが、「同一化」して育てた乳児から幼児になるにつれて、少しずつ距離を置きながら「育児」をしていくことが重要です。しかし、言うは易く、これは困難を極めますが、今の日本は、これよりもさらに「重症化」して、十分な「同一化」・・・・・つまり、乳児の要求をそれなりに満たさずに「育児」がなされていることです。
 従来は、「同一化」して育てた乳・幼児を、「脱同一観」で育てることが困難でしたが、今や、基礎である「同一化」があまりにも不十分な中で「育児」がなされていることです。
 
 これについては「次回」に説明します。
 次回は、「同一化」ができていない「育児」の問題と、「同一化」したあとの「脱同一観」の重要性を説明します。

く文責:藤森弘司>

言葉TOPへ