2010年11月15日 第100回「今月の言葉」
①
●(1)「逆説」という言葉は、私(藤森)が長年愛読している井沢元彦氏の「逆説の日本史」(週刊ポスト)にあやかってつけました。 それともう一つの理由は、次の通りです。多くの心理学は、心理学者の「理論」です。私のように「心理学の職人」を自称している人間は、「理論」よりも「技術」を重視します。 実は、「心理学」の世界は、私の「独断」と「偏見」でみますと、ほとんど全ての専門家は「学者」、あるいは学者的「理論」を中心に勉強しています。西洋医学の世界は、理論的な「学者」よりも、技術的、職人的「実践家」がほとんどではないかと思っています。あるお医者さんに聞いた話ですが、「手術」の本を書いている医者が、実際には「外科手術」ができないか、下手であると。まさに、理論家の側面を見せてくれています。 これに反して、心理の世界は、目に見えない世界だけに、学者的理論を中心にする「専門家」がほとんどであると思っています。恐らく「99%」以上だと思われます。 いや、実際にカウンセリングなどの分野で、ウツや不登校の生徒などに対応している「実践家」ではないかとおっしゃるかもしれません。しかし、私からみますと、どうしても心理学の「職人」とは思えません。職人ではなく、理論が中心の学者的活動を中心にしていると思っています。 例えば「ウツ」を例にとってみます。おそらく、ほとんど全ての専門家は「ウツ」を治そうとしているはずです。しかし、「ウツ」は本人の無意識が「病根」を治療している最中を意味するのですが、治療中である「ウツ」を治そうとするのですから、一般に言われる「ウツ」が治るわけがありません。 心理学の「職人」として、クライエントの方を長期にわたってお世話していますと、見えない多くのものが見えてくるから不思議です。見えないものが見えてくれば、いかに理論は「大雑把」であるかがわかってきます。「ザルで水を掬う」という言葉がありますが、ザルどころか、「網」で水を掬おうとするようなものです。この「網」の目をいかに埋めていくか、これが実際にクライエントの方の対応に必要な「職人的技術」です。 もちろん、「理論」は絶対に必要です。理論を否定しているのではなく、理論は理論として重要な役割・・・・・喩えていえば、海の「灯台」のような役割を担っています。しかし、難破しそうな船を実際に嵐から守るのは「灯台」ではありません。操船や方向性を考えたりする「職人」の技術です。現実の世界は、このことを誰もが理解していますが、こと心理の世界になると、目に見えない分野ですので、「理論」がほとんど絶対視されてしまっています。 このような誤解が世にはびこっていますので、敢えて「逆説」としました。再度書きますが、「剣豪小説家」は「剣道」の達人ではありません。そして「学位」と「名医」も関係ありません<参考・「今月の言葉」第99回「名医と学位は無関係」>。 さらには、私(藤森)の独断と偏見で、好き勝手に言いたいことを書き連ねた場合、今までご指導いただいた諸先生方にご迷惑をおかけしたり、私の説明が斯界の一流の先生方の「学説」と違うことで、誤解を生じたり、迷惑をかけるようなことがあってはいけないので、敢えて「逆説」と命名しました。 これから、長期にわたって「交流分析」や「サイコシンセシス(精神統合)」などの心理学について「説明(解説)」をしていきたいと思っています。 ●(2)さて、タイトルの「同一観」「脱同一観」は、「サイコシンセシス(精神統合)」という心理学の重要な用語です。「サイコシンセシス(精神統合)」を学ぶ方の、多分、ほとんど全ての方々は、「同一化」「脱同一化」という用語で学ぶはずです(翻訳の本が「化」であるため)。 この「化」を「観」に変えた業績はとてつもないものがあります。「化」はそれと一体になることですが、「観」は、そのように「観る」ことを意味します。この差は、とてつもないものがあります。とてつもない、というよりも「正」と「邪」ほどの違いがあります。 日本の過干渉・過保護が過ぎる育児・・・・・「化」になっていることからくる歪みは、最終局面に至っているのではないかと思えるほど、育児の歪みがひどくなっています。 今回は、時間が無くなりましたので、続きは次回にします。 |
く文責:藤森弘司>
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