2008年1月15日 第66回「今月の言葉」
「認知療法」における「認知の歪み」

●(1)前回、「認知療法」について説明しましたが、それを再録します。

■「認知療法」における私たちの心の動きを表したのが、下記の図です。

               <認知の歪みのプロセス>


               *受けとめ方
               *思い込み
               *解釈(推測)
               *情報収集

(a)の「刺激」とは・・・・・
 私たちの「五感」が感じられる、種々様々な出来事の全てを意味します。例えば、朝顔を洗う、歯を磨く、食事をする、学校に行く、勉強をする、仕事をする、電車に乗る、交通事故を見る、噂話をする、サッカーの試合を観戦する、転んで怪我をする、ゲームをして遊ぶ、買い物をする・・・・・日々、時々刻々、私たちが見たり、聞いたりする全ての事柄を意味します。
 自分の周囲に起こるこれらの出来事の全て、つまり、自分の「五感」で感じられる全ての出来事を意味します。

(b)の「無意識的意味」とは・・・・・
 私たちが生まれ、育ってくる過程で、いろいろな意味づけがなされてきます。
 例えば、嘘をつくことは悪い事だとか、人を見たらドロウボウと思えとか、渡る世間に鬼はいないとか、バレなきゃいい等々、親や周囲の価値観を受け入れたり、種々様々な体験などを通して、無意識界にいろいろな価値観を蓄積していきます。
 そういう価値観(受けとめ方、思い込み、解釈・推測、情報収集)が、種々様々な場面で反映されます。
 例えば、バンジージャンプを見て、やりたいと思う人もいれば、恐ろしくてやりたくないと思う人もいます。犬を見ると、つい頭をなでたくなる人もいれば、怖がる人もいます。上野公園での花見のドンチャン騒ぎを見て、苦虫を噛む人もいれば、楽しそうだと愉快になる人もいるでしょう。会議で、若い人が活発に発言する姿を見て、好ましく思う管理職の人もいれば、出すぎていると思う人もいるでしょう。
 そのような違いが何故、生じるのでしょうか?

 私たちは、「五感」で感じた瞬間に、「感情」が反応していると思い込んでいます。犬の場合であれば、犬の刺激があった瞬間に、「怖い」という感情が働いているように私たちは思っていますが、実はその人には、犬は怖いという「無意識的な意味づけ」がなされているからなのです。もしかしたら乳幼児のときに、犬に咬まれたことがあるかもしれません。そうであるならば、「犬は怖い」という「感情反応」が起こるのは当然のことです。

 私たちは、ある出来事、つまり「五感」に訴えるある刺激があったとき、その刺激に「感情」が直接刺激されて、即、「感情」が反応していると思っていますが、実は違うのです。
 「五感」に訴える刺激は、感情に即、刺激しているのではなく、また「無意識的な衝動」により、感情が反応しているのでもありません。長い間の習慣で、スーパーコンピューター的なレベルで、刺激を瞬時に「価値判断」しているのです。余りにも高速なために、「無意識的意味」づけが為されている事を理解できず、「感情」は刺激に即、反応しているように思えてしまうのです。
 その良い例ですが、乳幼児と散歩をしているとき、後ろから自動車の音がすると、母親は、その音は自動車の音で、危険だということが即座に察知できます。しかし、乳幼児は、ノンキに道路の真ん中を、ヨチヨチ歩いています。
 何故でしょうか?それは、自動車の「エンジン音」イコール危険だという「無意識的意味づけ」がなされている母親と、なされていない乳幼児との差です。
 「育児」がしばしばトラブルのは、この差が親の側に十分に理解されていないために起こることです。
 上記の例でいいますと、ほとんどの母親は、「危ない!危ない!」と、乳幼児を叱りながら、注意を喚起します。母親にとっては、後ろから自動車のエンジン音が聞こえれば、車を避けるために、即座に道路脇に寄るのは、完全な常識です。
 しかし、乳幼児にとっては、その学習が十分になされていませんし、年令によっては、初めての体験かもしれません。その乳幼児が、自動車のエンジン音を聞いても、それは何の音かもわかりませんし、その音が何を意味するのかも全くわかりません。ですから、「危ない!危ない!」と母親に叱られても、一体何を意味しているのか、サッパリわかりません。
 サッパリわからないために、母親の叱責に何の反応を示さない乳幼児を見て、母親はさらに怒りをエスカレートさせるという場面にしばしば出くわします。もしこの時、体験の差であることが理解できれば、母親は、すぐに乳幼児のところに駆け寄り、抱えて、自らが道路脇に寄るでしょう。そして、「あのブーブーの音がしたら危ないから、避けるのよ」と、何度も何度も教え込むことでしょう。
 
