2009年4月15日 第81回「今月の言葉」
自分が跨いでいる枝を切ると?

●(1)週刊ポストだけの読者ですが、曽野綾子先生は凄い方だと思っています。文章の展開、切り口、表現の仕方など、どれを取ってもすばらしい方で、私(藤森)は尊敬しています。

 さて、表題の「自分が跨(また)いでいる枝を切ると?」は、2008年12月26日号の週刊ポスト「昼寝するお化け」の<枝はどこから切るべきか>から、私がズバリと言い切りました。
 面白い内容ですので、これからご紹介したいと思います。
 また、不思議なことに、週刊ポストで<枝はどこから切るべきか>が掲載されている次のページで、まったく同じ内容のこと(井沢元彦著「逆説の日本史」)が掲載されていました。こういう不思議なことがよくありますので、併せてご紹介します。
 そして、さらに面白いことに、これらが週刊ポストに載ると、時を同じくして、同様の事件が次々と発生しました。本当に面白い現象ですので、それらも併せてご紹介したいと思います。

●(2)2008年12月26日号、週刊ポスト「昼寝するお化け」(曽野綾子著)

 <枝はどこから切るべきか>

 昔、我が家で、一時期職安から紹介されて来た人を傭おうとしたことがあった。
 整った履歴書も持って来たし、前に働いていた会社もはっきりしていて、「私の働きぶりについては、いつでも聞いてもらっていいです」とその人の方から言うので、私は逆にその言葉を無視するのも悪いと思い、彼の目の前で職場の経営者に電話をかけた。口ぶりから察するに、ごく小さな会社のようだった。
 社長はいなかったが、電話口に出た奥さんらしい人は、呆れたように私に言った。
 「お宅で、あの人を傭うんですか」
 「その意思があると言われるものですから。以前にお宅で確かに働いていたかどうか、聞いてくれてもかまわない、と言われたものですからおかけしたんです」
 「あの人は、自分がまたがっている木の枝を自分で切り落とした人ですよ!」
 と相手の女性の声は急に激しくなった。
 「そういう人がまたどこで働くというんですか!」
 そう言われたから彼を傭わなかったのではない。その数日のうちに、我が家の状況が変わって、人を増やさなくてよくなったからである。しかし私は、この時の電話の相手の声がいまだに忘れられないのである。
 経営者の奥さんと思われる電話の声は、かつての社員たちに煮え湯を飲まされた、という思いを伝えているようだった。労働争議か組合運動か、状況は全くわからないけれど、この社員たちが先に立って動いたおかげで、彼女の家族が関係していた会社はつぶれてしまったと感じているらしい。

 もちろん失業した人も、会社側の態度に非人間的な面があるから腹を立てているのだろうが、会社側も、従業員が失業するほど会社を叩きのめしたのはほかならぬ「あなたたちじゃないの」という意識を持っているらしい。
 自分が上って跨いでいる枝を、根元のところから自分で切ったら、もちろんその人は地面に落ちるのだ。それがわからない人はいないと思うのだが、現実には常にいるのである。
 偶然だろうが、2008年11月25日、26日の両日は破壊の日々だったと言っていい。
 タイのバンコクでは、反政府デモがスワンナプーム空港になだれ込み、空港を無期限に封鎖した。いつ飛行機は出るかと思いながら、待合室の椅子や床で夜明かしをし、それでも解決のきざしを見せない状況に疲れ果てた表情をした人々の顔が、テレビに映しだされ、日本人の中年女性の一人は、果たして「タイ(観光)はもうたくさん」と発言した。
 タイは農業国であると同時に、観光立国を目指している。こうしたデモ隊の行動は、世界中の航空会社に迷惑をかけることと、観光客を寄せつけないことを意図したものだろう。
 しかしこの後、タイは何で食べていけばいいのか。私はタイ米の味が大好きで、産地へ行けばわざわざ買って帰るほどだが、日本人の多くは外米としておいしいとは言わない。タイの絹地は美しいが、織りの工夫でフランスやイタリアのものにどうしても敵わない。チークや天然ゴムや錫などの産出は、経済を引きずって行くほどの力はないだろう。
 しかし観光業には底力があったのである。海岸線は長く有力なリゾートはあちこちにある。それがこの人為的な愚挙で、一挙に壊滅的な打撃を受けたのである。タイ側の発表では百万人近くが失業する可能性があるという。

