2008年6月15日 第71回「今月の言葉」

認知療法の認知の歪み⑥

●(1)「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。(a)(b)(c)(d)それぞれの解説は、<第66回>及び<第65回>をご参照ください。

               <認知の歪みのプロセス>


               *受けとめ方
               *思い込み
               *解釈(推測)
               *情報収集

●(2)さて、今回は・・・・・

<感情的決めつけ(感情的理由づけ)>

 □私は罪悪感を感じる・・・・・だから悪いことをしているに違いない
   (私は○○と感じる。だから~に違いない)

●(3)私(藤森)は若いころ、これをしばしばやっていました。
 私は劣等感コンプレックスの塊でしたので、私が劣等感コンプレックスを感じるときは、相手が私をバカにしていると本気で思っていました。
 私は今でこそ、「敵は一人もいません」などと言えますが、若いころは敵が多かったです。それもそうです。相手は、私の劣等感コンプレックなど知るわけがないのに、私は勝手に、そう思い込んでいるのですから、相手と良い人間関係が結べるわけがありません。
 自分の感情が優先されていましたので、むかつくヤツ、腹の立つヤツが多いのも当然のことです。そのように感じる相手と友好的な関係になれるわけがありません。自然と敵が多いことになってしまいます。
 ということは、自分が未熟であればあるほど、つまり物事の受け止め方が上手でなければないほど、人間関係がゴタゴタすることになってしまいます。一人一人の個人的な事情は、よほど親しくなければわからにわけですから、そしてまた、いくら親しくても、たとえそれが何十年も連れ添った夫婦であっても、相手の真意や深層心理は十分にはわからないものです。だからこそ熟年離婚があるのです。
 ですから相手を傷つける意識はまったく無くても、話している内容によっては、相手の感情を害してしまうことはあり得ることです。そのときに、相手は、自分の感情を害しようとして言っていることか、それを知らずに、一般論として発言していることかを見極める「自我の成熟性」が求められます。

●(4)自分が「自我が未成熟」であればあるほど、自他の区別がつきにくいものです。「自他の区別」などと言うと、そんなことは当たり前だと多くの方は思うでしょう。
 ところが現実には、これはなかなか区別がつきにくいものです。「私は罪悪感を感じる・・・・・だから悪いことをしているに違いない」というのもそうです。自分が感じることは、相手も感じているに違いないと思い込んでいるものです。
 もしこれが、「自分だけが感じている」のだと思えたら、それほど罪悪感を強く感じる必要は無くなります。自分は感じるけれど、相手の人は感じていないかもしれないと思えれば、罪悪感は弱くなるはずですが、「自分がこれほど強く感じるのであるから、相手も当然、酷いヤツだと思っているはずだ!」と思うからこそ、この「罪悪感」は決定的になるのです。
 特に私(藤森)の若いころのように、自我が未成熟で、自他の区別が明確でない人間にとっては、自分が「罪悪感」を感じたのであれば、相手の人も感じているはずで、「相手の人に大変申し訳ないことをした」と、さらに強い罪悪感に襲われてしまいす。
 そうすると、その方に対しての私の態度・対応はとてもおかしなものになってしまいます。相手の人は、まったくそのように感じていないのに、私が罪悪感に襲われている苦しい心境で対応するのですから、何か変だなと感じるでしょう。
 それをすぐに確認する機会があれがまだ良いのですが、何ヶ月も経過してから確認する機会があった場合、こちらはずっと辛い心境でいたのですから、忘れようにも忘れられません。つい昨日のような気持ちでお詫びしても、相手の人は「なんのこっちゃ!」と驚く事でしょう!!!

●(5)少しは自我が成熟してきた私(藤森)は、人はいろいろであることがわかって本当に驚きました。例えば一緒に映画をみて、つまらない映画だったなと思い、相手にその旨伝えると、相手の人は感動しているということもありました。
 相手の人を傷つけてしまったと思って謝ってみると、意外にも相手の人が傷ついていなかったということもありましたし、逆に、なんでもないことを言ったつもりが、意外にも、相手の人が涙ぐんでいたということもあります。
 食べ物の好き嫌いから、趣味や勉強、運動神経や体力、性格傾向、老若男女などなど、本当に一人一人が違うのには驚きます。甘えるのが上手な人もいれば、甘える事は死んでもできないといわんばかりの人もいます。そんなことはどうでもいいじゃないかと思うようなことに、異常にこだわる人もいます。
 自分が感じることは、自分固有の個性から出ているのであって、相手は違うかもしれないという感覚(これが禅でいう“無”)を持っていることが大事です。逆に、自分が感じたのだから、相手も同じはずだと、強く思えば思うほど、人生は重苦しくなってくるものです。いつも誰かの足と足を縛って走る「二人三脚」の走りにくさ。相手は違うかもしれないし、そうであるかもしれないと余裕を持っていたいですね。
 そういう「禅の無」が少しはわかってくると、世の中、いかにどうでも良いことにこだわって、難しい人生を生きている人が多いのか、本当にビックリします。その典型的な例が「勉強」に対するこだわりではないでしょうか?
 これだけ「勉強」を強要して、残虐な事件が多数発生しているのにも関わらず、相も変わらず「勉強、勉強!」と強要して、ヒステリックに我が子の成績や学歴を気にする親が多いのにも驚きです。

●(6)ときには、私(藤森)はまったく何も思っていないのに、異常に悪がられたり、逆に、プリプリして抗議されたりすることもあります。雑談で、たまたま尋ねたことが、相手の人が気にしていることで、それを聞いてくるのは失礼だと、後日、抗議を受けたときは、何のことかサッパリわからず、困ったものです。
 例えば、何かの関係で夫婦の仲がとてもこじれているとします。或いは重い病気に罹っているのかもしれません。そういうことはまったく知らず、「最近、ご主人(奥様)はいかがですか?」と尋ねたとします。すると、こんなときにそういうことを尋ねるとは失礼だといわんばかりの反応をされたこともありました。

 最近、私(藤森)はこのように思うようになりました。
 私が好意的に思えることは、相手の方の「好意」だと思い、私が気分が悪くなるような場合は、相手の方に確認するまでは、そのことの真意は不明である。ですから真意を知りたいときは、相手の方に確認することにしています。
 しかし、相手の方に確認して、悪意であったとわかり、それから腹を立てるのも妙だし、悪意でなかったとわかれば、怒りの矛をおさめるというのも妙なものです。また、敢えて確認するというのも、かなり面倒なことです。ですから、「ネガティブな感覚」は、何かの間違いかもしれないと思って、可能な限り早く、ゴミ箱に捨てることにしています。
 
 また仮に、相手に悪意があって、そのことに腹を立てたとします。悪意というよろしくない行為、よろしくない人間性は相手であるのに、腹を立てて、時間的、心理的な損失を被るのはこちらの側です。こんな理不尽なことはありません。
 相手がよくないのですから、相手が損失を被らなければおかしいのに、こちらの側が損失を被るようなバカバカしいことは止めた方がよさそうだと、私(藤森)は気づきました。

<文責:藤森弘司>

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