(c)感情とは・・・・・
 以上のように「無意識的意味づけ」により、感情が湧いてきます。「感情」は、刺激(出来事)により決定されるのではなく、刺激をどのように価値づけるかによって、感情の種類が決定されています。
 別の言い方をしますと、「刺激(出来事)に対しての受けとめ方」、「刺激(出来事)に対しての思い込みや解釈の仕方」によって、感情の種類が決まるのです。
 例えば、乳幼児のころに犬に噛まれた人は、その後の人生で、繰り返し、繰り返し、犬にビクビクしていたはずです。それは、無意識の中に、犬に対する強い恐怖心が存在するからで、犬を見た瞬間に、「怖い!」と感じているようですが、「犬は怖いものだ!」というスーパーコンピューター的瞬間判断の結果、「怖い!」と感じているのです。
 これは、多分、多くの人たちには、衝撃的なことではないでしょうか。しかし、これはさらに「良い意味での衝撃」を味わうことができますが、それは後述します。

(d)行動とは・・・・・
 (c)の感情の結果、(d)の行動がなされます。上記の例で言えば、自動車の音で「危ない!」と感覚すれば、すぐに道路脇に避難するでしょうし、「危ない!」と感覚しなければ、そのままの行動を続けるでしょう。
 犬が「怖い!」と感じれば、「ビクビクッ」として、逃げるでしょうし、「可愛い!」と思えば、犬に近づいて頭をなでるでしょう。
 逃げたり、近づいて頭をなでたりする「行動」(d)は、(c)の感情の結果であり、(c)の「感情」は、(b)の「無意識的な意味づけ」の結果です。
 (d)の「行動」とは、いわゆる「病気」とか病気の「症状」をも意味します。例えば、会社の上司にいつも怒鳴られていて、毎日、ビクビクしていれば、当然、病気になってしまうでしょう。
 しかし、映画「釣りバカ日誌」の浜ちゃんではありませんが、少々怒鳴られても抵抗力があって、へこたれない人もいます。それは、怒鳴られるということを、どのように「無意識的な意味づけ」をしているかによります。

 以上の一連の流れを理解することは、想像を絶する効果があります。つまり、「刺激」と「感情」の間に「無意識的意味づけ」があるということを十分に理解できるか否か、この違いが、天と地の違いを生み出します。それを詳細に解説することが本題です。
そのために、くどいほど、この辺りを解説します。

●(2)さて、「認知の歪み」について説明します。
 「認知療法」においての「認知の歪み」とは、上記(b)「無意識的意味」のところを指します。
 この「無意識的意味」に、私たちは多くの場合、「歪んだ意味づけ」をしています。これを「認知の歪み」といいます。この「認知の歪み」があるから、おかしな感情を持ち、そしておかしな行動を取っています。そのために、人間関係を悪くしたり、病気になったりしています。
 そして「認知療法」では、多くの人に共通してあるであろう「認知の歪み」の典型的なものを10~13種類上げています。それをこれから順を追ってご紹介していきます。  私(藤森)自身は、「認知療法」でいう「認知の歪み」のすべてがありました。多分、皆さんも思い当たるものがあると思われます。悔しかったり、恥ずかしかったりするでしょうが、思い当たったならば、勇気をもって自分の歪みを認め、そして変えていく工夫をすることです。変えてみると、生きるのがとても楽になるのですが、多くの人は、変えないことに意地を張って、辛くて、苦しくて、悲しい人生を生きることにガンバっています。いつまでもいつまでも、困難な人生を頑張って生きることを選択しています。  楽な人生を選択することは、電車の進路を切り替えるポイントのように、切り替えるその瞬間だけが、辛かったり、悲しかったりするだけですが、何か錯覚をして、その辛さ、悲しさが永遠に続くように思ってしまうのか、あるいは、今までの困難な道はなれているので、慣性の法則といいましょうか、なれている困難な道を進みたくなってしまうようです。
 ホンのチョッとの違いで、その後の人生がずっと楽になるのですが、多くの人が、楽になる人生を選ばずに、従来の辛く、悲しい人生を選択する不思議さを、毎日のように経験しています。一人でも多くの方が、より楽な人生になることを祈っています。
●(3)さて、トップバッターは<①白黒思考(二分法思考)>
 □あの人は良い人だ
 □あの人は悪い人だ 私たちは、気がつかないうちに、相手の人のホンの一部分だけをみて、全体を決め付けがちです。
 どういうことかといいますと、たまたま、何かのことで、相手の人が、あなたに「不都合な対応」、あるいは「不愉快な対応」をしたとします。例えば、何かのことで「嫌味」を言われたとか、仕事のことで「厳しく叱られた」とか、相手の人がテーブル・マナーを知らず、エチケット違反(?)があった、などなど。
 こういう人生の、あるいは人格のホンの一部分だけを見たり、聞いたりしたものを、その人の全体に当てはめて、「あの人は、厳しい人だ!」とか、「あの人は無礼な人だ!」「あの人は礼儀知らずだ!」などと決め付けることを意味し、これは日常、よくみかけます。

