2009年9月15日 第86回「今月の言葉」
“幸せ”についての一考察

●(1)昔、コマーシャルにありました。「幸せってなんだっけ、なんだっけ・・・・・ポン酢醤油があるうちさ!」だったと記憶していますが、冗談はさておき、「幸せ」って何でしょうか?
 もちろん、人それぞれですから、「幸せは、これこれです」という類いのものでないことは確かです。確かではありますが、私(藤森)の推測では、非常に多くの人たちが「幸せ」を誤解しているように思えてなりません。
 そこで、今回は、私(藤森)の意見をあまり言わずに、ほとんど全く同時にマスコミに掲載された記事をご紹介して、一考察としたいと思います。●(2)①平成21年8月3日(推定)、大原麗子さんが亡くなりました。②また、同じく8月3日未明、酒井法子容疑者が覚醒剤発覚問題で逃走しました。③そして、8月25日、エドワード・ケネディ民主党上院議員が亡くなりました。
 この3つの新聞や週刊誌の記事を読むにつけ、「幸せ」ってなんだろうと考えさせられます。3人の記事を順番に掲載します。
●(3)平成21年8月8日、日刊ゲンダイ「大原麗子・痛々しかった晩年」

 <自宅ベッドに死後2週間>

<手足マヒ、近所とトラブル報道も>

 大原麗子(写真は省略=62)が亡くなった。6日夜、大原の弟が連絡が取れないため警察に届け、成城署の警官が自宅に入ってベッドで死亡しているのを確認。死後2週間とみられ、一部は腐乱していたという。
 89年のNHK大河ドラマ「春日の局」の主演で大女優の地位を確立、「少し愛して、なが~く愛して」のサントリーのCMも好評だった。
 私生活では渡瀬恒彦、森進一と2度の結婚をし、森と別れる際は「家庭に男が2人いた」という名言を残した。テレビのレギュラーは98年の大河ドラマ「徳川慶喜」で辰五郎(堺正章)の妻役とナレーションを担当したのが最後だった。
 99年ごろから手足の神経が麻痺して歩行などが困難になるギラン・バレー症候群をわずらい、昨年秋には自宅で転倒して右手首を骨折した。
 「もともと男まさりでプライドが高く、近寄りがたい性格でしたからね。テレビ界も無理して出演をお願いするまでにはいかなかったようです」(テレビ関係者)
 性格が災いして時代に置いてけぼりにされたのだろうか。
 芸能評論家の肥留間正明氏が言う。
 「芸能史に足跡を残した人でした。我が強い性格でしたが、実家は文京区にある老舗のお菓子屋さんで、お嬢さんとして育った。この10年間は病気のこともありますが、仕事にガツガツせず、50才で芸能界から身を引いたようなつもりだったのではないでしょうか。そんな中、女性誌に近隣住民との関係がうまくいってないことを書かれて裁判を起こし、勝訴したこともありました」
 それにしても早すぎる死。今夜はサントリーで献杯だ。

●(4)平成21年8月8日、日刊ゲンダイ<酒井法子「子供預けてあるから」と署への同行拒否>

 <知人男性の車で姿消す>
 知人に預けていた小4長男(10)は無事が確認されたものの、いまだ行方知れずのタレント酒井法子(38)が、夫が逮捕された現場から知人男性の車に乗って姿を消していたことが分かった。
 夫の高相祐一容疑者(41)が渋谷・道玄坂の路上で渋谷署員から職務質問を受けた3日未明、夫は「妻は有名人だ」などと言って酒井を現場に呼び出している。
 けさの一部の報道によると、黒っぽい服にサングラス姿で現れた酒井に、署員が「ここは人目があるので交番へ」と促すと、「行く必要はない。ここでいい」と拒否。夫のズボンの膨らみについても「下半身の薬だから見せられない」と言ってモメたという。そこで夫は「社長」と呼ぶ知人男性をも現場に呼び出し、3人と署員のやりとりは2時間近くに及んだ。ところが夫がズボンから取り出した白い粉が簡易鑑定で覚醒剤と判明すると、酒井はその場で泣き崩れた。署員が渋谷署への同行を求めると、「子供を預けてあるので、後で行く」と言って、知人男性の車に乗ってそのまま署には現われなかった。
 その直後、夫の母親に電話で「どうしていいか分からない」と泣いて話し、長男を知人宅に預けて消息を絶った。
 酒井の行き先については、山梨県内の宗教施設がかくまっているという報道のほか、出身の福岡県内に身を寄せているという情報もある。

