2008年10月15日 第75回「今月の言葉」
認知療法の「認知の歪みー最終回」

●(1)「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。(a)(b)(c)(d)それぞれの解説は、<第66回>及び<第65回>をご参照ください。

               <認知の歪みのプロセス>


               *受けとめ方
               *思い込み
               *解釈(推測)
               *情報収集

●(2)「認知療法」における「認知の歪み」を、下記のようにシリーズでお送りしてきました。最初だけは二つを同時に紹介しましたので、合計は10個になります。ここでご紹介したものは、「認知療法」という心理学が、「認知の歪み」としてまとめたものです。再録しますと・・・・・

 「認知の歪みー①」
<①白黒思考(二分法思考)>
 □あの人は良い人だ
 □あの人は悪い人だ

<②一般化のし過ぎ>
 □いつもこうだ
 □みんなそうだ

 「認知の歪みー②」
<心のサングラス(選択的抽象化)>
 □世の中真っ暗闇だ
 □人を見たら泥棒と思え

 「認知の歪みー③」
<ネガティブ・リフレイミング(マイナス化思考)>
 □半分しかない
 □気がつくのが遅過ぎた

 「認知の歪みー④」
<結論への飛躍>

①心の読みすぎ

 □あの人は怒っているのだ
 □あんなことをするのはおかしい

②先読み

 □出来る訳がない
 □自分には無理だ

 「認知の歪みー⑤」
<拡大解釈・過少評価(双眼鏡トリック「破滅化」)>

 □またミスった、もうこれで終わりだ
 □病気になった、  〃    〃
 □何やっても、バレなきゃいいんだ

 「認知の歪みー⑥」
<感情的決めつけ(感情的理由づけ)>

 □私は罪悪感を感じる・・・・・だから悪いことをしているに違いない
   (私は○○と感じる。だから~に違いない)

 「認知の歪みー⑦」
<「べき」思考(思考的マスターベーション)>

 □~するべき
 □~するべきでない
 □~しなくてはいけない
 □~しなくてはダメ
 □~してはダメ

 「認知の歪みー⑧」
<レッテル貼り(極度の汎一般化)>

 □私は人生の落伍者だ
 □役立たず
 □わからず屋の石頭
 □バカの一つ憶え

 「認知の歪みー⑨」
<責任ドロボー(個人化)>
 □私のせいだ

 □ダメな講師

●(3)今回は最終回として、日頃、私たちが「認知の歪み」を犯している様々な例を、「認知療法の“認知の歪み”」から少々脱線してご紹介したいと思います。同様の意味で・・・

 2006年12月15日「認知の歪み(1)」
 2007年2月15日「認知に歪み(2)」
 2007年3月15日「認知に歪み(3)」
 2007年5月15日「認知に歪み(4)」
 2007年6月15日「認知に歪み(5)」
2007年7月15日「認知に歪み(6)」

 2007年8月15日「認知の歪み(7)」
 2007年11月15日「認知の歪み(8)」

 で、色々な例をご紹介しましたが、今回も、心理学として「認知」されているものではなく、私(藤森)が発見した「認知の歪み」の実例を、藤森版「認知の歪み」としてご紹介したいと思います。

●(4)<信用を築くのは長期間を要するのが、信用を失うのは一瞬>

 長期に亘って信頼関係を維持してきたのに、何故、失うのは一瞬なのでしょうか?これはどう考えてもおかしいのではないでしょうか?これを「分析」してみると、「交流分析」の<A>と<C>で説明してみると分かりやすいと思われます。
 <A>とは「ADULT」の略で、成人した自我状態、知性や理性、いつ、どこで、誰が、などを活用する自我状態を意味します。<C>は「CHILD」の略で、子供の自我状態、情緒や感情、自由奔放な部分や、周囲に気兼ねをしたりする自我状態を意味します。

 さて、「信用を築く」のは、「理性(A)」で判断している部分が大きいのではないでしょうか。そのために長期間を要するのだと思います。これに対して、「信用を失う」のは、「情緒、感情(C)」の部分ではないかと思います。
 「不愉快」であったり、「面白く」なかったり、「傷つけ」られたりした場合などで、「好き嫌い」の部分です。ある人が「良い人」なのか「悪い人」であるのかを判断するのは簡単ではありません。本当に「親切な人」なのか、「意地が悪い人」なのかは容易に判断できるものではありません。

 これに対して、相手に傷つけられたり、劣等感コンプレックスを刺激されたりすると、一瞬でダメージを受けます。つまり、交流分析でいうところの<A>で判断し、結論づけるのには長期間を要しますが、<C>の部分を傷つけられるのは、一瞬で感じるからでしょう。

