2008年2月15日 第67回「今月の言葉」
認知療法の「認知の歪み②」

●(1)「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。(a)(b)(c)(d)それぞれの解説は、前回の<第66回>及び、前々回の<第65回>をご参照ください。

               <認知の歪みのプロセス>


               *受けとめ方
               *思い込み
               *解釈(推測)
               *情報収集

●(2)さて、「認知の歪み」について説明します。
 「認知療法」においての「認知の歪み」とは、上記(b)「無意識的意味」のところを指します。
 この「無意識的意味」に、私たちは多くの場合、「歪んだ意味づけ」をしています。これを「認知の歪み」といいます。この「認知の歪み」があるから、おかしな感情を持ち、そしておかしな行動を取っているのです。そのために、人間関係を悪くしたり、病気になったりしています。
 そして「認知療法」では、多くの人に共通してあるであろう「認知の歪み」の典型的なものを10~13種類上げています。それをこれから順を追ってご紹介していきます。  私(藤森)自身は、「認知療法」でいう「認知の歪み」のすべてがありました。多分、皆さんも思い当たるものがあると思われます。悔しかったり、恥ずかしかったりするでしょうが、思い当たったならば、勇気をもって自分の歪みを認め、そして変えていく工夫をすることです。変えてみると、生きるのがとても楽になるのですが、多くの人は、変えないことに意地を張って、辛くて、苦しくて、悲しい人生を生きることにガンバっています。いつまでもいつまでも、「困難な人生を頑張って生きることの選択」をしてしまっています。  楽な人生を選択することは、電車の進路を切り替えるポイントのように、切り替えるその瞬間だけが、辛かったり、悲しかったり、困難さを伴うだけですが、何か錯覚をして、その辛さ、悲しさや苦痛が永遠に続くように思ってしまうのか、あるいは、今までの困難な道は慣れているので、慣性の法則といいましょうか、なれている困難な道を進みたくなってしまうようです。
 ホンのチョッとの違いで、その後の人生がずっと楽になるのですが、多くの人が、楽になる人生を選ばずに、「従来の辛く、悲しい人生を選択する不思議さ」を、毎日のように経験しています。一人でも多くの方が、より楽な人生になることを心より祈っています。
●(3)さて、今回は・・・・・
<心のサングラス(選択的抽象化)>

 □世の中真っ暗闇だ
 □人を見たら泥棒と思え 私たちは、多くの場合、「自分固有のサングラス=色メガネ」をかけていて、その色メガネで「世の中」を見ているものです。そして、その色メガネで見ていますから、例えば、赤のサングラスであれば「赤色」に、黄色のサングラスをかけていれば、当然、それは「黄色」に見えます。
 ところが、始末が悪い事に、私たちは、私たち「固有のサングラス」をかけていることに、ほとんど全く気づいていません。サングラスに喩えれば、皆、「同じ色のサングラス」をかけていると錯覚しています。
 実は、「喧嘩」をするということは、こういうことなんです。例えば、自分は「赤色のサングラス」をかけているとします。相手は、「黄色のサングラス」をかけているとします。
 ところが、お互いに、同じ色のサングラスをかけていると思っているので、喧嘩をしてしまうほど、自分の色を主張してしまいます。自分が「赤色」に見えるのに、何故、アイツは「黄色」だというのか、アイツは「バカではないだろうか?」と思ってしまいます。
 相手も、同様で、「オレには黄色に見えるのに、アイツは赤だという。アイツはバカではないだろうか?」と思ってしまいます。
 これは、実は、両者ともに正しいのです。お互いに、自分には「そのように見える」のです。ですから、自分の主張に関しては、両者ともに「正解」です。ここまでは良いのですが、これを相手に強要するために、議論がおかしくなってしまいます。
 
 聞いた話ですが、大学というところは「超エリートの集団」に思われていますが、実は、「超・我が強い集団」のようです。議論が始まると、相手への非難合戦で、事務局が仲裁に入らないと収拾がつかないほどだとのことです。
 何故、そうなるのでしょうか?それは、それぞれ、立派な業績を上げてこられた専門家ですから、自分固有の「色メガネ」で見ていて、その「色メガネ」で見ている限りでは、その人の主張は正しいのでしょうが、相手も、違う色の「色メガネ」をかけていますから、江戸時代であれば、最後は「果し合い」「決闘」する以外には、方法がなくなるのではないでしょうか?