 <最悪のタイミング!>
<いま話題の「裁判員制度」PR映画の主役は酒井法子だった>

 「タイミングが悪すぎた」・・・。広告関係者が苦笑いするのが酒井法子(38)の一件だ。夫の高相祐一容疑者(41)が覚醒剤取締法違反で逮捕されたショックから失踪したとニュースになっている。
 夫が逮捕されたのは3日の未明なのだが、どういう偶然か、この日は東京地裁で初の裁判員裁判が開かれた日でもある。実は酒井と裁判員制度には浅からぬ縁がある。最高裁はこれまで裁判員制度の広報用アニメや映画を製作しているが、その最後を飾ったのが酒井主演の「審理」だった。
 酒井扮する平凡な主婦がある日、殺人事件の裁判員に選ばれ、審理の過程で困惑する姿を描いたドラマ。1時間もので制作費は7000万円。最高裁は08年4月から、この映画のDVD5万枚などを全国の学校、図書館、裁判所に配ったほか、現在は最高裁のHPにもアップされている。誰もがパソコンを使って観賞できるのだ。

 <7000万円もかけた最高裁の困惑>
 広告関係者が言う。「時間をかけてやっと裁判員裁判が始まったのに、同じ日にPR役の主演女優の夫が逮捕とあっては、最高裁も立場がないでしょう。しかも酒井まで失踪してしまい、警察沙汰になっている。最悪のタイミングです」
 酒井法子は「審理」への責任を感じて失踪したのだろうか・・・・・。

 藤森注・・・・・高相容疑者が逮捕された3日未明は、最高裁が長年、力を入れてきた「裁判員裁判」が初めてスタートした日、8月3日の月曜日です。因縁とは不思議なものですね。>

●(5)平成21年8月27日、読売新聞「名門・最後の大黒柱」

 <ケネディ氏死去・いち早くオバマ支持>

 「評伝」25日死去したエドワード・ケネディ民主党上院議員は、希代の大統領ジョン、司法長官ロバートの2人の兄の栄光、そして暗殺の悲劇という名門ケネディ家の伝説と神話を一身に背負い続けた「王朝」最後の大黒柱だった。半世紀近い上院での政治人生は、公民権運動や教育、福祉など内政分野で大きな足跡を残し、初の黒人大統領誕生への潮流をいち早く見極めた洞察力とともに長く米政治史に名を残すことになろう。
 <本文記事38面>

 1958年、当時上院議員だった兄ジョン・F・ケネディの再選キャンペーンに参加する形で政治活動に入り、大統領になった兄が暗殺される前年の62年、30才でマサチューセッツ州選出の上院議員に当選した。68年には、大統領選に立候補した兄ロバートも凶弾に倒れた。
 宿命的に、兄たちの遺志を継ぎ大統領に、という期待が政治人生につきまとった。80年に、カーター大統領の再選を阻止しようと初めて予備選に出たが敗北、「夢は決して死なない」の名セリフを残し、ホワイトハウスへの道をあきらめ、上院議員としての活動に専念することになる。
 上院では、リベラルの旗を堅持。超党派の政治活動にたけ、障害者の機会均等を保証した障害者法(90年)など重要な法の制定に寄与した。国民皆保険の唱道者として知られ、医療保険改革には「人生の大義」として取り組んだ。それだけに、9月に医療保険改革法案審議の正念場を迎えるオバマ政権には痛手で、大統領は26日未明、「我らの歴史の重要な章が終わった。我が国は、卓越した指導者を失った」との声明を発表した。
 外交面でも、発言は常に大きな影響力を持った。ベトナム戦争終結に尽力し、イラク戦争に強く反対した。
 08年大統領選の民主党指名争いでは、長年の友人ヒラリー・クリントン上院議員(現国務長官)とたもとを分かち、「変革」(チェンジ)を掲げたオバマ氏への支持を1月時点で表明した。20世紀後半から21世紀初頭にかけて、米国の栄光と挫折をかみしめてきたケネディ王朝の長老として最後の卓見だったのかもしれない。
 (ワシントン・岡本道郎)