 26日夜に、インドのムンバイでは、同時テロが起きた。ムンバイの鉄道駅や高級ホテルを占拠したテロリストたちによって195人が殺害され、300人以上が負傷した。
 ムンバイ。昔はボンベイと言った。金融と商業の中心地、十七世紀にはイギリスの東インド会社が進出した所でもある。華麗で豪華なインドのイメージを一手に引き受けた優雅な町であった。
 ダイヤモンド商人が蠢き、ボリウッドが世界的に進出し、今度襲われたタージマハル・ホテルのオーナーはタータ財閥だという。インドを車で移動していれば、長距離トラックの4台のうち、3台はタータ製のもので、残り1台がアショク・レイランド製という感じだ。
 ムンバイはまたパールシー(ゾロアスター教)と呼ばれる宗教の中心地である。パールシーはペルシャから来た人たちで、ペルシャ人たちは商才に長けた人たちだ。ダイヤモンド商人もパールシーがほとんどだという。彼らは鳥葬をするので、町はずれには遺体を鳥についばませるための特別の聖域がある。私が会ったパールシーの賢い娘さんは、死んだ後で鳥に食べられることを思うと「ちょっと怖い」と顔を歪めた。

 しかし私は指揮者のズービン・メータがこの地の出身者で、彼の父、メーリがボンベイ交響楽団を創った人だということを忘れない。けたはずれの金持ちは同時に文化のパトロンでもあった。と言うより、けたはずれの金持ちでなければ、文化の保護者にはなりえないというのが現実かも知れない。
 インドこそ格差社会のショウウィンドウである。資本家たちは海に面したムンバイで優雅に暮らし、内陸の工業都市で労働者に厳しい労働をさせる。労働者階級を主に構成する不可触民たちが、教育を受けることを富裕者層はあまり望まない。なぜなら安い労働力を確保しておくには、不可触民たちが無教育のままいることこそ願わしいのだ。とあからさまに私に語ったインド人もいる。
 富の偏りそのものであっても、タージマハル・ホテルは恐らく数千人のまじめな労働者たちに仕事の口を与えて来たはずだ。内陸の工業都市では、不可触民の子供たちが不当な幼児労働を強いられたり、水道さえないスラムで給水車から貰う水の順番を争って激しい喧嘩をしたり、あてどなく町を出て乞食をしたりしている。そうした状況を抜け出すためにも、教育と仕事は、車の両輪のように大切な要素である。
 テロリストたちは、タータ財閥にも打撃を与えるという正義をかかげたつもりかもしれないが、真っ先に影響を受けたのは、ホテルでまじめに働いていた貧しい同胞たちであった。彼らはテロに殺され、そうでなくてもホテルが機能しなくなれば、すぐ職を失って路頭に迷うのである。
 バンコク空港の占拠者たちは、この空港がハブ空港としても近隣の都市に大きな影響を持つことを知りつつ、その機能をつぶした。彼らもまた、自分の乗った枝を根元から切ろうとした人たちだ。愚かなことだ。
 しかし人ごとではない。日本ではどんなことがあっても、生産の元になる機能をつぶしてはならない。生産の拠点は、今や働く人たちのものだからだ。