●(4)子供が学校のテストで、仮に0点を取ったとしましょう。多くの親御さんは怒るのではないでしょうか?そのとき、この0点だけを取り上げて怒る方は少ないものです。ではどのように叱るでしょうか?
 多くの方は、「0点を取るとは何事だ!お前は本当にどうしようもない子だ!」などというのではないでしょうか?仮に、0点を取るのは、どうしようもなく悪いことだとしましょう。
 しかし、仮に算数だとして、算数の0点以外はどうなんでしょうか?体育はどうでしょうか?音楽は?絵画は?健康は?素直さは?明るさは?リーダーシップは?あるいは喧嘩には強くないでしょうか(少なくても、弱いよりもいいでしょう!)?
 多くの場合、私たちは、あるひとつのことを叱るとき、そのひとつをもって、その人の全人格を否定する傾向にあります。会社でも同様で、仕事上のミスを叱るとき、その仕事のミスを通して、人格の否定につながる叱り方をする場合が多いので、叱られた人はやる気をなくすのです。

 子供の成績でも、会社の仕事でもそうですが、そのマイナス(失敗?)を本人はけっこう素直に認めているものです。ですから、そこだけを限定して叱ると、本人は素直に反省するものですが、人格を否定するような叱り方をするものですから、逆効果になってしまっています。自分の間違いを反省するよりも、そのような叱り方をする上司を影で非難してしまいます。
 こういう体験を多くしているためでしょう、カウンセリング中に、「この部分についてのみですよ!」と、「部分」であることをいくら強調して言っても、言われたほうの方は、全体を否定されているように感じてしまうようです。

●(5)こんなこともよくあります。
 勉強会に参加して、終了後、懇親会になります。わいわいがやがややっていると、私(藤森)に対して、「あなたはカウンセラーらしくない」と、批判的に言われることがあります。
 チョッと待ってほしい。私は、今ここに、カウンセラーとして懇親会に参加しているのではありません。職業として「カウンセラー(自己回復のお手伝い)」ではありますが、今ここで、カウンセリングをしているわけではありません。一参加者として、他の参加者と一緒に、飲んだり食べたりしているだけですが、その状況を見ているだけで、私のカウンセラーとしての「職業」を判断して、決めつけを行なっています。
 特に、日本では、こういう「役割」の理解が拡大解釈されています。学校の先生は、いつ、どこでも、学校の先生という人格を要求されているのではないでしょうか?つまり、人格としての先生、「先生という人格」であるという理解が日本ではなされています。ですから、いつ、どこで会っても、学校の先生は先生であるという理解です。

 この点に関しては(この点に関してであって、アメリカ礼賛ではないですよ)、アメリカは違います。あくまでも学校の先生は、学校の仕事として活動している範囲だけ、「先生という役割」を担っているという認識が、先生、生徒・両親の双方にあります。一般には、学校の敷地にいるときだけが「先生」であって、敷地を外れると、先生の役割が終了している事を、関係者全員が理解しています。
 別の言い方をしますと、学校の先生としての給料が支払われている範囲内では、役割として「先生」ですが、給料の支払いがなされない範囲は、先生ではなくなるようです。
 この辺りのことは、<第65回「今月の映画」「再会の街で」の中の(16)の図をご参照ください>。この映画の中の精神科医が、職業としての、つまりセラピストとして、セラピーの料金を受け取っていない時間での対応を拒否する場面がありますが、まさに、これが日米が極端に違うところです。この日米の人格の形成が違うことを無視して、アメリカの心理学、そのまま直訳しただけのアメリカ心理学をありがたがるのは、アメリカ追従外交以上のものがあります。