 藤森注・・・・・ここの新聞記事に載っている「ケネディ家の主な人々とその経歴・悲劇」が凄い。それをご紹介したいために、取り上げました。
元駐英大使のジョセフとローズ・フィッツ・ジェラルドとの間に、5人の子供が生まれます。
長男のジョセフは、1944年戦死。ジョンは元大統領で、63年暗殺。キャスリーンは48年、飛行機事故死。ロバートは元司法長官で、68年に暗殺。唯一、末っ子のエドワードが生き残り、今年の8月25日に天寿を全うしました。
元大統領ジョンの子供、ジュニアは99年、飛行機事故死。元司法長官ロバートの息子のデービッドは84年、麻薬中毒で死亡。もう一人の息子のマイケルは97年、スキー場で事故死>

●(6)平成21年8月28日、夕刊フジ「のりピー新事実続々・・・」「転落人生の裏に悲哀過去」

 <複雑生い立ち 捨て子だった>
 逃走に同行するなど酒井事件のキーパーソンの一人ながら所在不明だった継母。酒井容疑者に宿泊先などを手配したとされる東京・中野の建築解体会社会長(71)はサンケイスポーツの取材に対し、「継母と法子の息子は仲良し」と明かし、継母が現在、酒井容疑者の長男(10)と一緒にいると示唆。「警察と連絡が取れる場所にいる」「重い病だが、この騒ぎで病院に行けない状況」などと話した。
 また、会長はこの重病について一部スポーツ紙には、「肺がんと指摘されたから入院する予定だったが、この騒ぎでしていない」とも語っている。
 転落したトップアイドルの複雑な生い立ちを報じたのは、きょう27日発売の「週刊新潮」。西日本在住の酒井容疑者のもう一人の継母(60)を直撃、酒井容疑者が“捨て子”だったことが語られている。
 それによると、福岡県内の暴力団幹部だった酒井容疑者の父、三根城さんは、最初の妻との間に酒井容疑者をもうけた後、離婚。実母は若い男と駆け落ちし、乳飲み子だった酒井容疑者は三根城さんの実家である佐賀県内の寺に捨てられたという。

 <逃走に同行 継母は「肺がん」で>
 その後、酒井容疑者は埼玉・狭山市の叔母夫婦に預けられ、小学校低学年になったとき、再婚した三根城さんとこの継母に引き取られ、福岡で一緒に暮らし始めた。まもなく誕生した男児が、今年7月に覚醒剤使用で逮捕された酒井健被告(30)だ。三根城さんと継母はほどなく離婚、酒井容疑者を連れて三根城さんが再々婚した女性が、今回の逃亡に同行した継母にあたる。<後略>

●(7)平成21年9月4日号、週刊ポスト<現場の磁力>山藤章一郎と本誌取材班

<老親介護の日々「大原麗子」はこれからいよいよ増える>

 <現場データファイル・・・“病躯”と“母”と“高齢化”。かがやきから暗転を駆けぬけた女優が背負った痛切の重荷。>(今月の五行歌ご参照)