●(3)私たちは、曽野綾子先生がおっしゃるように、<<日本ではどんなことがあっても、生産の元になる機能をつぶしてはならない。生産の拠点は、今や働く人たちのもの>>だからである。
 元も子もないようなことをしては、その後どうしようもなくなってしまいますが、実はこういうことは非常に多いのです。昔、私が若い頃に働いていたあるビール会社で、労働組合の仕事を1年したことがあります。年齢などの関係で1年交代の順番が回ってきて支部の役員をやったときのことです。各支部から1名を集めて全国の研修会が組合主催でありました。
 それに参加して、労働組合の活動についての話し合いがあったときに、アメリカの労働組合は強い事が紹介されました。そこで私は、「組合がそこまで強く主張して、会社の運営が厳しくなったらどうするのですか?」と質問しました。
 すると本部の役員は「職種別の横断的な組合なので、たとえある会社が倒産しても要求する」と言いました。どういう意味かと言いますと、日本では組合は会社別に組織されていますが、アメリカでは自動車会社ならば、自動車会社の、たとえば塗装の仕事ならば塗装の賃金は一律ですので、自分の会社が倒産するか否かではなく、全自動車労組として要求するので、ある会社が倒産するか否かは問題ではないという意味だったように思われます(多少の違いはお許しください)。
 そうすると職種によっては、非常に強い立場になることがあります。当時(30年以上前)のことですが、例えばスーパーのレジ係は、レジが動かないとスーパーは運営できないので、労働者は経営者に対して強い立場になり、日曜出勤の特別手当ての要求がドンドンエスカレートして、特別手当が通常賃金の3倍になっていました。  やはり歴史の短い国は、元気がある反面、少々おかしなところ、行き過ぎた面があるように思います。最近の例ですと、皆さんご存知の「AIG」や「GM」ですが、それは後に回して、上記の「枝はどこから切るべきか」の次のページにあった井沢元彦氏の「逆説の日本史」の中の「上杉鷹山の改革・編その②と③」をご紹介したいと思います。
 少々長いですが、大変面白く、示唆に富んでいますので、全文をご紹介します。そして来月に「自分が跨(また)いでいる枝を切ると?」のパート②をお送りします。私たちの日常にもこのテーマが溢れていることに気付かれると思います。「自己成長」にも非情に重要なテーマだと思われます。
●(4)2008年12月26日号、週刊ポスト「逆説の日本史」(井沢元彦著)

第79話<江戸「名君」の虚実Ⅱ><上杉鷹山の改革・編その②>

 <財政逼迫の米沢藩を窮地に陥れた「悪臣森平右衛門」>

 収入は8分の1(120万石→15万石)になったのに人員は一切減らさなかった。つまり一人のクビも切らなかった。現代から見れば「会社のカガミ」と言われそうだが、実は米沢藩上杉家は諸経費や交際費も基本的に減らさなかったのである。
 今から見れば何とバカなことをしていたのだと思うだろう。確かに「愚かな面」は無いとはいえない。収入15万石で120万石の支出を続けていれば破綻は当然だ。しかし、それでも「小室哲哉」との違いはやはりある。
 それは侍(武士)の意志ということだ。
 会津120万石が大幅減知されたのは、そもそも関ヶ原の「敗戦」がきっかけだった。しかし、上杉景勝も家老直江兼続も徳川軍と正面切って戦って負けたわけではない。彼等は関ヶ原には行っていない。「関ヶ原戦争」に東北の地で参加しただけで、負けたわけではない。しかし、これ以上戦えば滅ぼされるのは必至だから120万石を30万石に減らすが家の存続は許すという妥協案を受け入れた。
 ここで四分の一に収入が減ったのだから、生活の水準を落とすというのが今でも当然の考え方で、この時代でも「百姓町人」ならそうしただろう。
 しかし、彼等武士はプライドが許さない。百石取りの武士が25石取りの武士の屋敷には住めないし、武具や馬具もそれなりのものを揃えて維持しなければならない。もしここでそんな命令を下し守ろうとさせたら、彼等のプライドは粉々に砕かれて、名門上杉家はそれでダメになる。これはまったくの想像だが、おそらく景勝や直江兼続はそう考えたのではないか。

