2008年4月15日第69回「今月の言葉」「認知療法の認知の歪み④」
投稿日 : 2018年3月7日
最終更新日時 : 2018年3月7日
投稿者 : k.fujimori
2008年4月15日 第69回「今月の言葉」
●(1)「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。(a)(b)(c)(d)それぞれの解説は、<第66回>及び<第65回>をご参照ください。
<認知の歪みのプロセス>
*受けとめ方
*思い込み
*解釈(推測)
*情報収集
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●(2)さて、今回は・・・・・
<結論への飛躍>
①心の読みすぎ
□あの人は怒っているのだ
□あんなことをするのはおかしい
私(藤森)は大分、年を取ってきました。当たり前のことですが、10年経つと、10歳、年を取ってしまいます。20年経つと、20歳、年を取ってしまいます。こういう当たり前のことが、当たり前に実感できることが経験なのでしょう。
誰が見ても、年配者であることがわかる年令になりました。
さて、その私が、歩きながらよろけたとします。石に躓いたのか、段差でよろけたのか、とにかくよろけたとします。それをたまたま遠くから見ていた人が、「藤森は年をとったな、足元がおぼつかなくなってきたようだ」と思うような、ある部分だけを見て決め付けることは、日常生活の中でよくあるのではないでしょうか?
自己成長(一般にいうカウンセリング)のお手伝いをしていて、ご自分の性格を悪く言う人は、とても多いです。例えば、「せっかち」だとか、「すぐカッとなる」とか、あるいは「自分はバカです」とか、「気が利かない」「気分屋」「忘れっぽい」などなど。
先日もありました。
ご自分を卑下したことをおっしゃるので、「具体的にどういうことがありますか?2~3の例を挙げてください」と尋ねますと、その方は、ジックリと考えてから、小学生の頃の例を出しました。
「他には?」と尋ねますと、最近の例が、やっと出ました。さらに「他には?」と尋ねますと、なかなか出ません。
そこで「おかしくありませんか?自分は○○であると自信たっぷりにおっしゃりながら、その具体例がほとんど出ないのは?」
こういうことはよくあることです。嫌な印象は強いので、何かで失敗すると、自分はそういう人間であると思い込んでしまう傾向にあります。こういう強い印象的な出来事が、たまたま数回あると、自分はそういう人間なのだ!と思い込んでしまいます。
さて、今回の「心の読みすぎ<あの人は怒っているのだ>」は、物事を決め付けやすい傾向の人に多いです。
私(藤森)は、若い頃、劣等感コンプレックスが非常に強い人間でした。ですから、私の劣等感コンプレックに触れる、あるいは触れそうなことがあると、それは自分が勝手に感じているだけなのに、相手がそういうことを言っていると思って、誤解することが多かったです。
今思うと、本当に嫌なヤツでしたね、藤森って男は!こういうのを「僻(ひが)み根性!!」と言います。私は、僻み根性の塊(かたまり)みたいな人間で、僻み根性が手足をつけて歩いているようなものでした。
●(3)「心の読みすぎ<あんなことをするのはおかしい>」
こういうこともよくあることです。例えば、「当然、ある会に参加すべきこと」であり、或いは、「当然、そんな程度の費用は負担すべきである」というようなことをしない人がいたとします。
あんなことをするのはおかしい、あんな態度はおかしい、などと思いがちですが、その人にはどんな背後の理由があるのか、外部からはわからないものです。そういうとき、私たちの一般的な傾向として、「自分であれば」とか、「一般常識」などの「尺度」を持ち出して判断してしまうものです。
ひとりひとりには、他人には計り知れない生い立ちや過去の出来事や、いろいろ、種々様々な背景があるものです。今ここでの表面的な出来事だけを見て判断できるような単純なことではありません。
そういう深い背景があるかもしれませんので、仏教では「無分別(むぶんべつ)」<今月の言葉、第31回をご参照ください>、物事を善し悪しで見ないことを大事にします。物事を善し悪しで見ず、丸ごとをオーケーと見る寛容さを、いつか私(藤森)は体得したいと思っています。 |