●(6)アメリカでは、「離婚」は二人に一人の割合、つまり「離婚率50%」だそうです。日本でも、最近は、かなりこれに近くなっているようです(多分、三分の一くらい?)。この「離婚関係」を見ても、日米には大きな差がありますね。
 アメリカでは離婚した場合、週末に、(多くの場合、父親だと思いますが)元の妻の家に行き、子供を連れて遊びに行きます。元の妻が再婚していてもそうです。日本でこういうことができますか?
 最近の若い人たちはどうかわかりませんが、こういうことは私(藤森)には考えられません。恐らく日本では、離婚した後は、特別な場合を除いて、元の妻や子供に会うことはないのではないでしょうか?ましてや再婚している妻や子供たち(当然、そこには元の妻の夫もいます)に会いに行けますか?
 このくらい、日米の文化には差があります。ですからアメリカ式心理学を、その精神は大事にしながらも、日本風に大きく(本格的に)変化させることが必要で、そのままでは活用できないことは、チョッと考えればわかることですが、これがなされたのは、九州大学医学部心療内科の故・池見酉次郎先生を中心にしたスタッフの「九大式交流分析」だけのようです。少なくても、私(藤森)は、寡聞にして知りません。
 何故、これがなされないのか?それは学者だからです。理論が中心であって、自分にあてはめて実際に活用してみないからです。だから日本人にとって「おかしな部分」や「不足の部分」がわからないのです。池見先生の場合は、九州大学医学部で「心療内科」を立ち上げ、患者さんに「アメリカ式交流分析」を適用してみて、アメリカ式ではうまくいかないことに気がつき、大幅に変化・改良されました。ほとんど「創作」に近いです。
 こういう磨き上げる作業が必要です。大工仕事でいえば、切った材木にカンナを入れる作業です。外国の心理学は「素材」であって、それを切ったり、削ったリして、自国の風土・文化に馴染ませる作業が必要です。
 
 さて、元の話(白黒思考)にもどります。この「離婚」の場合もそうです。何故、「結婚」した二人が、「離婚」にいたるのでしょうか?それは、実は簡単な話です。
 まず、何故、「結婚」できるのか?それは、恋愛中は、「いいところ」ばかりを見るからです。それに対して、何故、「離婚」したくなるのか?それは、「悪いところ」ばかりを見るからです。つまり、「白黒思考」に陥るからです。
 よくよく冷静に考えて見れば、あるいは年を取ってみれば、燃え上がるほど素晴らしい女性(男性)がいるわけがありません?それと同様に、「離婚」したくなるほどひどい「女性(男性)」もいないものです?!

●(7)芸能人や有名人で、「理想的な家族」だと言われる家族で、理想的だった家族がいるでしょうか?横綱の「若・貴兄弟」全盛時代と今とでは、いかがでしょうか?「積み木崩し」の著者もそうでした。まるで理想的な教育評論家のように、ものすごい勢いで全国を講演して回り、講演料や印税などで、莫大な収入を得ていたようでしたが、奥様と「積み木崩し」の主人公のお嬢さんは、その後、どうなったでしょうか?!
 古くは、故・田中角栄元首相が首相になったとき、庶民宰相ともてはやされ、ロッキード事件が起きると、まるですべてがダメだといわんばかりに批判されました。

 一昨日(15日)、テレビ番組で、川島なお美さんが、ある高級レストランで、1本2百万円(!!)するワインよりも古い年代物の超高級ワインを、司会の明石家さんまさんの誕生日に出したら、彼は「酸っぱい」と言ったそうです。彼は「だって酸っぱかったんだもの!」と、重ねて発言していました。高級なものは、案外、中味ではなくて、ラベルで飲んだり食べたりしているのかもしれません。
 昔、私が若い頃、ウィスキーの「ジョニ黒」がとても高級品とされていて、いつかは飲めるようになりたいと思っていました。そのジョニ黒が、銀座のバーやクラブで、ジョニ黒のビンの中に他の安いウィスキーを入れていたという、昨今のニセラベルと同じことが行なわれたことがありましたが、それを誰も分からず、高級品だと思ってありがたがって飲んでいたそうです。
 大金持ちの田中角栄氏は、「オールドパー」をよく飲んでいたそうです。この当時は、ジョニ黒やオールドパーなどが、デパートの商品棚に「鎮座」していて、贈答品として大事にされていましたが、今は、ディスカウントショップにごろごろしています。輸入のウィスキーは随分、安くなりましたね。
 私たち日本人は、とくに「オールオアナッシング」の傾向が強いようです。ミシュランだか何だかわかりませんが、星がいくつかついたら、その途端に、その料理はすばらしいものになってしまい、星が外れたら、わざわざ食べに行く価値がなくなってしまうような傾向があるようです?!