 ちなみに、これと反対の道を行なったのが長州藩毛利家だ。毛利も「クビを切らない」ところまでは上杉家と同じだが、上級武士を中級武士へ、中級武士を下級武士へ、そして下級武士を足軽へと「格下げ」は大々的に実行した。この上杉と毛利の差は、名目上ながら西軍の総大将であり、そうでありながら戦わずして屈した毛利輝元と、総大将ではないが東北の大名と戦い存在感を示した上杉景勝との差であったと思う。
 しかし、いくらプライドを保つためとはいえ、収入そのものが少ないのだから経費を減らさなければ、行き着く先は破綻でしかない。
 藩はただでさえ減らされた藩士の禄米(ろくまい)を「半知借り上げ」つまり「半分藩が借りるぞ」という形で召し上げ支給しなかった。その実態を示すのが次ページの表である(省略)。まさにひどいとしか言い様がない。それでも経費が足りないから藩は大商人から借金しまくった。当然、その利息は莫大なものとなる。
 藩士は藩士で、禄米が減らされたため生活も苦しく対面も保てないから、その分農民からしぼり上げた。つまり重税を課したのである。当然、農民は反撥して逃亡する。逃亡者が増えれば農地は荒廃して藩の財政はさらに悪化する。それでも彼等は残った人々からさらに搾り取ろうとする。
 その上、こうした時に限って、悪臣がのさばる。悪臣森平右衛門利直という男だ。平右衛門は九代藩主上杉重定に若い頃から小姓として仕えていた男だ。実は重定は三男で順当に行けば部屋住みで一生を終わるか、せいぜい分家の養子になるのが関の山だったろう。上杉家は名門だが、こんな破綻しかかった家から養子をとろうという奇特な大名はいない。
 ところが、長兄に続き次兄までが二十代の若さで子もなく世を去ったので、三男の重定にお鉢が回ってきた。それと共に、平右衛門も「殿の御小姓頭」に出世した。
平右衛門の立場は、中央の幕府でいえば将軍に対する側用人ということになる。何事も平右衛門を通さねば決まらないし、重定の意思も平右衛門抜きでは下に伝わらないようになった。こうして「殿の代理人」となった平右衛門は藩の公金を使って豪遊を始めた。
ただでさえ収入の少ない藩に、そんな「寄生虫」がくらいついたのだ。

 この頃、江戸では次のような「冗談」がまことしやかにささやかれた。
 新しく買った鉄瓶や銅器などで金属臭が強いものは、「上杉弾正大弼(だいひつ)(上杉家の当主が代々名乗る官名)」と書いた紙を入れて、一度煮沸すればいいというのだ。寓意はおわかりだろうか?「金気(かねけ)が全部抜ける(金の匂いがまったくなくなる)」ということだ。つまりそれほど上杉家は貧乏だったということが、江戸庶民の知るところにまでなっていたということなのだ。
 その窮状に、幕府のお手伝い普請(公共工事の押しつけ)や凶作が拍車をかけた。重定はついに主な家臣を集めて対策を協議したが、良い知恵などあろうはずもない。
 そこでついに前代未聞の結論が出た。
 領土返上である。
 もう上杉家にはこの地を統治する能力はないから、領地を幕府に返上してしまおうというのである。当然、名門上杉家はこの世から消滅し、家臣たちもすべて路頭に迷うことになる。

 <優秀でエリートと思い込む“バカ”>
 しかし、重定の正室の実家である尾張徳川家から「名門上杉家を潰してよいのか、そんなことはすべきでない」という「待った」がかかった。
 そこで、重定は次の手段を考えた。
 いずれにせよ、自分の力ではもうダメだ、ここは自分は隠居して、若く優秀な後継者にすべてをゆだねるべきだと考えたのだ。
 実は重定にはその時点で男子がいなかった(後に生まれる)。子供は女子ばかり三人で、しかも長女と三女は早くに亡くなり、残ったのは身体に障害を持つ次女だけだ。もしこの次女に万一のことがあり、重定の身にも何か起こったら、今度こそ名門上杉家も改易されてしまうかもしれない。
 そこで重定が白羽の矢を立てたのが、前回述べたように上杉の血を引く秋月直松(後の鷹山)であった。
 しかし、この擁立にすら奸臣森平右衛門がかかわっていたとする、見方もある。

 重定公にご異変があった場合、このままでは今度こそ上杉家はお家断絶にならないとも限りませんので、早く嗣(よつぎ)を定められた方が安全だと誰しも考えるようになりました。このとき誰言うともなく白羽の矢が立ったのは、支侯(分家のこと・引用者註・井沢元彦氏のこと・藤森註)第二代目の勝承(かつよし)公です。公は当時二十五歳で、人格高邁、寛容で、学問を好まれ、識見度量共に優れていらっしゃったから、衆目がここに一致したのです。もしこうなりますと平右衛門は私意を逞しくすることができませんから、一刻も早くこれを排除して、自分の力で嗣(よつぎ)を擁立することを考えました。そこで思いあたったのは当時九歳になられた鷹山公です。(中略)平右衛門は足しげく豊姫(鷹山の母で秋月種美夫人・引用者註)さまを訪問して、それとなしに豊姫さまを動かし、(中略)話がとんとん拍子に進んで公の養子縁組となるのです。
 このとき、こんな噂が立ちました。平右衛門は重定公を毒害し、幼少の鷹山公を廃嫡し、自分の長子の平太を重定公の落胤と称して、上杉家をつがせ、自分は老公と言われようと考えているということです。
 (「上杉鷹山公小伝」今泉亨吉著、米沢御堀端史蹟保存会刊)

