2010年1月15日 第90回「今月の言葉」
知足観(3) ちそくかん

 以下は「ありがとう」高木善之著、「地球村」出版より転載させていただきます。

●(1)「僕は走っています」

 きのうは運動会でマラソンに出ました。
 僕はふだんから練習していて自信があったので、「十番以内に入ったら、ごほうびにどこか連れて行って」とお父さんに頼んでいました。
 思い切り走りました。途中まで3番でした。
 十番以内は確実だと思いました。
 途中の細い道のところに大きな石が転がっていました。
 僕はいったん通り過ぎてから「危ないな、誰か転ぶな」と思いました。 
 それで止まって引き返して、その石をどかしました。
 その間にだいぶん追い抜かされて、十一位になりました。
 十番以内になれなかったけど、僕はすごくいい気持ちになりました。
 僕は今も走っています。

 私がこれを知ったのはだいぶん前のことですが、今でもその時と同じ新鮮な驚きがあります。みんながこの子のようであれば、争いも破壊もなくなるでしょう。
 競争社会では大人になるにしたがって、自分の利害にとらわれ人のことが考えられなくなります。そして、自然との関わりすら失うようになります。
 でも、多くのものとの関わりを失うことは、自分の存在感、安心感、充実感を失うことではないでしょうか。

   幸せとは、すべてのものとの関わりがあると感じること
   すべてのことに責任を持つこと
             サン・テグジュぺリ「星の王子様」より

●(2)「古い筆箱」
 
 うちではあまり新しいものを買い与えません。
 娘が小学校に入る時、妻は自分の古い皮製の筆箱を出してきて、「これはお母さんが小学校の時から大切に使っていた宝物なの。これを買ってくれたお父さん、加乃のおじいさんは、お母さんが小学校の時に亡くなったの。お母さんはこれをお父さんの形見としてとても大切にしてたのよ。お前が大切に使うんだったら、あげようか」と話しました。娘は、
 「うん、大切に使うからちょうだい!」と言って、それをもらいました。

 ある日、担任の先生から電話がかかってきました。
 「加乃ちゃん、古い筆箱を持っていますね。きょうそれがクラスで話題になりましてね」
 先生の話によると、男の子が娘に「お前の筆箱、古いやないか、僕のはこんなんやで」と自分のピカピカの筆箱を自慢したのです。ほかの子も周りに集まってきて、娘の古い筆箱のことを囃(はや)し立てたそうです。
 それに気づいた先生が、とっさになんて言おうかと迷っていると、娘は「ねっ、古いでしょ!いいでしょ!これはお母さんが子どものころから大切に使っていたんだって。おじいちゃんの形見なの。私も大事に使って、私の子どもにこれをあげるの」と言ったそうです。
 周りの子どもたちは一瞬シーンとなり、そしてしばらくすると男の子たちが「ふーん、ええな」と言ったそうです。
 先生は、それを見て大きなショックを受けたそうです。
 この話はそのあと、PTAや近所で評判になり、何度か「お話をしてください」と頼まれました。またPTAでも「いじめ」についての話し合いなどの折に、例としてよく話されました。

 いじめはなぜ起こるのでしょう。
 いじめは親や先生などの大人の見方や考え方が子どもたちに大きく反映しているのかもしれません。

●(3)「きっかけ」

 私の子育てのきっかけとなった事件についてお話したいと思います。
 私の住んでいる近くに金剛山という山があり、家族や学校でもよく登ります。冬には雪が積もりますので耐寒訓練などもあります。だいぶん前のことですがそこで小学生が迷子になるという事故が二件ありました。
 一人は翌日、雪の中に穴を掘ってじいっとうずくまっているところを、無事に助けられました。もう一人は凍死していたのです。

 新聞に掲載された記事によると助かった子は、
 「お父さんがいつも『何かあれば必ず助けに行くからじっとしているんだぞ』と言っていたから、雪の中でじっとしていた。怖かった。さみしかった。でも怖くなったら歌を歌った」とのことでした。