 「見て。もう体に力が入らないの。でも、でも、お母さんの看病もしてあげなきゃいけないの。ねえ、どうすればいいの・・・・・。ねえねえ」
 「あなたもお母さんいるでしょ。お母さんが困っていたら介護してあげるでしょ。私、それなのに。お願い・・・・・立ち上がるの、手伝って。力が入らないの」
 力が入らないだけではない。人のからだではなく、ほそぼそしい木の枝みたいにやせている。
 本誌『週刊ポスト』の取材(08年12月)で、大原麗子さんは自宅前の路上にうずくまった。
 そして半年と少し後、09年夏の8月3日(推定。6日に弟氏が発見)、薄命に斃れた。
 <お別れの会>は、8月23日、青山葬儀所でとりおこなわれた。
 献花する正面祭壇に、大原さんのかがやいた人生の一瞬を切りとった遺影がほほえむ。
 このかがやきの時を一緒に過ごした前夫・森進一は、事務所を通じて哀惜をささげた。
 「たがいに支えあって過ごした歳月は、若き日の思い出としていまもこの胸に深く残っております」
 1980年から4年間の結婚生活だった。男と女の運命的なめぐりあわせをたどり、男は最後まで女の身を案じた。

 森が18歳、大原さんが19歳。雑誌『近代映画』の企画で新進女優と新人歌手が箱根の<小涌園>に集まった折に、2人は出会った。
 数ヵ月後、18歳の森青年は六本木のディスコに友人と出かけた。
 近づいてくるひとがいた。
 「今日、あなたが来る。ぜったい現われる。あたし確信があったの」
 1歳年上のそのひとはのちに、「タレント好感度」や「お嫁さんにしたい女優」で長く世人に好まれる大女優になり、ドラマの共演で知り合った渡瀬恒彦と結婚離婚をし、青年は幾人かの女をさまよい、歳末の<紅白>に40年以上欠くことなく出場する大歌手になった。
 そして初めて出会ってから10数年の曲折をへてふたりは結婚した。
 芸能界史上最高の規模といわれた2億数千万円の式をあげた。
 結婚生活のさなか、女優は帰宅の遅い亭主を待つウイスキーのCMで「少し愛して、なが~く愛して」と、愛らしい素顔をみせた。
 このCMで妻に着物を着たほうがいいと説いたのは、夫だった。
 女優は週に2本の主役レギュラーを持つなど多忙をきわめた。人生の絶頂期だった。だがこのころすでに、難病のきざしがあった。
 ときどき不注意に、指に力がはいらない。そして森と別れて数年後に、きざしは牙を剥きはじめる。

 「あっ、痛たたたた・・・・・」「今日も2つの病院に行ってテーピングとかギブスもするの。鍼にも行かなきゃいけないし。ほかの病院も通ってるの。それくらい悪いんです」
 前出の本誌取材と同時期、自宅を訪ねた『女性セブン』の記者に大原さんはインターホン越しで答える。彼女の辛さが痛いほどつたわる取材である。以下、同志08年12月4日号より引用する。
 自宅のガレージで「蛙みたいに這う格好で」ころんで、右の手首2ヶ所を骨折した時だった。
 「絶対に私を(カメラで)写さないでね。いまものすごい格好なの。ちゃんとしたお洋服が着れないんですよ。本当はきちっとして病院へ行きたいのよ。でも右手は2ヶ所も骨折していて、ギプスしてるから髪も洗えないし、お化粧もできない・・・・・字も書いたりできないのよ」
 この10年前ほどに、帝国劇場の座長公演の舞台中、左手薬指と右足親指を骨折していた。
 難病指定の<ギラン・バレー症候群>だった。
 「あっ、痛い」
 声をあげた大原さんは、インターホン越し、近くにいるらしき母親に声をかける。
 「お母さん、キッチンの床暖房入れるの忘れちゃった。寒い。入れてくれる?ごめんね」
 「私の症状はいくら親だってお母さんのリウマチがどんなに痛いか、わかんないんですよ。そして、私はいまは介護もちゃんとできないんですよ・・・・・。それなのに母は、私がけが(骨折)のことを心配してくれて・・・・・」
 大原さんはインターホンの向こうで泣きじゃくり始めたという。
 そして、母に声をかける。
 「お母さん、パン食べたら?パン食べてお散歩行こうか?それ、持ち上げられる?ごめんね、私できなくて・・・・・」