 奸臣というものは、とことん悪く言われるものだが、鷹山の改革について一つここで注意を喚起しておきたいのは、一般に鷹山の改革というのは粘り強い説得によって成功した「血を流さない改革」というイメージが強いが、実はそうではないということだ。
 どんな改革であれ、それが真の改革である以上は必ず、「血」は流れる。日本人は「和」の民族だから、流血をとことん嫌う。嫌うから改革のスピードはにぶる。しかし、それで散々苦労しても、日本人はそれを歴史の教訓とせずに、過去の改革も「無血だった」などと美化したがる。その典型的な例が「鷹山の改革」なのである。もちろん、他の事例に比べれば「流血」は確かに少なかった。だが絶無ではなかったし、節目でそれが行なわれたからこそ、改革が一歩も二歩も進んだことは、まぎれもない歴史的事実なのである。
では、
なぜ改革には流血が不可欠なのか?
その問いに答えることは結局「改革には何が最も必要か」という問いに答えることになる。その解答はしばらく伏せておこう。おそらく、今それを述べても多くの人々は「そんなことが」と首を傾げるだろうから。ちなみに「リーダーシップ」ではない。西洋や中国ならそれでいいのだが、
日本には「和」の文化があるから「リーダーシップ」はむしろ悪ととられる恐れがあるのだ。もちろん「話し合い」も答えではない。

 話を戻そう。
 いずれにせよ、沈没しかかっている「上杉丸」には、森平右衛門という「悪」がいた。たとえばあなたがボートに乗っていたとしよう。そのボートに穴があいて水が入ってきた。さて、あなたはどうするか?まず考えることは穴をふさいで水をかき出すことだろう。ところが、平右衛門のやったことはボートにさらに穴をあけ、水をかき出すどころか汲み入れる作業なのである。そんなバカなことをする人間は普通いない。
 ところが、これがボートでなくて、国や藩や会社のような組織となると、こういうことをする人間が必ずいるのだ。それは健全な組織でもいる。だが、健全な組織はそういう「バカ」は力を持っていない。だから安泰だ。ところが、こういう「バカ」が権力を持つとえらいことになる。その格好な実例が、森平右衛門なのである。
いま「バカ」といったが、
平右衛門自身は自分はむしろ「利口で優秀」だと思っていただろう。確かに、優秀な人材でなければそもそも「若君の御小姓頭」にはなれない。だから客観的に見て、彼が「エリートコース」にいたことは間違いない。そして「三男坊の御小姓頭」から「当主の御小姓頭」へと出世した。これも本当の「バカ」なら、なれないはずである。
しかし、人間の社会には常にこういう類いの連中がいる。
米沢藩が潰れれば彼だって浪人しなければならないのである。毎日豪遊することも藩士をアゴで使うこともできなくなる。改易となれば屋敷からも出て行かねばならない。要するに、何もかも失うのである。それが嫌だったら、改革をしないまでも、豪遊を少しセーブするとか、すればいいものを一切しようとしない。努力することといったら自分の地位と権力をいかに保つか、それだけである。だから「バカ」なのだ。