●(4)世の中には、こういうすばらしい話もあります。
<今月の映画、第63回「パーフェクト・ストレンジャー」>の中の、「●(11)」を転載します。
日刊ゲンダイ、2006年12月23日「若手ピン芸人の中で男を上げて、頭一つ抜け出した竹山隆範」
<病床の相方を見守り続け・・・・>
「頑張れよ」「また漫才やろうな」・・・・・カンニングの竹山隆範(35)は、相方の中島忠幸が息を引き取る1時間前、意識がない中島にこう声をかけてから仕事に出かけたという。
カンニングの芸風は“怒鳴り漫才”。マジギレの竹山を中島がなだめて突っ込みを入れる、独特のスタイルでブレークした。2人は小学校の同級生で福岡から上京した21歳の時、偶然、東京で再会してコンビを結成。プレークするまでに10年以上かかり、2年前“やっとこれから”という時に中島が急性リンパ球性白血病で倒れてしまった。
この間、竹山はピンで活動したが、頑として“カンニング”の看板は外さなかった。また、ピンで稼いだギャラは中島と折半し続けてきたという。
会見で“ギャラ半分”の理由を聞かれた竹山は「小学校からの同級生で、芸能界に入ってツライ時もお互いに助け合ってきたから。中島は家族であり、戦友、夫婦みたいなもの。“折半してあげている”と思ったことはなかった」とサラリと答えた。
作家の吉川潮氏が言う。
「いくら小学校からの同級生とはいえ、病気療養中の相方に、ギャラの半分をポンと渡すなんてなかなかできることではありません。中島の病死で竹山の友だち思いの一面や男気が浮き彫りになりました。世間の彼に対するイメージは一気にアップしたはずです。竹山は正真正銘のピン芸人になってしまったけど、これからも十分やっていけると思います」
竹山は今後も“カンニングの竹山”として活動していく。頑張れ! |
●(5)夏目漱石のエピソードです。
<「ユーモアについての43章」新島正著、潮文社新書、昭和48年版>
「11.則天去私」
夏目漱石が教鞭をとっていたときの話だそうである。
ある日のこと、講義をしていると、ふところ手をして話を聴いている和服姿の学生がいた。カンシャク持ちの漱石先生、いきなり教壇を降りて、つかつかとその学生のそばまで行くと、
「君、そんな恰好で失敬じゃないか。手を出したまえ、手を!」
と一喝した。しかし、その学生はだまってうつむいたきり、一向、漱石の言葉に応ずる様子がみえないので、漱石、重ねて、
「何故、手を出さぬのか」
とつめ寄った。ところが突然に、その隣りの学生が立ち上がって、
「先生、この人は片腕がないのです」
と憤然とした面持ちで言い放った。教室には時ならぬ気まずい空気がはりつめた。
すると漱石は急に、にっこり笑って、言ったのである。
「僕も無い智恵をしぼって講義をやっているんだから、君も、すまぬが、ない手を出して聴いてくれたまえ」
教室がたちまち明るい笑いに包まれたことは言うまでもない。
「則天去私」がそのまま躍り出したような話である。典型的な個人主義者漱石、さすがに「ぼっちゃん」の作者だと思わされる。
<第29回「今月の言葉」「則天去私」> |
●(6)<真の人生に開眼する本「禅問答入門」黄檗山塔頭緑樹院住職・村瀬玄妙著、日本実業出版社、昭和55年版>より転載させていただきます。
「まえがき」
私(村瀬氏)は七年ばかり前に、本書と同じタイトルの「禅問答入門」という本を日本実業出版社から出させていただいた。幸い各方面からご好評を賜り、多くの方にお読みいただくことができた。
その時、私は「科学とか機械文明にすべてを託しながら、なぜか安心できない不安や恐れにおののき、不満をつのらせて生きている現代人にこそ、禅が必要なのだ、坐禅を組むべきなのだ」と思って本を出す気になった。
それから七年たった現在も、私の気持ちは変わらない。いや、その気持ちはさらに強いものとなった。人々の生活は一段とせわしないものとなり、自らの幸福のために使うべくつくり出した科学文明の産物に、自分が使われ、ふり回されるようになっている。本来の自分をとり戻し、静かに考える時間や場所を失ってしまった。
<略>