●(4)多分、「結婚」するときは、相手のサングラスと同じものをかけようと努力する、つまりそういう歩み寄る「愛情」があり、「離婚」するときは、お互いに自分のサングラスをかけて、相手に歩み寄るだけの「愛情」がなくなっていて、果てしない「非難の応酬」「非難合戦」をしてしまうのではないでしょうか?
 よくよく考えて見ますと、相手を非難するということは、どれほど自分が「立派」であるかを「主張」していることになります。不思議ですね。日本人の一般的な性格傾向は、控えめで、自己主張をあまりしない、つまり「イエス」「ノー」をあまり主張しない民族であると言われています。
 それなのに、自分の色メガネのことになると、俄然、頑固一徹になってしまいます。民族的な特徴をかなぐり捨てて、「我(が)丸出し」になってしまいます。私(藤森)自身、若い頃、妻が、私の主張を理解できないとき、妻がアホだからだと、本気で思っていましたが、今は、私のほうがアホだったことが判明して、深く反省しています。
 「相手が、どう思っているのか」「相手の良いところは何か」「ひとまず相手の主張をよく聞いてみよう」こういう視点が一般に、訓練されていないのではないでしょうか?ですから、特に、日本では、「会議」や「議論」は「非難合戦」になりがちで、相手の主張にシッカリ耳を傾けるという場面にほとんど出くわしたことがありません。

●(5)では、「我」とは、一体なんでしょうか?
 このことを述べるにあたって、<今月の言葉(2004年8月15日)、第25回「木枠」と「猿まね」>をご参照ください。
 さて、「我」の強い人を、「頑固」といいます。いかにも「男らしい人」「シッカリとした自分がある人」のように思えますが、実は、まったくそれの反対です。逆に、シッカリした自分が無いので、つまり、「我」を張っているその壁を抜けられと、中身は空っぽだから、そこが「生命線」のように感じられて、命がけで「生命線」を守ろうとします。
 ですから、こういう人は、自分の壁、生命線を揺さぶるような人に対しては、「激怒」して、猛烈に攻撃を始めます。私自身が、若い頃、妻にこのようにやっていました。恥ずかしい限りです。
 譲るとか、相手の意見を取り入れることは、恥であり、自分の評価を貶められるような錯覚をしています。不思議なことに、相手の意見に耳を傾ける人こそ、大人風に見えるのですが、なかなか、こういう人は少ないですね。
 かくいう私自身、いまだに、妻の対応に腹を立てることがある未熟者ですので、他人のことは言えないですね。でも、若い頃よりは、いくらかは改善されているのではないかと思っています。
 意見が対立したときに、相手は、どんな色メガネをかけているのか尋ねてみるといいです。とんでもない見方をしているものです。
 例えば、自分が「恥ずかしい」と思うことが、相手にはなんでもなくて、逆に、相手が「恥ずかしい」と思うことが、自分にはなんでもないということも、多いものです。
 
●(6)最近、思います。
 妻が、「そういうことは恥ずかしいからやめて」ということがあります。しかし、男の私には、どこが恥ずかしいことかサッパリわからないことがあります。でも、妻が嫌だというのだから、そういうことはやめようと思えるようになりました。

 先日もこんなことがありました。
 我が家の居間は、ホットカーペットとコタツで過ごしているので、ほとんどエアコンはつけませんが、ある寒い日、そこで私は仕事をしていたのですが、手が冷たくて動かしにくかったので、エアコンをつけました。そうしましたら、その下にあった「シクラメン」がげんなりしてしまいました。
 妻は、「大事なシクラメンがあるのに、エアコンをつけるなんてダメじゃないの」という気持ちだったのでしょうね。私を叱りました。私にしてみれば、「シクラメンと私とどちらが大切なんだ!」と思いましたが、多分、妻は、シクラメンのほうが大切なんだろうと思い、「シクラメンのことは気がつかなかった。ごめんね」と謝りました。
 
 多くの場合、喧嘩というものは、あそこのラーメン屋のラーメンがおいしいか否かで争っているようなものです。「おいしい!」と思う人と、「おいしくない!」と思う人が、いくら争っても埒が明かないのではないでしょうか?
 「人を見たら泥棒と思え」という言葉もありますし、「渡る世間に鬼は無い」という言葉もあります。

<文責:藤森弘司>

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