 懸命な読者諸氏はおわかりだろうが、我々は決して米沢藩を笑うことはできないのである。
今の日本にも、たとえば東大法学部を出て高級官僚の試験に合格したから「優秀でエリート」だと思い込んでいる連中がいる。そういう連中が社会保険庁で何をしたか? いくら「豪遊」できても、本体が潰れてしまったら意味がないのに、彼等は結局やめられなかった。だから「バカ」なのである。そして社会保険庁などは氷山の、いや霞ヶ関の一角であろう。
 こういう「バカ」は決して説得には応じない。「自分が一番優秀でエラい」と思い込んでいるし、そうであるがゆえに「人の意見は(たとえ聞くフリをしても)聞こうとはしない」。言うまでもなく説得の最低必要条件は「相手が話を聞く」ということだ。それが通じない連中、しかも放っておいたら確実に組織を潰してしまう連中。こうした連中を排除するにはどうすればいいか?
「斬る」しかないではないか。当然、斬れば血は流れる。念のためだが、今と昔とは時代が違う。だから、今は命まで取る必要はないが、「クビにする」ことは絶対に必要だと言っているのだ。
このまま平右衛門を生かしておいたら藩は潰れる。そう悟った人々が中心となって、ついに平右衛門を城内で斬殺した。暗殺ではなく、その罪状をつきつけ処断の形で斬ったのだ。
「鷹山の改革」はまずこの流血から始まったのである。

 第79話<江戸「名君」の虚実Ⅱ><上杉鷹山の改革・編その③>

 <「収入八分の一」でもリストラしなかった米沢藩上杉家の”正義”>
改革というものは何故必要になるのか?「当たり前じゃないか。人間は神と違って完全な存在ではないからだ」という答えは一見もっともらしいが、実は事はそう簡単ではない。

 たとえば鷹山の時代の米沢藩は「収入が八分の一まで減ったのに、諸経費、交際費はもとのまま。それなのに人員削減も、諸経費節約も、収入増加の試みも何一つやらない」という状態だ。これはどう考えても破綻する。ならば、当然改革すべきだろう。ところが、それでも改革絶対反対という人々がいたのである。これが人間の社会というもので、別に珍しいことではない。確かに、現在から見れば鷹山の改革に反対した人々は「バカ」としか言いようがない。だが、問題は現代に生きるわれわれが、彼等を「バカ」呼ばわりできるか、ということだ。 今二十歳の若者でも、後五十年たって七十歳になった時、孫から「なぜおじいちゃんの若い頃は国家財政が大赤字なのに、官僚はどんどん天下り団体を作って、豪遊したり『渡り鳥』で高額な退職金を何回も貰っていたの。なぜそういう連中をなくせなかったの?」と言われたら何と答えるか?
念のためだが、だから「テロをしてでも排除せよ」などというつもりは毛頭ない。だが、「クビにする」のは当然だ、と言っているのだ。
官僚制度は日本の社会の進展に大きな貢献をしている。明治の頃、日本には鉄道も発電所も図書館も市場すらなかった。もちろん、大学も病院もなかった。それらを作ったのは彼等である。「大学出」事態がダイヤモンドのように貴重な時代だったから、彼等は官庁を退職すると民間企業に勤め、出身官庁の後輩と「アウンの呼吸」で日本の発展をサポートした。そのことも大きな功績である。そして、公務員である間は「薄給」に甘んじていたが、民間企業に入った時はそれなりの「高給」で処遇し、だからこそ「働き甲斐」があるという仕組みも作った。最終的には同期の一人が官僚最高位である次官になると、他の同僚は自主的に退職するという、民間企業では到底考えられないような「甘い」仕組みも出来た。民間企業なら三期や五期下の入社組みが自分の上司になることなど珍しくもないが、「プライド」を何よりも重んじる官僚はそれを「正義」とした。開発途上国ならば、このモデルが今でも有効かもしれない。しかし、今は前提がまったく違う。大卒は「ダイヤモンド」ではないし、年次を大きく飛び越えて優秀な人材を抜擢できないのは時代遅れもいいところだ。だが、官僚たちはまだそれがわかっていない。それどころか、