 そして、実際にお父さんは、捜索隊に加わりその子を助けにいったのだそうです。助かった子どもは、実際にお父さんの教えを守って、命が助かったのです。

 死んだ子は、「パニックを起こし、ジャンパーがなくなり、あちこち体中に傷があり、体力を消耗し、滑落して凍死」とのことでした。

 この記事を読んだ私は「この子の死を無駄にしたくない。この二人の運命を分けたものは何だろう」と思いました。本当のことはわかりませんが、私はその時、自分なりに次のことを決意しました。
 もっとも大切なことは生きることだ。
 どんな状況でも幸せに生きていくことのできる力を身に付けることだ。そうだ、子どもにとって一番大切なのは、学歴や偏差値、出世ではない。どんなことがあってもパニックを起こさず、現実を受け止め、冷静に判断し、生き抜く力なのだ。
 それには何も恐れないこと、いついかなる場合でも、誰とでも仲良くするだけの度量と勇気が必要なのだ。
 私たち大人が、子どもに与えるのは、どんな状況でも、生き抜く力、誰とでも仲良くできる力なのだ。

 これが私の子育ての根本になっています。

 父のことを書きましたから、今度は母のことも・・・・・。
 母は八十八歳。父より四歳年上です。
 数年前、脳出血で片方失明、そのためかよく転んで怪我をしたり骨折をしたり・・・・・。
 体も衰え、母もいつ何が起こってもおかしくない状況ですので、とても心配です。
 私は海外など長期に出かける時、「もう会えないかもしれない・・・・・」という思いで、分かれる時「じゃあ、元気でね」とふざけたフリをして母を抱き、心の中で「さよなら」を言います。すると、母は、「そんなことをせんといて。もう会われへんみたいでいやや」と言って照れたりもがいたりします。
 背中が曲がって小さくなった母は、背は今は私の胸にも届きません。五十数年前、私が小さかった頃、海で母にしがみついた時、私の顔の前に母のお腹があったのです。その時の母は大きく、背は私の二倍はあったのです。あれほど大きく、あれほど安心だった母が、今では小さくなってしまいました。

 私は、今のように環境問題や生き方の講演を始める前に、その準備として様々な体験をしました。その一つとしての農業体験の中で、サトイモの収穫をした時、農業指導員から「親イモは?」と問いかけられました。一株に五個以上の小イモが丸く並んで育っているのですが、その真中だけ何もないことに気づかされました。しばらく親イモを捜していて、ふと気づきました。
 「そうだ!この真中の何もない場所が親イモを植えた場所なんだ・・・・・親イモは子イモにすべてを与えつくして、土に還っていったんだ・・・・・!」
 このことに気づいたときは、ショックでした。

 サトイモであれ、動物であれ、親は子どもに、自分のすべてを与えつくして土に還っていくのです。それが自然なのです。それが当たり前なのです。
 それを繰り返している限り、生命は永遠に続くのです。
 すべての生物も、私たちも人間も、長い間それを繰り返してきただけなのです。

 その時、「わかった!間違いがわかった!不自然なことをしているんだ!本当の生き方がわかった!自然に生きれば、戦争も環境破壊も起こらないんだ!」と。
 そのことに気づき、私は畑の土の上にしゃがみこみ、涙が止まらなかったのを、今あらためて思い出しました。