 <自宅のテレビで笑うかつての共演者たち>
 大原さんが最期を迎えた世田谷区岡本は坂の町である。繁華な商店街から遠くはなれ、飲食店もほとんどない。バスの本数も少ない。体が痛い大原さんは、長い急坂を、息をつきつき登らなければならない。
 過酷な暮らしだった。
 骨折を心配してくれる母・飯塚俊子さんは心臓弁膜症とリウマチを併発して車椅子の生活である。
 トイレも風呂も、娘と一緒でなければ不安がった。
 92歳になる<要介護3>。
 <3>は、ひとりで立ちあがれず、排泄、食事などで全面的に人の助けが要る度数をいう。
 8歳の時に離婚し育ててくれた母は、昔、国語の先生だった。
 母は旧姓の飯塚に戻り、子どもたちは学校途中で、文京区の和菓子屋で生まれた大原のままだった。
 北区赤羽に暮らす弟・政光氏(60)が見かねて、母を看るようになった。だが娘は、自分の体も満足にうごかせないのに、母がいないと寂しがった。不意に、弟氏の家に母を連れかえりにきた。

 大原さんが息を絶やした日、母親は一緒ではなかった。
 2階の寝室のゆかに倒れていた。1・5メートル先に携帯があった。
 「不整脈による内出血」が解剖結果だった。
 <ギラン・バレー症候群>。
 病名は、ギランとバレー、ふたりのフランス人医師にちなむ。
 感染症などがきっかけで、手足、ついで顔の筋力が低下し、激しい痛みを引き起こす病気である。年間、10万人に1人がかかる。
 「女優の仕事をやめたいといちども思ったことがない」大原さんは、そうして10数年前に、サイン会、着物会、舞台、テレビなど、かがやきの場所から消えた。
 <ギラン・バレー>だけではなく、乳がんの手術も受けた。うつ病にもおそわれた。
 「週にレギュラー2本」が「ドラマ出演、数年に1本」となった。
 自宅のテレビで、かつての共演者たちが笑っている。
 自分の役を、なぜあの人が演じているのか。「納得できない」
 脚本家ほか複数の人に延々と電話で訴えた。彼らが「会って直接話しましょう」というと「会いたくない」と答えた。
 思い通りにならない身の辛さにじれて、そうして自分のいた社会に棘を立てた。

 さらに治療にも、女優は、心をはりさけさせた。
 「点滴をするんですけど、お手洗い行ったらでちゃうんですよ。わかります?私はほんとうは点滴を(もったいなくて)飲みたいぐらいでした。1時間半も2時間もかけて点滴して、それでトイレ行ってでちゃったらなんなんでしょうって・・・・・」
 「ギラン・バレーは再発再発、再再再再再再発なんです。もう何十年も何回もだもん。それをステロイドのお薬でしのいで」(前出の『女性セブン』より)
 結果的に最後になったテレビ出演で、食事の中身を披露した。
 「朝と昼は兼用でゼリードリンクかコラーゲンドリンク。夜は、少しだけ食べます。たまにビールを飲んで。ちょっとで酔っぱらっちゃうの」
 いっとき、薬の副作用で太ったが、一転、うつ病にかかって拒食症になり、命の終わりを迎えるころには、30数キロだったという。

 話は、少しそれる。
 大原さんはまだ62歳だったが、65歳以上の女性の55%以上はひとり身という統計がある。 
 死別、離婚、生涯独身と歩いて来た道はちがうが、2人にひとりの女性が、単身ということになる。
 そして子は自分が元気であろうとなかろうと親の介護を背負う。
 超高齢化する社会に、<大原麗子>は、これからいよいよ増える。
 介護保険を利用せよ、豊かな人間関係を築いておけば、ひとり老後でも怖くないと説く評論家もいるが、それほどなま易しくはない。
 多くの人との人間関係があった大女優ですら、孤独に果てる。

