2008年9月15日第74回「今月の言葉」「認知療法の認知の歪み⑨」
投稿日 : 2018年3月7日
最終更新日時 : 2018年3月7日
投稿者 : k.fujimori
2008年9月15日 第74回「今月の言葉」
●(1)「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。(a)(b)(c)(d)それぞれの解説は、<第66回>及び<第65回>をご参照ください。
<認知の歪みのプロセス>
*受けとめ方
*思い込み
*解釈(推測)
*情報収集
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●(2)さて、今回は・・・・・
<責任ドロボー(個人化)>
□私のせいだ
□ダメな講師
●(3)「私のせいだ」というのも、普遍的に見られます。「認知の歪み」としての「責任ドロボー」を止めてみると、この「私のせいだ」をやられると、非常に不快になるものです。自分(藤森)がさんざんやってきたことですが、止めてみると、これは嫌なものです。
これはどういうものかといいますと、「あなたを不愉快にさせてしまって、ごめんなさい!」というヤツです。随分偉そうですね。相手の人を「不愉快」にさせてしまって恐縮している気持ちは、私(藤森)も経験者ですのでよくわかりますが、実は、これは非常に傲慢な態度なのです。何故でしょうか?
ここには間違いが二つあります。
一つは、相手の感情を自分の思い通りに操れるという驕りが含まれています。もちろん、本人はそんなつもりが無いのはよくわかりますが、表現上(日本語として)はそうなります。
「あなたの感情は、私がコントロールでき、そして私はあなたを、不愉快という感情にさせてしまってごめんなさい」という意味になります。ということは、本人が意図していようといまいと、「私は、あなたの感情をコントロールできる」ことを意味していることになります。
つまり、相手の感情に責任を持っていることになるのです。そうすると、その人と会話をしている間中、相手の人の感情は、その人にコントロールされていることになり、これはかなり不気味ですね。でも残念ながら、多くの人がこういう表現をします。
もうひとつは、相手の感情を不愉快にさせたから謝るのではなく、そのような表現をした自分の発言に言及すべきです。今、適当な例え話がないので、仮に「お前はKY野郎だ!」と言い、相手の人が不愉快な表情をしたとします。
この場合、「あなたを不愉快にさせてしまってごめんなさい」というのではなく、「私は、非常識な表現をしてしまいました」と、自分の非を認めるべきです。自分の非を認めることと、相手の感情に責任を持つこととは、具体的にどこが違うでしょうか?
相手の感情に責任を持つことはできないのですが、敢えてそのように表現してみると、相手の反応によって、自分の良し悪しが決まることになってしまいます。相手が、もし、ニコニコしているならば、オーケーであり、相手が不愉快な表情をしたならば、悪い事をしたということになってしまいます。
仮に、その状況で本当に正しい助言をしたとします。そのように確信の持てる正しいアドバイスをしたと、仮にします。しかし、相手の人の反応によっては、申し訳ないことをしたことになり、そうでなければ正しいことをしたことになるという奇妙なことになってしまいます。
仮に、「真に正しいアドバイス」だとします。真に正しいアドバイスであるならば、相手の反応に関係なく、自分のスタンスを維持しても良いのではないでしょうか?また、間違ったことをしたとします。それを謝ってチャラにしたいというのは安直過ぎないでしょうか?辛いけれど、自分の言葉には責任を持つことが大事です。
●(4)「ダメな講師」
私も、時折、講師をやらせていただくことがありますが、原稿の丸読みほどつまらないものはありません。そういう話ならば本を読めばいいわけです。生きた人間が目の前にいるならば、生きた話を聞きたいはずです。
生きた話というものは、当然、生きているわけですから、右にも左にも、また、脱線することも、或いは多少、誇張して表現することもあるものです。しかし、終わってみれば、あのときの事は、このように表現すれば良かったとか、少し大げさに言い過ぎたとか、場合によっては、間違った表現をしてしまったとか・・・・いろいろあるものです。
そうすると「ああ!私はダメな講師だ!」と自分イジメをしたくなるものです。特に、よく理解できなかった人の、多少、非難じみた発言を聞くと、自信喪失、奈落の底に落ちてしまいます。
理解できなかった人は、もしかしたら水準以下の人で、その人の能力の問題なのかもしれませんし、1時間なり、2時間の間、講師の話を全部、完全に聞き取り、理解できるものでもありません。ですから、受講生の側が、聞こうとする神経が途絶えたときに聞き漏らしたのかもしれません。
個人を対象にしているのではありませんから、参加者全員に等しく理解していただくことは、当然、不可能なことです。非常によくわかった、良かったという人もいるでしょうし、わからない、難しいという人もいるでしょう。
むしろ、参加者のほとんどすべてが、良かった、面白かったという講演会の内容は、落語的で楽しかったというだけで、内容はほとんど浅薄に近い場合があるものです。
わずか1名か2名の参加者の批判的な発言に「ああ!自分はダメな講師だ!」と思いたくなる傾向は、多分、多くの人にあるのではないでしょうか?
「あの人は、十分に理解できなかったかもしれないけれど、自分なりによく頑張って、それなりに良い話をした」と、自分を褒めてあげることは、案外、難しいものです。
他者へも、そして自分へも、褒める事よりも貶すことが多い自分を反省したいと思っています。 |
<文責:藤森弘司>
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