それには、各人が自ら体当たりでものの本質を考え、生き死にの問題を考えるキッカケを与える禅の教えこそが必要であると痛切に思う。
そんな折、はからずも日本実業出版社から、七年前に出した「禅問答入門」について、「誰にでもわかるように、より平易な注釈を加えて新たに出版されてはいかがでしょう」のお誘いを受けた。私は、えたりかしこしとばかりにおひき受けした次第である。
「禅問答入門」を改めて書きなおして出版したい気持ちの中には、私自身の変化していることも作用している。つまり、七年前に比べて私自身の心境も非常に変わったということである。
当時は、禅の研修道場の莫大な借金をかかえ、いろいろたいへんであった。したがって、本を少しでも多く売りたいと願う気持ちの中には、正直のところ経済的な面での配慮もはたらいた。
しかし、いまは道場の赤字も解消し、「本が売れればよい」という気持ちは同じでも、内容がちがっている。本書を一人でも多くの人に読んでいただいて、禅というものを知ってもらいたいという気持ちである。
またいまの私自身は、実に自然に回帰したといえる。坐禅をやらねばおられなくなっている。坐ることがすべてだ。坐ればすべてが解決される。坐は安楽の法門であるということである。
世間も変わったが、私自身もそれ以上に変わったといえる。
どうか、本書におさめた禅の先達の問答を通じて、人間を知り、ものの本質を知り、幸福とは何かを考えるための、何ほどかのキッカケが提供できたらと念じるばかりである。 |
●(7)これもよくあることです。
<結論への飛躍>
②先読み
□出来る訳がない
□自分には無理だ
<出来る訳がない!><無理だ!>このように判断するならば、その事に取り組まなければいいのですが、そういいながら何とかしようと、その事に取り組むバカバカしさに気づくことです。何故ならば、出来る訳がないといいながら、それに取り組めば、自ら、出来ないようにしながら、何とかそれをやろうとしていることになるからです。
ブレーキを思い切り踏みながら、早く走ろうとして、アクセルを目いっぱい踏み込むようなものです。それに取り組むならば、何とかなるはずだと考えたほうが、より良い結果になるはずです。
聞くところによれば、アインシュタインでさえも、脳は10%程度しか活用していないそうです。彼ほどの能力が無い私たちが、さらに「無理だ!」「出来る訳がない!」と言いながら脳を働かせようとするのですから、ご主人様に仕える脳は、「いい加減にしてくれよ!」と不貞腐れる(サボタージュする)のは当然です。
●(8)自己成長(カウンセリング)に取り組んでいる過程でも、こういうことはよくあります。
「先生、そんなこと無理ですよね」「出来る訳が無いですよ」といいながら、どうしたら良いか相談されることがあります。自分で「無理だ!」「出来ない!」と決め付けておいて、質問されても、返事に困ります。
「あなたが出来ないのであれば、出来ないのではないですか?」と言わざるをえません。そういうとき、「これこれをやりたいのですが、何か良い方法はありませんか?」と質問してくれれば、良いアイデアはたくさんあるのですが??!!
こういうとき、二重の間違いというか、おかしさがあることにお気づきでしょうか?
一つは、上記のように、自分で「出来ない!」と決め付けていることです。もう一つは、質問するのに、結論を出していることです。その人のことであれば、その人の結論を、私が否定するのはおかしいことになります。
ですから、「あなたができないというのであれば、できないのではないでしょうか」と言わざるをえません。
こういういろいろなことに気づいてくると、何もかもがわからなくなってきます。
そうなんです。わからなくなることが大切なのです。いろいろなことがわかっていると思うところから、誤解が始まります。わかると思っていたいろいろなことが、実はわからないのだ!
そうすると、「無」や「空」が体験できるのです。「無理だ!」ということは、「無理なことがわかっている!」ということになります。「本当にわかっているのですか??!!」 |
<文責:藤森弘司>
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