 大原さんが逝く3ヶ月半ほど前の春のさかり、<要介護5>の母を横に、遺書をおき、元・アイドルの清水由貴子さん(享年49)が父の墓前で自裁した。
 幸いにも、道連れにならなかった母は、40年間糖尿病をわずらい、歩行も困難で車椅子で暮らしてきた。目が不自由で義眼だった。
 骨折で、入退院をくりかえした。
 清水さんは小学生のころから、母の介護に明けくれ、バイトをしながら高校にはいった。介護に奮闘した長い苦難の歳月だった。そして最後はひとりで先に逝った。
 大原さんのこらえがたい辛苦が終わった10日ほどのち、東映でともに時代をつくった山城新伍さんがあとを追った。糖尿病に苦しめられ、車椅子の暮らしだった。
 東京・町田市の特別養護老人ホームで永別した。70才だった。

 <お母さん、なんで泣かないの?>
 <結婚>で大原さんは森進一にこう切り出された。
 子どもがにぎやかな普通の家庭をつくろう。歳をとって、みんなで仲よく暮らそう。そのためにはいまのうちから料理や掃除、家事に慣れよう。いつまでも主役は続かない。仕事は大事だが、いつか、閑になるのだから、と。
 仕事に全力で生きるすべての女性に共通する課題を、大原さんも負った。そして彼女は、子どもを生む選択をしなかった。
 いずれ、破局の時がきた。
 「おれのいない時に」と夫にいわれた通りに、妻は出て行った。
 そして、離婚記者会見で女優は一世一代のかがやきをみせた。
 「仕事は私の生き甲斐です。家庭は安らぎとわかっていても、私は仕事に入るとなにもかも忘れてしまう。台所に立つより、台本を読むのが好きなのです。結局、私も男の立場で。家庭のなかに男がふたりいたってことでした」

 都立青山葬儀所は、3000坪の敷地にある。一帯は、元は、美濃(岐阜)郡上藩主・青山家の江戸屋敷だった。明治に入ってすぐに、公共墓地として<青山霊園>がひらかれた。地続きに葬儀所ができた。いま、1日にひと組しか葬儀式典はおこなわない。誰でも申し込める。利用料金はホームページに載っている。
 「大原麗子お別れの会」は、森光子、浅丘ルリ子、石井ふく子プロデューサー、それに大原さんがもっとも慕ったひばりの遺児・加藤和也氏らが発起人になった。
 大原さんと住まいが近い加藤氏は、彼女の最後の人生に密接して、よく励ました人である。
 密葬にも駆けつけた。
 リビングにつくった祭壇のまんなかに「Reiko from Hibari」のディレクターズチェアが据えられてあった。
 そして、9枚の写真が飾られていた。すべて、デビューから10年のかがやきの季節に撮られたものだった。

 「葬儀は質素に家で、と姉から念を押されてました」と、弟氏は語った。
 病躯は、命の終わりの近いことを告げていたのか。
 身内5人だけの密葬に出られなかった車椅子の母・俊子さんは、娘亡きあと介護施設で暮らす。トイレにも風呂にも抱かれていった母である。
 不自由なからだをおしながらあふれる愛情をそそいできた娘の死を知ったとき、母は涙を見せなかったと、弟氏は明かした。
 「お母さん、なんで泣かないの?」と訊ねた。
 「人前で、涙を見せるのは恥ずかしいじゃない」と答えたという。
 「母の性格は、姉に遺伝しました。姉は、闘病治療の泣きごとを私たちにはいいませんでした。私にはまことに立派な姉でありました」 

