2010年10月15日 第99「今月の言葉」
「名医」と「学位」は無関係

●(1)剣豪作家が剣道の達人とは無関係であることは、恐らく、誰でもご存知のことと思います。

 文芸評論家が(良い)小説を書けないことも、多分、多くの方はご存知のことと思います。それでも、評論家に殺された作家は多い(?)と言われています。

 恐らく、ほとんどすべての分野においても、同様のことが言えるのではないかと推測します。つまり、「理論」「実践」は違うということです。私流にいえば、「学者」「職人」は、根本的に違います。
 もちろん、天才的な人がいて、その両方に優れるということが、奇跡的にあるかもしれません。そういう古今東西の歴史上類稀な人がいるかもしれないことまでは否定しませんが、通常は、「学者」的業績が優れていれば、「職人」的な業績は優れていないというのが「常識」です。
 また、「職人」的に優れている人は、「学者」的な分野がまるっきり優れていないということが「常識」です。多くの場合は、どちらもそこそこなのではないでしょうか。

 しかし、不幸なことに、「学者」的な理論が優れていると、「職人」的な能力も高いと誤解されていることです。多分、「学者」的能力は、「職人」的能力よりも上級に位置するという誤解があるのではないかと思います。

 「天は二物を与えず」といいますが、やはり「学者」的能力と「職人」的能力の両方を達成することは、極めて困難なものです。しかし、「学者」的な能力のある人が、「職人」的能力は無い(あるいは乏しい)ということを率直に認めることは、どうもプライドが傷つくようで、「職人」的能力もあるフリをしたがる傾向が強くあるようで、それがまた、理解を困難にしているように思われます(心理の世界にも、この傾向は強くあります)。

<参考、第40回、41回、第42回、第43回、第48回の「今月の言葉」「現場力について」
 
 それを証明する、極めて適切な資料を下記に紹介します。

●(2)平成14年7月21日、読売新聞「WEEKLY コラム」<医師・作家(在ボストン)、李啓充>

 <名医と学位は無関係>

 故岩田猛邦先生は私の研修医時代の恩師である。専門は呼吸器内科だったが、私の知る多くの医師の中でも、岩田先生ほど名医という名がふさわしい医師はいなかった。
 呼吸器内科の医師に要求される最も基本的な技量が胸部エックス線写真を「読む」技量である。岩田先生の「読む」腕は、文字どおり名人技だった。同じエックス線写真を、他の何十人もの医師が見ているのに、先生にしか見えない所見があることはしょっちゅうだった。その後私は研究者の道を進んだが、データを「見ている」ことと「読む」ことの決定的な違いを岩田先生から学んだことが、実験データを「読む」際に大いに役立った。

 腕が確かなだけでなく、患者にも優しく接する後ろ姿を見ながら、「岩田先生のようになりたい」と、私を始め多くの研修医があこがれた。岩田先生も若い医師の指導にはとりわけ熱心で、門下に多くの優秀な呼吸器内科医を育てられた。
 そこの病院の呼吸器内科部長のポストが空席になったとき、新部長には岩田先生が最適であることに異論を唱える人はいなかった。が、岩田先生が部長になるためには大きな障害があった。「医学博士の学位がないから」というのだった。先生は臨床の激務をこなすかたわら学位論文を書かなければならなかった。

 私は、医局講座制が日本の医療を歪めている元凶だと何度も書いてきたが、実は医局講座制を主宰する教授の権力を支えているのがこの学位制度なのである。
 日本の大病院のほとんどが学位を部長職の要件にするなど、学位がないと昇進できないという馬鹿げた制度になっている。このため医局員は学位をもらうために教授に逆らえない構造になっているのである。

 多くの教授たちが、研究することが臨床の腕を磨くことにもつながると学位制度の効用を主張する。だが、岩田先生の例でも明らかなように、研究することが名医となるための必須要件であるという主張は根拠がないし、逆に、研究者としての私に一番大きな影響を与えたのは、岩田先生の臨床の腕だった。

 私は、医学の基礎研究に意味がないということを言っているのではないし、研究が好きな人は研究に進めばいい。臨床の場で指導的立場に立つことに「研究歴=学位」を要件とするのは意味がないし、そのことが日本の医療を歪めていると言っているのだ。

く文責:藤森弘司>

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