 そういえば、「ノーベル賞」を受賞した、元筑波大学の白川先生が、近いうちに定年退官するので再就職先を探していたが、どこにも採用してもらえず、野菜作りをやろうかと思ったそうです。そこに、突然、「ノーベル賞」が飛び込んできたら、引く手あまたになったそうです。
 私たち一般の人間は、白川先生の業績は知りませんが、先生が探す就職先は、その業績をご存知ではないのでしょうか?その上で「拒否」をしたのに、「ノーベル賞」を受賞したという看板がついた途端に・・・・・!?

 私の地元の「日野駅」の一角に、2,3年前に「タイヤキ屋」さんがオープンしました。長い間、行列ができて、4人くらいの店員さんが、汗ダクダクで、作っても作っても間に合わない状態でした。ところが最近、行列が途絶えると、以後は、店員さんが暇をもてあますようになりました。
 よく言われることですが、日本人は、「基準」が自分にないのかもしれません。私(藤森)は「大トロ」よりも、鍋物の残りで作る雑炊のほうがはるかにおいしいです。年末には、デパートに高級な「お節料理」が並んでいましたが、2~3日も食べたら、あきあきして、ご飯におしんこや納豆にミソ汁のほうがはるかにおいしく感じましたが、皆さんはいかがでしょうか?
 
 ご自分の身の回りの「白黒思考」をチェっクしてみるのもいいかもしれません?

●(7)②<一般化のし過ぎ>
 □いつもこうだ
 □みんなそうだ 仕事でミスと犯すと、「お前はいつもミスをする!」
 誰かの悪口をいうとき、「みんながそう言っているよ!」(本当は、一人か二人!)
 奥さんの失敗した料理を食べながら、「お前の料理はいつもこうだ!」
 自分の失敗に対して、「オレはダメなやつだ!またやっちゃった!」  多くの人は、自分は特殊な人間だとは思っていないようです。ですから、自分の考えが誰にでも支持される当たり前の思考をしていると考えてしまうようです。多くの人は、自分の考えは「正しい」という強い思い込みがあるようです。自分の考えが正しいかどうか「自信」がない人は少ないのではないでしょうか?
 「いや!私は自信がありません!!」と、強くおっしゃる方がいます。
 これはおかしくはありませんか?まるでパラドックスのようですが、「自信がないことに自信」を、強く持っているようです。自信が無いことには自信を持てる。それならば、他のことにも、もう少し、自信を持っても良いのではないでしょうか?
 少なくても、30歳の人は、30年間、40歳の人は、40年間、生きてきました。もう少し、いろいろな事に自信を持っても良いのではないでしょうか?

●(8)仮に、40歳の人だとします。その人が、いくら「自信が無い」と言っても、40年間生きてわけですから、自信が無いだけでは、生きて来られるわけがありません。少なくても、40年間生きてきたということは「凄い!」ことです。
 しかし、「自信が無い」ことに自信を持っていますので、うまくやっていることは、大したことではないと否定し、何かうまくできないことがあると、「私は何をやってもダメだ」と思ってしまいます。
 何かミスをすると、「またやってしまった。私はいつもミスをしてしまう」と、たまたま起きたミスを、いつもミスをすると「一般化」して、うまくやっていることは「眼中」にないのです。

 あるいは、万引きをしたり、交通違反をする人が、「みんなやっている」と一般化する人がいます。
 「自分はダメなヤツだ」という一般化が自分に強く向くと、人生が非常に辛くなり、他人に向くと、人間関係が悪くなります。

 何か不都合なことがあると、「だって、誰でもそうでしょう?!」と、自己の責任を回避する人もいます。

 よくあることですが、「日本の英語教育は!」とか、「日本人は!」とか、「アメリカ人は!」とか、「またやっちゃった!オレは何をやってもダメだ、本当にダメなヤツだ!」などなど、一部分のことから「一般化」することはよくあります。

 同様に、身の回りをチェックしてみませんか?

<文責:藤森弘司>

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