<高木善之(たかぎよしゆき)氏・・・・・NPO法人ネットワーク『地球村』代表。1947年生まれ。1970年、大阪大学基礎工学部卒業。松下電器に入社(在職28年、退職)。合唱やオーケストラの指揮者としても活躍。
1981年、交通事故に遭い、一年間の入院中自分との対話の中で『非対立』の考え方を確立する。そして一生を「みんなの幸せ」の実現のために使うことを決意。「美しい地球を子どもたちに」「平和な世界を子どもたちに」と訴えて様々な提案をしている。
講演や著書の内容は、環境、平和問題から、いじめ、不登校、子育て、生き方など、現状の社会の様々な問題にわたっている。
主な著書は、『ありがとう』『だいじょうぶ』『いのち』『虹の天使』『選択可能な未来』『新版オーケストラ指揮法』『生きる意味』『非対立の生き方』『本当の自分』『絵本シリーズ』『新地球村宣言』など多数。>

<お問い合わせ先・・・『地球村』出版(ネットワーク『地球村』事務局内)
〒530-0027大阪市北区堂山町1-5大阪合同ビル301号 ℡06ー6311ー0326  FAX06-6311-0321
ホームページ・・・http://www.chikyumura.org   email:office@chikyumura.org>

●(4)2009年5月9日、読売新聞「五郎ワールド」特別編集委員、橋本五郎

 <母なるもの>

 <天に「見る目・聴く耳」>

 監督として1500勝の偉業を成し遂げた楽天の野村克也監督は1954年、南海ホークスにテスト生として入団した。父は3歳のときに、出征先の中国で戦病死していた。
 子宮癌と直腸癌と闘いながら女手ひとつで育ててくれた母を早く楽にさせてやりたい。その一心でプロのテストを受けた。
 なんとか合格したものの、月給はわずか7000円。その中から毎月1000円ずつ仕送りした。後に高給をもらうようになって仕送りも増えたが、母はつぶやいていた。
 「今の何万円よりも、7000円の月給から1000円送ってくれた頃のほうが、有り難かったよ」
 母が亡くなった後、預金通帳が出てきた。通帳には、送金していた1000円がそのまま貯金されていた。野村さんは『野村の「目」』(KKベストセラーズ)に書いている。
 <球団をクビになって、故郷に帰ってきたとき困らないようにとの配慮だったのだ。明治生まれの母の気遣いを死後に知り、私は居たたまれない思いを覚えたことを、決して忘れない>
 14年前に81歳で亡くなった私の母もそうだった。秋田の実家に帰れるのは年に2回、お盆と正月だけだった。
 ささやかなお小遣いを渡そうとしても受け取らない。そこで帰る際に、家内がそっと仏壇の奥に封筒を置いてきた。死後、預金通帳を見たら、ボーナスのときに送った分と合わせ、一銭も手を付けず貯金していた。

 <略>

 戦後初の東大総長として敗戦後の国民に大きな精神的影響を与えた南原繁(1889~1974)は、母きくの一周忌にあたる1942年、その生涯を私家版としてまとめた。
 私がまだ3歳くらいのとき、母は冬の暗い暁の道を私を負ぶって3里も4里もある遠い所に出かけた。母にとっても身を切られるような最も辛い事件のあったときだった。
 母の背で「お母さん!お月さんが一緒に歩いている」と叫んだ私に、母は言った。
 「そうとも、お月さんも私達を守っていてくれます。天には『見る目・聴く耳』というのがあって、私どものすること言うことは、誰一人知るまいと思うても、ちゃんと知っていてくださる」。そう自らも励まし、困難な問題を解決した。
 母子でこんなやりとりをしたことを大きくなってから聞かされた。以来、超越的、絶対的な存在の前に、「いかなる場合においても常に正直と真実であらねばならぬことを、一生の教訓として私の生涯を支配するに至った」という。
 母の存在は限りなく大きい。私にとっても母の言葉は今でも重く響いている。
 「仕事に手を抜くな。全力であたれ」「傲慢になってはいないか。常に謙虚であれ」
 そして「どんなに嫌な人でも必ずいいところがある。そのいいところだけを見ればいい。自分にはない、こんないいところがあると思えば、嫌な人なんていなくなる」
 母の教えに背いていないか。絶えず自問しなくてはいけない。芯からそう思っている。

<文責:藤森弘司>

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