●(8)私(藤森)が尊敬している「名づけ」の専門家、牧野恭仁雄先生のご著書、<漢字・呼び名・イメージで選ぶ「赤ちゃんにピッタリの名前が見つかる本」>(PHPビジュアル実用BOOKS、1200円)から、大原麗子さんと酒井法子さんの漢字の象形文字を調べてみました。

大原麗子さんの「麗」の文字・・・・・読み方は「レイ」「うるわしい」とあり、象形文字は2頭の大きなシカを描いた字で、「美しい」、「目立つ」という意味をあらわします(象形文字は省略させていただきます)。

 とあります。まさに、文字通りの方ではなかったでしょうか?
 美しさは抜群でしたし、目立つという意味では、「タレント好感度」や「お嫁さんにしたい女優」で長く世人に好まれる大女優になり、歳末の<紅白>に40年以上欠くことなく出場し、大歌手になった森進一と結婚。芸能界史上最高の規模といわれた2億数千万円の式をあげた。
 結婚生活のさなか、女優は帰宅の遅い亭主を待つウイスキーのCMで「少し愛して、なが~く愛して」と、愛らしい素顔をみせた。
 
 しかし、晩年の大原さんはどうだったでしょうか?「ギラン・バレー症候群」に悩まされ、うつ病や拒食症、果ては乳がんや2度の骨折もしました。いつも介護をしている母親さえも居ない日、2階の寝室のゆかに倒れた。1・5メートル先に携帯があった。そこで天下の大女優がひっそり亡くなりました。
 生前、「葬儀は質素に家で、と姉から念を押されてました」と、弟氏は語ったとのことです。「身内5人だけ」の密葬にさえも出られなかった車椅子の母・俊子さん。

 大原麗子さんの生きてきた人生とは余りにもかけ離れていないでしょうか、というより「真逆」の世界です。ここが「無意識」「深層心理」の不可思議さです。お母さん、飯塚俊子さんは心臓弁膜症とリウマチを併発していたとのことですから、無意識の世界では、大原さんが産まれたときに、そういう危惧があったとしても不思議ではありません。

酒井法子さんの「法」の文字・・・・・読み方は「ホウ」「ハッ」「ホッ」「のり」とあり、象形文字は、動物と、人と、出入り口と、水を描いた字ですが、何をあらわしているのかはっきりわかっていません。外出した人と動物が川の水を飲む順番、またはその方法と考えることもできます(象形文字は省略させていただきます)。

 とあります。酒井さんの名前は、まさに法律の「法」の字です(水を飲む順番や方法は、それを意味しているように思えます)。ですから、「裁判員制度」PR映画の主役になるのはうってつけの方だったわけですが、よりによって世紀の大改革の「裁判員による裁判」がスタートしたその日に逃走するというのは、偶然にしては偶然過ぎます。
これ以上の解釈は、少々、無理がありますが、でも、何となく、酒井さんの生い立ちや人生に似ている何かを感じませんでしょうか?例えば、ご主人がプロのサーファー(水に関係しています)でしたし、
水を飲む順番というのも、何か暗示的ではないでしょうか?

 9月15日以降は保釈保証金を支払えばいつでも保釈される予定が、半額だけ納めて、9月17日の昼の時点では、まだ保釈されていません(17日の夕方に保釈されたようです)。そうこうするうちに、ご主人の高相氏が先に保釈されました。何か、事情があるのでしょうが、順番が「アレッ?」と思いませんか?
<外出した人と動物が川の水を飲む順番、またはその方法(???)。>

さて、いずれにしても、こういう本当の姿(酒井法子さん)を理解した場合、私たち、シロートがどれだけ正しい裁判員の役割を担えるのでしょうか?私は、酒井さんは薬物を使ってまで生き延びたのだと判断します。
こういう状況の中で育って、しかも、第一級のタレントとなった人が、薬物を使用しないと誰が言えるでしょうか?私(藤森)には自信がありません。だからといって、薬物使用を許してはいけません。ここに、
人を裁く事の難しさがあります。

<文責:藤森弘司>

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