 国家財政を悪化させる「天下り先」を確保するために未だに血道をあげている――。米沢藩上杉家もそうだった。
 「関ヶ原」戦争で負けて領土(収入)を四分の一に減らされた時も、「パート」は解雇したが「正社員」は減らさなかった。「パート」というのは、来たるべき徳川との決戦(それは結局実現しなかったが)に備えて、百二十万石のワクすら越えて雇用していた武士(兵士)のことだ。これは「リストラ」せざるを得なかった。だが、もともとの家臣はクビにしたくなかった。関ヶ原で勝った時の徳川家康の年齢を御存じだろうか。前にも紹介したが、ほとんど六十歳(数え年)なのである。「人生七十古来稀(古稀)」と言われた時代だ。上杉家の当時の当主景勝は家康より十三も若い。しかも、家康の跡を継ぐことになっていた秀忠は、肝心の関ヶ原の戦いに「遅刻」するほどの「バカ殿」(第12巻『近世暁光編』参照)であり、豊臣家は滅んだわけではない。ならば、十年ぐらいの間に家康が死ねば(年齢からみればその可能性は高い)天下は再び争乱の巷になる。その時、物を言うのは軍事力だ。だから収入は減っても、昔からの家臣はできるだけクビにせず、今は「一つのパン」を四人で分けあっても生き残り、いつか徳川への報復(リベンジ)を果たす、というのが景勝そして腹心の直江兼続の心に秘めた思惑だったろう。兼続あたりなら酒の席で「ここだけの話だが、しばらくの辛抱だぞ」ぐらいのことは言ったかもしれない。

 しかし、家康は満七十三歳(享年75)まで生きた。この間、関ヶ原から十五年もかけて豊臣家を完全に滅ぼした(大阪の陣)。伊達政宗あたりもこのあたりまでは「天下」を考えていただろう。家康の同意の下に

 とはいえ、家臣の支倉常長をローマに派遣したのは、「味方してくれれば日本国内でキリスト教を公認する」という密約を、ローマ法王庁やスペイン、ポルトガルに持ちかけるためだったと、証拠はない(あれば反逆罪で伊達家は改易になっている)が私は確信している。政宗は景勝と比べても十一歳、家康と比べたら二十四歳も年下なのである。しかも、家康の六男松平忠輝を娘の婿にしている。秀忠と忠輝は反りが合わない。これを「カード」にして一暴れしてやろうと当然考えていたに違いない。
 これらの全ての目論見は、家康が七十を越えてまでしぶとく生きたこと、そして生きているうちに豊臣家を完全に滅ぼしたことにより、雲散霧消した。江戸時代の文献資料で「景勝も政宗も徳川の天下を引っくり返すことを狙っていた」というものは実は無い。しかし、「無い」のは当然で、米沢藩上杉家でも仙台藩伊達家でも、そんな史料をとっておいたら絶好の改易(取り潰し)の材料になってしまう。だから「消した」。そして、歴史学界は「史料絶対主義」だから「史料は無い」から「彼等はそんなことは考えていなかった」とする。冗談ではない。「人間を見ろ」といいたい。戦国大名というのは、人に頭を下げ屈伏するのを何よりも嫌った連中なのである。
 彼等には彼等の「正義」がある。
 たとえばこれまで何度も紹介したが、武士には軍役(ぐんやく)というものがあった。たとえば家老で禄高が千二百石(こく)の武士は、いざ戦争ということになったら、その千二百石でまかなえる騎馬武者、槍、鉄砲に、足軽や小者を揃えねばならない。武士の俸禄(ほうろく)というのはそのためにもらっているもの、つまり「いざ鎌倉」に備えてのもの、というのが戦国時代から江戸初期にかけての武士の常識であり倫理でもあった。倫理というのは、軍役というのは神聖な義務であって、それを忠実に行うことが正しいとされていた、ということである。  <江戸の「官官接待」はお茶漬け一杯十万円>
 ところが米沢藩上杉家はその禄高が最盛期の八分の一に減らされてしまった。そこでまず藩が藩士の俸禄を半知借上(はんちかりあげ)としたが、これはあくまで当時の意識では「いずれ徳川の天下を引っくり返すまでの辛抱」という意識だったから、たとえば家老クラスの千二百石取(どり)の武士は四分の一の三百石に減らされても、軍役を負担しようとする。人員も経費もそのままだし、そのためにはそれなりの大きさの屋敷にも住まねばならないから、三百石取のくせに千二百石取の屋敷に住んでいるということになる。そして石高(禄高)は格式でもあるから、かつて千二百石取で家老だった者は、三百石に減らされても、他家の千二百石取の家老クラスと交際を続ける。料理屋へ行ったとしても「オレは三百石しか収入がないから、ワリ勘はやめてくれ」とはいえない。他家の千二百石取の家老と同じ金額を払うことになる。だから交際費も削れない。