 長年の親友であったり、親しく付き合っていた相手を、「嫌悪感」「不快感」などの「一瞬の感情」で判断して、人間関係を破壊してしまうのは残念です。
 では、こういう場合はどうしたら良いでしょうか。
 それは、自分自身の<A>に相談することです。或いは、ギアを<C>から<A>にチェンジして、チョッと冷静になって考えてみることです。そうすると相手の人は悪意があって傷つけることを言ったのではなくて、自分の抱いている「劣等感コンプレックス」を知らずに発言したのだということが分かるのではないでしょうか。少なくても、長年の親友であったり、親しく付き合っていた人が、理由もなく、人間関係を破壊するような悪意をもって発言するということは考えにくくないでしょうか?
 そして、知らないうちに相手を傷つけてしまうということは誰にでもあるし、自分も知らないうちに、誰かの劣等感コンプレックスを刺激していたかもしれないと反省できるのではないでしょうか。
 そうしてみると、その人のお陰で大事なことに気づくことができたわけですから、相手の人をさらに大事にしたくなるかもしれません。そういうあなたを、相手の人も、さらに大事にしたくなるかもしれませんね。
 仮に、相手の人が悪意をもって、そのような発言をしたとするならば、そういう低次元の人を親友にしていた自分自身の「次元の低さ」を反省することのほうを優先させるべきです。

●(5)<恋愛・結婚と離婚>

 あれほど「惚れた!ハレタ!」相手と<離婚>するのも「大いなる認知の歪み」があるように思えます。いろいろなケースがあるでしょうが、多くの場合は、「認知の歪み」から発生していると思います。何故、このようなことが起きるのか、これは案外に簡単なことです。

 <恋愛・結婚>と<離婚>の決定的な違い・・・・・<恋愛・結婚>は、相手の良いところを見ているのに反して、<離婚>は、相手の悪いところをみていることから起きています。「良いところ」をみていて「離婚」するわけがありませんし、「悪いところ」をみていて「恋愛・結婚」するわけがありません。
 ですから、「恋愛・結婚」は、少々、冷静に考えてみることが大事かと思いますが、特に「離婚」は、相手の良いところを「捜査・探検!?」することではないでしょうか。この作業は、「吉本式内観法」が最も得意とするところです。

●(6)アメリカ映画をみていると、<離婚した元・妻のところへ終末、子供を迎えに行くシーン>がよくありますが、よくやれるなと思います。しかも、元の妻が再婚している場合、元の妻の夫がいるところに子供を迎えに行ける神経が、私(藤森)には分かりませんが、皆さんはいかがでしょうか?女性の場合であれば、元の夫が再婚していて、その妻がいるところに、子供を迎えに行く関係って理解できますか?なんだか自分が惨めになりそう!!
 これは「認知の歪み」というわけではありませんが、「受けとめ方」を変えれば、これほどの差ができるということを言いたいのです。

●(7)似たようなことで、もう一つ。
 日本では、いわゆる<連れ子>の問題は、とても大きいものがあります。夫なり妻が再婚で、再婚時に子供がいる場合、人間関係に歪みが生じやすいものです。
 ところが、アメリカの人は、例えば、夫婦が再婚同士の場合、妻にも連れ子、夫にも連れ子があり、そして、今の夫婦になってから生まれた子供がいるという場合、それをアッケラカンと説明してくれます。「この子は、私の連れ子で、この子は夫の連れ子、そしてこの子は今の夫との間に生まれた子供です」と、本人たちの前でアッケラカンと説明されたときは驚きました。
 これは何を意味するでしょうか?まさに「連れ子」に対する価値観です。私たち多くの日本人は、無意識の内に、こだわり、劣等感コンプレック、僻む気持ち・・・などの「無意識的意味づけ」を行なっているのに対して、アメリカ人全般かどうかはわかりませんが、少なくても私(藤森)が1回だけですが体験したことは、このような「無意識的な意味づけ」を全くしていませんでした。
 つまり、「無意識的な意味づけ」を変えれば、いかようにでもなるということです。私たちは多くの偏見をもっていて、その偏見的な価値観で「無意識的な意味づけ」を、いろいろ行なっているものです。

 「無意識的な意味づけ」を行なっている人にとっては、その価値観や判断は決定的に正しいことですから、「無意識的な意味づけ」が強ければ強いほど、周囲の忠告などに耳を傾けるということは絶対にありません。これが世の中を不幸にしています。
 逆に、それは「無意識的な意味づけ」をしていて、それがそのように判断しているということがわかればわかるほど、「禅の無や空」が体験できます。玉葱の皮を剥くように、これは「無意識的な意味づけだ!これも無意識的な意味づけだ!これもこれもだ!!」とやっていくと、自分のバカさ加減に涙は出てくるし、剥いても剥いても何も出てこなくて、やがて全部、皮が剥けてしまって何もなくなります。自分はいままで、あの大きな玉葱を抱えて生きてきたのだと思うと、涙がホロホロと止まりません。

<文責:藤森弘司>

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