 しかも、上杉家はさらに半分の十五万石にされてしまったのだ。これは千二百石取の家老なら、収入が百五十石になったのに、「赤坂の料亭のツケ」は、昔のままという状態だ。「赤坂の料亭なんて昔は無いじゃないか」などと茶々を入れる人がいるといけないので念のためだが、昔は江戸の「八尾善(やおぜん)」などの高級料亭を中心とした「接待文化」があった。幕府は大名の力をそぐために、公共工事を押しつけた。いわゆる「お手伝い普請(ふしん)」というやつだ。そこで各藩は江戸屋敷に「お留守居(るすい)役」を置き最も優秀な人物をこれに任じた。彼等は幕府の役人を接待し、「どうかウチの藩に公共工事を押し付けないで下さい」と手練手管の限りをつくした。
 今と違って、費用はすべて藩の負担だから「押しつけられないこと」が最大の目的なのである。いわゆる「飲ませる、抱かせる、つかませる」つまりワイロもあっただろう。それは交際費から出る。たとえば幕府の役人をもてなすのに、江戸郊外の多摩川まで飛脚を走らせ良水を汲ませてそれで一杯一両の茶漬けを出したという。「お茶漬け一杯十万円」ということだ。競争だから他藩がそれをやればウチの藩もということになる。
 なにしろ「お手伝い」を押しつけられれば数万両(数百億円)の出費になるのだ。それを考えれば「一杯十万円」のお茶漬けなど「安いもの」である。
 改革には、経費節減が絶対に必要だ。だから米沢藩はさすがに交際費を削ったのだろう。「だろう」というのは、今も昔もこうしたことには関係書類が残らないためだが、その「効果」は早速出た。
 幕府が将軍家菩堤寺の一つ上野寛永寺の修理を命じてきたのである。これには五万七千両もの費用がかかった。これは一体どれぐらいの負担だったのか?

 相場を一定のものとして考えると、米一石は一両に相当する。つまり十五万石ということは年間十五万両の収入があるということだ。しかし、様々な人件費や経費や借金の返済も全部これでまかなうのだから、完全な赤字のはず。そのうえにこの負担がのしかかってきた。さらにもう一つ大きな問題がある。農業(稲作)が基幹産業なのだから、不作の年もあって飢饉にでもなれば収入は激減する。鷹山の義父である九代重定は宝暦の大飢饉の前に収入が三分の一以下になるという大凶作を経験している。しかもこれは珍しい事ではなかった。むしろ凶作が当たり前で、豊作の方が珍しいという状況であった。
 現代の社会にたとえてまとめると、米沢藩の内情は次のようになる。
 「営業収入は最盛期の八分の一の十五億円。しかし安定せず五億円しか入らない年度もある。しかし人員は一切リストラせず、経費、交際費は最盛期のまま。社員の給料は一律六十パーセントカットしたが、借金はトータルで六十億円はあって利息の支払いすらままならない。城や土地は幕府からの「預かり物」で売れない。特産品もろくなものがない。そのうえに赤字事業(お手伝い)を押しつけられた。この欠損は五億円以上だ――」
 今と違うのは、この「社員」たちは自分たちの「給料」をカットされた分を、農民をしぼり上げることでカバーしようとした。これは農民から見れば「隣国は税率五十パーセントなのに、ウチは六十であり七十だ」ということになる。当然、逃散(ちょうさん:農業を放棄して逃亡)ということにもなる。残った者も「地獄」だ。
 「社会更生法」があればいいが、そんなものは無い。こうした中、森平右衛門のような奸臣(かんしん)も出る。しかし、彼にもし言い分を聞けば「八方塞がりでどうしようもないじゃないか」と言ったかもしれない。その平右衛門が改革派に斬られた。重定はもう藩主を続けて行く気力がなくなり「領土返上」を決意したが、これは家中の大反対にあった。
 そこで、かねてから養子にしていた鷹山にすべてを任せる形で隠居した。鷹山は、「平右衛門斬り」の首謀者でもあった、藩医の藁科松柏(わらしなしょうはく「貞祐・さだすけ」)の教育で、米沢藩の問題点をよく掌握していた。そこで藩主になってすぐに国元に「大倹約令」を伝えた。
 ところが返ってきた反応は「そんなバカなことができるか」であった。

<文責:藤森弘司>

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